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「科学的社会主義」討論欄

社会主義の優位性

2007/5/12 百家繚乱 50代 事務職

 共産党は「共産主義」を目指すという。中々、立派な心構え である。しかし、どんな人間も、共産党に入ったからと言って 、「共産主義者」になれるわけじゃない。ソ連や北朝鮮を見て も解るように、「共産党」と共産主義は、全く無縁である。独 ソ不可侵条約を見れば簡単に分かるように、「共産党」の独善 は、反共主義の元凶であった。日本共産党も依然として、こよ うな「共産党」と同じように、異端者排除の「民主集中制」を 、硬く守っている。「日本共産党はこうした共産党とは無縁で ある」、と何遍繰り返しても、一般国民から見れば、どうして 、無縁なのか解らないのは、当たり前である。元来、社会主義 の思想は、社会主義者が社会の上に君臨する社会を目指すので はなく、国境を越えた自由と民主主義を目指す思想である。近 代民主主義の自由と民主主義・平等は、国境の内側にある。国 境を越える国際主義こそ、社会主義の神髄であり、近代民主主 義に対する社会主義の優位性である。
 社会主義の思想の本質は、人類全体の自己意識である。人類 は長い間、戦争を繰り返す事によって、発展してきた。これは 人類の盲目的な弱肉強食であり、動物の自然淘汰の延長である 。近代民主主義の思想は、国民の自己意識である。国家の意志 は国民の意志に基づく、と言う自覚である。実は、国家の主権 者は国民である、と言う現象が起きたのは、近代国家が始めて なわけじゃない。歴史家は歴史研究によって「歴史の主役は民 衆であった」と理解する。国家の本当の主人は、近代国家が産 まれる以前から、民衆であった。民衆から見放された君主は、 追放された。近代民主主義は、この歴史の主役としての民衆の 自己意識である。近代以前の民衆には、歴史の主役としての自 己意識が欠けていた。近代民主主義は、国家の主人としての民 衆の目覚め・自覚である。だが、近代民主主義の下では、この 民衆の自覚・自己意識は国家の内側に閉じ込められている。近 代民主主義の思想では、人類の長い間にわたる弱肉強食・盲目 性に終止符を打つ事が出来ない。人類世界は国境によって分断 され、国家間の戦争と軍拡に終止符を打つ事が出来ない。
 国家の死滅を目的とする社会主義の思想は、この長い間にわ たる戦争・軍拡・弱肉強食に終止符を打ち、人間の盲目性から 人類を開放しようとする。労働者階級は土地所有から開放され ている事によって、国家から開放されている。国境を越えた生 産手段だけが、富の源泉である。戦争は生産手段と人間性の破 壊であり、軍拡は地球資源の浪費である。資本家にとっては、 国家は生産手段の所有関係を維持するためには、必要不可欠な 存在である。時には、戦争は資源略奪のために役立った。労働 者階級は生産者であると同時に消費者でもある。労働者階級は 生産手段の所有関係からも開放され、国家的所有からも開放さ れている。従って、労働者階級の自己意識は、人類の自己意識 となる。世界中で大量に生まれ続けている労働者階級の、自由 で民主的な公開の討論は、人類全体の自己意識となる。この階 級のヘゲモニーは、人類の長い間にわたる盲目性・弱肉強食に 終止符を打つ。社会主義の思想とは、この階級の歴史的な任務 の自覚である。社会主義の国際主義によって、有史以来、人類 は始めて自己意識を獲得できる。地球環境問題は、人類の自己 意識・自覚を否応無しに要求している。社会主義者はこの課題 に答える義務がある。
 スターリンの「一国社会主義」は、社会主義の優位性の放棄 であった。日本共産党も、スターリンと同じように、長い間、 「一国社会主義」のもとで、優位性を自ら放棄してきた。「一 国社会主義」は自己撞着であり、労働者階級の国際性に対する 、裏切りである。確かに、スターリンは「国際主義」を自称し た。しかし、彼の「国際主義」は大ロシア民族主義を、国内の 少数民族に対して押し付けた。第三インターはロシア民族によ る世界支配の道具になった。スターリンは「国際主義」の名の もとに、少数民族の権利を抑圧・弾圧した。これは「国際主義 」とは全く反対の、民族排外主義と同じである。社会主義の国 際主義とは、少数民族の権利の擁護であり、民族間の対等な権 利の擁護である。しかしながら、日本共産党は、今日の改憲反 対運動では、それなりの積極的な役割を果たしてきたのも事実 である。この積極的な役割と社会主義の優位性は、深い関係に ある。
 「能ある鷹は爪を隠す」と言われる。平和的で合法的な変革 を目指すのだから、己の「爪=優位性」を隠すのは、フェアな やり方ではない。しかし、余りにも「爪」を見せ付けて、己の 優位性を承認せよ、と迫る戦略は、実に馬鹿げている。こんな 戦略は、仲間を遠ざけ、敵を喜ばしているだけである。

 参考までに、トロツキーの次の論文をリンクする。
 「ドイツ革命とスターリン官僚制」の第3章「官僚的最後通牒主義」
 ヘーゲルの弁証法によれば、どんな命題も、その反対の命題 を含んでいる。スターリンは、トロツキーの論文をよく読み、 彼の一字一句を利用した、と言われる。そのために、スターリ ンはトロツキー主義者であると言う歴史家さえいる。トロツキ ーの根幹思想(国際主義・民主主義)を換骨奪胎して、一字一 句を利用すれば、トロツキーの命題を民族排外主義に利用する 事は簡単な事である。同じように、歴史的・社会的な条件を無 視して、トロツキーの命題の一字一句を神聖化すれば、スター リン主義者と同じ事になる。今日の世界では、「前衛党」の概 念は意味をなさない。この概念は、党を「革命の司令部」と考 えたスターリンの思想と同じである。トロツキーにとって、党 は、階級が自己意識に目覚め、その歴史的任務を自覚するため の道具にすぎない。労働者階級は己の多様性・多元性に応じて 、多様な党や党派を産み出し、それらの対立・葛藤と統一を通 じて、自己意識に達する、と考えるべきである。更に、今日の 世界では、これらの対立・葛藤・統一は一国的なものではなく 、国境をこえ、国際的な運動として考えるべきである。それに しても、最後の「ドイツ共産党は、自分自身と階級とのあいだ に、最後通牒主義という鉄条網を設けている」、と言う銘文は 、ある意味で、今日の日本共産党にもそののまま通用する。ナ チスはドイツ共産党の足元で産まれ、己を食い殺した、と言う 歴史教訓から学ぶべきである。