曖昧な科学の合理性
最近の科学哲学は、現実を生きる科学の「生態」を疫学的に検討し、科学が、
不可避的に、大なり小なりの曖昧さを含むものであることを受け入れることから
出発しようとする傾向にあります。結果として、「科学」と「疑似科学」との間
に連続的で幅ひろいグレーゾーンのスペクトルを設けることになります(例えば
ベイズ主義)。このことはポパー理論が主導してきた科学哲学界に質的な転換が
おこったことを意味するでしょう。それは、ポパーが立派な反面教師ぶりを発揮
したためにおこったのです。その過程には、一種の相対主義(価値の相互依存性
を主張する言説)であるクーンのパラダイム論の克服にポパーの貢献があったこ
とも忘れてはならないと思います。
そこで問題となるのは、ポパーが、どのような学説であれ、それが正しいとい う証明は不可能なのだから後戻りの出来ない社会変革(革命)を目指すべきでは ないと主張した点です。しかし現実には、人類を月に送るような危険な実践が決 断されてしまうように、「曖昧な科学」に基づく冒険的な事業が度々実行されて きました。
ベイズ主義は、仮説の確からしさや信頼性をその仮説に対する信念の度合い(
主観的確率)としてとらえ、この信念の度合いを確率論の公理に基づいて評価す
るのが合理的であると主張します。例えば、化石燃料の消費によって大気二酸化
炭素が増え、そのために温暖化が進行したとする「温暖化の人為説」は、厳密に
は証明されていません。太陽活動に主因があるとする根強い異論もあり、長期的
には地球は氷河期に向かっているという学説もあるほどです。にもかかわらず、
この「人為説」に基づいて国連のIPCCの活動など国際的に大掛かりな取り組みが
なされるのは、科学者の中の<圧倒的多数派>の<極めて強い>信念に基づいて
いるという他ありません。
(科学は多数決ではない、などといったツッコミをしばしば見聞きしますが、野
暮というものです。もちろん観念としての科学は多数決ではありません。)
「合理的」というのは極めて社会的な性格を帯びた概念です。結果の予測が曖
昧で、失敗した場合に回復不能な大きなツケを払わされることが予想される場合
であっても、それを実行する価値があると決断される局面は社会的なリスク管理
の問題であって、そうして(明治維新のような)革命的な社会変革もたびたび実
行されてきました。そういう意味では、逆にポパーの「革命はダメ論」も社会的
な意思決定のふるいにかけられる運命にあるわけです。
マルクス主義、あるいは科学的社会主義についても、人々の中に共感と信念が
どれだけ育つかがポイントになると言えるでしょう。これらの学説が階級的視点
からの社会変革を目指すものであることから、科学的な正しさ以上に、もっと多
様な要因のからんだ社会的意思形成のプロセスが、ますます重要になってくるの
です。例えば、どういう人物がその学説を宣伝しているのかといったようなこと
も大きな要因となるでしょう。
ポパーの考察から漏れたこと、権力など
ソシュールは、言葉が世界を規定するとして、構造言語学を創始しました。こ
うした発想はポパーが最も嫌った種類のものです。しかし、これが後のレヴィ・
ストロースの構造主義へと連なる二十世紀後半の哲学の大きな潮流として成長す
ることになります。ソシュールとレヴィ・ストロースがそれぞれに唱えた内容自
体は大変異なって見えます。共通しているのは、哲学を構築する上で、人の文化
や社会の構造を見ることがいかに重要であるかを明らかにした点にあると思いま
す。そして、その意義を多くの人々が理解し、共感を広げていったのです。この
点で私は、マルクスこそが、文化や社会の構造を、歴史を遡って最も綿密に「観
察」した最初の哲学者であり、フィールドワークの達人でもあったと思います。
一方、帰納法を否定したポパーは、もっぱら論理思考のみによって彼の科学哲
