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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

共産党指導部のサークル化・化石化・小児病化とその淵源(3)

2008/4/11 原 仙作

12、この間のjcp指導部の楽観的表現の数々(1)
 21世紀に入ってからの6回の国政選挙と2回の統一地方選挙で、jcpは後退を続けてきたのであるが、その間、議席や得票率を減らしても「善戦健闘」だとか「反転攻勢の足がかりを得た」とか、責任回避のためであろう”超”楽観の総括をjcp指導部は延々と繰り返してきたのである。不破にいたっては言うに事欠いて、昨年の85周年記念講演では米誌「タイム」にまで援軍を求めて、日本では「共産主義が活気にあふれて健在」と主張していた。
 それらのことは周知のことで引用することはしないが、jcp指導部の言説への疑問、不信を党内に広めたのは想像にかたくない。何度も後退に歯止めがかかったと言いながら後退を繰り返すのだから、『オオカミ少年』の話ではないが、少々冷静な頭脳の持ち主ならば、誰も信用しなくなるのも不思議ではないのである。
 当然、党が決定した何中総とかいう文書も読む気が起きなくなるであろう。毎度同じで、当てにならない楽観論と通年大運道化する党勢拡大の話が延々と書かれているからである。前回引用したが、当面の活動方針である5中総は半年にわたる読了運動を通じてもなお読了率41.9%という数字となっており、その数字が党員の心理、党内の雰囲気を雄弁に物語っているのである。
 しかも、この数字は実際の読了率ではなく、例年、党文書の読了率が3割前後で頭打ちになることに業を煮やして、読了しなくとも5中総の内容を討議する会議に参加した場合は読了とみなすという”非常措置”まで講じたうえでの数字なのである。志位は5中総の「結語」でこう言っている。

「しかるべき責任ある同志が、5中総決定の中心点をよくつかんで報告し、報告にもとづいて議論すれば、中央決定の徹底とみなすようにしたいと思います。・・・読了を中心にすえつつ、そうした徹底方法もあわせて、中央決定の徹底の抜本的飛躍をめざしたい。3割前後では、まともな党のあり方とはいえません。」

 確かに、党の活動方針を示す重要文書の読了率が3割というのでは、志位ではないが「まともな党のあり方」とは言えない。しかし、社会改革に参加するという稀有な意思をもって入党してきた人達を”3割党員”にしてしまったのは一体誰なのだ? 四半世紀も党指導部に留まってきた不破や志位の責任ではないのか? 彼らは選挙結果に責任を負わないだけでなく、党員の活動停止状態に思いを馳せ、その苦境、党の惨状に責任を痛感している様子はないと言わざるを得ないだろう(注8)。

<(注8)、私は様々な投稿を通じてjcp指導部の欠陥を指摘し批判をしてきたのであるが、一番の痛憤を覚えるのは彼らによる一般党員への対応なのである。周囲の腰巾着のような連中にはどうかは知らないが、彼らには同志を思いやる”心”がない。一般党員はただの”兵士”、戦力のコマでしかないのである。楽観論満載で『オオカミ少年』のように真実を語らない演説がその証拠である。一般党員はその気にさせて操作する対象にすぎないのである。
 責任を明確にし同志を思いやる心がトップにない組織は魅力もなければ組織自体が躍動しない。そして組織自体が躍動しない組織(政党)が、その周辺、国民を惹きつけて変えていけるわけがないのである。 どんなりっぱな(?)マルクスの理論や庶民むけの政策で化粧をしてみてもダメなのであり、ここ10年の国政選挙における連敗はその証明なのだが、この党の指導部はそれがわからない。国民大衆に”溶け込む”ことができない一大原因となっている点である。>

