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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

11/6付の潤氏へ

2006/11/16 樹々の緑

 上記投稿を拝見しました。もちろん、原さんご自身がお 答えになるでしょうが(催促しているわけではありません-念 のため)、潤さん、あなたが善意の不破哲三氏のファン(とい うのが私の最も率直な感想です)であると仮定した上で、苦言 を呈します。

 潤さん、インターネットは私的空間ではありません。 あなたが、原氏の投稿内容や原氏個人に対して、

>あまりにも変てこな批判
>馬鹿馬鹿しい言葉の遊びの域を出ていないようにしか思えな い
>このような無責任でいい加減な批判があるであろうか
>このようなものは、およそ批判には値しない
>このようなわけのわからない者
>ようするに不破氏の言うところが理解できず、いや先入観で しか読めず、それでわけがわからなくなっているのであろう

という言葉を投げかけ、「このような投稿はやめていただきた い」と言うのであれば、あなたご自身が申告された40歳代と いう年齢を考えると、

>全文は読んでいない
>このようなものはまともに読む気にもなれない

という態度は、決して許されうるものではありません。「全文 は読んでいない」者が、どうして「ようするに」と書けるので しょうか。もしかして、「2ちゃんねる」のような感覚で、こ の「さざ波通信」のサイトにあなたが書き込みをしておられる のでしたら、出直して来て下さい。それが最低限度のマナーで あると確信しています。

 それと、本当はこんなことに関わりたくはないので すが、論題に対してごくごく素人がどのような感想を持ったか という観点から、あなたがおっしゃっている本筋の議論にちょ っとだけコメントします。 潤さんの論旨は、

> だが、不破氏の著作をよく読めば、不破氏は決して粉砕で はなく、改造だと言っているわけではない。粉砕の場合もあり 得るし、改造の場合もあると言っている。レーニンの時代には 粉砕しかなかった。しかし、それを一般化したのが誤りだと言 っているのだ。マルクスは暴力革命唯一論ではなかったという ことを、色々な文献を示して証明している。これを国民を馬鹿 にしていると言って、批判している。ところが、最後には、「 古典の結論を歴史条件が大きく異なる現代にそのまま当てはめ ることはできないことはいうまでもない。」と言っている。そ れなら一体何のための不破氏批判なのか、レーニンは暴力革命 しかないと言っている。不破氏はそれは誤りだと言っている。 不破氏が、間違っているのなら、レーニンは正しいと言うこと になるではないか。現代においても暴力革命しかないというこ とになる。

という部分に尽きていると思います。

 そうした理解の上で述べるのですが、先日の原さんの投稿で 主題とされていたのは、「『マルクスは暴力革命唯一論ではな かったのに、レーニンは暴力革命唯一論を一般化した点に誤り がある』という命題が正しいかどうか」ではありません。 そのような、いわば包括的な論点を検討しているのではないの です。そのことは、原さんの先の投稿だけでも、それを虚心に 読めばすぐに分ることだと思います。もともと原さんご自身は 、「強力革命唯一論・国家機構全面的粉砕論」が、社会主義( マルクス主義)の「唯一不変の正しい立場」だという見地には 立っておられないと、私は理解しています(原さん、間違って いたらご免なさい)。
 ですから、いま二重カギ括弧内に簡約したあなたのテーゼが 、不破哲三氏の見解の要約として的確だったとしても、そのテ ーゼを理解すれば原さんの先日の投稿が「わけのわからない議 論」だと証明されたことにはならないのです。

 私の理解によれば、潤さんが批判している先日の原さんの投 稿の主題は、次のようなものです。

主題:(不破氏が、レーニンが「強力革命の不可避性とあ わせて、議会制の民主的共和制の破壊とコミューン型・ソビエ ト型国家によるおきかえを社会主義革命の一般的路線として主 張」-不破『議会の多数を得ての革命』56頁-したことは誤り だと批判していることは前提として、) 不破氏は、自分 のレーニンに対するこの批判こそが、マルクス・エンゲルスの 国家論にも合致していることを示すために、レーニンの『国家 論ノート』における出発点となっている「『共産党宣言』18 72年ドイツ語版への序文」の一節(原さんが言われる「前書 き」及び「修正文」)を引用し、その引用中の『フランスにお ける内乱』からの再引用の文言(原さんが言われる「修正文本 文」)について、レーニンが「国家機構の『改造』か『粉砕』 か」という観点から解釈を行った上で、これを「粉砕」と解釈 したのは誤った「決めつけ」だと断定しているが、修正文本文 に対するそのような解釈は正当かどうかを検討すること。

