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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

日本共産党のアメリカ帝国主義への屈伏

2008/12/26 trockij

かつて「アメリカ帝国主義との闘争」を叫んでいた日本共産党は、1990年から1991年にかけての湾岸戦 争で根本的に転向した。

歴史を簡単に見てみよう。

16世紀頃より現クウェート領域はオスマン帝国の支配下にあり、統治拠点はバスラ(現イラク)にあっ た。19世紀に入ると、オスマン帝国は支配を強化するために、この地に軍事介入を繰り返し、その結果 1871年、オスマン帝国宗主権を認める形で現クウェート領域はバスラ州の一部となった。

しかし、1913年には衰退するオスマン帝国とイギリス間で協定が結ばれ、1914年には現クウェート領域 はイギリスの自治保護領となった。第一次世界大戦においてはオスマンは敗北し、現クウェート領域は 完全にイギリスの影響下におかれるようになった。これが帝国主義的進出であることは論を待たない。

1932年に独立したイラクは、現クウェート領域の領有権をたびたび主張した。

1961年、イギリスは現クウェート領域を傀儡国家として「独立」させた。これに反発するイラクとの対 立は深まり、イギリスはクウェート防衛の軍隊を出動させた。バスラ州の一部であった現クウェート領 域がイラクに所属すべきことは論を待たない。

その後も、イラク政府はたびたびクウェートの領有権を主張した。アラブ・ナショナリズムの高揚もこ れを後押しした。

イラクによるクウェートの併合は、単に正当であるだけでなく必要でもあった。クウェートは典型的な 石油寄生国家で、無権利の外国人とパレスチナ難民(人口の6割)を働かせて国民(人口の4割)が豪華 な生活を送っていた。このような国家では社会変革は不可能であるから、イラクに併合され、外国人労 働者とパレスチナ難民に正当な権利が与えられなければならなかったのである。ヨルダンとパレスチナ 解放機構がイラクを支持したのは当然であった。

日本共産党は、これらの事情を全く考慮せず、「国家主権」だの「民族自決権」だのを言いはやしてイ ラクの正当な行為を非難した。「国家主権」は共産主義者の用語ではない。さらに、民族でもなく、住 民の多数派ですらないクウェート人に「民族自決権」などあるはずもない。

日本共産党は、イラク人民を飢えさせる「経済制裁」を支持し、その「徹底」を叫んだ。そのことで日 本共産党はイラク人民に対して大罪を犯した。さらには、1991年1月17日に米帝を中心とする多国籍軍が イラク攻撃を開始したとき、これを帝国主義戦争とも呼ばず、「経済制裁をもっと徹底すべきだった」 等と述べ、帝国主義戦争に根本的には反対しない立場を明らかにしたのである。

翌年、日本共産党はいっそうの右転落を満天下にさらした。1992年12月に行われた米帝を中心とする多 国籍軍のソマリア侵略に対して、「中央政府が機能していないから」などという理由でこれを公然と支 持し(「民族自決権」はどこへ行ったのだろう!)、宮顕自身が「赤旗新春インタビュー」でこれを正 当化したのである。それだけではない。日本共産党は、国会でソマリア侵略の多国籍軍に対する財政支 出に賛成投票したのだ!このことは、日本共産党の党史では抹殺され、ソマリア侵略の米帝軍が激しい 抵抗にあい、結局撤退したのに、このことに関して党としての態度表明すらできない事態に追い込まれ ている。

このことをもって、日本共産党が最後的に世界の帝国主義軍事支配の側に移行したとみるべきであろう 。日本共産党は「帝国主義の手先」である。『さざ波通信』編集部はなぜかこれに触れないが、日本共 産党の変質は『さざ波通信』編集部が大騒ぎするよりずっと前から起こっていたのである。