13、この間のjcp指導部の楽観的表現の数々(2)
 党内が”3割党員”の世界で、その世界に志位らが責任を感じていないのだから、党外から見れば呆れて物が言えないということになる。jcpの周辺には、それこそ何十万となろうか、過去に現在に、jcpと何らかの関わりを持ちjcpを注視している有権者層がいることを忘れてはいけない。彼らはjcp指導部の言動を注意深く見守っているのであって、彼らを呆れさせる言動は彼らの支持を失うだけでなく、彼らの言論に口コミで影響を受けるその数倍にもなろう有権者にも悪影響を及ぼすのである。
 党員が30余万人、その外周には約250万の基礎票の輪が取り巻いている。この250万は基礎票という支持層であるから、この層がjcpを積極的に支持するか消極的に支持するかで選挙戦の様相がガラリと変わると予想する想像力がjcp指導部にあってもいいはずである。4百4、50万票で頭打ちの現状は党員層だけが駆け回っている上限の得票数だと知るべきである。党員は基礎票の票読みの範囲内でしか行動できず、基礎票が一票弱しか支持を拡大していないのである。しかし、この基礎票がjcp指導部の言動に感奮し、支持を3票に拡大したらどうなるか?
 戦術も貧困なら想像力も貧困な志位ら指導部は考えて見るべきである。党周辺の支持者がその気になれば、3票の票を読むことなどたやすいことなのだが、今は逆に比例区の基礎票が50万票も流出する事態になっていることの意味をである。
 周辺の基礎票が動き出せば、党員の動きも活性化するのであり、それゆえjcp指導部が言論のターゲットとするべきはこの基礎票に当たる支持層である。そうすれば、その言論はカルト風の楽観論満載のものではなくなり、多少とも慎重で正確になり、説得力も増しかつ常識的なものに変化せざるを得ないはずである。党周辺の基礎票を納得させられる言論ができるかどうかは、衆議院選におけるjcpの帰趨に大きく影響すると見るべきだろう。しかも、基礎票を説得できる言論こそが党指導部に疑問を抱く党員をも説得できるカギになっているのである。
 ところが、負けが混んでいるために、極端な視野狭窄に陥っているjcp指導部は党内操縦ばかりに関心が集中していて、根拠なき楽観・我田引水の言論が跳梁し、外部の者にはさながらにカルトの雰囲気を感じさせてくれるのである。
 それらの例のうち、参議院選前後の期間に見られた事例をいくつか引用し、それらの言論の検証を行いつつ、不破や志位らが自分らの発言を思い出し反芻する機会を提供することにしよう。

14、この間のjcp指導部の楽観的表現の数々(3)
 参議院選必勝をめざして12年ぶりに開かれた2007年1月の「全国都道府県委員長・地区委員長会議」における志位の「まとめ」(「赤旗2007年1月8日)では、志位は次のように言っていた。

「『支部が主役』の活動・・が党を変えつつあるということです。すなわち党が、支部を基礎とした自覚的な人間集団として、新たな活力を得て発展しつつあることが、浮き彫りになる会議となった・・」
「同時に、『支部が主役』の活動が、党と国民との関係も、変えつつあります。すなわち・・・草の根で結びつき、草の根の要求をつかみ、その実現のために、ともに奮闘する、国民のなかに深く根をおろした党が、いま築かれつつあるということが、討論全体をつうじて浮き彫りになった・・」
「今日の政党状況のなかで、日本共産党が出番の情勢であるということが、日々明らかになってきます。ここをよくとらえることが大切です。」

 多くの国民がjcpに抱く批判的jcp観は排除して考慮しようともしないjcp指導部のこの自己認識はどうであろうか! 全党が百家争鳴の大躍動を開始したかのごとくである。「国民のなかに深く根をおろした党」(!)。がしかし、実際はここに言われているような事例はごくごく一部に留まり全体は停滞的なものであったことが参議院選で明らかになる。
 その前兆はすでに4月の統一地方選で現れ始めており、道府県議選では110から102に議席を減らし、大阪府を除いて、jcpが強いはずの大都市圏は議席増が見られず、逆に埼玉、神奈川、兵庫、福岡の各県ではそれぞれ3議席を減らす非常事態(注9)を生み出していた。しかし、他方では市町村議選が”そこそこ”の議席確保となったことから例によって「善戦健闘」なる選挙総括(4中総、「赤旗」2007年5月19日)が与えられ、不吉な前兆は忘れ去られてしまうのである。

<(注9)埼玉、神奈川、福岡の各県は現有4議席から1議席へ、兵庫県は8から5へ激減していた。京都府も12から11へ1議席減、千葉県は4議席の現有確保、愛知県はゼロ議席継続、大阪府だけが唯一9から10への1議席増であった。合計すると現有45議席を33議席へと26.7%の減少であった。主力の大都市圏における大幅減であるだけに十分な原因究明が必要だったはずである。事態をうやむやにしたツケは、結局、参議院選で冷酷に示されることになる。>

15、この間のjcp指導部の楽観的表現の数々(4)
 6月23日の「参議院選勝利 全国いっせい決起集会」(「赤旗」2007年6月25日)では、上記の楽観的自己認識に対応する楽観的政治情勢認識が登場してくる。

