はじめに
これから数回に分けて投稿を計画している散文は、昨年12月19日の一般投稿欄の灯台守さんによる投稿にポパーとクーンに触れてあるのを読んで注目しつつも、二十世紀の科学論に最も深い影響を与えたこの二人について、その後なんらの言及もないのを少し寂しく思って書き溜めたものです。とりわけポパーは、科学哲学界のみならず二十世紀の政治思潮にも多大な影響を及ぼしました。ポパーが新しい科学哲学を開拓しようとした動機がマルクス主義批判にあったことをどれだけの人が知っているでしょうか。そして、この批判は、人文学徒さんの「客観主義」批判にも通じるものがあると思い、以前から、私なりに整理する必要を感じてもいました。まず、ポパーについてのひとつの評価を末尾に挙げた文献1)から引用します。
もちろんポパーのわかりやすい英語で書かれた散文も、政治の分野でわたしたちが歴史や科学の方法について理解を深めるために大きく貢献した。ただ、いまではかなり時代に追いぬかれてしまったし、批判されて値うちがさがったこともいなめない。ベルリンの壁が崩れ、共産党体制が内側から崩壊したために、全体主義の政府を理論的に解体したポパーの説がただしかったこと、そしてひらかれた社会をもとめた彼の主張がただしかったことは証明された。だが証明されたからこそ、ポパーは現代に影響力をもつというより、すでに過去の偉大な思想家の列にはいってしまったのである。この評者が言うように、そもそも共産主義=全体主義であるのなら、ポパーのマルクス主義批判は正しかったと認めることができます。一方、そうではないということで、なお共産主義者であろうとする者はポパーの間違いを指摘し、彼の批判を克服する理論を世に問う必要があるはずです。ポパーの批判を無視したいかなる共産主義擁護も、現代の思想界の中で影響力を行使することはできないとさえ思います。
ポパー理論の成立過程
ポパーは1902年にウイーンに生まれ、1994年、92才で亡くなりました。63年に来日し、92年には京都賞を受賞しています。十代の頃マルクス主義に傾倒するも、1919年にデモ隊が警官隊に発砲される現場を目撃して衝撃を受け、マルクス主義と決別したとされています。1928年にウイーン大学に提出された彼の博士論文は「思考心理学の方法と問題」と題され、これにより心理学分野の教授資格を得ています。翌29年には、既に活動を初めて世に知られていたウイーン学団が『科学的な世界観 ウイーン学団』と題する綱領的書籍を発刊します。論理実証主義の黄金期ですが、ポパー自身はウイーン学団のメンバーになりたがっていたのに声がかかることはありませんでした。逆に、ナチズムの台頭によってウイーン学団が活動を停止した後に、論理実証主義そのものを化石化させた張本人がポパーであった訳です。
家庭が経済的苦境に陥ったことなどから中等学校(高校)を中退して、教育心理学で名高いアドラーの児童相談所で活動しつつ、遅れてウイーン大学に入学したポパーは、「ウイーン教育研究所」にも参加します。アドラーは、今でも日本の教育界に影響を残している大家です。しかしポパーは、当時アドラーとフロイトとの間で論争されていた問題がどちらの説でも説明可能であることに気づき、そのような曖昧な説は「科学的」ではないと直感しました。ここで彼は、「科学的」とはどういうことかを突き詰めて考えるようになります。ポパーに直接の示唆を与えたのはカール・ビューラーという教育研究所教授でした。
論理実証主義的な科学哲学では、(自然)科学は、まず観察によって事実を収集し、既知の法則を適用した論理思考によってその事実の群れの中にある新たな法則性を導きだし、その新しい法則の正しさを別の観察事実によって実証する、というように、帰納と演繹の循環によって進歩すると信じられていました。しかし、ビューラーは、現実の科学者は、まず先に解答を思いえがき、それからそれをささえる事実をさがし始めるというのです。いわゆる「仮説検証法」を極端に押し進めた考え方です。この手続きの中には帰納法というものがありません。
そこでポパーは、帰納法の核心である「観察」という行為をつきつめて考えました。観察によって事実を収集するという行為は、先入観のない無垢の目によってなされるべきであると考えられがちです。しかしポパーは、何の予備知識もない者に観察など不可能であると思い至ります。つまり、観察という行為は、そもそも何らかの知識=先入観に支えられた演繹的な行為であるという主張で、後に「観察の知識負荷性」と呼ばれ、ポパー理論の核のひとつとされるようになる考えです。
もう一点、帰納法は、沢山の観察事実を集めて、それらを満足する法則を導き出そうとする態度ですが、たとえ100の事実を満足する理論でも、ただ1つの事実に反していれば「科学的」な法則としては誤りです。そこで有限の事実を集めることによって法則を導きだすというのが帰納法であるのなら、これはそもそも方法論として誤っているとポパーは考えました。もっともこのアイデアそのものは、十八世紀にヒュームにより着想されていたものです。
「反証(主義)科学哲学」とは
