しばらくこのサイトへの投稿を休まざるを得なかった。無職と称してはいたが、翻訳の下請けをやっており、その工賃がここ二年連続の切り下げで、猛烈な労働過重になっていたのが主な原因であった。しかし、そんな苦しい中でも、アントニオ・ネグリ&マイケル・ハートの『〈帝国〉』(水嶋一憲他訳、以文社03年)や『マルチチュード』(幾島幸子訳、05年10月、NHKブックス)を読み、完全に理解したとは言い切る自信はないが、大いに得るところがあった。彼らの主張は、日本共産党を直接のターゲットにしている訳ではないが、それに従えば、日本共産党の綱領の立場、組織原則などには大きな疑問が生じてくる。そして、両者を比べた場合には、ネグリ・ハートの方が私には正しいように思えるのである。そこで、これからかなり多岐にわたることにはなるが、ネグリ・ハートの主張を紹介しつつ、それに関連して、日本共産党の理論的な問題点を指摘して行きたいと思っている。そのために、名前もレギオンと改名し、新たな気持ちで投稿を再開する次第である。改名の理由はこのシリーズの最後で述べよう。
正直に言って、ネグリ・ハートの内容を理解するのは容易ではない。自分でもそれを理解するには、バックグラウンドの勉強も含めて、残りの自分の人生をそれに専念しても足りないかも知れない。もう歳でもあるから、本来ならば、乏しい貯えではあるが、工夫して、余生を楽しみたいところである。しかし、私の気持ちは、ネグリ・ハートに向かわせて、それを許さない。それは多分に、私が日本共産党に入党し、30年あまり党員として過ごし、離党したという経歴に由来することであろう。従って、まず、離党後の事柄から話を起こすことにする。
私は、1989年のベルリンの壁崩壊直前に離党した。しかし、社会主義体制の崩壊に直面して、「腰を抜かして」(宮本議長(当時)談話)離党した訳ではない。むしろ、何故、社会主義体制は崩壊したのか、党員として理論的に解明するのが筋だと思っていた。離党した理由は三つほどあった。その二つは所属する支部に固有な問題であり、ここで述べることは適当ではないが、最後の一つだけは、以前の投稿でも触れたことはあるが、述べておきたい。
その頃、党支部の運営はすっかりおかしくなった。LC(支部指導部)は自分たちの多忙を理由に会議をなかなか開かない。そしてとうとう、会議は半年に一回の総会だけ、党費は郵便振替にすると提案してきた。これは最近知ったことであるが、歴史学者であり、イギリス共産党員であったエリック・ホブズボームの自伝「わが20世紀・面白い時代」によれば、アウシュビッツ収容所の党組織では、貴重品のタバコが党費であったそうだ。「党が党費を集められるということ自体、党の集団的な抵抗能力を雄弁に証明していた」と書かれている。成る程、郵便局で党費を振込むことが、「党の集団的な抵抗能力を雄弁に証明」する訳だ。私は直接にはこのような党支部に嫌気をさして離党した次第である。
しかし、30年近くも党員だったのだから、その間信奉していた社会主義・共産主義の思想が一体正しかったのか、正しいとすれば、何故、社会主義体制の崩壊が生じたのかという疑問は持ちつづけていた。しかし、その答えはなかなか見つけ出せなかった。離党後でも、日本共産党の見解はそれとなく伝わってはきた。結局、最終的には、スターリンが悪かったのであって、マルクス主義は揺るぎもないということになったようだ。しかし、これには納得できなかった。
その後定年を迎えたが、翻訳仕事の必要上、図書館に通う機会も増えた。そういう中でも、何故、社会主義体制が崩壊したについては頭から離れなかった。そこで、暇を見つけては、資料にあたって勉強することになった。産経・正論グループの主張も知ったが、とても容認できるものではなかった。ただ、そんな中で、縮刷版によって、久しぶりに、「しんぶん赤旗」の記事を読むことができた。そこで、目に止まったのが、不破議長の連載「北京の5日間」であった。少なくとも、私が離党したころの中国共産党に対する党の見解は、『科学的社会主義-共産主義に全く縁のない鄧小平軍事支配体制-中国の事態と日本共産党の見解』(日本共産党中央委員会出版局、1989)に尽きるであろう。これはいわゆる天安門事件に対する批判が中心であった。その後の中国の事態はどう進展したであろうか。党が名指しで批判した鄧小平の開放・改革路線を進めた結果、今日の経済発展に至っていることは周知のことである。天安門事件を契機とする西欧各国による経済制裁も日本を皮切りとして、解除に向かうことになった。後で明らかになったが、この過程では、天皇の訪中が重要な役割を果たしているが、中国側からする天皇の政治利用もあったのである。
「修正主義は常に主要な誤りであり、時と条件によっては、教条主義も主要な誤りになり得る」というのが、私の思考回路に刻み付けられたパターンであった。私が離党した当時は、修正主義とは暗にソ連を、教条主義とは暗に中国を指していた。当時の宮本議長によれば、修正主義者ゴルバチョフは、東欧諸国を西側に売り渡した国際共産主義史上最大の裏切り者ということだった。その後の中国の経過を私の思考回路から見れば、「極端な教条主義から、それを矯正するのではなく、主要な誤りである修正主義に向かっており、歴史的に失敗をした修正主義ソ連の二の轍を含む愚かな行為」でしかあり得ない。自国の多数の人民に戦火の災いをもたらした天皇を政治利用するのは修正主義者の行いである。しかし、不破氏の中国観はそれとは全く異なって、揺籃期の社会主義というのだ。これには仰天してしまった。何かが変わってしまったのである。
修正主義批判にせよ,教条主義批判にせよ,当時は,国際共産主義運動の大義を説き,当該国家にその是正を求めるという流れであったように思う。つまり、それらは病気のようなものであり、適当な治療を施せば治るという立場だった。つまり、日本共産党の指導部は、大学医学部の教授のごとく、様々な論文を通して、患者(修正主義者や教条主義者)の病状及び治療方法について述べていたのである。それによれば、修正主義者ソ連は子宮ガンであり、早急に手術の必要がある。教条主義者中国は乳ガンであるが、こちらは投薬程度で大丈夫である。例えれば、こんな話になるだろうか。我々党員はそれを一生懸命に勉強していたのである。しかし、子宮ガン患者が死亡してしまった。この医者が解剖して調べたところ、患者は実は男性で、しかも、長年のアルコール依存症が高じての脳卒中が死因と分かったというのである。一方、乳ガン患者の方は、これもよく調べてみると、まだ幼女で、乳ガンにはなりようがない。だから、今後、健康な成人に成長するであろう。
これが医者に寓した共産党の「科学の目」による社会主義体制崩壊の見方なのである。この医者は、男性患者を子宮ガンと診断し、その誤診に気づくや、自分を女性と偽って医者を騙した患者が悪いと怒っているのである。このような医者のもとに、今後患者が訪れるとは思えない。しかし、この医者は性懲りもなく、今度は、日本の病状と治療法に関する見解(新綱領)を発表しているのである。当然ながら、私は新綱領の立場を疑わざるを得ない。