「どの分野をとってみても、『たしかな野党』が『いまこそ必要』だということが、いよいよ浮き彫りになり、その値打ちが光っています。」
「いま対話が弾み、話せば支持に結びつく。一言でいいますと、『確かな野党』の立場が、こんなに情勢とかみあうときはない。」
「2005年の総選挙と比較しても、今度の選挙がどんなにたたかいやすい選挙か。・・・私たちが訴えていることは、年金でも、増税でも、憲法でも、みんな身近なことばかりです。」

 志位は「浮き彫り」という表現が好きなのだが、どういう基準で誰に「浮き彫り」になっているのか、まったくわからないのである。おそらく、口癖のように言う志位にも分かっていないであろう。志位や党員に「浮き彫り」になっていることは当然としても一般大衆に「浮き彫り」(良く理解されている)になっているのかどうかがポイントであって、大衆にはまったく「浮き彫り」になっていなかったことが参議院選の結果で明らかになるわけである。「確かな野党」の立場もさっぱり評価されなかった。
 志位は願望と現実を混同する演説が実に多いのである。党員を鼓舞するつもり(?)のアジ演説がいつの間にか冷静であるべき現実認識と混同されてしまい、自分がその気になってしまうようだ。

16、この間のjcp指導部の楽観的表現の数々(5)
 次は選挙戦最終盤7月25日に開かれた「全国いっせい総決起集会」(「赤旗」7月26日)での志位演説である。ここでの論調は一転して、選挙運動が立ち後れており現有議席確保が危機にあるという、言わば”尻たたき”の演説になる。比例代表の支持拡大が投票日五日前で目標値の「54%」という水準であった。半年前の全党の躍動開始や一月前の「話せば支持に結びつく」状況、光るjcpの値うちが幻となって消えようとしていた。そして参議院選挙がやってきて5議席を3議席に減らす惨敗が確定し、指導部の仏頂面を彷彿させる幹部会声明、そして5中総が出るのである。

「わが党の綱領と日本改革の方針がこんなに情勢とかみあい、情勢と共鳴しつつあるときはない」
「政治的激動の時期において、日本共産党がはたすべき役割は、いよいよ大きなものがあります。」
「どの問題でも、国民の認識と日本共産党の立場が--綱領の立場が接近してくる条件と可能性、そして必然性がある。」
「この中央委員会総会は、新しい情勢のもとで・・総選挙の勝利にむけて、決意がみなぎり、展望をつかんだ会議になりました。」
「今度の中央委員会総会というのは、難しい条件のもとで参議院選をたたかい、その結果を正面から分析し、みんなで知恵を集めて冷静に教訓を導き出し、党の新しい前途と日本の政治の展望を明らかにした」

 惨敗を反省する論調はまるで見られない。jcp指導部の主張はいつも国民に「浮き彫り」になり、「展望をつかみ」、「展望を明らかにした」会議や決議になるのだが、実際の結果と照らし合わせると逆のものばかりが出てくる10年であった。ここに挙げたような言葉には何の実態的な裏付けもないのである。展望を明らかにして(?)選挙に負ける。負けると末端が全力を挙げなかったからだと言って党勢拡大の大運道を提起する、ということの繰りかえしである。発展性がないどころか、10年もじり貧を続けながら選挙戦術にしても党勢拡大運道にしても同じことを繰りかえし(化石化!)、口先だけの「展望をつかみ」続けてきたわけである。
 本稿の「5」で述べたように、選挙で惨敗してもjcpの綱領が脚光を浴びることになるという奇妙な主張が志位の言う「展望」=現在の政治情勢認識なのである。常識的には理解不能な主張なのであるが、その展望は多くの国民の抱く批判的jcp観をあらかじめ排除しており、それゆえに主観的で楽観的なものになっており、実際には万里の長城が立ちはだかっていると述べてきた。現状のままのjcp指導部が国民多数の支持を集めることが困難であることは、参議院選後の支持率の低下やこの2、3月における機関紙拡大の後退の事例が教えていることである。
 さて、本稿「6」の末尾で触れたことだが、この5中総には「国民の認識と・・綱領の立場が接近してくる・・・必然性がある。」という表現があることに注意したい。すなわち、「新しい政治プロセス」の進行は国民をしてjcp綱領支持に鞍替えさせる「必然性」があると志位は言うのである。「可能性」なら理解できぬことはないが、「必然性」ということになると、もはやカルトの世界観だと言わざるをえないだろう。「10」で検討した経済決定論が嵩じると、こうして理論は馬鹿げた信仰に転化してしまうのである(注10)。
 もはや、「新しい政治プロセス」の進行そのものがjcpの躍進を保証しているのである。参議院選で惨敗しても、神は正しき者を見捨てず、逆に千年王国へ到る王道が開示される。ここから党外の者には想像もできぬ楽観論や自己正当化論、自画自賛や独善性が生まれてくるのである。”選ばれし者”の世俗化した姿と言えよう。

