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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

共産党指導部のサークル化・化石化・・(8)─党創立記念・志位講演は”井の中の蛙”─

2008/8/8 原 仙作

59、jcp指導部の好きな「正義と道理」
 前回は7月に開催された6中総における総選挙の政治・選挙方針の特徴を取り上げ、その方針が庶民政策の実現を忘れたセクト的な選挙戦術に堕しており、総選挙の争点となる政権交代にも反対する内容になっていることを見てきた。こうした政治・選挙方針では自ら躍進のチャンスを閉ざすことになると指摘した(注31)が、党創立86周年記念講演では志位は意気軒昂で「正義と道理に立つものは未来に生きる」という”子供だまし”のような題名の講演を行っている。その内容からすれば”井の中の蛙”の講演である。
 jcpの不人気の一端がその独善性にあることを考えれば別の題名を工夫すべきであったろうと思うのだが、石頭だらけの指導部では集団討議にかけても他の題名は思い浮かばなかったのであろう。
 むろん、この題名では、国民の多数は無知蒙昧の”石頭”で、jcp指導部が口を酸っぱくして言ってもわかるようになるのはず~っと後のことであると、間接的に主張していることになるとは指導部は気がついていない。好意的に見ても、志位らの頭の中が、いささか時代がかった勧善懲悪の世界というイメージを引きずっていることは否めない。水戸黄門の”印籠”でも取り出しそうな題名ではないか。
 しかしまた、この題名は・・・、と絶句せざるをえないような気分になるのだが、題名についての表現上の問題を除いて評価すれば次のようになろう。戦前のような民主主義が圧殺された時代であれば、言いたいことも公然とは言えなかったわけであるから多少ともリアリティを持った題名とも言えようが、すでに半世紀を越える民主主義が存在する社会で3%程度の政党支持率であり続けるということはjcp指導部の主張する「正義と道理」に疑問符が投げかけられて久しいということなのであって、また指導部がその疑問符に応えていない証拠とも言えるのである。
 志位の言うようにjcp指導部に「正義と道理」があり、それをわからん国民多数が無知蒙昧なのか、それともjcp指導部の言う「正義と道理」に久しく疑問符がついているのか? 私は後者が正しく、それをjcp指導部がわからなければjcpの発展はないと思うのである。このギャップは国民が埋めるのではなくjcp指導部が埋めなければならない。

<(注31)、福田政権が内閣を改造した直後に行われた共同通信の世論調査(東京新聞8月3日)では、jcp支持率は前回(7月11日)の3.8%から2.9%へと0.9%下げている。他紙を見ると日経新聞が3%から4%へと上昇となっているが、これは小数点以下が切り捨てとなっているので実勢の上昇がどのくらいか不明である。毎日新聞(8月3日)では3%で変わらずであるが、ここも小数点以下が切り捨てられている。読売では3.5%(8月3日)となっており7月の調査が2.3%であるから1.2%の上昇となっている。
 これらの世論調査をまとめてみれば、ガソリン暫定税率や後期高齢者医療制度が国民意識に登ってきた春先以降、jcpは若干の上昇傾向(0.5~1%)を示していたが、その傾向が続いているとはいえ、7月11日の6中総以後の世論調査で共同通信に見られるように明確な下落となる調査結果が出てきたことは注意しなければならないだろう。
 jcp指導部の気にいらぬ政権交代については、共同通信の調査では『民主党中心の政権』が45.3%から48.2%へと増えており、『自民党中心の政権』34.8%に大きく差をつけてきている。昨年の参議院選以後、この1年の政治の動きを見て政権交代派は確信を強めており、またその勢力を増してきているのである。この流れは時間の経過とともに強く広くなってきているのであって、容易なことでは逆転へとは旋回しないであろう。jcp指導部はその骨がらみのセクト主義の故に見えるものも見えなくなっている。いや、これまでの検討からすれば見えているのだが、手で目をふさいで気に入らぬ現実が消えてなくなることを東照宮に神頼みしているのであろう。>

