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「北朝鮮問題」討論欄

不破伝授異骨高句麗(ふわでんじゅいこつのからくり)解説の段

2004/12/30 アンクル・トム 60代以上 無職

 「菅原伝授手習鑑」のクライマックスは「大詰」の前の「寺子屋の段」である。
 菅原道真(菅丞相)より筆法の秘伝を受継いだ武部源蔵は京の郊外芹生(せりう)の里に寺子屋を開いている。しかし、菅丞相は左大臣藤原時平の策略にあって、遠く九州筑紫に流刑の身である。その時平の詮議は厳しく、匿っている菅丞相の一子菅秀才の首を差し出せとの厳命が源蔵に下る。命令に背きことが出来ないが、さりとて大恩ある師の子を殺めることはまして出来ない。寺子屋に通う弟子の一人を身代わりに立てようと決心して、源蔵は寺子屋へ戻る。
 しかし、弟子達は「いづれを見ても山家育ち」、菅秀才の身代わりは無理だ。ところが、その日弟子入りしたばかりの小太郎という少年は眉目秀麗、これなら身代わりとして申し分ない。「生きている時の顔と死に顔は変わる」と申し開きをし、見破られれば、検視役を切り捨てる覚悟をする。そして、酷い話ではあるが、小太郎の首を差し出す。ニセ遺骨どころか、ニセ生首である。この過程で源蔵は、「せまじきものは宮仕え」という有名な科白を吐くが、このまま芝居が大詰に向かったのでは、如何に封建道徳の江戸時代とは言え、観客からブーイングがでるだろう。そこで、作者は大きなどんでん返しを仕掛けている。
 検視役に当たった時平の家来、松王丸は、菅丞相の弟子、白太夫の三つ子の兄弟の一人である。他の二人(梅王丸、桜丸)は、父の師である菅丞相にそれぞれ忠義を尽くす。しかし、松王丸は彼らとは一線を画し、時平の家来となっているように、世間的には裏切り者と見なされている。だが、その本当の気持ちは異なる。自分とて、父の師、菅丞相に忠義を尽くしたい。まず手始めに、何とか主従の縁を切ろうと仮病を理由に暇乞いをしたが、菅秀才の首を改めれば許す、と言われた。そこで、源蔵の行動を読みきって、実は自分の子、小太郎をその日源蔵のところへ弟子入りさせたのだった。つまり、松王丸は、自分の子を菅秀才の身代わりに立てるという兄弟の中でも最高の忠義を尽くすことになる。
 源蔵の行為といい、松王丸の行動といい、これらが別々のものとして、芝居が展開するならば、如何に封建制度の江戸時代とは言っても、両者の行為は否定的なものとしか受け取られなかったであろう。しかし、それらの二つの否定的要素も相乗すれば、まったく違ったものになる。源蔵が首を差し出す場面を見て、恐らく観客は居たたまれなくなる。しかし、後でそのからくりが分かると、観客はホット安堵して、さらに、松王丸の自己犠牲の精神により感動する。ここに、弁証法で言う、「否定の否定の法則」が働いていると私は考える。
 翻って、今回の日朝問題に関する共産党の方針転換を検証してみよう。確かに、今までの「沈黙」の方針は否定した。しかし、それは日和見的に世間に迎合するためだけのようだ。それが否定の否定の法則へ弁証法的に進む段階的な処置とはとても思えない。だから、

北朝鮮のこうした道理のない態度をただしていくうえでも、わが党が九日の党首会談での「申し入れ」で提起したように、日本政府が、北朝鮮側の交渉当事者を、拉致問題に十分な責任と権限をもった人物とすることを、強く求めていくことが、いよいよ重要になっていると考える。(志位談話)

と言われても、共産党の方針はまったく正しいと受け取れるだろうか。北朝鮮が素直に応ずることだろうか。私には、相手が拒否ないし無視することを見越して、経済制裁の合理化に使う口実のような気がする。もし、共産党も賛成して、経済制裁が実施された場合には、相手が誠実な態度に戻るどころか、思わぬ事態に展開するかも知れない。そうなったら、「沈黙」の大見得を切った看板役者(不破議長)が再び登場して、それまでの準主役二人(志位・市田)の行動を叱責するという、飛んだ茶番の「否定の否定」を演じて見せるのだろうか。
 「菅原伝授手習鑑」の世界であるが、「筆法の秘伝」なるものを、共産党の言う「科学的社会主義」に置換えれば、程度の差はあれ、共産党の世界でもあるような気がする。私の経験から言って、自己犠牲は、党員として、最も求められる資質の一つであった。その後遺症からか、党員ではない今となって「菅原伝授手習鑑」の世界には共感を覚える。
 違った意味ではあるが、北朝鮮もまた、「菅原伝授手習鑑」の世界かも知れない。彼らにとっては、日朝交渉をぶち壊しては何のメリットもない。北朝鮮でも、源蔵や松王丸のような犠牲者が出るとは思うが、身を切ってでも妥協の道を探ると私は確信している。経済制裁など大人気ない行動をする必要はない。