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「北朝鮮問題」討論欄

北朝鮮人権侵害対処法の理念と危険性

2006/07/01 樹々の緑 50代 会社員

 先の国会で成立した「北朝鮮人権侵害対処法(拉致問題その他北朝鮮当局による人権侵害問題への対処に関する法律)」には、自民・公明の与党、民主党などが法案に賛成する中で、日本共産党は、大要で、この法律が「拉致問題と『脱北者』問題という性質が異なる問題を一緒に解決しようとしているところ、脱北者問題は北朝鮮の内政を原因とする『内政問題』であるから、それに対して他国の政府が『施策』を講じたりすることは、内政干渉となる」という理由(「赤旗」2006年6月13日(火)B版2面笠井衆院議員の意見表明)から、反対した(社民党も反対)。

 この理由づけは非常におかしなものであり、この党が、「ソ連・東欧の崩壊」以来、人権の普遍的・国際的保障という二度の大戦を経た国際社会の教訓に、まともに向き合っていないこと、この問題に関する限り、国際法の発展に対して無知を押し通そうとしていることを、如実に示している(以下の記述の中で簡単に触れる)。

 しかし、この北朝鮮人権侵害対処法は、「人権の普遍的・国際的保障」を標榜しながら、北朝鮮民衆の人権保障や、普遍的な人権保障という目的と不可分の関係にある民主主義の理念を疎かにし、これに反しかねない重大な悪法だと考える。また、その規定の抽象的包括性は、他国のみならずわが国の民主主義と人権にも反する、危険な性格を持っていると思う。(以下では、便宜上朝鮮民主主義人民共和国を「北朝鮮」と略記する。)

1.
 北朝鮮人権侵害対処法は、第1条(目的)として、次のように定めている。

> この法律は、二千五年十二月十六日の国際連合総会において採択された北朝鮮の人権状況に関する決議を踏まえ、我が国の喫緊の国民的な課題である拉(ら)致問題の解決をはじめとする北朝鮮当局による人権侵害問題への対処が国際社会を挙げて取り組むべき課題であることにかんがみ、北朝鮮当局による人権侵害問題に関する国民の認識を深めるとともに、国際社会と連携しつつ北朝鮮当局による人権侵害問題の実態を解明し、及びその抑止を図ることを目的とする。

 昨年8月のムンタボーン特別人権報告官報告や、これを承けての国連総会決議が、「北朝鮮当局による人権侵害問題への対処が国際社会を挙げて取り組むべき課題」の一つであることを示したのは、そのとおりである。日本共産党がいうように、脱北者問題の背景には、国内的な思想表現の自由抑圧という圧政だとか、飢餓生活苦という生存の自由(人格権的側面における生存権)侵害があることも、そのとおりと言える。
 しかし日本人拉致問題は、人権である「いま居る国(自国を含む)を離れる自由」(国際人権規約B規約第12条2項)を侵害する問題でもあるから、脱北者問題と同じ側面を持つ。
 また、脱北者が生まれる背景に、北朝鮮の内政上の問題があることはそのとおりだが、その内政が、言論表現結社の自由を保障した国際人権規約B規約第19条や22条等に違反しており、何れにせよ北朝鮮自身を当事国とする国際条約に反する問題であることも、拉致問題と変りがない。
 拉致という国家犯罪によって加害国にいる日本国民の問題と、当該加害国民自身の問題という点で両者の性質は異なっているが、その「性質の違い」が、なぜ、北朝鮮自ら締約している国際人権規約B規約違反という共通の側面を差し措いてまで、両課題を「一緒に扱ってはならない」という結論を導くのか、共産党の論理は明快さを欠いている。人権の普遍的保障・国際的保障は、「国籍が違う」という「性質」を、人権保障の垣根にしないところにこそ、その「普遍的」な意義がある。現に国際人権規約B規約第2条第1項では、各締約国が、その領域内の管轄が及ぶ「すべての個人に対し」て、「国民的出身」「によるいかなる差別もなしに」規約に定める市民的・政治的人権を保障する義務を負う、と定めているのである。
 また、国際条約違反の行為の是正を求めることは、何ら「内政干渉」にならないというのが、定説だと言える。それは、ことの是非はさておき、イランが当事国である核兵器の不拡散に関する条約(NPT)に違反する疑いを指摘して、IAEAや国連安保理事会等の国際機関・国際社会が、公然と「施策」を講じているのと、何も論理的に変りがないのだ。イランは、自国の平和的核開発の権利を主張はしているが、国際社会の懸念と諸提案・行動が「内政干渉」だとは非難していないはずである。イラン政府の方が、日本共産党よりもずっと、問題の「性質」を、的確に捉えている。
 しかも、日本共産党はかねがね、拉致問題と日朝国交正常化という、それこそ「性質が異なる」両課題を、「一体的に解決」すべきだと主張している。共産党の議論のご都合主義性には、慨嘆するほかない。