 これは、もともと別の論考の<注>として書く予定のものだ ったと原さんは言われています(原氏の投稿冒頭参照)。<注 >であるために、非常に限局された主題の検討になっているの です。そのことをまず、潤さんは、しっかりと押えられていま すか?

 なぜ原さんがこんな、一見すると「言葉遊び」のような事柄 を主題として、これだけまとまった論考を書かれたのかは、先 日の投稿中にもいくつか示されていると思います。これも非常 に大事だと思います。

 私が受けとめた限りで大事だと思われることは、ま ず、レーニンが『国家論ノート』でこの文言解釈に特別の注意 を払った当時の具体的・歴史的事情がどのようなものであった か、また、マルクス・エンゲルスが「序文」『内乱』を書いた 当時の歴史的・具体的事情がどのようなものであったか、とい うことを離れて、この問題にアプローチすることはそもそもマ ルクス的でない、ということです。
 「具体的・歴史的」ということは、「些末な事柄も軽視せず 同等の比重を置いて」ということでは全くありません。一個の 具体的な認識を支えている客観的根拠との関連において、その 存在の意義と価値(限界)を分析する、ということです。「普 遍的な」命題として主張されているものについてさえも、その 「普遍性」を基礎づけている(規定している)客観的根拠を解 明しないで、「普遍的である」という主張それ自体から普遍性 を証明し(たことにし)てはならない、ということです。

 不破さんは『議会の多数を得ての革命』の「英訳版へのまえ がき」の中で、「レーニン自身の歴史のなかでレーニンを読む 」ということを頻りに強調しています。また、日本語版「まえ がき」の末尾近くで、自身の論究を「歴史的に解明することに つとめ」た結果だと述べています。そして、「英訳版へのまえ がき」の末尾近くでは、「レーニンがここで提起した問題を科 学的に吟味するためには、レーニンの時代と現代との時代的な 条件の違いに問題を解消するのではなく、より根本的な検討- -レーニンによる理論的再整理が正しかったかどうかの検討が 、必要になります。」と強調して、このような「歴史的解明」 の方法こそが、「科学的な吟味」であると主張しているのです 。
 これは、私のように「不破オールドファン」であった人間に とっては、一読すると本当に圧倒される「文言」だと思います 。それを私は、骨身に沁みて感じることができます。

 しかし、実際に不破さんがこの論考の中で「吟味」している ことは、結局において「文献中の諸文言の比較検討」と、「文 献の歴史的先後関係」「その文献にレーニンが接しえたかどう か」が中心だとしか感じられないのです。そして、レーニンの 見解がそのような誤った「粉砕」論であることを「解明」した 後で、徐ろに、そのような誤解に至った(固執してしまった) 歴史的・具体的事情について言及しているのです。

 けれどもそれは、順序として逆ではないか。
 レーニンが20世紀初頭のヨーロッパの政治情勢を踏まえて、 「粉砕」論に立ったことはそうだとしても、マルクス・エンゲ ルスの「『共産党宣言』1872年ドイツ語版への序文」にお ける見解がどうであったか、ということは、それ自体として( レーニンの解釈とも独立して、現代の私たちの見地から)分析 されるべきことです。
 つまり、「『粉砕』か『改造』か」については、(1) マルク ス・エンゲルス自身の見解、(2) レーニンの解釈、(3) 不破さ んの解釈、(4) 私たち(とりあえずは原さん)の解釈、の4つ がそれぞれありえて、その上で、(1) に対する(2) から(4) の 整合性が問われているのだと思います。そして、(2) と(4) と が結論的に一致(=根拠まで一致かどうかは不明)しているの に対して、(3) は別の見解であり、そのどちらが(1) に整合的 かということでしょう?
 そして、「序文」中で筆者(1) により『フランスにおける内 乱』の特定箇所の参照がとくに指示されているのに、「『粉砕 』か『改造』か」の解釈検討において、その検討を最優先させ ず、いきなり「レーニンがそれをどう解釈しているか」の検討 から「解明」に入ってしまうのは、方法論としての基礎的誠実 さが疑われる、という原さんの指摘は、非常に納得が行くもの です。

