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「共産党の理論・政策・歴史」討論欄

不破哲三「新・日本共産党綱領を読む」批判(5)

2013/10/23 石崎徹 60代 定年退職者

15、中国の何が問題か

 見てきたように、中国の現代史は、ある意味日本の歴史をなぞっている。人民 公社解体以後の中国農業は、戦後の土地改革、地主制度の解体、小作人の自作農 化とそれが新たにもたらした問題とを見るかのようである。
 農民の出稼ぎと労働者化とは近代化の一般的過程ではあるが、中国では農民に 都市戸籍を与えないことによって、これを差別し、市民としてのあらゆる権利を 奪っているという深刻な問題がある。
 低賃金を利用した輸出産業によって経済成長する、これはまさに日本の歩んで きた道であるが、外資に占領されて、また非効率で特権的な国有、公営企業に妨 害されて、民族産業が育っていかないという問題がある。
 いま、内陸部に力を入れようとしている。これは田中角栄の列島改造であろう し、また自民党の地方代議士と地方政治家が、ずっと力を入れてきたことであ る。この点では、自民党の支持基盤が一貫して農村部であったこと、農村票なし には議席を得ることができなかったことが、地方経済に幸いしてきたと言えよ う。それはもちろん利権がらみでもあり、深刻な公害も生んだ。共産党の強い都 市部から企業を避難させたいという思惑もあった。農民の働く場は作り出した が、農業そのものは衰退させてしまったという問題もある。
 中国はそれらの問題をすべて含んだ上で、日本よりなお深刻なのは、地方を代 表する権力が存在しないことである。
 中国を中央集権と言ってよいのか、地方割拠と言うべきなのか、複雑な問題な のであるが、中国の地方権力は、その地方に依拠せず、その地方の利益を代表し ないで、その地位はもっぱら中央に依拠しているにもかかわらず、地方でかなり 勝手放題しているのである。
 わかりやすい例を挙げると、日本の古代社会である。大宝律令制定以来、奈 良、平安の時代を通じて、日本の地方政治は国司を通じておこなわれた。国司の 任期は2年から4年、任命されるのは中央貴族であり、これが地方に赴いて政務に 当たり、租税を徴収する。後には日本中の土地が中央貴族と寺社の荘園と化し、 国司の治めるのは国衙領と呼ばれる狭い地域だけになった。中央の政治は政府の 手を離れて、藤原摂関家の家令によっておこなわれるようになり、その費用は貴 族たちの荘園からの上がりに依拠した。国衙領の上がりはもはや国家を支える規 模ではなくなり、国司の個人収入となる。彼らは受領と呼ばれ、その任期中にい かに搾り取るかしか考えない。搾り取った中から中央の有力者に貢ぎ、次の有利 な国司の口にありつこうとする。
 こうして記してみると、この制度は現代中国といかにもそっくりである。政府 が形骸化し、共産党が政治を行っているというところまで、似ているではない か。中国共産党を、平安時代の貴族集団と対比することができよう。
 この支配体制は、藤原純友、平将門の反乱を経て後、源頼朝をかしらに担いだ 関東武士集団の決起によって瓦解するが、それは地方経済の発展を京都の政治体 制が制御できなくなったからである。
 地方は地方が治める、という合理的な歴史の選択がおこなわれたわけである。  この国司=受領のありかたが、現代中国の地方幹部だと思ってよい。中央に任 命されるので、地方の利益を考えない。だが、地方でやりたいようにやる。
 戦国から江戸期にかけての日本の封建時代は、これとはまったく違うことは理 解されよう。江戸時代の大名は、土地の私有権を持っていたわけではない。この 点ヨーロッパの貴族=地主とは趣を異にし、ヨーロッパに根強い私有権の概念は そもそも日本にはなかったのである。大名の領地は徳川からの預かり物で、徳川 の意向次第では取り上げられる。だがしばしばそうなるわけではなく、一応は安 定して同じ土地を支配した。事実上地主である。したがって、いかに搾取すると 言っても、「百姓は生かさぬように、殺さぬように」であり、土地の収益を上げ ていくために、彼らはやはり農地経営者としてそれなりの努力をしている。地方 の繁栄が彼ら自身の繁栄となるのである。
 古代社会になかったのはこのことである。そして現代中国にないのもこれであ る。現代中国は、まるで封建時代から、古代社会へと後戻りしたごとくである。
 先に趙紫陽が四川省で農業改革を行った事例を挙げた。これは例外である。趙 紫陽の個人的資質によるものである。一般に人は自分の利益とならないことをし ようとはしない。個人の善意に期待する政治は成り立たない。自分の利益を自分 で守ることのできる政治体制を作らねば、意味がないのである。
 そのために必要なのは権力の多元性であって、一元的な権力は必ず腐敗する。 三権分立。地方自治。言論、出版、集会、結社の自由。これを法制上確保するこ とはもちろん重要であるが、たんに法が整備されればいいわけではない。それが 侵されない社会の仕組み、社会の力関係が作られねばならない。

