(一)
なぜ実践的唯物論者の芝田進午氏が、「人類生存の哲学を求めて」という副題にこだわったか。 遺著となった『実践的唯物論への道 人類生存の哲学を求めて』(2001年9月青木書店) の目次からそのことを探りたい。
五章から成る。
Ⅰ 「実践的唯物論」への助走
Ⅱ 「実践的唯物論」の形成と展開
Ⅲ 「実践的唯物論」による実践と理論的探究 一
Ⅳ 「実践的唯物論」による実践と理論的探究 二
Ⅴ 核時代・バイオ時代における「実践的唯物論」の課題
五章が重要である。第五章は、次の三節から成る。
19 核時代の危険と「実践的唯物論」の新しい形態の追究
20 バイオ時代の危険と「実践的唯物論」の新しい形態の追究
21 「人類生存のための哲学」の提唱
とくに21の節が大切である。ここの七つの見出しを次に掲げる。
・百科全書の思想
・自身の「人間性と人格の形成」
・研究組織での経験について
・唯物論研究会の現状と課題
・学会組織とのかかわり
・闘争が趣味
・海外での出版
・時代認識の転機
しだいに胆管がんのために衰弱していく体力のなかで気力をふりしぼって、芝田氏は、対談者 として聞き手として大切な芝田氏の言葉の産婆役を務めた三階徹・平田哲男・平川俊彦の三氏 と真剣に対話を進めている。
(二)
Ⅴ 核時代・バイオ時代における「実践的唯物論」の課題
五章が重要である。第五章は、次の三節から成る。
19 核時代の危険と「実践的唯物論」の新しい形態の追究
20 バイオ時代の危険と「実践的唯物論」の新しい形態の追究
21 「人類生存のための哲学」の提唱
とくに21の節が大切である。ここの七つの見出しを次に掲げる。
・百科全書の思想
・自身の「人間性と人格の形成」
・研究組織での経験について
・唯物論研究会の現状と課題
・学会組織とのかかわり
・闘争が趣味
・海外での出版
・時代認識の転機
広島大学に招かれて1976年に勤務しはじめた芝田氏は、原爆の実相と後遺症の研究に触れ、核時代の研究に入っていった。従来の史的唯物論にない「ヒバクシャの時代」「核時代」の提唱の必要性に駆らた。
さらに、歴史論から人間論へと入っていった。
「核の火」の出現というものがもつ生産力=破壊力に照応した社会関係が求められる時代になっていると認識した。芝田氏は、マルクスの理論は、「核時代」という新しい現実に照応して修正を余儀なくされているという。
「ヒバクシャ」という新しい人間論を提起した。
第一 広島・長崎の「被爆者」。
第二 チェルノブイリを典型に新たに核の犠牲となった「被曝者」
第三 地球人全員が「ヒバクシャ」。この概念は社会科学に従来なかったもので、体制や階級とかには関係ない。
さらに新しい思考の必要を説く芝田氏は、核時代の到来とともにアインシュタインの「ラッセル=アインシュタイン宣言の意義」を重視している。そして、新しい思考が必要になっていると説くギュンター・アンダースをあげ、さらにサルトルやサマヴィル、日本人では湯川秀樹を紹介している。
芝田氏は、わが国の憲法が核時代を先取りした思想であることを強調する。アインシュタインが核時代には新しい考え方が必要であると説いたことに賛同している。核時代において軍備をもち、戦争を始めることは、自らを滅ぼす自殺行為であるということが、憲法前文と第九条の思想である。芝田氏は日本国憲法の思想を国際的に広めていくことが、日本のマルクス主義者の任務であるという。
アインシュタインの思想に賛同する中から芝田氏は「核時代の新しい哲学」(『核時代Ⅰ』所収)を書き、「新しい生命の哲学」を提唱した。時代を超越した金科玉条的な体系や叙述形式、表現形態などがあるわけではない。核時代におけるマルクス主義は、どういうものであるかが大問題となる。