 人権の普遍的・国際的保障という国際社会の要請、その現在の具体的な重要課題に応える、というように北朝鮮人権侵害対処法の「目的」を理解する限りでは、上記「目的」に正面から反対することはできないと言える。

2.
 そのような目的に対する認識に「かんがみ」て政府等が行うべき施策の内容として、この法律全体で具体化されていると言えるものは、次のようなものである(樹々の緑まとめ)。第1条の「目的」に対応する「目的実現手段」だと言えよう。

a.拉致被害者(疑い例含む。以下同じ)の安否情報収集調査と帰国実現(2条2項)
b.拉致問題その他北朝鮮当局による人権侵害問題に関する国民世論の啓発(2条3項)
c.上記「人権侵害問題」に関する実態の解明(2条3項)
d.「12月10~16日の北朝鮮人権侵害問題啓発週間」の設定と関連事業の実施(4条)
e.脱北者の保護と支援(6条2項)
f.拉致被害者や脱北者その他の北朝鮮当局による人権侵害の被害者を支援等する国内外の民間団体との密接な連携の確保と、必要に応じた情報提供・財政上の配慮その他の政府からの支援(6条1項・3項)
g.外国政府や国際機関との情報交換、国際捜査共助その他国際的連携の強化(6条1項)
h.これらの政府の取組に関する年次報告の国会提出・公表(5条)
i.日本国民に対する拉致問題「その他」重大な人権侵害状況に改善がないと政府が認めるとき、北朝鮮人権侵害問題への国際的対処動向を踏まえて行う対抗措置としての、特定船舶入港禁止措置・外為外国貿易法による為替・貿易取引制限措置「その他の」、日本国民に対する人権侵害抑止のための必要な措置(7条)

 これらから、この法律のいくつかの重大な欠陥が分る。

3.
 この法律は、「日本国民に対する」という限定付きではあるが、北朝鮮当局による人権侵害問題への政府の「措置」(対抗措置)として、上記i項例示以外「その他の」「必要な措置」と包括的に定めて、人道援助の停止措置を、まったく除外していない。

 先日の長壁さんの投稿で、「アメリカの北朝鮮人権法」をモデルにしたという指摘があったが、それ以上にひどい内容である。というのは、アメリカ「北朝鮮人権法」第2条202項(b)-(2)では、次のように定められているからである(和訳文は北朝鮮難民救援基金のホームページによる)。

>米国が北朝鮮に対する人道支援以外の支援を提供する場合には、以下の項目において北朝鮮での明確な進展が見られることを条件とする。

 この項で、「明確な進展が見られること」が米国による北朝鮮への支援の「条件」として定められているのは、明らかに「人道支援以外の支援」についてである。人道支援は、それこそ援助を必要とするところに的確に援助が行き渡るという保障以外に、何らの条件も付さずに実行されるべきものであるから「人道」支援なのだ。アメリカの北朝鮮人権法でさえ、そのことを弁えているから、「人道支援」をあれこれの「条件」に係らせない規定をしている。
 実際、6月28日(水)付「赤旗」第7面記事でも、アメリカ国務省のマコーマック報道官は、6月26日の定例記者会見で、次のように述べたと報道されている。