学を構築しました。そして、文化や社会について特段の観察や解析を加えるでも
なしに社会改革への提言を行なっています。これがポパーの失敗の第二の要因で
す。それ故彼は、何らの論証もなしに、社会の漸次的改革はどこまでも可能であ
ると無邪気に信じることができたのではないか・・・。ここで想起されるのは、
そもそもマルクスは、漸次的改革の積み重ねだけで抜本的な改革が成就すること
はないとの判断から革命を呼びかけたのではなかったかということです。
社会改革についてのポパーの言説は、オーウェンやサン・シモンやフーリエ達
が唱えた十九世紀の観念的なユートピア論への思想史的退化に他ならないと考え
ます。少なくともマルクスは、こうした観念論を排し、労働者の貧困が放置され
てしまう理由を資本主義の特質や権力の源泉を帰納的に解析することで説明しよ
うと試みました。
ソ連崩壊を契機に社会主義政権が次々と倒れた結果、資本主義はいよいよその
特質を露にしてきました。現代日本において、新自由主義的ないろいろな「改革
」が進行するにつれて何が起こったか。
ホームレス、ネットカフェ難民、ワーキングプアー等々の深刻な貧困問題。毎
年3万人を超える自殺者のかなりの割合は経済苦を遠因としていると言われてい
ます。犯罪の多くもそうでしょう。餓死者は厚労省が把握しているだけでも毎年80
人前後に達します。年収200万円以下の世帯数の急激な増加が経済の悪化によるも
のでないことは、年収2,000万円以上の世帯数の増加が同時進行していることでも
明らかです。僅かの年金に頼って暮らしている高齢者から、なおも保険金を搾り
取るような施策が易々と実行されるのはなぜか。国民の共有財産が次々と「民間
」の手に落ちるのはなぜか。最大多数の幸福をめざした漸次的改革は確実に後退
しているのです。
独立国家の首都に他国の軍隊が居座って、なおも思いやり予算を献上しなけれ ばならないのはなぜか。憲法に明記された平和主義や政教分離原則、日の丸・君 が代に対する思想信条の自由などが易々と踏みにじられるのはなぜか。国の財政 状況をはじめとした国政の基幹情報の一部が国民に秘匿されるのはなぜか。ポパ ーが目指した「ひらかれた社会」とは逆向きの政治体制にあることも示している でしょう。
ゴミ処理の将来の破綻が明らかになっているのに、抜本的な解決策が検討され ないまま放置され、京都議定書に基づく二酸化炭素の排出削減目標が、発展途上 国からの排出権購入でクリアーされようとしたりすることは、支配層の中に「洪 水は我が亡き後に来れ」という退廃思想が蔓延していることを示しています。こ うして、人類の生存そのものが危うくなっているのに、これに対する有効な施策 は、常に資本の側へおうかがいをたてずしては望むべくもないのです。支配の正 統性そのものを欠いている事態に直面しても、なぜそれを取り替えることができ ないのか、それこそが権力というものの所以でもあるでしょう。
「ルール無き資本主義」のルール
新自由主義の理念の本質は利潤の追求を目的とした「競争原理主義」です。現
実社会にこれを当てはめようとする際には、利害関係にある集団間の力関係によ
って、その適用の仕方に幅が生じます。そこで例えば、競争が公平になされるた
めにスタートラインを揃えるべきであるとか、競争の途中でいわれなき不利益を
被った者は救済されるべきであるとか、競争の引退者はねぎらうべきであるなど
の議論がなされます。そうしてこの体制内でのいろいろな「改革」が、権力によ
って容認されてきました。
例えば、ハンセン病補償法、改正帰国者支援法、薬害肝炎一律救済法、原爆被
曝者認定基準の見直しなどを例として挙げることができるでしょう。これらの多
くは小泉-安部政権時代に実現、もしくは準備されたものですが、この「改革」
に取り組んだ側から見れば、それぞれに人生を賭した血の滲むような、人間の尊
