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「北朝鮮問題」討論欄

竹島(独島)問題について

2005/03/19 寄らば大樹の陰 50代 苦闘するフリーター

 相変わらず「冬ソナブーム」「韓流ブーム」の日本人観光客で賑わう、韓国の仁川国際空港の建設記念館の横に設置された大きな地球儀を見ると、朝鮮半島東横の日本海(東海)にはっきりと、2つの島が並んで表示されている、鬱陵島と竹島(独島)である。
 古来から朝鮮では、僅か90㌔離れているだけで、天気のいい日はお互いが見渡せたと言うこの2つの島は、一対のものとして認識され、江戸幕府もこの島は朝鮮領として認識していた。
 3月16日共産党の志位委員長は国会内の会見で、竹島の領有権については「日本政府の主張に根拠がある」「話し合い解決こそ国益にかなう」とした上で「竹島問題の正しい解決のためには、双方とも一方的な措置をとるべきではない。日韓の善隣友好の関係の上に、共同の作業で解決する姿勢が求められる」と”歴史の事実と道理”にたって話し合いによる解決を進めるべきだという考えを表明したと言う。
 そして島根県議会で共産党の尾村議員は「竹島は1905年の領有手続き以前にも日本の文献等に、日本の実効支配を示すものがあり、歴史的にも、わが国に竹島の領有権があるという主張には根拠があります」として採決を棄権した(この項しんぶん赤旗)。
 確かに志位委員長は「韓国の主張にも検討すべき問題がある」と言及してはいるが、本当に日本共産党は竹島問題をこれまで真剣に検証し、確認してきたことがあるのだろうか。
 以下「竹島(独島)」の歴史について簡単に述べてみたい。
 まず前提として島名の由来を述べる
 鬱陵島    江戸時代・竹島  明治時代・竹島および松島(混用)
 竹島(独島) 江戸時代・松島  明治時代・松島、アンコールトなど
        1905以降 竹島(韓国では独島)
(江戸時代)
 1692年  鬱陵島で日本人と朝鮮人の漁師が出会い、この頃から
        両国間で領土としての外交交渉が開始される。
 1695年  朝鮮と幕府との交渉で幕府は鳥取藩からの回答で「鬱陵
        島と竹島が自藩領ではなく朝鮮の物だ」と朝鮮に返事を行
        い鳥取藩に渡海禁止を言い渡す。
        その後幕府の官製地図には鬱陵島も竹島も日本の領土外
        だとして載せられていない。
        これは伊能忠敬の地図も同様である。
 1778年  長久保赤水の官製地図には日本領土は色で塗られてい
        るが2つの島は無色で載っている。
        これは1779年や1833年製の地図も同じである。
 (明治時代)
 1869年 明治政府外務省訪朝調査で鬱陵島および竹島が朝鮮付属
         である事を確認、元禄時代の調査の追認。
  1877年  大宰府指令でも両島を版図外であることを記述、この時
         隠岐から竹島80里、竹島から鬱陵島40里と位置関係
         を示している、内務省は十分検討した結果として、鬱陵
         島他1島は本邦に関係なしと結論を出し島根県に通知。
  1880年  軍艦天城で実地調査、鬱陵島を朝鮮領と確認、その時
         竹島は近辺にある岩石とされた、この理由は竹島が利用
         価値なしと見なしたためと思われる。
  1895年  下関条約(日清戦争処理)での日本の新領土にも竹島は
         含まれていない。
  1904年  対ロシア戦争体制強化の為、朝鮮半島南部各地、済州
         島巨文島及び鬱陵島に軍事用望楼建設。
  1905年  1月竹島の日本領土編入を閣議決定、竹島に戦争用望
         楼を建設。
         10月「乙巳五条約(保護条約)」閣議決定、朝鮮半島
         の質的植民地支配始まる。
  1910年  「日韓併合」朝鮮半島の植民地化。
(戦後措置)
  1943年  カイロ宣言
         「1914年の第一次世界大戦開始以降に於いて日本が
         奪取し又は占領した太平洋に於ける一切の(略)地域より
         駆逐されるべし」
  1945年 ポッダム宣言「カイロ宣言の条項は履行せられるべく」
  1952年 「サンフランシスコ講和条約」
        竹島(アメリカ案)当初韓国領のち日本領へ変更、(イギ
        リス案)日本領外、調整が図られるも結局講和条約からは
        除外される。
          (以上は「半月城通信」などを参考に作成)
 結論的に云えば日本は、鬱陵島と竹島を江戸時代から明治時代半ばまで日本領土とは認知せず版図外として放棄、しかし日露戦争遂行の必要性から1905年になって、竹島を「無主地」と言う名目で強引に領土に編入したのである。
 これはロシアとの戦争遂行の為に、半植民地状況にあった朝鮮を一切無視し軍事的に利用する為に行った占領・領有化であり、決して「日本政府の主張に根拠がある」訳ではないのである。

 戦後60年の節目の年を迎え、戦後補償問題への取り組を開始した韓国政府と被害者に対し、いきなり冷や水を浴びせた島根県の「竹島の日」の制定策動は、まさに戦時下に突入し「過去の清算は一切しない」とする、この国の戦前への回帰と居直り以外の何物でもない。
 この動きを放置すれば「つくる会教科書」どころではない、もっと激しい反動が襲ってくるだろう。
 それにしてもこの暴挙に対し糾弾はおろか、何ら調べる事もなく小泉政権に追従し、「国益優先」を主張する日本共産党とは一体如何なる政党なのか、大いに問われるべきではなかろうか?