>マコーマック報道官は二十六日の定例会見で、米政府は北朝鮮への「制裁」として食料の禁輸を行うことはしないと述べました。マコーマック氏は「世界中で行っている人道支援についての一般的な政策として、食料を武器として使うことは考えていない。米国は北朝鮮国民への食糧支援にこれまでも寛容だった」と強調しました。

 しかし、日本の北朝鮮人権侵害対処法7条では、「日本国民に対する」人権侵害への対処措置として「必要な措置」というだけで、何ら「人道支援の停止を除く」という除外文言がない。食糧・医薬品支援であっても、政府が認めれば「必要な措置」として不支援決定や停止措置を行いうるのである。
 なぜ北朝鮮に対する人道支援が必要なのかといえば、それは、北朝鮮国内で民衆が強度の人権侵害によって生活と自由を脅かされているからである。もしも、この法律の「目的」どおり、「人権侵害に対処する」ことが趣旨であるならば、「人道支援の停止措置を除く」という除外文言は、必ず入れなければならない。
 それがないということは、この法律が、それが標榜する「美しい目的」にも拘らず、「日本人拉致問題(法文が「その他」といっている以上、「ミサイル発射による日本国民の安全権という人権侵害問題」も含みうることとなろう。それも問題だ)を解決するためには、北朝鮮の民衆の人権被害は二の次にしてもよい」という態度をとっていることの、露骨な表明だといわざるをえない。人権の国際的・普遍的保障は「ダシ」に使われているのである。

4.
 次に、北朝鮮人権侵害対処法は、北朝鮮人権侵害問題に対する「国民世論の啓発」を施策の一つとして定めている。
 日本人拉致問題と北朝鮮国内の苛酷な人権侵害とが、同じ原因に由来していることは、例えば、金賛汀『拉致-国家犯罪の構図』(ちくま新書540 2005年6月10日第1刷刊)にも明らかである。拉致事件に憤慨する方々には、ぜひその最終章と末尾「おわりに」を熟読玩味してほしい。ここには、日本による過去の犯罪の未清算について、著者の非常に控えめな、しかし切々たる訴えが記載されている。
 北朝鮮当局による人権侵害を広く「国際社会が挙げて取り組むべき問題」だと認識するなら、その根拠となっている人権の国際的保障の理念に真に適合した「国民世論の啓発」こそ、目指されなければならない。
 拉致問題解決と過去の清算未了との「相殺論」や「一体的解決論」には賛成できない。しかし、「国民世論の啓発」は、曖昧な、何でも含みうるものではなく、過去、朝鮮の民衆の人権を侵害した数多くの日本の行為が未だ「解決」されずに残されていること、そしていま、日本人拉致と同じ原因によって、北朝鮮の民衆が人権侵害の塗炭の苦しみに覆われていることにも公平な目を向ける、正当な内容の「国民世論の啓発」としてこそ、特定されなければならない。
 拉致問題解決を「錦の御旗」に掲げた、「俺の人権が何にも優る」という運動のキャンペーンに、「国民世論の啓発」がスリ替わってはならないのである。

5.
 北朝鮮人権侵害対処法は、上記e項で「脱北者の保護と支援」を政府の施策の一つとしている。
 日本共産党は、この項目について、
① 脱北者問題は基本的に北朝鮮の内政問題であるから、脱北者の保護と支援などについて他の国家である日本政府が「施策」を講じて行うとなれば、脱北という行動を誘発・促進する結果ともなり、内政への介入とならざるをえない、
② 脱北「関係各国」は、その国内法上脱北者が不法滞在者となるケースが多く、しかも北朝鮮と外交関係を有している事情から、慎重に対処してほしいと要望し、日本も応じてきたのに、日本政府が「施策」を講じて脱北者の支援・保護やその年次報告を公表することとなれば、関係各国と日本の信頼関係が損われかねない、
という理由で、反対している(「赤旗」6月16日(金)付B版第4面、緒方靖夫参院議員の特別委質問)。