<(注10)「国民の認識と・・綱領の立場が接近してくる・・・必然性がある。」という文章には曖昧さがある。文字どおりに読めば、単に接近してくるだけの「必然性」であり、接近してきて合流するのか、また離れていくのか、それとも反発するのか、それらは事態の展開でどうなるかはわからないとも読める。しかし、接近してくるがその後はどうなるかわからないというのでは何も言っていないのと同様である。「展望」も何も得られない。jcp指導部が言いたいことは、接近してきてjcpの綱領に合流してくる「必然性がある」ということなのである。その点は次項の引用が証明する。>

17、この間のjcp指導部の楽観的表現の数々(6)
 2007年12月3日に幹部会が開かれ、そこで志位は次のように発言(「赤旗」2007年12月5日)している。

「一面では、国民の声で政治が動く新しい情勢が展開しています。」
「いま、たたかえば政治が動く。このことを多くの人々が実感し、各分野の国民運動が新しい活力を得て前進しています。」
「このとりくみ(綱領を語り日本の前途を語り合う大運道のこと-引用者)を通じて、どんな国民との要求とも、綱領路線がかみあい、結びつき、共鳴しあうことが、生き生きと実感されています。」
「5中総決定の最大の眼目が『大運道』にあること」、「『大運道』のとりくみは、はじまったばかりですが、党の前進の新しい鉱脈をつかんだというのが、みなさんの実感でもあるのではないでしょうか。」
「どんな問題でも、国民の切実な願いを本格的にかなえようとすれば、日本共産党の綱領の示す日本改革の道と接近・合流せざるを得ない。そのことが日々の情勢の展開を通じて、こんなに見えやすいときはありません。」

 今は「国民の声で政治が動く」情勢になっていると志位は言うわけだが、こうした情勢を切り開いた立役者は残念ながらjcpではなく、小沢民主党であったことは間違いないのである。志位らは国民が切り開いたと言っているようであるが、これを負け惜しみという。志位らはjcpの議席が伸びなければ政治は変わらないと主張していたのだから、現実の政治は志位らの主張とは随分違っていたと言わざるをえないだろう。
 不破や志位らの誤算はどこにあったのだろうか? jcp指導部が「同質・同類の党」と規定する自民と民主の争いは不毛であり、茶番劇であると見なしてきたからである。まさか、不毛な茶番劇がjcpの活躍の舞台たる「新しい政治プロセス」を用意するとは夢にも思わなかったのであろう。こうした事態を予想するだけの想像力(まさに想像力なのだ!)があれば、唯我独尊の「確かな野党」なるスローガンも掲げずにすんだはずである。
 jcp指導部の図式思考の頭脳では事態の把握が一面的、図式的になってしまい、現実の多様な側面が見落とされるのである。不破の自共対決史観と二大政党制理解では、「同類の党」の争いはjcp排除のための茶番劇にしか見えなくなるのである。
 だが、そんな反省はどこにもなくて、志位は過去のことはさっさと忘れて、今やjcpの出番がやってきて、党の綱領を熱心に国民に語りかければ、国民はjcpの「日本改革の道と接近・合流せざるを得ない。」と言うのである。前項で見た「必然性」がより明確な表現で登場している。単に「接近」するだけでなく「接近・合流」ということなのである。

18、この間のjcp指導部の楽観的表現の数々(7)
 年があけて2008年の「党旗びらき」(「赤旗」2008年1月5日)の大見出しは「新しい政治つくる歴史的転機」となっている。いよいよ、綱領の値打ちが「浮き彫り」となって全土に満ち始め、国民がjcpの旗の下に結集し始めるにちがいないのである。

