さて、前回の投稿への解答ですが徴兵と徴用を混同されています。
そうですね。すぐ気がつきましたが、レスするほどでもないかなー と思っていました。しかし、徴用によって、朝鮮人が日本につれて こられたとは知りませんでした。
そもそも、日華事変から始まった戦争の経過の中で当初は国民皆兵制度はなかったのです。
それは大きな間違いだと思います。昔は、男子は、満20歳になると必ず徴兵検査がありました。ただし、甲種合格でないと、すぐには入隊はしなかったようです。
乙種以下は、控えに回されていました。また、幼年学校とか、士官学校とか、陸軍大学とか、を出られたかたは、軍人の専門職になっていました。専門職の人が除隊すると、在郷軍人になっていたようです。
普通の甲種合格者は、3年ほど軍隊で苦労して、上等兵になって除隊したようです。
私の父は、家業をつぐ関係で19歳で一年志願兵になったそうです。軍隊におけるすべての費用は自弁だそうです。そのかわり3ヶ月で2等兵を卒業できるので、古兵さんにいじめられるということは、少なかったようです。一般の人は、1年間2等兵をやっていたので、その間に理不尽ないじめられかたをしたようです。父は、一年で伍長になって除隊をしました。お金のある人はそうやって、兵役をのがれたのです。私が生まれた頃はどうしようもなく貧乏でしたが、父は大地主の息子でした。当時は作り酒屋をやっていたそうですが、大名の商法で事業に失敗。貧民にころがり落ちました。大正の中頃のお話です。
一般に大学に行って居る間は、兵役は免除されていたようです。学徒出陣というのは、その免除がなくなったためだと思います。理科系だと免除がまだあるというので、皆んな大学の理科系を目指しました。
それもだんだん戦況が悪くなると、中学の内から、特攻隊に志願させられました。兄の学校では、全員志願しました。兄は甲種合格になってしまいました。級友達は、乙種です。兄のノートの表紙に(○○の霊)と兄の名前の書いたお墓の落書きがされたので、母が怒って泣いていました。
一方、徴用は軍事工場などで労働することで、これらは本土では中学生ぐらいまで適用されていました。学業そっちのけで、工場労働にかり出されたのです。徴兵制度により、減少した熟練労働の代替を主婦、学生が期待されたのです。しかし、多くは官営の軍需工場であり、言い換えると戦後の大企業(三菱や川崎重工など)での労働であり、悲惨な重労働という実態ではなかったようです。
日本人の徴用はそうだったのでしょう。しかし、朝鮮人は朝鮮から 日本につれて来られたのです。多くは炭坑などの一番深いところで 働かされたのでしょう。言葉が通じなければそういうところで働くより仕方ありませんね。
戦後の朝鮮人部落が悲惨なのは良く語られることです。民団のレポートの中にも昭和20年代から30年代にかけての職業別トップ3が統計化されていましたが、1に廃棄物処理業、2に鉄工業、3に水商売だったそうです。そして、これをもって韓国、朝鮮人が如何に差別されていたかの証明としている論調です。
戦後ではありません。私が問題としているのは、日本国民としての戦前・戦中の話です。戦後は、彼等にはれっきとした母国がありましたから胸を張って、日本人と対等に生きてきたと思います。
中には、一旗あげるために日本にきた朝鮮人もいるとはおもいますが、徴用は、理不尽に行われたであろうという推測はつきます。なにしろ、軍隊は、員数あわせということがやかましかったそうです。希望する人間も希望しない人間も上から指図された数だけ誰彼なしに連れてきたということは、推測されます。担当者や、地方によっては、やりかたが違ったでしょうが。畑仕事している最中につれてこられたという話は、嘘ではないと思います。日本人なら、固定の仕事を持っていれば徴用はされなかった。その辺に差別があったと思います。
軍部独裁政権の定義がはっきりしないので、論争のしようも無いですが、明治維新を経て、日清・日露と勝利してきたアジアで始めて欧米と肩を並べられるようになった日本人全体が真珠湾の戦勝を喜んだのは事実です。大体、戦時に民間人を含め大量の戦死者を出すようになったのは第1次世界大戦が最初の体験であり、当時の国民の知識では戦場にならなければ国民生活に大きな影響が出るとは思ってなかったのではないでしょうか。仮に軍部独裁と見るとしても、当時の世界の国で軍部独裁で無い国などなかったように思います。
それはそうですね。ちょっと不景気になるとどっかに戦争でもおきないかねー。と、一般人が言いましたからねー。戦後においてもそういう雑談はよく聞きました。
安い朝鮮人を買ったから、病気を移されたというような会話も聞いたことがあります。
ということは、日本人娼婦も存在していたということです。当然、この場合差別があったということですが、その裏にあるのは何でしょう。
日本人は、親に売られるとか、自ら進んで娼婦になったのでしょうが、朝鮮人の娼婦は、連行されてなった場合があるから問題になるのでしょう。
(気分は悪いでしょうが)一番問題なのは、あなたの発言で明らかなようにサヨク慰安婦問題ではこの日本人慰安婦の問題が全く触れられていないことです。韓国人慰安婦が賠償されるならば、日本人慰安婦も同様に対処されなければフェアでは無いでしょう。
慰安婦になった過程が問題であると思います。