こうして芝田氏は、自然史を前提としたうえで、人間の現実の生命の生産と再生産を基礎とすべきとする。物質と認識がどちらが先かといったことを最重視する従来のソ連型「唯物論」は、今や有害であると批判する。人間においてもっとも根源的な「生命」と「生活」から出発すべきである。そこから出発する哲学を展開するならば、より多くの人びとに核時代という時代認識を広め、核兵器を廃絶するための運動を組織するうえで大きな役割を果たしうる。
こう述べた芝田氏は、「核時代の新しい哲学」という体系性をもったものを書き上げたいという意欲を持ち続けていた。
(三)
芝田氏は、帝国主義的国際秩序を「旧国際秩序」、核時代のそれを「ジェノサイド的秩序」と呼んだ(『核時代Ⅰ思想と展望』)。これに対して民衆が作り上げるべき「新しい国際秩序」とは、あらゆる形態のジェノサイド(民族皆殺し)を廃絶してゆく秩序をさす。芝田氏は、そこで民族自決権のなかにある戦争発動権の制限を提起した。注目すべきは、日本国憲法の《一方的不戦宣言》《一方的軍備撤廃宣言》は、核時代における国家主権の在り方を示す先駆的なものであると位置づけている。芝田氏の考察は、アインシュタインの世界政府論へと及び、ユートピア的な側面やコスモポリタニズムと言われる要素には注意を払いつつ、世界政府と関連して、国連が国家主権と民族自決権の前提の 上にあり超越的なものではないけれど、国連のイニシアティブのもとで、一切のジェノサイドを禁止する条約、一切の侵略行為を禁止する条約が結ばれるならば、国際秩序に新しい風穴をあけられることになることを期待している。
芝田氏は、被爆者の「罪意識」についてアメリカの精神医学者R・J・リフトンの『死の中の生命―ヒロシマの生存者』原題Death in Lifeと、被爆者問題で重要な研究を続けている石田忠氏の『原爆体験の思想化』『原爆被害者援護法』の著作を紹介している。限界状況における行動の理論的解明に今まで未着手であることを課題視している。
それに加えて、社会運動が科学になるためには、どういう時に社会運動は発展し,失敗するときはどういうときなのかその条件性について、究める必要を指摘している。
芝田氏は、広島大学に勤めるようになり、「反核文化」について考察し顕彰する。小説、詩、映画、音楽など多彩な分野に及ぶ。そして東京と広島で十年間、広島ではその後も独自に「ノーモア・ヒロシマ・コンサート」を開催・運営した。
なお、このコンサートは、芝田氏逝去後も夫人の芝田貞子氏を主催者として「平和のためのコンサート」としてなんと今年2013年で14回目に及ぶことは特筆されるべきである。美術でも丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」を高く評価し、海外でもドラクロア、ゴヤ、ドーミエ、ピカソの「ゲルニカ」をあげている。悲惨なもの、残虐なものを題材としながらも、いかにして美的鑑賞に堪えるものにしていくか。その課題に丸木夫妻の「原爆の図」を公正に高く評価している。また彫刻家北一明は陶彫で被爆者デスマスクの作品を国際的な水準で創作している。北氏は、芝田氏が法政大学で教えていた時のゼミの教え子であった。
(四)
芝田進午氏が、厖大な社会科学と哲学の研究成果を残し、新たに取り組もうとする研究課題も完成することなく、国立予防衛生研究所=後に改称・国立感染症研究所の実験差し止め裁判に取り組み続けていったのはなぜか?