「わが党の綱領が指し示している政治の根本的変革なしには、もはや日本は立ち行かなくなっています。」
「『今度こそ勝とう』という新たな機運と活力が広がり、新たな前進が開始されています。」
「『綱領を語り、日本の前途を語り合う大運道』が、豊かな広がりをもって前進し始め」、「全党の努力によって党勢拡大の新しい上げ潮をつくりだしつつあるということです。」
「日本改革の方針とともに、未来社会へのロマンもおおいに語ろう」

 そして、この3月の志位による幹部会報告(3月6日)が出てきて「綱領と情勢の響きあい」という表現が全面開花となるのである。

「5中総決定では、・・『どの問題をとっても、わが党の綱領と日本改革の方針が、こんなに情勢とかみあい、情勢と共鳴しつつあるときはない』─綱領と情勢とが響き合う新しい状況が生まれていることを強調しました。そのことは、今年に入ってからの情勢の展開によって、いよいよ鮮やかに裏づけられています。」
「『綱領と情勢との響き合い』という客観的条件をとらえた積極的なとりくみが、各分野で発展しています。」
「わが党の歴史のなかでも、綱領そのものの内容を、広く国民と語り合う運動が発展しつつあることは、初めてのことであるということです。」
「『大企業は社会的責任を果たすべき』という声が、当たり前の声になりつつあります。ここにも『綱領と情勢の響き合い』がおこっています。」
「まさに綱領がしめす日本経済の改革の中心問題のところで、国民との大きな響き合いという状況が生まれているのです。」
「軍事同盟もない基地もない独立・平和の日本をめざすわが党の綱領の立場が、国民に広く受け入れられる条件が存在する─ここでも情勢との響き合いが起こっている」
「『綱領と情勢が響き合う』状況のもとで、党の姿を伝える『しんぶん赤旗』の魅力が光り、紙面を広げて対話をすればどこでも話がはずみ、党への共感・共鳴を広げ、読者拡大をすすめる大きな力となっている」

 まさに「綱領と情勢の響き合い」が満開となっている。志位らの目には「綱領と情勢の響き合い」という政治的条件のもとで「新しい政治プロセス」が全面進行しており、jcpと国民との「接近・合流」が「必然性」をもって進んでいるように見えているのである。
 参議院選直後とは違って、この表現が満開になる背景には、諸政治課題での政府の譲歩が広範にみられるという事実があり、他方ではこの機会に政府に譲歩を迫る種々の大衆運動が盛んになっているからである。薬害肝炎訴訟における政府の譲歩などもそのひとつである。
 これらの志位の発言を見ると、jcpは”水を得た魚”、当たるべからざる勢いの”獅子”であるかのごとき観がある。しかし、参議院選でjcpを惨敗に追い込んだ国民は、全小選挙区立候補戦術の中止や「確かな野党」スローガンの取り下げ程度では、批判的jcp観を解消するとは思えないのである。jcp指導部の『体質』への批判にはゼロ回答のままだからである。

19、この間のjcp指導部の楽観的表現の数々(8)
 jcp指導部の楽観的表現のまとめに、例の「必然性」の問題を取りあげよう。jcp指導部の楽観的、主観的な情勢分析や党勢認識についての究極の原因となっているものだからである。最初に登場した5中総の文章は次のようになっていた。

「どの問題でも、国民の認識と日本共産党の立場が─綱領の立場が接近してくる条件と可能性、そして必然性がある。」

 ここに言う「必然性」とは、すでに検討したように、単に「接近」してくるということではなく「接近・合流」の「必然性」ということであり、国民の多数派がjcpの綱領を支持するようになる「必然性」のことである。実は、5中総のこのカルト的認識には前段があって、この見解を最初に示したのは5中総の前に行われた党創立85周年記念講演における不破発言である。志位ではこういう大胆なカルト発言はできない。不破は参議院選の結果を語る文脈のなかでこう言っている。

「そして私は、今の状況をしっかりみれば、探求する国民の認識と、日本共産党の立場とが接近してくる必然性があると見ています。なぜか。それは党の綱領が、日本の政治のいまのゆきづまりの打開の道をはっきりしめしているからであります。」(「赤旗」2007年8月12日)

 同じ考え方は、「特別党学校交流会」における不破講演でも示されている。この講演では不思議なことに、不破は二度も自分たちの考えは「頭のなかでつくった特別の『原理』などからひきだしたものではなく、・・・『事実』そのものからひきだしたもの」という断りを入れている。どこかで不破の主張がjcpの特殊原理と批判されたのであろう。

