マルチチュードとは、グローバルな主権形態である〈帝国〉の中で成長する生きたオルタナティブである。マルクスが資本主義の打倒をプロレタリアートの組織化に託したように、組織化されたマルチチュードのみが〈〈帝国〉に対抗できるのである。ネグリ・ハートはマルチチュードの組織論について述べているが、そこは原書に譲って、ここでは、新たに改名したレギオンという名前の由来との関連において、まったくの私見を呈示したい。
レギオンとは、ウィキペディアによれば、もともとは、ローマ軍団のことであるが、それは新約聖書に出てくる「悪霊に取りつかれたゲサラ人」の名前でもある。レギオンは自分の身体に多数の悪霊を抱えて苦しんでいた。しかし、ある日、キリストに出会って、それらの悪霊を側にいた豚の群に移し変えてもらい、豚の群は崖を下って水中に入って溺死する。悪霊を追い払ってもらったレギオンはキリストに感謝し、その奇跡を人びとに伝えたという。『マルチチュード』では、ドストエフスキーの『悪霊』(1872)を引用する中で、この福音物語が紹介され、レギオンは悪魔的マルチチュードとされている。
これは、諸々の聖書物語が述べるとは別の意味で示唆に富む話である。悪霊とは何だろうか。これはあくまでもキリスト教的立場からの悪霊でしかあり得ない。キリストを現代の政治的支配者とすれば、まさに、レギオンはマルチチュードなのである。レギオンは自分の中に多様性を持っていたのである。それは、人間の多様性を認め、なおかつ、自律的に連帯する心である。マルチチュードの自律的な連帯は支配者が何よりも恐れるものである。だからこそ、支配者はキリストのように、悪霊掃いを行うのである。
支配者とは、後で述べる政治的支配体制に限らず、すべて身体的特徴を備えている。命令する頭を有し、その指令を伝える神経組織があり、指令に従って動く手足を持っている。その意味では、現存する政党、企業、団体などほとんどあらゆる組織もこのような支配者としての身体的な組織を持っている。共産党も例外ではない。私と共産党との出会いも、レギオンとキリストの出会いに似ていたかも知れない。私は、60年安保の後で入党したが、安保闘争のころは、学生運動のセクトの知識はなく、ただ、戦闘的な学生運動には魅力を感じていたのであった。しかし、入党してから教えられたことは、民青・共産党以外の多くの学生セクトの安保闘争は間違った冒険主義だということだった。私は悪霊に取り付かれていた訳である。それから、客観的真理が存在し、共産党のみがそれに近づくことができるという見地から、すべての他党派を見下す精神も身についてしまった。主人(共産党)に忠実で、神(絶対的真理)を信じる奴隷アンクル・トムの姿がそこにはあったのである。私はもう奴隷を止めて、もとの自分に戻ることにした。それが私の改名の理由である。
他党派への攻撃性は、別に共産党に限ったことではないだろうから、このことでもって共産党のみを批判することはしたくはない。どんな党派・集団も身体的特徴を持ち、肥え太って強力になろうとする。しかし、このようなセクトの争いは、実は、支配者の巧みな分断戦術の結果であって、マルチチュードの組織化には何ら役立つものではない。
国家のレベルでも、政治支配体制は人間の身体にたとえることができる。そこでは、一個の頭(支配者)があって、身体に命令を下して動かしている。マルチチュードはその身体を構築する細胞として取り込まれているのである。すべての細胞は同一のDNAを有しているが、それが手の細胞であり、足の細胞であるのは、卵細胞からの分裂が完了した段階で、DNAの発現が異なった形で制約され、それぞれに一つの役割に固定されるからである。すなわち、本来、あらゆる細胞になる可能性を有するものが、一つに固定され、他の可能性はすべて否定される。丁度、レギオンから悪霊が除去されたように。政治支配体制の場合にも、支配者は細胞の役割を固定化しようとするが、動的な側面もある。革命とは、手の細胞が脳細胞に変化するようなものであろうか。しかし、それだけである。命令する部分が変わったのみで、身体的特徴はそっくりと残るのである。それはいわゆるレーニンの革命においてもそうだったのである。
これが国家レベルの話である。〈〈帝国〉の支配体制はネットワーク的であるという。それは身体的なものからの飛躍なのである。このような支配体制のもとでは、ヘーゲルの主人と奴隷の弁証法などは役に立たない。例えるならば、相手は特定の頭をもたないが、多面的にマルチチュードを取り込み、多面的に指令を発するモンスターなのである。共産党が考えるように、国家レベルで、前衛党を強くし、従来の支配者(頭)に成り代わって、国家を運営して、やがては社会主義を目指すという図式は成り立たないのである。国民のために、一国でできることは、精々グローバル化した資本主義のもとでの、当面のやりくり算段でしかありえない。しかし、悪いことに、共産党の場合には、国家を強く意識するから、自衛隊活用論などの墓穴を掘ってしまうのだ。共産主義社会になれば、国家は死滅するとされるが、今や、グローバルな資本主義体制のもとで、それが実現しつつあるのだ。
マルチチュードの組織化とは、いかなる意味でも、身体的特徴に類似した社会システムの構築ではあり得ない。具体的なイメージを描き出すことは困難ではあるが、中心的な指令形態を有しない自律的な新しい生命体の誕生にも比せられるものである。そこでは、マルチチュードの細胞は支配体制の身体に取り込まれることを止め、新しい生命体のなかで自律的に協調的な働きをすることになる。このような組織化に対して、政党の果たすべき役割は、触媒のようなものであろう。触媒は自ら増殖することはなく、ただ、組織の成長を助けるのみなのである。また、このような無数の触媒が存在することが、組織化のカギかも知れない。逆に、自らの増殖が至上命題となるような政党の存在は、マルチチュードの組織化を妨害する。これがどうも、マルクスの目指した共産主義社会の姿のような気がするのである。資本主義のグローバル化に抗して、少なくともマルクス主義的と言えるオルタナティブがあるだろうか。
いろいろ関連して、述べるべき課題も増えた。次回は、直接的にはネグリ・ハートには直接関係しないが、まず、「科学的社会主義」の哲学に関する疑問について述べて行きたい。