60、「正義と道理」には責任が伴う
 政治思想史から見れば、左翼政治における「正義」がどれだけの政治的大災害を引き起こしたかは、スターリン政治体制における大虐殺や中国の文化大革命、カンボジアのポルポト政権による大虐殺、東欧諸国における秘密警察支配等を引くまでもなく、総じて社会主義世界体制の崩壊に帰結する事態を見れば明らかなのだが、それらの世界史的経験を踏まえれば、志位の唱える「正義と道理」は、あまりにも”あっけらかん”とした楽天性が丸出しであり、思想性の欠如がおびただしい。
 それらはいずれもマルクス主義に源流をおく政党の犯した政治犯罪であることを考えれば、他党の不祥事で我関せずで済むはずがあるまい。中国やソ連の党と長く喧嘩をしてきたと言っても、その喧嘩の原因は解決され和解した経過があり、また、jcp創立以来、コミンテルンやコミンフォルム、ソ連や中国の党から指導を受け、相互に同志と言い合ってきた歴史を見れば、知らぬ存ぜぬで済まないのが世間の常識というものであり、政治思想史としては自らの問題として設定する義務があるのである。こうした世界政治史の経験を踏まえれば、jcp指導部は「正義と道理」を振り回すことに慎重でなければならないだろう。
 もっとも、自党の政治的実践の結果にさえ責任を負わないjcp指導部では”あっけらかん”も当然と国民は納得すべきなのであろうか? そうではあるまい。都合の悪いことは、喧嘩をしていたので縁が切れて無関係という屁理屈や政治方針に誤りがなければ選挙で敗北しても指導部に責任はないという迷論を編み出す一方、何かあれば水戸黄門の”印籠”よろしく「正義と道理」は我にあり、と来るのだから、国民の多くは肩をすくめるしか手がない気分になるのである。
 8月4日の毎日新聞には、「不破のマルクスざんまい」なるインタビュー記事が載っているが、今の日本の政治を見て一番感じることは? という問いへの不破の回答がふるっている。「無責任性ですね。」 さすがに記事を書いた『専門編集委員』にも感じるところがあったのだろう。「不破のマルクスざんまい」という表題には皮肉がこもっている。
 マルクスやレーニンを読んでも、どこにも”自慢たらたら”という印象は受けないのだが、どうして志位らjcp指導部の主張は我を忘れて自慢が”たらたら”とついてまわる印象になるのであろうか?

61、志位の言う「先見性」の三題噺
 しかも、「未来に生きる」証拠が、労働者派遣法や後期高齢者医療制度の欠陥についての先見性だというのであるから、ずいぶんと先見性の程度が落ちたものではないか。この程度の問題への先見性を「日本共産党が勇気を持って掲げた旗」だと言うのもずいぶんと誇大な表現で、民主主義の時代にそれほど力みかえる必要はないであろう。
 政府によるあれこれの個別法案についての欠陥を指摘することはさして難しいことではなく、先見性と誇るほどのことでもない。先見性と言うのであれば、その言葉に相応しくもっと根本的な、その思想の先見性を語るべきであり、戦後の冷戦体制をどうみてきたか、かつての社会主義世界体制をどうみてきたか、戦後世界の最大の問題である核兵器の出現をどうみたか、旧ソ連の核兵器を「きれいな核兵器」と見た先見性はどうであったかなどが問われるであろう。jcpの「科学的社会主義」の先見性やその科学性の程度が問われたこれらの世界史的大問題ではいずれも失敗し、その誤りの反省すらまともに行われていないではないか。
 帝国主義の盟主と言うべきブッシュの親父(当時の大統領)の冷戦勝利宣言とjcpのソ連崩壊万歳論の比較も愚にもつかぬ比較論というしかない。様々な口実を設けて戦争を追い求める帝国主義者の世界観よりjcpの見通しの方がましだったというのは当然のことで、自慢の種にもならなければjcpの政治路線の正しさの証明にもならないだろう。
 どういうわけかまた、jcp指導部は不破にしても志位にしてもラテンアメリカ諸国の脱米民主主義・社会改革運動の動きをはじめとして世界の民主主義運動の発展を自党の先見性の証明のようにとりあげるのであるが、世界中で民主主義の社会運動や対米独立運動が進んでいることがどうしてjcpの先見性の証明になるのであろうか? 
 世界における民主主義の発展はjcp指導部が指摘するまでもなく、その指摘以前から、それこそ19世紀から各国で執拗に進んできているのであって、今日では世界各国のリーダーたちが誰しも口にしていることなのである。アル中から神の啓示に導かれて覚醒したかのジョージ・ワシントン・ブッシュ(息子)でさえ中東の民主化というほどである。
 ブッシュや愚昧な従米主義者の政治観と比較したり、世界の民主主義の発展を指摘してjcpの先見性を誇示しても空疎な自慢話にしかならないことが志位にはわからないようだ。マルクスらはブルジョア世界の最良のものを素材に自分らの見解を対置したものであるが、志位らはブルジョア世界の最悪のものを素材にjcpの見解の自慢話をする。