 「まじめに国民の利益を考え、国民の利益を追求すれば、大企業・財界の横暴とアメリカへの従属という、諸悪の二つの根源に必ずぶつかるし、それをとりのぞこうと思えば、日本共産党の路線に必ず接近してくる──綱領の立場で日本を見るというとき、この点に確信をもつことが重要だ・・」(「綱領の立場で日本と世界を見る」「赤旗」2007年11月10日)

 厚生労働省が言う後期高齢者になったせいなのか、元々の不破のマルクス理解が原因なのか知る由もないが、何と単純な「必然性」論であろうか! ここでは小難しい歴史の必然性とは何かを論ずる必要はない。jcpが政権へ到達する必然性の問題として論ずれば済むことである。
 共産主義の必然性はマルクスも主張したことであるが、巨匠たちは誰一人として、特定の国の、共産党を自称する特定の政党について、多数派獲得の必然性とか、その政権獲得の必然性を論証したことはないのである。それはもともと、できない相談だからである。
 なぜなら、特定の国の、特定の共産党がどういう歴史を経て、どういう指導者を育て、どういう長所・短所を持ち、どういう社会・経済分析をやり、どういう政治センスと政治手腕を磨き、どのように巧みな政治戦略を駆使できるかはわからないことだからである。対する敵にも同様の側面がある。要するに不確定要素があまりに多いのである。

20、この間のjcp指導部の楽観的表現の数々(9)
 レーニンはボルシェヴィキの政権獲得の必然性を事前に論証したことはなく、論証の前に実践と実証過程が先行した。2月革命以後の権力獲得の過程は大衆の支持拡大と巧みな軍事作戦を組み合わせた”技術”の過程であって、一つ間違えばボルシェヴィキ勢力の全体が崩壊するような危機の連続であった。まさに”針の穴にラクダを通す”ような困難な革命過程であって、不破の言うような「必然性」の大通りを隊列を組んでパレードするような歩みではない。
 マルクス理論の習得は、すばらしい社会・経済分析や政治センス、政治手腕、巧みな政治戦略等々を何ら保証するものではなく、エンゲルスの『フォイエルバッハ』論を深く論ずることができても、駆使する政治戦略が”へぼ”であれば潰されるであろうし、成功と失敗のファクターの組み合わせはそれこそ人知を越えて無限にある。
 不破が「接近」の「必然性」を保証するものとして取りあげるファクター(不破の場合は政策だけ)は、①安保廃棄・独立・平和、②、大企業の民主的規制と国民生活擁護、③憲法擁護と民主主義、というところであるが、これだけの政策的一致があれば国民多数との「接近・合流」の「必然性」が論証されたと理解する頭脳は、”単細胞”だというしかなかろう。jcp指導部が抱えるファクター、うえに記した長所・短所から政治センス、戦略上手かどうか等々のファクター、国民が抱く批判的jcp観が不破の「必然性」論からはスッポリ抜けている。国民が合流してくる流れを担う主体jcpのファクターがまったく視野に入っていないのである。「前衛」の革命遂行能力がまったく考慮されていない。
 jcpが自己のイニシアティヴにこだわり独善的で融通が利かなければ、政界再編と大衆の政治化のうねりの中で、別の政治集団が形成されてきて不破の言う政策を担うかも知れないのである。事態を固定的に見て、jcpしか今のところ①~③の政策を”セット”で担う政党が存在しないから、「必然性」をもって国民はjcpの旗の下に合流してくると考えるのは根拠がなく、そもそもが弁証法の考え方に反することである。”セット”でなくとも、相応の順番で解決していくかも知れず、弁証法は事態を固定的に見ることを拒否する。ましてや政治の激動期においてのことである。
 卑近な例を挙げて考えるとわかりやすいであろう。沢山のアユがいることが確認されている川に行って、アユの好物のえさをつけて棹を垂らした場合、アユが釣れる「必然性」があると人は言うであろうか? 誰も言わないだろう。経験的に釣れる人と釣れない人がいることを誰でも知っているからである。こういう場合は、アユが釣れる可能性が高いとかアユが釣れる傾向にあると認識するのが普通である。