 この論理には驚くほかはない。日本共産党が、「脱北問題」をいかに人権問題として捉えていないか、国連人権委員会ムンタボーン特別報告官報告などに示された国際社会の懸念にいかに無頓着であるかを、如実に示している。
 この投稿は、日本共産党の認識の誤りを指摘することよりも、日本の善意の人々が、北朝鮮人権侵害対処法の基本的性格を誤解しないよう警鐘を鳴らすことに主眼を置きたいので、ここで詳細に論じることはしない。このサイトの閲覧者のみなさんには、北朝鮮難民救援基金のホームページなどで紹介されている、ムンタボーン報告を、ぜひ虚心に読んでいただきたいと願う。

 ただ要点だけ述べると、前述のとおり、脱北者問題は、北朝鮮の内政に関わる問題であると同時に、国際人権規約B規約上保障された人権侵害の問題でもあるから、他国や国際機関が「介入」を禁じられる「内政問題」ではない。また、「脱北行動を誘発・促進するから『施策』を講じるべきでない」というのも、原因と結果とをあべこべにしたおかしな議論である。これでは、国際社会が現状よりもっと脱北者の保護対策に国際協力を進展させるべきだと提言するムンタボーン報告が泣く。明示的にではなく「ひっそりと・慎重に」施策を講じるべきだというのも、脱北者を「不法入国者」だとして、保護策を講じることなくどしどし北朝鮮に強制送還している(それ自体、ムンタボーン報告が控えめに指摘するように、不当極まりない対応である)中国政府との「信頼関係」にあまりにも遠慮した、馬鹿げた論理でしかない。
 ムンタボーン報告では、このような不当な対応をしている中国とも、隣国として友好関係を保ちたいと願いつつ、自らは決して裕福ではなく、むしろ貧困に喘いでいるのに、脱北者を一時保護の対象だと考え、決して強制送還したりしていないモンゴル政府の対応が賞賛され、それへの明確な支援が呼びかけられている。もしも、日本共産党が、中国の政権党である中国共産党との真実の友好関係を強固なものにしたいのであれば、友人の誤った行動に対して、率直な忠告こそ行うべきであって、友人の気分を害しないよう、必要な脱北者支援は「ひっそりと」行うべきだなどと、日本政府に提言すべきではないのである。
 しかし、「真の友人としての忠告」はひいては、中国国内の人権問題に対する批判に繋がるおそれがある。日本共産党は、それを恐れているのであろう。それはかつて、ソ連・東欧の旧「社会主義」諸国内の人権抑圧について、社会主義「生成期」論を振りかざして極めて「控えめな」指摘しかせず、いざ「ソ連・東欧の崩壊」が起きると、「あれは社会主義でも何でもなかった」とその動きを「歓迎」した、日本共産党自身の豹変ぶりに対する非難に通じるからである。

 では、北朝鮮人権侵害対処法が定める「脱北者の保護と支援」は、何も問題がないのか。

 現在の脱北が、主として中朝国境を陸路で越境する態様であることを考えると、いかに「隣国」とはいっても、日本が「ボート・ピープル」として脱北者を直接に保護することを念頭に置くのは非現実的である。
 とすると、中朝・朝ロの国境を「不法に」越境してくる脱北者に対する保護や支援を日本政府が「施策」として講ずることとなる。したがって、これらの国内にある日本の在外公館に脱北者が保護を求めてきた場合に、その「保護」に積極的に取り組むという形が、主たる「施策」とならざるをえないだろう。「支援」というのも、在外公館に保護を求めてきた脱北者が、最終的な居住希望国に対して安全かつ迅速に移動できるように、外交的措置を含めて最善を尽くすことが、中心にならざるをえないはずである。
 そして、当該脱北者が日本を最終居住先として希望した場合には、日本国内における生活の保障を図るべく、住居や日本語教育、職業訓練の提供に努めることが「施策」になる。日本国内で現在、何としても不足しているのは、すでに80人を超えるといわれている、日本在住の脱北者に対するものを含めた、このような受入れ体制の充実ではないのか(数字は、佐々木てる監修『在日コリアンに権利としての日本国籍を』明石書店2006年2月10日初版第1刷刊99頁から)。日本国内のことでありながら、公然と行うことが、残留家族らの安全確保等の見地から憚られることをよいことに、貧弱な状態が看過されているのではないか。
 受入れ体制充実策を講じれば、脱北がさらに誘発され北朝鮮の内政に介入することとなるというのは、脱北の根本的原因を免罪する本末転倒な議論でしかない。人身売買や不法越境ブローカーの暗躍を問題視するなら、それらの不心得者がはびこる原因である、中国政府の「不法入国者→強制送還対象者」扱いを改めさせるように、外交努力で働きかけることが筋のはずである。