16、「中国がどういう方向に向かっている国か。この国の指導部はどういう性格 の指導部か。この国の体制はどんな性格、特徴を持っているか」

問い「この国の指導部はどういう性格の指導部か」
答え「それは中国共産党という特殊利益集団を力の源泉とし、その内部の利益関 係および力関係と、その集団が全体として国民から見放される危険との間で、重 層的なバランスを取っているという性格の指導部である」

問い「この国の体制はどんな性格、特徴を持っているか」
答え「中国共産党の独裁体制という性格を持っており、古代的な支配体制である という特徴を持っている」

問い「中国がどういう方向に向かっている国か」
答え「不明」

最後の問いに対しては、不明としか答えようがない。中国問題は非常に複雑な問 題であり、さまざまな要素が絡み合っているので、いま明確な解答を示し得るの はおそらく不破氏と日本共産党綱領のみであろう。しかし、彼らの解答は根拠な き解答である。
これを書くのに、7冊の中国関連本を読んだ。いま書き終わって、非常に大雑把 にしか書けなかったことを感じている。いちいち原典にあたる時間がなかったの で、引用が不正確になっているところもあるだろう。何名もの学者、研究者、 ジャーナリスト、ルポライターが、膨大な資料を読み込み、また実地に取材して まとめあげたものを、短い文章に要約しきることはできない。また今回読めな かった本も無数と言っていいくらいにある。ぼくの認識がどこまで中国の真実に 迫りえているか、ぼくにも確言できるわけではない。だが、これだけの疑問があ る以上、不破氏と党には、この疑問を解く義務がある。これを解かねば、「二つ の体制論」を説明できないし、日本共産党の求めているのがどのような社会主義 かということも説明できない。中国が「社会主義をめざしている」と認める以 上、この問題に沈黙を守るわけにはいかないはずである。沈黙すれば、いらぬ誤 解も生じようし、それにどれが誤解でどれが正解かさえ分からないのである。

参考文献

「趙紫陽極秘回想録」趙紫陽 光文社 2010年
「現代中国の経済」小島麗逸 岩波新書 1997年
「中国激流」興梠一郎 岩波新書 2005年
「中国問題の内幕」清水美和 ちくま新書 2008年
「中国問題の核心」清水美和 ちくま新書 2009年
「中国に人民元はない」田代秀敏 文春新書 2007年
「北京陳情村」田中奈美 小学館 2009年

17、レーニン「国家と革命」をめぐる問題

 不破氏の本の後のほうは理論問題になっている。ここでは主としてレーニンの 「国家と革命」が批判されている。レーニンの「暴力革命唯一論」と、「社会主義・ 共産主義二段階論」とを批判する中で、後者のテーマでは、エンゲルスの「ゴータ 綱領批判」を引用したりしている。
 ぼくはマルクスもエンゲルスもレーニンもほとんど読んでいないが、さいわい 「国家と革命」は20歳のころに読んだ。40年前であり、その後一度も読み返してな いので、記憶はあいまいである。
 これを読んだとき、正直言ってぼくは感動した。もっとも、マルクスをあまり 読んでないにもかかわらず、マルクスとだいぶ違うなというのはそのときすでに 感じていた。
 マルクスが平和革命を否定しているかのごとく読者をリードしていこうとする 論法はかなり強引で、ぼくは笑ってしまった。でもレーニンを批判しようとは思 わなかった。マルクスとレーニンの立場の違いというものを、ぼくはそのとき はっきり感じた。マルクスがヨーロッパの社会主義運動に何がしかの関係を持っ ていたとしても、基本的にマルクスは理論家であり、これにたいして、レーニン はロシア革命の現実の真っ只中にいる政治家である。マルクスは純粋に理論を唱 えていればよかった。レーニンはそうはいかない。現実政治の中で政治的敵対者 を論破していかねばならない。
 現実にあのときのロシアには暴力が不可欠だったのだろうと思う。そういう状 況で、彼らの間ですでに権威だったマルクス理論を楯にとってレーニンのやり方 を批判する者に対して、彼はたとえマルクスを強引に捻じ曲げてでも、これを論 破していかねばならなかった。学説を述べているわけではなく、政治的スローガ ンを叫んでいるわけであるから、マルクスがどう言ったなどということは重要な ことではないのだ。ロシアでいま何をやらねばならないかについて彼は述べてい るのだ。
 ぼくはあれを読んだとき、理論的著作にも文学的インスピレーションというも のは必要なのだと、初めて感じた。天才的文章だと感じ感動したのである。それ を、文学的にごまかすという意味にとられると、ちょっと違う。文章の展開して いくさまに、インスピレーションなしでは書けないものを感じたのである。
 だからぼくは最初から、マルクスにしろ、レーニンにしろ絶対化したことなど なかったし、不破氏の文章を読んでも、何をいまさらこんなことをといった感じ である。
 ここで感じたこと二点。ひとつは「強力」という訳語である。この言葉がはじめ て日本共産党の文献に出てきたときの解説を読んだ記憶があるが(その内容はも う忘れたが)、そのとき、こんな、こなれてない日本語に、特殊な意味を勝手に つけて使うと、将来にっちもさっちもいかなくなるぞと感じた。不破氏の文章を 読みながら、その思いを新たにした。
 何故「暴力」ではいけないのか。「暴力」という言葉が誤解を与えるということだ ろうが、それを「強力」という耳慣れない言葉に変えたからといって誤解がなくな るわけではあるまい。日本共産党の内部でしか通用しない特殊な造語の使用は、 それをもはや使い慣れた党員にとっては違和感もないのだろうが、一般市民をま すます党から遠ざけるだけである。
 「暴力」という言葉は結構幅広い意味で使われているし、必ずしもむきだしの暴 力のみを意味するわけではない。しかも現実生活の根底にあるのは、ある意味で の暴力性なのだ、という認識は避けることができないのである。

