これまで見てきたように、不破氏を頂点とする共産党の思想 的立場は、レーニン主義を捨てて、マルクス・エンゲルスに戻 ったと言ってよいであろう。過去においては、少なくとも党外 でこのような主張がなされたことは事実として少なからずあっ たと思われる。それに対して、共産党はどのように反撃してき たのだろうか 。このサイトにある『共産党資料館』の「その 他論文」の項目に収められている「墜落した哲学 ─三浦つと む批判─」(工藤 晃 『前衛』No.176、1960年12月号)にそ の典型をみることができる。それによれば、三浦氏は、その最 初に、今日のブルジョア社会学が精力的に「組織論」をあみだ しているのにたいして、マルクス主義のがわにはほとんど見る べきものがまだないという意見をのべ、その原因をつぎの よ うに分析しているとされる。
私の見るところによると、この不振のもっとも大きな原因は 方法上の欠陥、後退であり、さらには認識論における俗流反映 論への後退であると思う。現在のマルクス主義は、一面におい てはたしかにマルクス=エンゲルスよりも前進してはいるけれ ども、他面においては著しい後退を示しているのである。いう までもなく、マルクス主義の方法は唯物弁証法であり、これを 正しく使いこなすことは、とりもなおさず矛盾を正しく処理す るということである。ところが、唯物弁証法はエンゲルス以後 逆に後退しているし、マルクス主義矛盾論と称せられるものも また歪められ一面的になってしまっているのである。
さらにここから、「組織論を建設するためには、まずもって 、現在の唯物弁証法および矛盾論を、マルクス=エンゲルスの 段階にまでひきもどさなくてはならない」とし、レーニン、毛 沢東の哲学が批判されているということである。これに対して 、工藤氏は、レーニンは勿論、1960年ころの状況を反映し てか、毛沢東も擁護し、三浦氏を厳しく論難している。そして 、次のように結論づけている。
こういう道をたどる人に共通する一つのことは、とてつもな いごうまんさ、個人英雄主義である。この人たちは、そこから 、一つのだいじなことが全然見れなくなってしまう。それは、 理論とは何かということである。レーニンの理論にしろ、毛沢 東同志の理論にしろ、長い期間にわたりなん億という人民がた ちあがり、血を流してたたかいぬいた革命運動の実践の産物で あり、そして、それらの理論は、また、その後の長い期間にわ たる世界人民の革命運動の実践のなかでひきつづきためさ れ 、発展されてきたものだということは、この人たちは、夢にも 考えつかない。理論は本にすぎない。本は頭がうごき手がうご けば書ける。レーニンも書いたのだから僕も書けるだろう。そ のうちに、どうも僕の書いたものの方がレーニンの書いたもの より立派なようだ、と思うようになる。
この件を読んでみると、まるで、今日の不破氏が批判されて いるようである。しかし、工藤氏は、将来の最高幹部が三浦氏 と同じような立場になったとしても、自分の批判がその人には 及ばないような仕掛けをしっかり作っているのだ。これに続け て次のように述べられている。
あるいは、また、自分が、せいぜい、ちょっと ばかりサークルをまわったとか、なにか運動にくわわったとい うことで、たいへんな鼻息になり、国際共産主義運動の経験を むこうにまわし、レーニンも毛沢東もむこうにまわして、挑戦 状をつきつけるのである。
つまり、「ちょっとばかりサークルをまわった」程度の「小 物」が批判するからいけないのだ。「現代のマルクス」とか言 われる不破氏ならば許されるのだ。「長い期間にわたりなん億 という人民がたちあがり、血を流してたたかいぬいた革命運動 の実践の産物」を放り出してもよいのだ。だから、
日に日に勝利をつづける社会主義革命の事業の進展にたいし 、日に日に勝利をつづけるマルクス・レーニン主義思想の発展 にたいし、あれこれけちをつけ、やれエンゲルスの段階までひ きもどすとか、やれナンセンスでとか、いいたい放題のことを 、いったらいいだろう。君たちの顔つきはますます醜悪になり 、こっけい になり、やがては、人民からおっぽりだされるだ ろう。
との結論は三浦氏には該当しても、不破氏は顔つきが醜悪にな
ることもなく、人民からおっぽりだされることもないのである
。
これまでの考え方が間違っていたと自覚したならば、それを
改めることに躊躇することはない。その点では、私見ではある
が、レーニン哲学の放棄は歓迎すべきことである。しかし、同
時にそれは、これまでの深い反省に立たなくてはならないであ
ろう。私から言わせれば、その反省の表明がまったくなく、最
高指導者の 言動として、とっくの昔から分かっていたかの如
く為されているように思われるのである。しかもその改変が最
高指導者によって恣意的に行われているではないだろうか。共
産党の理論はその綱領に反映されているという。入党に際して
は、その綱領の承認を求められる。共産党の理論的状況はこれ
でよいのであろうか。
最後に、釈迦に説法かも知れないが、不破氏は次のエンゲル
スの一文を読んでいるのであろうか。
他方からいうと、「体系創造家」ヂューリング氏は、今日の ドイツではけっしてまれな現象ではない。しばらくまえからド イツでは、宇宙発生論、自然哲学一般、政治学、経済学、等々 の体系が、きのこのように、一夜のうちに幾ダースずつもはえ だすありさまである。…学問の自由とは、なんでもかまわず、 自分のま なびもしなかった事がらについて書ちらし、そして 、これが唯一の厳密に科学的な方法だと言いふらすことなので ある。ところで、デューリング氏は、今日ドイツのいたるとこ ろにでしゃばって、そのがんがん鳴りひびく-高等駄弁で、な にも聞こえないようにしている、このやかましいえせ科学のも っとも典型的な見本のひとりである。詩歌、哲学、政治学、経 済学、歴史記述における高等駄弁、他の国民の単純で平凡卑俗 な駄弁とちがって、優越と思想の深遠さをもって自負する高等 駄弁、ドイツの知的産業のもっと特徴的でもっとも大量的な産 物である高等駄弁、それは、ドイツのほかの製品とまったく同 じように、安かろう悪かろうのしろものであって、 ドイツの ほかの製品と並べてフィラデルフィア(1876年の国際万国 博覧会のこと、引用者註)に出品されなかったのは、残念なこ とである。(エンゲルス『反デューリング』村田・寺沢訳 大 月書店1962年、36~37ページ)
不破氏の高等駄弁は万博にこそ出品されないが、その多数は 全集、単行本、パンプとなって全国の民主書店などに山積みさ れている。その意味では、デューリング氏よりも罪深いかも知 れない。最高指導者たる者は、この一文を味わって、節度をも って行動してもらいたいものである。(完)