 もちろん、これらは当然に、出入国管理という中ロ両国の内政問題に関わるから、日本共産党がいうように「慎重に」対処すべき性質の事柄であることは間違いない。
 しかし、中ロ両国ともに、国際人権規約B規約の当事国でもある。つまり、自ら「国民的出身による差別なく」人権を保護すべき義務を負っている。自国の外交上の利益のために、不法入国者だとして生命の危険さえもたらす強制送還を行い、自ら約束した人権保障の義務をないがしろにする権利を、これらの諸国は有していない。
 「対処は慎重に」ということは、中ロ両国政府の外交上の立場を害しないようにという意味ではなく、むしろ、両国が外交関係を持つ北朝鮮政府に対して「人権侵害を改めるように」と忠告する態度を採りやすいように注意して、という意味で理解する必要がある。また、「ひっそりと」ということも、脱北者が北朝鮮国内に残してきた家族親族に危害が及ばないように細心の注意をして、という意味で、理解すべきであろう。ただ、事実上、これらの国に大量の脱北者に対応する人的・物的余裕が不足している問題が残されているだけなのである。
 法はあくまで、「脱北」の保護と支援ではなく、「脱北者」の保護と支援の施策を講じよといっていることを、見逃してはならない。脱北者の保護をまず行いながら、その自立的生活の支援を図り、同時に、脱北自体が起こらないように、北朝鮮国内の人権侵害政治の是正を求めるべきなのである。

 以上からは、政府が行うべき「施策」の一つに挙げられる「脱北者の保護と支援」には、「脱北者への対処に直面する関係各国と、その保護に向けて適切な協力関係を発展させるべく十分な配慮を行いつつ、関係各国の国内事情をも考慮して」というような限定文言が、ぜひとも付されるべきである。
 このような限定文言もなく、事実上何でも含まれうる「脱北者の保護と支援」は、次項とも関連して、北朝鮮の民衆自らの手による人権侵害政治の民主的変革の促進を妨げる、「脱北者、拉致被害者その他北朝鮮人権侵害の被害者の保護と支援」に藉口した外部勢力による北朝鮮現政権の打倒運動に、国家的な「保護と支援」を促進する結果となる危険があるといわざるをえない。

6.
 北朝鮮人権侵害対処法は、上記f項に示したように、このような「拉致被害者や脱北者その他の北朝鮮当局による人権侵害の被害者を支援等する国内外の民間団体」と、「密接な連携の確保に努め」(6条1項)、「必要に応じ、情報の提供、財政上の配慮その他の支援を行うよう努める」(6条3項)としている。

 一般に、NGO、NPOが国際政治に果たす積極的役割は、難民救援活動、国際人権擁護運動、核兵器廃絶運動等々、国家・国際機関の活動と併せてすでに不可欠なものとなっているから、その一部を担う上記諸団体との間で、政府が「密接な連携確保に努め」ることは、人権の国際的・普遍的保障という目的に適合する限りでは、否定すべきことではない。