62、「生産手段の社会化」論はどこへ行った?
 その新綱領に関わって日本の将来像について言えば、志位の主張は「資本主義の枠内での改革」、「ルールある経済社会」のみであって、「生産手段の社会化」論を一切持ち出せないでいる。世界の貧困・飢餓、地球環境の温暖化等、資本主義の限界論を持ち出している場所でこの情けない有様である。
 市場経済を前提にして「生産者が主役の生産手段の社会化」とは一体どのようなものなのか、言い出しっぺの不破をはじめとして誰もjcpでは説明できないではないか。市場経済を前提にすれば、商品生産が予定され、当然、価値法則が貫徹する経済であり、競争場裡にある生産の個別主体はどうなるのか、現状の企業形態とは何がどう異なり生産手段の社会化(社会的所有)にどう接近してゆくのか等々、100年先の話ではなく、新興国の勃興にも促迫されて進む自然破壊のスピードからしても資本主義的企業形態のモデル・チェンジが現実の問題になってきているのである。資本主義の限界を言い、マルクス・エンゲルスが「自然による復讐」を予見していたと唱えながら「生産手段の社会化」というjcp綱領のキーワードを説明できず、社会主義になれば解決するというような”あっけらかん”とした議論ではもう半世紀遅れと見なければならない。
 社会主義国80年の経験からしても、綱領の「未来社会」についての主張は具体性を備えなければ話にならない時代になっているのである。志位自体がドイツ連邦議会の環境問題副委員長の話として「利潤第一の考え方では温暖化はとめられない。社会システムの根本的改革が必要だ」と紹介しているではないか。この話が志位らの主張と合致すると誇るのではなく、彼らがすでにそこまできて具体策を模索しているときに志位らが何の具体的ビジョンもなく「ルールある経済社会」としか言えないことの立ち後れを自覚すべきなのである。
 社会主義諸国が崩壊した今日、当時言われた「生産手段の社会化」ということを抽象的に繰り返すだけのjcpの「生産者が主役の生産手段の社会化」なるものを、隠さず、国民にわかるように説明してみたまえ。説得的に説明するには具体性、具体例が必要なことがわかるであろう。「青写真は描かない」と無能な不破が逃げ回る言辞を指導部が念仏よろしく唱えているだけでは綱領の『未来社会論」はいつまでも観念世界の夢物語のままである。

