かつてこのサイトで拉致問題などで北朝鮮(共和国)を批判する場合、戦後初期
の「北朝鮮帰国運動」を捉え、それによって北の体制を批判する人が多かった様に思
う。
実証を抜きにしての「北の楽園が実際は地獄だった」と言う批判であり、北朝鮮の
金正日体制批判に結び付けられていた。
以下は在日の研究者、徐京植さんがある本に書かれた「帰国運動」などを参考に、
その実態と真実を紹介するものである。
1959年末から開始された在日朝鮮人の帰国運動は、1984年終止符が打たれ
るまで凡そ9万3千人が「北の楽園」に帰国した。
1945年の日本の敗戦によって、朝鮮半島が植民地支配より解放された時、日本
の炭鉱などでの労働などのため強制連行され、また祖国で殆ど全てを奪われ、まさに
生き延びるために祖国を捨てるなどを原因として日本に居住していた朝鮮人は2百万
人以上と言われる。
彼らには日本の皇民化政策と総力戦体制によって「日本国籍」が押し付けられてい
た、そして解放後も暫くは、日本に残るか帰国するか、日本国民になるかならないか
も、明確には決められてはいなかった。
戦後間もなく開始された日本人の引き上げと同時期に、朝鮮への「帰国事業」が開
始されるのだが、GHQによって朝鮮人には厳しい出国条件が設定され、持ち帰りの金
と物が限定されたのである。
その上帰るべき祖国は日本以上に荒廃していた、その為一旦朝鮮に帰っても再び密
入国の形で日本に戻る人々も後を絶たず、結果として日本に居ついた約60万の人々
が、所謂「在日朝鮮人」として戦後もこの国に存在することになったのである。
ところが1953年のサンフランシスコ講和条約締結によって、日本国家は彼らの
日本国籍を剥奪し、外国人扱いに変更、更に殆どの基本的権利も奪い取ってしまった。
また在日朝鮮人は1947年5月3日施行された主権在民、平和と民主主義を謳う
「日本国憲法」の主人公たる「日本国民」からも基本的に排除されたのである。
さて1950年からの朝鮮戦争の後、朝鮮半島は東西冷戦の煽りを受け、南北に分
断され、次第に固定化して行くのだが、北朝鮮への「帰国運動」は前述のように19
59年から始まった、敗戦・解放後の「帰国事業」より約14年のタイムラグがある。
なぜそうなのか?
それは当時在日朝鮮人の帰国運動推進の中心となった「日本赤十字」の外事部長、
井上益太郎の手紙の中で明らかにされている。
彼は手紙でこう記している「在日朝鮮人は性格が粗暴で、生活水準が低く無知蒙昧」
であり、このまま日本に置いておけば、日本の治安や福祉に障害の要因となるとして
いる。
炭鉱や鉱山、道路や鉄道工事など厳しい作業現場で強制的に働かされていた朝鮮人
労働者は、今度は「もう用済み」とばかり日本国家に切り捨てられたのだ。
国籍を奪われた在日朝鮮人は全体の8割が失業・半失業にあったが、日本政府が更
に追い討ちをかける、1956年度より大半の生活保護給付を打ち切つたのだ。
日本政府と日赤は1956年の段階で、この「厄介な在日朝鮮人」約6万人を国外
に追放する計画を立てた、日本政府はあくまでもこの計画は「人道的判断」としてい
るが、植民地の人々から国籍を奪い、難民化させ、福祉を減らし、挙句の果てに「人
道」の名の下で、国外追放を行ったのだ、日本はこの様な非人間的な行為を行ったの
である。
1958年鳩山一郎を発起人とする「在日朝鮮人帰国協力会」が結成され、岸信介
内閣は世界人権宣言の「何人も自国を含むいずれの国も去り、また自国に帰る権利が
ある」条項を盾に、北朝鮮への帰国を閣議了解した。この施策に、東西冷戦の中で朝
鮮総連を中心として「祖国建設の夢と希望実現のため」として帰国促進運動が展開さ
れ、その結果として9万3千人が体よく北朝鮮に「帰国」させられたのである。
しかし日本での生活基盤を奪われ、差別され権利を剥奪された人々にとって、当時
「東のショーウインド」として輝いて見えた「北の楽園・北朝鮮」への帰国は、間違
いなく「大いなる希望であり夢」であった、そして同時に独裁政権が君臨する韓国・
南朝鮮も同様であった。
私たち日本人に、北朝鮮に帰国した人々の不運と不幸を思いやることは出来ても、
非難する権利はないし、また日本による植民地化とそれに続く東西冷戦の中で、民族
分断を強いられた朝鮮の南北両政府を非難できる権利もないのだ。
ましてや戦後60年経過しても未だ戦前の誤りと「真実」を忘れ、居直っている日
本政府にどんな権利もありはしない。