21、この間のjcp指導部の楽観的表現の数々(10)
 そこで、不破に訊きたいのであるが、急所を突いた政策さえあれば人民はjcp支持に回るというのであれば、戦後初期に、どうして唯一反戦平和の旗を掲げ、天皇制廃止、寄生地主制解体、軍部解体、財閥解体、農地解放、民主主義という政策を掲げたjcpが政権へ到達できなかったのであろうか?
 明らかに政策以外の様々な要因があったからであろう。今も事情は同じで、りっぱな政策だけでは限界がある、という以上に現代は複雑である。というのは、戦後初期は、国民が飢餓的生活を強いられており、それゆえに、その要求は明確で単純なものに純化されていた。すなわち、”パンと平和”をである。が、その時においても国民はjcpを政権に押し上げなかったとすれば今日ではどうなるか、ということである。当然、国民が抱くjcp観、jcp指導部への批判的意識もjcpの運命を左右する重要なファクターになるはずである。
 不破の言う「必然性」は実際は可能性ないしは傾向と呼ぶべきもので、「必然性」と理解するのは事態を一面的に見ることから生まれた単純な誤解なのである。”猿も木から落ちる”と言えば褒めすぎになろうか? しかし、その理解は不破の「科学的社会主義」を特徴づけるもの(注11)であって、不破を中心とするjcp指導部のカルト的精神風土を律する一大原理でもある。
 「大企業・財界の横暴」も「アメリカへの従属」も確かに不破の言うようにjcpの特殊な原理から引き出されたものではないが、上記三つの主要政策だけで「必然性」を論証できるとする思考自体が不破の特殊な思考原理の産物なのである。まさに形而上学! 
 ここには不破の「必然性」論とカルト的精神風土の相互浸透があり、「必然性」論から栄養を受けとるカルト的精神風土が、その独善性と現実を見るうえでの”リアルさ”の欠如・一面性・図式思考・形而上学等の源泉となっており、戦略・戦術の硬直性、想像力欠如の源泉、そしてこれまで縷々述べてきた国民の批判的jcp観を反共主義として無視する究極の原因ともなっているのである。

<(注11)、以前に、不破の「科学的社会主義」を「機械的唯物論」という表現になぞらえて「機械的社会主義」(拙稿「日本国憲法が日本革命の・・・(4)」の「16」、「現状分析欄」2006年11月22日参照)と呼んだことがある。本稿の例のように、世の中の政治現象がもつ可能性や傾向、必然性など、多様なニュアンスのある現実の事象を必然的なものとそうでないものとに二元論的に整理・仕分けして理解する傾向が、不破の場合、あらゆる領域で見られるのである。彼の思考の特徴は理論家ではなく、形式的基準で物事を分類整理する”整理屋”なのである。
 この分類癖を他の例で示せば、自共対決史観がそうである。日本の政治を動かす原動力は自共対決であるという政治史観である。そこでは<jcp対自民党プラスその他>という対抗で日本の政治が把握され、現実の政治闘争が単純化されてしまう。その結果、「同質・同類の党」とjcpが言う自民と民主の争い、矛盾が無視され、自民党が参議院で過半数割れを起こせば生じてくる有利な政治情勢の展開などを不破はまったく予想できなかったのである。
 不破にあっては「同質・同類の党」の争いは茶番劇でしかなく、ただの不毛の争いで、そこからは不毛なもの以外は何も生まれないのである。不破が現実の政治を見る観念性、抽象性が非常によくわかる。彼にとっては現実は本質ないしは概念の現象形態にすぎず、把握された本質=「同質・同類の党」以上のものは現実の両党の争いからは生まれないのである。不毛なものは生まれるがjcpに有利な政治情勢は生まれない。無からは有は生まれない。ゲーテのように、理論は灰色で現実は緑なす命の樹だという視点は皆無である。
 不破が有利な政治情勢の展開を予想できていれば、「確かな野党」のスローガンを掲げ、民主党が伸びてもjcpが伸びなければ政治は変わらないと言うような”お馬鹿”な主張はしなかったはずなのである。ここにも不破の二元論がある。jcpだけが多産で他党はすべて石女(うまずめ)なのである。不破が政治現象を捉える観念性・抽象性と二元論と「必然性」論は不破の一面的思考を特徴づける三位一体の密教である。
 今日、「綱領と情勢の響き合い」と呼んで志位らjcp指導部が踊り狂う政治情勢はjcp指導部が主導的に切り開いたものではなく、まったくの僥倖であって、自・民の争い、あるいは国民がjcpに贈ったプレゼントなのである。何とミゼラブルな「前衛党」ではないか。>(つづく)