第二点。現実の政党が現実の政治を論じようとするさいに、何故わざわざマルク スを引用する必要があるのか。マルクスがどう言おうと、エンゲルスがどう言お うと、レーニンがどう言おうと、正しいことは正しいし、まちがっていることは 間違っているのだ。それは現実によって検証されることで、マルクスの理論に照 らしてどうか等ということはどうでもよいことだ。それは学者がやればいいこと で、政治とは関係ない。いちいちマルクス解釈に正当性を求めようとする姿勢に は疑問を感じる。(それはレーニンの時代のやり方だ)。

 さて二段階論である。ぼくは中学生のときに社会科のレポート提出で図書館で この問題を調べた記憶がある。当時ルーズベルトのニューディール政策も何かの 課題で図書館で調べた。同じ頃だった。
 これは当時ソ連が主張し、また世界の社会主義者の間で一般的だった理論で、 社会主義社会には二段階ある、その初期の段階では、「労働者は能力に応じて働 き、働きに応じて受けとる」、発展した段階では、「能力に応じて働き、必要に 応じて受取る」、初期の段階を社会主義社会と呼び、発展した段階を共産主義社 会と呼ぶ、というものである。そしてフルシチョフによると、ソ連はすでに社会 主義社会を実現し、今後共産主義社会に向かう、とされた。
 この社会主義、共産主義という言葉の使い分けは、もうずっと以前に共産党が 否定し、マルクスはそんな使い分けをしていない、この言葉は同じ意味だ、と解 説しているのを読んだ記憶がある。そのときには社会主義の低次の段階、高次の 段階という使い分けをまだしていたと思うが、今回はそれも否定した。その理由 は、未来のことについて、いまから具体的なことを言うことはできないという点 にある。そして、「ゴータ綱領批判」にそう書いてあるというわけだ。
 わざわざ「ゴータ綱領」を引き合いに出さなくても、と思うが、マルクスを読み 違えている党内外の頑迷なマルクス主義者たちを論破し、またマルクスの正当性 を主張するためにも必要なことだと不破氏は思うのだろう。
 だが分配の問題で二段階に分けるのは正しくない、と何故わざわざ強調するの か。ここで問題になっているのは分配云々でもなければ、二段階論でもなく、む しろ将来社会そのものだろう。将来社会など、我々にわかるはずがないのだ。そ んなものを夢想するのは空想的社会主義だ。マルクスだって100年後の世界がこ うなっているのを知ればびっくりするだろう。必要なのはいまの社会がどうなっ ており、いま何をなさねばならないかだ。もちろん近い将来のことは考えねばな らないが、その先の社会に権利を持っているのはその時代の人々であって、われ われではない。(注参照)
 資本主義をどの方向に進めるべきかについて、意見の違いがある。そこには社 会的階層による利害の違いがある。そして社会的な、あるいは政治的な、もしく は思想的な闘いがある。この闘いはおそらく人類永劫に続いていく。資本主義が どのようなものになっていくか、確としたことは誰にも分からない。わかってい るのは、変化しないものなどこの世に存在しないということと、それをどう変化 させるのかが一人一人にかかっていること、しかしその変化には合理性が必要で あって、勝手に思い描いたようにはなりませんよ、ということだけだ。しかも今 日の合理性は明日の合理性ではない。合理性そのものが時代による変化をこうむ るので、遠い将来を論じることは無意味なのだ。