 しかし、それを超えて、政府が「必要に応じて」、例えば、外交上知りえた特別の情報を特定の団体に「提供」するような活動上の便宜を図ったり、膨大な財政力を背景に特定の団体に「財政上の配慮その他の支援」をしたりすることは、当該団体の自主的性格を損わせる危険がある。
 それだけでなく、政府が、「一般市民社会の声」という第三者性を装いながら、実際には、世論や市民運動の動向を支配する道具として、これらの運動団体を利用する危険が、非常に憂慮されるのである。それは、「日本の歴史教育を適切なものにする」という、抽象的でそれ自体は否定できない「目的」を掲げる「市民運動団体」に対して、政府が「必要に応じて」情報提供だとか、財政上の支援だとかを行った場合を想定すれば、明らかではないだろうか。「新しい歴史教科書をつくる会」などの運動団体が、家永教科書裁判運動を引き継いだ「子どもと教科書全国ネット21」のような団体とは「必要に応じて」区別され、「つくる会」だけが、特別の「情報提供と財政上の配慮や支援」を受けた事態を想定してみると、その問題性は明確に理解できるだろう。
 他方で、日本国憲法第89条後段の規定上、「公の支配に属しない」団体に対する公金支出や公共財産の利用提供は、極めて制限される。詳論は避けるが、政府権力が、これら「情報提供や財政支援」を受ける市民団体に対して、多かれ少なかれ「公の支配」を及ぼすことは、憲法上の要請であるとも言えるのである。
 事実の世界でも、この問題性は、何らかのNGO、NPO活動の経験がある方には、すぐに理解できるものと思う。「情報とお金」ほど、任意の市民団体にとって喉から手が出るほどほしいものはないはずである。それが「政府の必要に応じて」提供されるというのでは、弱い立場の市民運動が、不当な影響を受けないという保障はない。それは、これら市民運動にとって、自立性、「結社の自由」という人権の侵害にも繋がるのである。

 小泉内閣発足以来、「劇場型政治」の弊害が夙に指摘されているが、「北朝鮮の人権侵害を糺す」という「国際社会が挙げて取り組むべき課題」を盾にした政府のこの「施策」によって、拉致問題の未解決と北朝鮮の民衆の窮状に心を曇らせる日本の民衆の善意に付け込んだ誘導が秘かになされ、わが国の民主主義がよりいっそう危機に陥る危険が、感じられてならない。

 しかも最近では、これらわが国の市民運動団体の中には、「日本人拉致問題も脱北者の問題も、元を質せば北朝鮮の金正日政権の人権抑圧体制が根本原因であるから、これらの問題を『解決』する端的な目標として、金正日政権の打倒を明確に掲げるべきである」と呼号し、本法が定める「対抗措置」も、北朝鮮現政権打倒を促進する「圧力」として活用すべきだとするものまで出現している。これら団体の中には、「人権の国際的・普遍的保障の追求」を基礎としたものもあるという。
 「人権の国際的・普遍的保障の追求」を基礎にして始めた運動が、なぜ「政権打倒を目的とする嫌がらせ運動」に「転化」してしまうのか。人権を抑圧している気に食わない政権は、おそらく世界にいくらでもあるはずだ。「気に食わない」理由が「人権の国際的・普遍的保障」という否定しがたいスローガンに違反しているということであれば、何をしてもよいというのだろうか。自分の国だって、一般職公務員が休日に職場と離れた自宅付近に普段着を着てビラを平穏に配布して回る行為を、何か月も付け回してビデオ盗撮などしながら、犯罪だとして逮捕して処罰し、他の公務員の政治活動萎縮まで狙うような、「シュタージ」「セクレタリ」顔負けの公安警察が跋扈しているではないか。

 もちろん、自国に弱点があるからといって、他国の弱点を批判できないとするようでは、人権の国際的・普遍的保障は図れない。せっかく素晴らしい国際約束をしても、みんな「臑に傷を持つからものが言えない」となれば、その国際約束は画餅に帰してしまう。不完全な者どうしが、互いに節度ある批判の応酬をしながら、他者の言葉に耳を傾けてよりよい方向に努力し協力していくこと、それ以外にないのである。

