そのような中で、私は、ある本に着目した。アントニオ・ネグリ&マイケル・ハートの『〈帝国〉』(水嶋一憲他訳、以文社03年)である。グローバルな資本主義に対応するグローバルな主権形態である〈帝国〉が形成されつつあり、その対抗勢力としてマルチチュード(一つの勢力でありながら、人民のような同一性を持たず、また、大衆のような均一性を有しない、多様性及び差異性を保持した多数者の集団)が如何に行動すべきかが書かれている。とても難解な書物であって、その詳細を理解するのは難しかったが、ポスト帝国主義として〈帝国〉の形成という主張は、私には反論のできない説得力のあるものだった。その反面、マルチチュードが組織化され、〈帝国〉を没落に追い込むという主張には、その実現性には危うさを感じた。
そんな中で、著者の一人、アントニオ・ネグリの『マルクスを超えるマルクス-『経済学批判要綱』研究』(清水和巳他訳、作品者03年)に出会った。これは『〈帝国〉』以上に難解な本であったが、この本が勉強する意欲を引出したことは事実である。この本では、『資本論』よりも『経済学批判要綱』の重要性を強調している。『資本論』はカテゴリーが自己展開していく方法によって重荷を背負わされ、カテゴリーの客体化が、革命主体の行動を阻害しているのではないかという疑問を発し、『要綱』は事実上、革命主体に捧げられたテキストではないかというのである。この本の初版は1979年であるから、『〈帝国〉』における主体としてのマルチチュード論の先駆であることは間違いない。一方で、『資本論』に関して不破氏は、『エンゲルスと資本論』(2冊)、『マルクスと資本論』(3冊)、『レーニンと資本論』(7冊)、『資本論全3部を読む』(7冊)の大著を物している。また、共産党系の人たちは、あちらこちらで「資本論研究会」を開いているようだ。このような状況は何を意味しているのか、『マルクスを超えるマルクス』の立場から別稿でコメントしたい。
ただ、この『マルクスを超えるマルクス』は初版が1979年であり、その当時のイタリアの政治状況を色濃く反映したものであり、革命のための暴力を肯定するといった面も覗えたので、理論として勉強する分にはよいが、現在の日本において、参考になるものがあるのだろうかという疑問は消えなかった。しかし、ネグリ・ハートの最新作『マルチチュード』(幾島幸子訳、05年10月、NHKブックス)を読むいたって、そのような懸念は解消した。そこで追求されているのは、民主主義の問題なのである。しかし、その民主主義とは、私の民主主義観を覆す衝撃的なものであった。それは、スピノザに遡る絶対民主主義なのである。絶対民主主義とは「全員による全員の統治」というものであるが、ルソーを祖とする民主主義では、人民の「一般意志」のみが主権であり、「全体意志」はそうではない。そのような民主主義は必然的に代表制民主主義に移行せざるをえない。ネグリ・ハートは、これを「新しい科学」の誕生と称している。とすれば、民主集中制こそは最も「科学的な」民主主義なのである。絶対民主主義は空想とのそしりを受けるかも知れない。しかし、民主主義における「空想から科学」への発展が何をもたらしたかを知ることは、社会主義体制崩壊を解く一つの鍵であることは間違いないようだ。この点に関しても、別の機会に述べたい。
『マルチチュード』を読み、それに基づいて、『〈帝国〉』の内容を検討することは有益であった。まだ、十分に理解し得たとは思わないが、ここで重要な点を指摘しておきたい。それは、不破氏の「四つの世界論」とネグリ・ハートが捉える世界とは大きく異なるように思えるのだ。
ネグリ・ハートの言う〈帝国〉とは、新しいグローバルな秩序形態のことであり、「ネットワーク状の権力」である。それは、ピラミッド状の三層構造をなしている。第一層には、軍事大国アメリカを頂点として、主要な国民国家が関与する政治・軍事・金融レベルの国家連合があって、統合されたグローバルな指令を発している。その下の第二層では、多国籍企業の権力に従属するレベルで、主権をもつ国民国家全般が集まって,グローバルな覇権的諸権力に対しては政治的媒介の機能を有し、多国籍企業に対しては交渉の機能を果たしている。そして,自国の領土内部で、国民の抵抗の度合いに応じて、常に抑圧を伴いながら、歳入を再配分して、国家を安定化する機能を担っている。
最後に、グローバル権力のアレンジメントにおいて民衆の利害を代表する諸集団が最も大きな第三層を形成する。マルチチュードは代表のメカニズムを通してふるいにかけられ、多くの場合、この役割を当てがわれるのは国民国家、とりわけ従属的国家あるいは小国家の集合体である。たとえば国連総会の内部では、少なくともシンボリックなレベルでは大国のやり方に制約を課したり、それを正当化する役割を果たしている。しかし、ここでは、〈民衆〉の意志を国民国家(多少なりとも民主主義的な国家と権威主義的な体制の両方を含む)自体が代表するものとして呈示されているので、グローバルな規模で諸々の国民国家を代表するものが民衆の意志を自分のものとして要求するとしても、それはマルチチュードを代表する〈民衆〉、そしてその〈民衆〉を代表する国民国家というふうに、二つの段階を経由して、二つのレベルの代表を介してのことに過ぎないのである。
私には、このような多層的な世界の捉え方が正しいように思えるのだ。そして、このような見方を「政治の目」と言いたい。それと比較してみると、不破氏の「科学の目」では、第一層がまったく見えていないようだ。この第一層が見えなければ、塗り絵遊びよろしく、世界地図に四色の彩色を施し、「いま世界がおもしろい」などと言えるのである。「四つの世界論」は綱領の世界論を分かりやすく解説したものだそうである。これもまた別の機会にはなるが、その点を踏まえて、「政治の目」から「四つの世界論」を検証してみたいと思っている。
以下、次回にはなるが、マルチチュードの組織化に関する私見を述べたい。