63、jcpに国家財政の再建策はあるのか?
 そしてまた、国と地方で1000兆円に上る公的債務をどうするのか? 単純計算で年5兆円の利払いと15兆円の元本返済を予定しても半世紀もかかるほどの問題を大企業の増税と軍事費の削減、公共事業の削減というだけで解決できるはずがないではないか。防衛省予算を全額削っても5兆円にしかすぎず、その過半が人件費であるから半額を削るのさえ容易ではない。自衛隊を解散するにしても30万人の隊員の雇用はどうするのか、公共事業の削減を大幅に進めれば土木・建設事業が大きく削減され、とりわけ地方の景気悪化に拍車をかけることになるし、そこにたずさわる数十万人の雇用をどうするのか? しかも他方では社会福祉は充実しなければならないのである。
 税収50兆円で80兆円の予算規模になっている現状で、元本返済どころか”霞ヶ関埋蔵金”(特別会計)からの繰り入れがなければ30兆円からの赤字であり、プライマリーバランスをとることさえ至難な現状にどういう処方箋をjcpは用意するのか? 法人税を10年前のものに戻してもjcpの計算でさえ4兆円しか増収にならない。
 個々の社会保障政策だけを個別に見れば、財源のやりくりで不足分の帳尻をつけることは可能であるが、総体としての財政事情の中で、財政赤字の削減を進めながら社会福祉制度を充実させるプランがjcpの政策のどこにあるのか?
 30年前は『日本経済への提言』なる文書を用意したが、今日では経済・財政事情はまったく異なっている。「綱領と国民の認識が接近・合流」する「必然性」にあると豪語する政党なら、遠い将来ではない目先の現実である国家財政事情の処方箋程度は持っていなければならないが、それはどこにあるのか? jcpが政権につけば、すぐにでも始動しなければならない処方箋であるが、全く用意されていないではないか。
   このようにjcpの指導部自体がおのれの政権の現実性を爪の先ほども信じてはいないのである。騒いでいるのは目先の票になりそうな後期高齢者医療制度などであって、その政策の実現さえ政権交代論を否定してまともに実現する姿勢がないことを暴露している。jcpから言わせればクズのような自民党は、それでも財政再建優先派と『上げ潮』派(景気浮揚優先派)に分かれて論争を繰り返しているのであるから、その内容は別として多少ともjcp指導部より責任感はあると言わねばならない。
 我々が「未来に生きる」ためには、こうしたマクロ経済・財政の青写真とそこへの政治プロセスの具体論と合わせて、日々の庶民生活の改善政策が求められているのであって、労働者派遣法や後期高齢者医療制度の欠陥の指摘程度で、後は資本主義の限界だ、多喜二の『蟹工船』がベストセラーだとjcp流の先見性を誇り、これまた”あっけらかん”とjcp指導部の「正義と道理」が証明されたと言われても、党外の国民には”井の中の蛙”の主張にしか聞こえないのである。

64、東京株式市場は投機の鉄火場だという志位の珍論
 蛙(かわず)のことに触れたので、ついでのことながらもう一匹の蛙について言及しておこう。志位は投機マネーの暴走について語っているが、その際、「実は、私はいまだに株というものを見たことがありません(爆笑)。」と言っている。爆笑する内輪の独特な雰囲気は論評外にするとしても、政権をめざす政党の指導者が株式の知識をまるで持ち合わせていないことは自慢の種ではなく、政党指導者の欠陥であるということである。なぜなら、株式こそマネー同様に今日の企業活動ならびに金融資本の活動に重要な役割を果たすものとなっているからである。お望みなら、”原理的なところ”から考えるとして、マルクスがその重要性を指摘した文章をあげてみよう(注32)。
 そもそもが、株式の知識がまるでなく、その知識欠如を自慢するような感覚で世界と日本の金融資本の動向を云々することができるであろうか? jcp指導部好みの教条的な議論になるか、見当違いの主張が飛び出してくることになるのである。たとえば志位はこう言っている。

「日本の株式市場も、短期的な利益だけを追い求める投機マネーによって支配されているということです。」 あるいは、「東京証券取引所の毎日の取引の6割は、アメリカを中心とする外国資本であり、外資が支配する投機市場になっているといわれます。」 