 では、そもそもなぜ「人権の国際的・普遍的保障」を追求するのか。確かに欧米の歴史的産物であったとしても、個人の尊厳=ひとりひとりの人間の尊重は、二度の大戦を経て疑いがたい価値だと解ったからだ。単に理念だけではなく、歴史の不可逆的な教訓と言えるからである。

 そして、ひとりひとりの人間の尊重といっても、人間は社会的動物であり、孤高の存在としては生存さえできない。生存という人間の最も基本的な要求でさえ、社会における政治の力で実現しなければならないのが現代社会である。
 確かに、私たちは日常、自分の力だけで稼いで飯を食っているように思っている。しかし、労働者ならば労働契約で、自営業者なら売買等の契約で、自分の生活の糧を得て使っているに過ぎない。酷使されて過労死しないように(それも怪しくなっていのはさておき)労働契約を規制する労働保護法制があり、公正な取引秩序の維持のために独禁法制があり、あるいは下請いじめがされないように下請代金支払遅延等防止法がある。こうして、民主主義と法治主義の枠組の中で、ひとりひとりの人権は、具体的に確保されていくのである。

 だから、社会を構成する人間のそれぞれが、自分たちの知恵を集めることによって、みなが人間個人として平等に尊重されるように、その社会を構成する人間自身による政治の力で図らねばならないことにもなる。そのためには、ひとりひとりの人間が、自由にものを言い、考え、必要な情報を集め提供され、他者と意見を交流すること、そして、結社を作って、人々の意見を政治に反映させること、場合によっては政治体制さえ変革することを、人権として保障される必要があるのだ。「人権の国際的・普遍的保障」とは、このような民主主義の要請を不可分かつ原理的に含んでいることを、忘れてはならないと思う。
 憲法学の泰斗であった、芦部信喜教授の『憲法 第三版』(高橋和之補訂 2002年9月岩波書店刊)の366~367頁には、憲法改正の限界論の形で、次のように述べられている。

>(一) 権力の段階構造  民主主義に基づく憲法は、国民の憲法制定権力(制憲権)によって制定される法である。この制憲権は、憲法の外にあって憲法を作る力であるから、実定法上の権力ではない。そこで、近代憲法では、法治主義や合理主義の思想の影響も受けて、制憲権を憲法典の中に取り込み、それを国民主権の原則として宣言するのが、だいたいの例となっている。(中略)
(二) 人権の根本規範性  近代憲法は、本来、「人間は生まれながらにして自由であり、平等である」という自然権の思想を、国民に「憲法を作る力」(制憲権)が存するという考え方に基づいて、成文化した法である(第一章四2参照)。
 この人権(自由の原理)と(一)にふれた国民主権(民主の原理)とが、ともに「個人の尊厳」の原理に支えられ不可分に結び合って共存の関係にあるのが、近代憲法の本質であり理念である(第三章一2参照)。

 これがどんなに没階級的で非科学的「観念論」であっても、この近代憲法の思想=近代立憲主義思想を科学的に洗練させ裏付けたところに、科学的社会主義の真髄があると思う。それは、革命的民主主義者から社会主義者へと成長したことを微塵も隠そうとしなかった、マルクスやエンゲルスの辿った道でもあるのではないか。
 私たちは、まだ労働者階級がどの国においても「勝利」を確保していなかった時代に、次のように述べたエンゲルスの言葉を、噛み締める必要がある。

>勝利を得たプロレタリアートは、ほかの民族にたいしてどんな幸福をも、それによって自身の勝利を台なしにすることなしには、押しつけることはできない(カウツキーへ 1882年9月12日付書簡 大月版全集35巻307頁)

 人権の国際的・普遍的保障が、このような考えの流れの中から導かれるものであることを理解すれば、北朝鮮人権侵害対処法に掲げられている「人権の国際的・普遍的保障」のスローガンに基づく「対抗措置」や「特定民間団体への情報提供・財政上の配慮その他の支援」が、本当にこの「考えの流れ」に背いてはいないかと、熟考する必要がある。