同じように戦争未亡人の問題もあります。満州では、ソヴィエトがなだれ込んで来たとき、成年男子は全員召集されました。そして、そのまま、ソヴィエットにつれて行かれて亡くなった人もいます。そういう人の奥さんは、遺族年金がもらえなくてとても困っています。
本当に、人道的な見地から慰安婦問題にアプローチするならば、韓国人・中国人慰安婦の前に、日本人慰安婦問題が先決でしょう。
日本人は強制的に慰安婦になったわけではありません。
野良から拉致されて慰安婦にされたらどんな思いがするでしょう。
問題になっている人はそういう方々だと思います。
前にも書きましたが、朝鮮総督府では事務を引き継いで出国しています。ちなみに、総督府では朝鮮人の課長の下で日本人の平官僚というものも存在していました。当たり前です。どちらも、日本人ですから。但し、本土日本人には外地手当が付きました。これが、待遇面の差別と言われる所以です。
そんななまやさしいものではないと思います。
正直言って、私が子供のころは、部落民と、朝鮮人と、ユダヤ人はお金持ちの人々だと思っていたのです。まわりの大人もそんなふうでした。なぜ、そう思うにいたったかと言うと、金持ちの人しか、われわれのテリトリーの中に入ってこないからです。
20歳も過ぎて、共産党に入ってから、彼等が被抑圧民族であることを知りました。朝鮮部落のひどい記憶は、子供の時でしたし、朝鮮人をバカにしたのも子供のころですが、本当に多数の貧しい人々は私たちの視界のなかに居なかったのです。
私は、中国で育ちましたが、中国語は話なせません。周りの中国人はみんな日本語ぺらぺらです。覚える必要がなかったのです。そこにこそ問題があると思います。一歩、旧市街に足を踏み入れたら、無事に帰ってこれるかどうかはわかりませんでした。外地にいても、真実の半分しか見ないで育ったというわけです。
PS:個人的に批判は全くありませんし、推測で話して申し訳ないですが、ロム3さんの御父君は満鉄あるいはその他の公務員に近い生活を中国で送られ、引き上げ後、ご苦労もあったでしょうが女性であるあなたにも、高等教育(高校進学さえ、クラスの半分程度だったころです)を授け、教育者、もしくは公務員として生活してこられたように推察します。
ご推測は大違いでした。戦争中は、配給だけでは足りず、いつもおなかをすかしていました。軍隊の子供は学校で特配されたパンを要らないというので、頭を下げて頼んで分けてもらいました。そんな状態で学校が楽しい訳がありません。日本人の中でも、階級がはっきり分かれていましたから、1里も遠く離れた荒れ野を開墾してジャガイモやカボチャなどを植えていました。当時の距離単位は、キロではなく、里でした。歩くのを何とも思っていなかったのです。
引き上げ中と、引き上げてからの苦労など今の人にわかる筈がありません。ぶつぶつ交換でやっと手にいれた薩摩藷も警察にわかればリュックごと取り上げられてしまうのですから、おまわりがいるという情報が入れば、15,6キロのいもをかついで一駅でも、二駅でも歩くのです。一回の買い出しの藷代は、父の一ヶ月分の給料です。夜昼働いたり、闇やをやったり、何でもお金か食料に変えることを考えました。配給は、お米ではなく、キューバ糖だったりして、どこの家でもお玉でカルメ焼きをつくりました。進駐軍の放出のバターが配給されたことも有ります。お米はいつ来るの。12月くらいにならないと昔は新米は食べれませんでした。
でも、秋は楽しいです。カボチャがいっぱい食べれる。比較的近くでさつまいもも買える。松茸などは、山ほど食べました。 春先になると、藷から、苗を取ったかす藷をたべました。生のまま乾燥した藷を粉にした、藷パンは、甘くてとてもおいしかったです。
ご近所も似たようなもので、どこの家も食用のうさぎを飼っていましたが、子供達が先を争ってうさぎのエサに草をつむので、草さえ生えていませんでした。いまでもはこべを見るとああ、良いエサがあるのになと思います。
ペットなど飼う人もちろんいません。犬を知らない子供がいたのです。里帰りした、隣室の子供が田舎にいったら犬が走っていたといったので、いつまでも笑いの種になりました。
不思議なことにそのころは、希望だけはいっぱい持っていました。今の中国はそうだろうと思います。
北朝鮮は、山の木も薪にされて、まるはだか、希望も何もないことでしょうね。
ですから、お年の割には、当時の労働者としての生活感に疎いように思います。難しく言えば、観念論的とでもいいましょうか、まあ、実体験として共産党支持者には本当に貧しい家庭の人達がいなかったということも下敷きにあります。以上、お気を悪くされずに、戦後の事実をもう一度考えてみてください
あなたの方が観念論的だと思います。共産党の支持者も今と昔では違います。昔の党員の中には、小学校六年しか出ていない人もかなりいました。因みに私は中学卒です。当時の仲間は、定時制高校で先生に洗脳された人が殆どでした。私は、定時制に通うことも許されませんでした。
私は中学を出たので、英語を習いました。そのことが後の人生に大きく役立ちました。その後高校の通信教育を受けたり、大検を受けたりしました。が、大学には行けませんでした。共産党の人民大学には行きましたけれど。そこで、弁証法的唯物論と、史的唯物論を学んだことが私の大きな財産です。