 社会主義、共産主義という言葉を区別することが現代においてまったく意味が ないかといえば、そうでもないだろう。歴史的には、ロシア革命を経てソ連共産 党がボルシェビキから改名し、社会主義世界での権威となる中で、またソビエト 体制に対する賛否が社会主義者の間に生まれてくる中で、ロシア革命擁護派を共 産主義者と呼び、非擁護派を社会主義者と呼ぶことが一般化したように思う。擁 護派は、自分たちこそ社会主義者であって、非擁護派は社会民主主義者なのだと いい、非擁護派のほうでは、これも自分たちこそ社会主義者であって、擁護派は 共産主義者なのだといって、立場の違いによって言葉の定義を変えたことが、問 題を複雑にした。
 一般的には、空想的社会主義をも含めた、社会改良型の政党を社会主義と呼 び、権力奪取型のマルクス主義政党を共産主義と呼ぶ習わしができたと思う。
 そして、社会的慣習が作り上げてきたこのイメージは、あながちまったく的外 れでもない。もちろん現代では権力理論はマルクス時代の、あるいはレーニン時 代の幼稚な理論であってはならないが、それでも権力理論の考察を重んじること が、共産主義者を特徴づけるだろう。誰のために政治を行うのか、だけでなく、 誰の力に依拠して政治を行うのか、この依拠することが結局その利害を代表する ことになるというリアリズムこそが共産主義者を決定づける。
 これは大事なことだが、逆にこの考え方が、社会の一元的支配、自称(もしく は思いこみ)共産主義者たちの独裁を生んできたのも事実である。
 だからこそ、ソ連や中国の研究が大事になる。資本主義が作り出してきた多元 的な社会、高度の民主主義をより発展させていく形で、もっとも民主主義的で、 有機的な権力理論を考察していくことが必要になる。

18、民主集中制について

 いままで書いてきたなかで明らかにしてきたように、ぼくは民主集中制につい て批判を持っている。これは決定的な批判であり、このシステムを捨てなければ 日本共産党は生き残れないだろうと思っている。ただ、今回目的としたのが綱領 批判であって、民主集中制は規約上の問題であるから、ここでは十全に展開する ことができなかった。
 民主集中制が民主主義を保障したことは、歴史上一度もなかった、という事実 に目覚めて欲しいのである。それは民主主義を偽装した封建的システムである。 このシステムが、ソ連、中国を独裁に導いたのである。
 これについてぼくは「日本共産党への質問状」の最初の文書の中でひととおり 説明したつもりであるが、それが分かりにくかったとすれば、再度解明を試みる ことになるかもしれない。ここではただその点に注意を促すにとどめておく。

19、「それぞれの分野で、もっとも切実な、そして最も広範な人々を結集できる 要求がどこにあるかを調査・研究すること、実践面でも、そういう運動の前進に 協力し、また先頭に立つことが、私たちの政策活動の重要な内容となってきます」

 最初の約束に従えば、このテーマを展開せねばならないのだが、少々疲れた し、いままで書いてきた内容にそぐわないテーマのような気がするので、ここ で止めることにする。
ただ、不破氏のこの表明にぼくは全面的に賛成であり、いま求められている 運動を、いまの社会感情に適合した形で展開することに党活動の最大の重点をお くべきだということを、いままでの文書の中でも繰り返し述べてきた。そして何 故党活動がそうならないのかという原因究明と解決策も述べてきたつもりである。
 不破氏が運動の重要性に気づいていることを知ってぼくは少し安心したが、残 念なことにそこには具体的な提起がない。また、問題意識があいまいであり、危 機感がない。ぼくの目から見ると、共産党はすでに存亡の縁に立っている。小選 挙区制は少数政党を一掃してしまうだろう。共産党は議席のない政党になり、や がてすべての影響力を失って、消滅してしまうだろう。そうなるしかないのか、 それとも力を取り戻す手立てがあるのか、いま、全党が、党外の人々も含めて、 真剣に議論せねばならないときだろうと思う。

 注(17章)

 この部分は筆がすべって誤解を与える書き方になっている。「未来社会に権利 を持っているのは未来の人々である」ということは不破氏自身主張しているので あって、その点で不破氏とぼくとの間に意見の相違があるわけではない。ただ、 不破氏はそう言いながら、「社会主義社会の指標は、分配問題ではなく、生産手 段の所有問題である」ということを強調したいがために、分配問題を親の仇のご とく攻撃している。そのことにぼくは違和感を持ったのだ。
 現在、世界の人々が不満を持っているのは、労働結果の分配の余りもの不公平 さに対してである。人類の1%が99%の富を独占している。その結果経済がまわ らなくなっている。分配問題はきわめて今日的問題なのだ。それをさておいて、 来るかどうかわからない未来の社会主義の所有問題を語っても意味がないではな いか。結局不破氏が関心を持っているのが理論問題だけで、現実はどうでもよい のだ、と思わざるを得なかったのである。