 平等な主権国家単位で社会の大枠を形成している現代国際社会において、「社会を構成する人間が、自分たちの知恵を集め、みなが人間個人として平等に尊重されるように、自分たち自身による政治の力」を発揮できるようにすることを、他の国家社会や、ましてや市民運動団体が、押し付けることはできない。  たしかに、目指すべき地点と方向性は「世界の歴史的政治的教訓」として、「人権の国際的・普遍的保障」の内容で示すことができる。「現状が様々な原因で遅れているから、遅れていてもよい」とは言えない。  しかし、「誰かからの借着では駄目だ」ということも、「自分たち自身による政治の力」を重視する(だからこそ言論表現の自由・政治結社の自由は保障されねばならない)この原理の中にすでに含まれているし、私たち日本国民自身の歴史的経験としてもそのことは確認できるはずであろう。いかに日本国憲法の制定を心から歓迎していたとしても、制定当時の大多数の日本国民にとって、「民主主義や人権」というものが、実感として分っていたとは言いがたい。欧米のように、国民自らが直接に勝ち取ったものとは言えない「人権と民主主義」を、いま、私たちは、本当に「自分自身のものとして」勝ち取ろうと闘っているのだとは言えないだろうか。

 だから、隣人として関与できるのは、それぞれの社会が、人権の普遍的保障と民主主義の実現にふさわしいものになるよう、場合によっては国際批判等をしながら、問題を抱える社会に対して促すことを通じてでしかない。その根拠も、あくまで、当該国家社会自身が行った国際約束(の履行)が中心となる。もちろん、倫理的な意味での人道も、その根拠に含まれうることは間違いない。

 国際約束の履行を求めることは、それが国内的人権保障に関わることであっても、何ら「内政干渉」ではない。しかしその方法には、「(武力の行使又はその威嚇等の)命令的干与でないこと」という厳しい制限がある(国際法学者の中には、さらに強度の経済制裁をも禁止方法に含める立場もある)。なぜか。それは当該国家社会自身の努力で解決すべきだからである。目的の正当性は、手段を当然には正当化しない。そして、正当な目的の中に、すでに手段を限定する原理が内在していると言えるのである。

 教育基本法前文もいっているではないか。「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意」「の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」と。
 当座の急場を凌ぐ援助をしつつ、社会の物的・人的・組織的インフラ(医療やエネルギーはその不可欠の分野)の建設、それを「自らの力で運営する」人を育てる「教育」の充実に、隣人が協力することこそ、「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする」国家社会の確実な礎となるのではないか。そしてそのことは何も、日本だけに限られることではないのではないか。

 「人権を保障せよ」という表向きのスローガンの陰で、「人権を充分に保障していない現政権を打倒せよ」という隠された目的を実現しようとすることは、たとえ市民運動への援助という間接的な形をとっていても、このような意味で、立派な内政干渉だと言える。
 内政干渉になるのは、「人権の国内的侵害」が「内政問題」だからではない。「人権の国内的侵害」の内発的・自主的な問題解決を妨げ、人権と民主主義との間の不可分の内在的・本質的連関を切断してしまうからである。そのような隠された目的には、「人権を抑圧していたから」と述べて「このような抑圧的政権を倒したことは適切であった」と強弁する、イラクに軍事侵略してフセイン政権を倒したアメリカ・ブッシュ政権を非難する本質的契機は、存在していない。「遅れた時計をリュウズを捻って直すような」態度では、社会の根本的変革はできないということを、もう一度、科学的社会主義の先達の言葉にも耳を傾けながら、私たちは、しっかりと考えるべきではないか。

7.
 以上述べてきたように、先の国会会期末に、自公民主各党の賛成によって突如成立させられた「北朝鮮人権侵害対処法」は、その「美しい目的」にも拘らず、各目的実現手段の問題性が物語っているように、その目的である「人権の国際的・普遍的保障」とは似ても似つかない、人権保障と民主主義に反する結果をもたらす危険が極めて高い、重大な悪法である。
 「さざ波通信」に集い、日本共産党の民主的変革を目指している人々は、こぞってこれに批判の声を上げるべきではないか。