結局、ある学説が「科学的」なものであると言えるための要件についてポパーは、間違いであることを検証する(つまり反証する)手だてがその説自身の中に明示されていること(反証可能性)であると結論しました。ポパーは、ある法則を主張する学説が「正しい」ということは永遠に証明不能で、単に、反証が不発に終ることによってその学説が一時的に生き延びるだけであると考えました、「科学的」な法則はただ一つの例外をも許さないので。帰納法が否定されたと同じ理屈で、一般に正しいものと受け入れられているどのような学説であっても未来永劫反証される可能性はないと断言することはできないからです。後に「検証と反証の非対称性」と呼ばれるこのことと、「観察の知識負荷性」原理から帰納法は幻想であるということの二つの「発見」は、ウイーン学団が築き上げて来た論理実証主義の体系を、一気に古くさいものにしてしまうインパクトがありました。
こうして、科学哲学はいわばポパーの独壇場になったのです。その功績から、1965年には英国王からナイトの称号を授与されています。1985年、オーストリア政府は、ポパーをウイーンに呼び戻すべく科学哲学を専門に研究する「ルートヴィヒ・ボルツマン科学理論研究所」を新設し、初代の所長になるよう依頼しています。(ポパー自身は、ある経緯からこの申し出を断っています)
日本ではポパー理論を専門的に論ずる哲学者が少ないのか、欧米での評価と大きなギャップがあると感じていますが、どうでしょう。私は、ポパーは、押しも押されもせぬ二十世紀を代表する科学哲学の第一人者であり、二十一世紀になった今でも、彼の学説を抜きに今日の科学哲学を論じることはできないと思っています。
「科学的」なものであるためには反証可能性が保証されていなければならないという発想は、アインシュタインの一般相対性理論の、光は重力によって曲げられるという帰結が1919年の皆既日食を利用した検証実験にふされたことにも触発されて着想されたとされています。アインシュタインが、彼の説が間違いであることを証明する手だてを、その説自身の中に明示していたことにポパーは感動したのです。相対性理論は様々な検証を経て今も生き延びています。ポパーはもっと根本的に、批判的精神そのものをアインシュタインから学んだと述べています。ポパーが熱望して実際にアインシュタインに会うのは1950年の事です。
ポパー理論の周辺
ところで、「科学的」と常に括弧付で書くのは、それまで明確には定義の定まっていなかった言葉の、ポパーによる「先に言った者勝ち」的な定義について誰も従う義務を負っていないからです。ポパーは、なぜ科学は着実に進歩しているのかという問題設定から出発して、科学の営みの現場観察から、それを着実に進歩させている原理を抽出して哲学の進歩をうながそうと試みました。教育研究所のビューラーの示唆やアインシュタインの態度から学んだように、実は彼こそ科学の現場、それも彼がお手本と考える科学の現場の観察から「帰納」することによって彼自身の着想を得た訳です。
つまるところポパーの言う「科学的」とは、科学を後退させないための方法論的な原理に即しているという意味のことです。この立場を厳密には自覚していなかったポパーは、後にポパーの後継者となったラカトシュに意味論的曖昧さを批判されます、ラカトシュは、ポパーのこの立場をはっきりさせるために、「方法論的反証主義」と呼んで、ポパー理論の守備範囲を明らかにしました。もっとも、ポパーはラカトシュの説に納得せず、彼を執拗に攻撃するようになります。
ポパーを嫌っていたウィトゲンシュタインは「哲学とは、さまざまな科学による証拠なしに真であると想定される、すべての原始命題である」と言ってのけました。ウィトゲンシュタインは、当時カリスマ的な人気を誇っていましたから、彼の皮肉を気にしない者はいませんでした。ラカトシュの整理はおそらく、ポパーの発見した原理によって彼自身の説がわずかの例外から反証されてしまうことを恐れた弟子としての補完作業でもあったのでしょう。ある意味アドホックな言い逃れと皮肉ることもできますが、それでも、影響力という点ではポパーの説が力を殺がれることはなかったと思います。
こうして彼は、検証不能なフロイトの理論を、だらしない疑似科学の典型と攻撃するようになり、以来、ポパー理論は、「科学」と「疑似科学」とを峻別する基準と評されるようになります。それだけではありません、ポパーは、彼のその後の人生の大半のエネルギーをマルクス主義批判に費やしました。というより、ポパー自身が「『科学的発見の論理』に着手した目的のひとつは、マルクス主義を批判することでもあった」と述べています。ポパーによれば、マルクス主義は歴史発展の法則性を主張するという点で科学を装っています。しかし、ポパー理論の論理的な帰結によって、マルクス主義の「教義」の一部に受け入れがたいものがあったのです。次回は、ポパーのマルクス主義批判についてまとめます。
この稿で参考にした主な文献は次の2件(3冊)です。
1)『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い10分間の大激論の謎』デヴィッド・エドモンズ&ジョン・エーディナウ著、二木麻理訳、2003年、筑摩書房
2)『科学的発見の論理(上・下)』カール・ライムント・ポパー (著), 大内 義一 訳 1971-1972年 恒星社厚生閣
この他に、ポパー理論の優れた解説が次のウェブサイトにあり、大変勉強になりましたので、推奨しておきます。
「ポパー哲学」への手引 ― 科学的・合理的なものの見方・考え方 ― 高坂邦彦著
著者注)この投稿が掲載された後、上記サイトが直前の3月末日をもって閉鎖されていることを知りました。現在リンク不能ですが、記録の意味で、上記記述はそのままとします。