予研=感染研に芝田氏は三つの問題を発見した。
①予研=感染研は、新宿区戸山町という住宅密集地や早稲田大学など大学や公的施設が林立している。そのような場所で、ウィルスや細菌などの研究や遺伝子組み換え実験を行っているにもかかわらず、外部流出はほぼ完全に漏洩を阻止できない。ここ近年、今まで国際的にも国内でも、いままで存在しなかった最近やウィルスが人命に危険をもたらしている。戦後も、アメリカなどの国家で生化学細菌がベトナムや中東でばらまかれ、そのために人命を失ったり、ベトナム戦争中の被害で奇形児として生まれたベトちゃんドクちゃんのような事例が中東地域での戦争でも発生している。
②予研=感染研は、日中戦争時に旧満州地域で生体実験などを行って大きな医学者の倫理が問われた石井七三一細菌部隊が、敗戦によって国際世論に広まる直前にアメリカ占領軍との取引によって誕生した研究所である。石井部隊の研究成果をすべてアメリカ軍に引き渡すことで、部隊の存在を隠蔽して戦争犯罪に問わないことになった。一般的には、インフルエンザの大流行や風疹流行時など必ずマスコミは、権威ある研究機関として国立感染症研究所の見解を紹介する。だが、広島に原爆が投下された時にアメリカはABCCを派遣した。このABCCは原爆被爆者を「治療」しなかった。おこなったのは「観察」である。原爆投下でどの ような症状が被害者にあらわれるのかを忠実に記し、変化を観察し厖大なデータをまとめるものだった。予研が設立されたのは、1947年5月21日。わずか13日後に、予研に対してABCCに協力してもらいたいという申し入れがあった。
③予研=感染研闘争に取り組むことで、芝田氏らは、バイオ時代の人権論、環境論を提起し、同時に重要なことは日本の公害論、公害裁判の歴史においても新しい課題を提起した。これまでの公害論では、すでに被害が起こってしまっているところで、いかに被害を補償させるか、因果性を証明するかに力点が置かれていた。しかし、芝田氏らは「予防は治療にまさる」として、公害への基本的な対応は、予防は治療と保障にまさることを提起した。その法規をどう確立するか。
予研闘争は、そのための新しい問題提起となった。我が国に「安全性の科学」そのものが確立されていなかったと芝田氏は述べる。芝田氏のご逝去後に起きた福島原発事故は、その様子をまざまざと国内はおろか世界中に見せつける 結果となった。二年たった今でも、原発事故は終息していないのに、責任のなすりつけや無視やうわべだけの方便などが政治家や東電、当該委員会などの通例となっている。
予研=感染研については、もっと多くの問題点が散在している。詳しくは芝田氏の著作やバイオハザード研究センターなど芝田氏と共闘し、後を継いだ研究団体の出版物をお読みいただきたい。
最後に、予研=感染研の内部の日本科学者会議に属する研究者、研究所内にある国公労連の傘下にある厚労省の組合である全厚生などの組合が、芝田氏らの闘争に、きわめて反対し闘争を否定する側にまわったことは、芝田氏の遺著に書かれていることだけに無視しがたい。 予研=感染研と裁判闘争をすることに、やめておいたほうがいいと上記の研究者や組合などの団体が否定の側にまわった。芝田氏は苦汁の末にこう記している。
「労働組合に協力を求めることが困難であるばかりではない。予研に組合がなかったら、われわれは勝利していたかもしれない。なまじあるから困難になっている。これがむずかしい問題です。」(芝田進午著『実践的唯物論への道』青木書店p283参照)。
一方、真摯なクリスチャンである新井秀雄氏(予研主任研究官。自らの信念に従って行動した)のような存在が闘争を貫かれたことに芝田氏は感銘していた。芝田氏は、「人類生存の哲学」を「実践的唯物論」よりも遺著の題名にしたかった。ベトナム戦争反対・実践に芝田氏を立ち向かわせたのは、クェーカー教徒であったアリス=ハーズ夫人であった。実際に闘って、芝田氏は「誰が敵で誰が味方か」(かの猪瀬直樹東京都知事!!)を身にしみて感じていたことだろう。しかし猪瀬氏と芝田氏の違いは、闘争の相手であった予研=感染研の指導部と学者、政府機関と官僚を相手に、裁判所という場で堂々と論戦し、相手を侮辱することではなく、相手を説得する知性と理性にたけていたことである。