 誰から聞いてきたのか伝聞表現になっているが、聞き取る基礎的な知識がなければ聞いたことも十全な広がりで理解することができないものである。これではまるで東京証券取引所が6割のシェアを占める外資に支配される「投機市場」になっていることになり、市場関係者が聞けば珍論ということになろう。
 東証の一部の銘柄で投機的な株の売買は行われているが、東証が丸ごと投機市場であるなら、正常な株価の形成は行われていないことになるが、日経平均株価は暴騰どころか長く低迷を余儀なくされているというのが実情である。
 日経平均13000円はほぼ3年前の水準であり、投機どころか投資家の参入が減少しており世界市場に占める売買シェアも下がりっぱなしであり、売買代金では中国市場に抜かれる日もあるという有様なのである。東証の活況の目安は一日の売買代金3兆円と言われるが、現状は2兆円程度であり、日本の大手証券会社にしろ、東証の社長にしろ、オイル・マネーなど海外資金を誘導するべく海外営業にでかけるほどの状態なのである。
 外資の売買シェアが6割というのも、外資が投機マネーを激増させているからではなく、個人投資家のシェアがライブドア・ショック以来、大きく減少してきていることとの相関であり、減少前は、外資シェアと個人のシェアはほぼ等しく、外資のシェアも4割程度だったのである。
 これらの事実は言わば常識というほどのものであって、多少調べる気があれば簡単にわかることである。ヤフー・ファイナンスなどのサイトでも概観は一瞥できる。とてもじゃないが、現状の日本の株式市場は「投機市場」と言える状態ではない。
 外資に対する”偏見”もあるようだ。ソニーは発行株数の過半数は外資に握られており、トップも外人であるが、それでも外資に支配されているわけではないし投機の対象になっているわけでもない。日本の優良輸出大企業の多くは外資に株の過半数を握られているが外資の会社というわけではない。
 中国の目を見張る経済発展はそれこそ外資導入の直接の産物ではないか。また、アメリカでさえ既発国債の過半数が外資に所有されている。どの国であれ、外資の導入には熱心であり、それというのも投資があってこそ経済が活性化するからである。

<(注32)、「Ⅲ、株式会社の形成。これによって─ (一)生産の規模の巨大な拡張、そして個別的諸資本にとって不可能であった諸企業〔の出現〕。同時に、従来は政府企業であったこのような諸企業が会社企業となる。(二)それ自身社会的生産様式に立脚して生産諸手段および労働諸力の社会的集積を前提とする資本が、ここでは直接に、私的資本に対立する社会資本(直接に結合〔assoziiert連合と訳すべき-原〕した諸個人の資本)の形態をとるのであり、このような資本の諸企業は、私的諸企業に対立する社会的諸企業として登場する。それは、資本主義的生産様式そのものの限界内での、私的所有としての資本の止揚である。」(『資本論』第三巻第五編第二七章。社会科学研究所版第10分冊756ページ、新日本出版)
 マルクスのメモをエンゲルスが編集したものだから、少しわかりにくいのであるが、簡単に言えば、オーナー企業ではない諸資本の集積した大企業、すなわち株式会社は「資本主義的生産様式そのものの限界内での、私的所有としての資本の止揚である」と言っているのであって、この指摘はそのまま市場経済を前提とする「生産手段の社会化」なるものがどのような細胞形態をとるかを示唆しているのであって、志位のように「株」も見たことがないと自慢してられる場合ではないのである。jcpのいう「未来社会論」では諸事業の形態としては株式会社が主流になるかもしれないのに、株式も知らなければ株式市場も知らずして、どうして将来の日本経済を世界に伍してコントロールしていけるであろうか。
 先入観と教条だけで投機マネーを語る姿勢では”井の中の蛙”丸出しになっていることを知るべきである。>