 しかも、原さんが指摘するように、「『粉砕』か『改造』か 」の解釈検討の際にこそ最も参照されるべき『内乱』の当該箇 所の指示が、不破さんの検討部分における引用において完全に 省略されており、『国家論ノート』の中で特記されている「ク ーゲルマンへの手紙」の検討だけが行われているのです。これ は、「引用の誠実さ」においても、相当な疑問があると言える でしょう。

 マルクス・エンゲルスの「序文」執筆時点における認識がど うであったかを知るためには、もちろん、文字解釈、文理解釈 、文脈解釈、個人学説史的解釈は必要です。しかし、その点で はすでに、筆者自身が別の文章の参照指示を以て解釈を示して いるのです。
 しかも、私が重要だと思うことは、まさに『フランスにおけ る内乱』が総括しているように、その認識を客観的に基礎づけ た当時の歴史的・具体的事情を明らかにし、当該認識との関連 性を探ることです。
 不破さんは、順序が逆ではあるものの、レーニンについては それを行っている。だったら、マルクスの「序文」における引 用の趣旨が「『粉砕』か『改造』か」を解明する場合にも、い ま述べた参照指示箇所の参照はもちろんのこと、それを含めた 当時の客観的・歴史的・具体的政治情勢との関連も、レーニン の「誤りの原因」の分析と同じように、行うべきだったのでは ないでしょうか。
 そして、原さんは、その作業を先日の投稿の第「2」及び第 「9」項で行っています。テーマ(主題)が、不破氏の解釈の 当否の検討ですから、もちろん、随所でもそういう趣旨の言及 はありますが…。なお、私は、原さんが冒頭第「2」項にまず 、「序文」から『国家と革命』に至る歴史的時期の概括をきち んと説明されたことは、非常に重要だと考えています。

 これらの作業を優先して行わないでおいて、ほぼ議論の方向 性が決まった後になって、「マルクス・エンゲルスは、プロレ タリアートの権力掌握の方法を、特定の手段方法に限定せず、 ただ単にブルジョア支配の手段であった諸国家機構を『改造』 もせずに『そのまま』使うことはできないと考えていた」こと の例証になる文章を主体に、文献的引証・事実への言及を行っ ている不破さんの姿勢は、やはりおかしいと思われてなりませ ん。

 そして、原さんがこのような「言葉遊び」に類することを、 これだけ壮大な規模で行われた背景には、このような「基礎的 な知的誠実さ」を欠いていながら、いかにも学問的な形式を駆 使して、直接かつ詳細な検討を行えない多くの民衆を幻惑し、 自らの望む方向へと誘導して行こうとするやり方への憤りがあ るように感じます。マルクス主義の基礎的概念や、より根本的 には、基本的な思考方法に対する理解を妨げることへの怒りも 、あるかも知れません。

 私自身が、不破さんの「知的誠実さ」に対して、深く・根本 的な疑問を懐いたのは、「万万万が一の場合には、共産党が与 党の政権において解散前の自衛隊を活用する」という議論を彼 がしたことからです。そのおかしさは、私が学んだ憲法学の見 地から見て、「同党(日本共産党のこと-樹々の緑)の平和主 義、とりわけ立憲主義理解に重大な疑念を惹起する」「同党( 同前)の憲法九条をめぐる議論は、あまりにも恣意的であり、 知的誠実さを問われる性質のものである」と、ある憲法学者か ら厳しく指摘されたほどのものでした(水島朝穂「日本の『防 衛政策』--転換への視点」『ジュリスト』1192号48ペ ージ)。しかし、未だにそれを撤回していない。
 ですから、マルクス主義の古典については「ごくごく素人」 でしかない私でも、原さんの疑念と怒りは、推測がつくのです 。