65、アデランスの社長に同情する志位のトンマぶり
 志位のように外資=投機マネーというような先入観は物事の一面しかみずに、その教義に従ってその一面を本質と早合点することからうまれてくるのである。ろくな調査も研究もせずに、こうした先入観と教条に凝り固まった連中に日本経済の運営をまかせたらどうなるか、それこそ火を見るより明らかではあるまいか。
 投機マネーの一例に志位は特定の投資ファンドを取り上げているが、その主張も一面的で見当はずれなものである。投資ファンド=投機マネー=ハゲタカ・ファンドというような論旨でスチィール・パートナーズがブルドックとアデランスに投資した事例をあげ、「目的はただひとつ」、企業買収による企業資産の切り売りで儲けようとしたと非難している。
 しかし、こうした投資ファンドは単なるハゲタカというわけにはいかないのであって、企業の有休資産の発掘、活用法を開発して活性化、効率化させる社会的役割や、買収による企業の分割、他社との合併を通ずる企業の大型化(生産の集積)などの役割を持っているのであって、一面では経済全体の活性化や規模の拡大・独占の形成(レーニンはそれを生産の社会化の巨大な前進と言った)の役割をも担っているのである。今日では無駄な資本の節約による資源の浪費を節約するという新しい役割も生まれているのである。
 大きな例で言えば、金融ビッグバンを起動力としたイギリスのここ20年の経済成長をあげることができよう。平均株価は1985年の1000ポイント弱から2000年の6000ポイント越えまで6倍化を達成し、現在でも5300ポイントの水準にあり、その上昇率からすれば日本の株バブル(1986~1989年の3倍化)どころの比ではないのである。『ウィンブルドン効果』という言葉が有名であるが、老朽化したイギリス経済を活性化したことは否定できないのである。だから、単純に投資ファンドの最大の犠牲者は「労働者だということです」と具体的な研究もなしに志位のようには言えないのである。資本が生み出した新しい機能はどこまでも二面的である。
 アデランスの場合で言えば、経営不振で社長の首が飛んだのは、株主総会で他の株主の多数が賛成したからであり、志位の言うように「退任に追い込まれた社長さんの悔しそうな顔」などと同情していたら株主に嗤われるだろう。実際、社長再任否決が決まると株価は2割も暴騰したことからもわかるように、経営陣刷新は市場にも評価されたのである。
 アデランスの商法について見ると、高額カツラの売りつけで消費者から多くのクレームが出ており、ネット時代に不評が口コミで広まり、結果として経営不振に陥って株価も長期下落に追い込まれている。スティールは一株3000円近くで買い集めた株1100万株(シェア27%ほど)が1800円前後に下落し100億円からの含み損を抱えていると言われており、経営の立て直しを成功させ、株価を上げなければ投資資金を回収できない状況にあり、志位の言うように買収、資産の売却、切り売りで濡れ手に粟で食い逃げするという有利な条件はないのである。
 こうした事情も調べないで、投資ファンド=投機マネー=ハゲタカという教条で判断するから、志位にかかれば、経営不振で評判の悪い社長でも投資ファンドの提案で首になれば同情に値するものになってしまうのである。そのうちに解任されたアデランスの社長から志位に感謝状が贈られて来るであろう。

66、”井の中の蛙”の議論
 今回は前々から予定していた原稿を掲載する予定であったが、志位の記念講演についての論評が長くなってしまった。無視できない欠陥が広範に露呈していたからである。その講演の視野は、おそろしく狭いもので”井の中の蛙”の議論と特徴づけるほかないものである。
 jcpの「正義と道理」が労働者派遣法の欠陥の指摘程度で未来に生きる証明になったり、その「未来社会論」では「ルールある経済社会」のみで綱領のキーワードとも言うべき「生産手段の社会化」を一切語ることができないでいる。後期高齢者医療制度の欠陥を指摘することでは勇ましいが、社会福祉制度全体を圧迫する元凶とも言うべき膨大な公的債務の解消の処方箋などはさらさら眼中にない。
 外資は投機マネーというような”偏見”丸出しで、サブプライムローンの破綻に端を発する米国発の金融危機も、原油先物価格に代表される商品価格の高騰も、一切があげて単純に投機マネーの仕業に還元されている。21世紀の新しい問題という側面が切り捨てられて、資本の本性から発するマネー投機=資本主義の限界という言い古された一般論に解消されている。
 EUの新通貨の台頭、ドル・金の兌換停止という1971年のニクソン・ショック以来、世界に過剰に散布されたドル紙幣への需要の減少とドルの減価=基軸通貨の動揺と物価騰貴(原油高、インフレ)という側面や、中国やインドという、合わせて25億人にもなる国が外資とIT革命と低賃金労働力の結合で爆発的な経済発展を遂げつつあって天然資源や穀物・食料を膨大に消費している需要増大の側面はまるで忘れられている。投機マネーを規制しさえすれば、商品騰貴がおさまり、問題の大半が片づくというような単純な世界経済情勢ではないのである。
 東京証券取引所があげて投機マネーの鉄火場とされたり、個別投資ファンドの提案が株主多数と市場に評価されているにもかかわらず、ハゲタカの犠牲者だとばかりに首にされた不評の社長に同情を寄せたりという具合なのである。
 マルクスもレーニンも、労働者階級には最良のものを提供しなければならないと述べていたと記憶するが、志位の講演は、我田引水に都合よく加工された事例を引く自画自賛か、調査と研究の裏付けのない受け売りの鉄火場、投機マネーの教条論だけである。一つ一つが”自慢たらたら”の教条的な小話を使い古された型に張り込んだモザイク画なのである。

67、jcp指導部集団と専門家からの孤立
 ここでは自画自賛の病気は置いておくとして、志位の教条的な投機マネー論から見えてくるjcp指導部の姿を記述しておこう。委員長の志位の講演であっても、その論旨程度は常任幹部会あたりで報告され内容の検討がおおまかにでも行われたと思うのであるが、単純な投機マネー論やアデランスの顛末さえノーチェックであったところを見ると常任幹部会の頭脳にバラエティがなく似た者同士で志位の講演をチェックできていないことがわかるのである。
 また、そうしたバラエティ欠如の集団であることは志位らが先刻承知であるはずなのだから、しかるべき党員専門家集団を招集してチェックすべきであったが、そうした専門家集団を招集することさえできないだけでなく、専門家の協力を得ることもできないでいるということである。
 党指導部全体が似た者同士の”井の中の蛙”の集団となっているのである。閉鎖的で同じような顔ぶれが党務に追われ、長年同じ会議に出て、宮本や不破の鶴の一声で決まる会議をやっていたのでは、そうなる道理なのである。
 しからば、志位が直々に調べれば良いではないかと思うのだが、そこはこの指導部の独特の思考方法が邪魔をするのである。すなわち、あらゆる現象を一般論に還元すればそれで説明がついたと錯覚する思考方法である。それがスティールという特定の投資ファンドの、これまた特定の企業であるアデランスという会社への提案さえ、調査もせずにハゲタカ提案として首になった社長に同情する馬鹿さ加減となって表出するのである。
 この思考方法はマルクスやレーニンのそれとは根本的に違っており、マルクスらならば資本主義の最新の現象=投資ファンド(ヘッジ・ファンド)をまず徹底的に調査研究することから始めるのである。調査・研究もなく、決して既存の一般論に還元するようなことはしない。というのは、最新の現象にはある新しいものが盛り込まれているかもしれず、それが資本の新しい歴史的役割を担い、新世界へのテコとなる要素をはらんでいるかもしれないからであり、また、調査、研究してみないことには一般論に還元できるかどうかわかっていないからである。
 ところが志位らは、わからないものでも投資=搾取というような把握から安易に投資ファンド=ハゲタカ資本と簡単に強欲な資本に還元していってしまうのである。
 ”井の中の蛙”集団(サークルだ)で、知的バラエティ欠如、専門家集団欠如、これでは『日本経済への提言』に代わる包括的な経済・財政政策を提起することもできないわけである。70年代と比べて、jcp指導部の知的結集体としての能力は格段に落ちていると言わなければなるまい。
 jcpに親和的であった専門家たちがjcp離れを起こしているのであるが、その責任はひとえに不破らjcp指導部にあり、ここ四半世紀の不破らの振る舞いがjcp離れの原因であるとみるほかないのである。
 日本経済新聞のインタビュー記事『人間発見』(8月7日)に昭和史家の半藤一利が登場して漱石の『三四郎』に出てくる広田先生の言葉を引用している。

「日本人は調子よく上ずっているけれど、何ひとつ自分で作っていない。全部借り物だ。これでは国家の将来はないんだ」

 ここにいう「日本人」をjcp指導部に、「国家」をjcpと言い換えれば、今の指導部とjcpの姿を適確に表現したものになる。     志位の講演のどこにオリジナリティがあるか? どこにリアリティを感じることができるであろうか? (つづく)