厳を取り戻すための闘いを通して勝ち取られたものです。しかも、福田政権にな
って実現した薬害肝炎一律救済法では、カルテの証明が得られないなどの理由か
ら実際に救済されるのは全被害者の十分の一程度と見込まれています。
他方、これらの眼目から外れた「一般」の競争参加者は、競争に敗れても同情 さへ得られず、さらに悲惨な現実が待ち受けています。近代の平等思想は、新自 由主義の登場によって競争のルール面での公平さにすり替えられました。自由で 公平な競争が建前である以上、その敗者は、「いわれなき不利益を被った者」で はなく「がんばりが足りなかった落伍者」と見なされます。「がんばった者が報 われる」が政治スローガンの競争原理主義の下では、「がんばりが足りなかった 者」を救済するのは不公平(逆差別)であると発想されるのです。これを補強す るために発明されたのが「悪平等」という言葉です。
新自由主義を評した「ルール無き資本主義」という表現がありますが、強者も 弱者も同じ土俵でハンディなしに闘うという「自由公平競争」のルールと、敗者 は救済されないという「悪平等排除」のルールが厳然としてあるのです。このル ールは資本主義の大原則として擁護され、これを改める「改革」の運動は、権力 による弾圧を受けることになります。そうはいっても、競争の敗者が次々と餓死 してしまっては、経済活動に支障をきたしたり、政情不安を招いたりします。そ こで、生かさず殺さずの線での救済策として生活保護法や最低賃金制などの「改 革」が検討されるのです。それも、憲法二十五条で保障された「健康で文化的な 最低限度の生活」とはほど遠く、それこそ人間の尊厳を踏みにじるレベルでのも のです。
競争には、切磋琢磨することによって互いを高めあえるタイプのものと、限ら
れたパイを奪い合い、多くを得た者とありつけなかった者の明暗の差がくっきり
と出るタイプの二種類があるでしょう。経済競争の多くは後者であって、どんな
にがんばっても悲惨な敗者が出るのは必至です。また、前者のタイプの競争が社
会生活上のいろいろなスキルを磨くものであるとしても、あらゆるものを商品化
してしまう資本主義のもとでは、結局は後者のタイプの競争に結びつくよう意識
され、変質させられます。競争の無間地獄という他ありません。ワーキングプア
ーに象徴される日本の現状は、憲法第十八条の「何人も、・・・その意に反する
苦役に服させられない。」にも反しています。
しばしば話題になる公共事業の1円落札は、市場の開拓が遅れがちになる緊縮
財政のもと、企業間の競争が消耗戦として闘われていることを象徴するものです
。こうした手法にモラル面での批判が通用しないのも新自由主義の特徴で、労働
条件の全般的な悪化を招いています。
漸次的改革の限界
資本主義の競争には優位に立つ者をますます有利にする仕組みが備わっていま
す。途中経過がその状況をもたらした要因を強めるように作用して暴走を招く正
のフィードバック機構です。結果として、少数の勝者と多数の敗者へ二極化する
ことになります。この多数派に政権を転覆されないよう、現行施策の正当性を説
得するために語られてきたのが国際競争力論です。これを国民感情に訴えて補強
するために、資源の枯渇や他国の経済侵略の脅威などの様々な不安が煽られてき
ました。
こうした言説は眉ツバのように思われた時代もありました。しかし、二十世紀
の資本主義福祉国家という観念が社会主義国陣営への対抗意識から生まれたもの
だとして、そのタガがはずれた今、国際競争力論は虚構ではなくなったのです。
全ての国が互いにむき出しの体力勝負を強いられる時代に突入したと言えるでし
ょう。福祉政策は国際競争力を殺ぐものと位置づけられ、抜本的改革を極めて困
難なものにしています。
また、国際間の競争を口実に、国家の財政的基幹情報や資源調達・エネルギー
戦略などの長期ビジョンが、軍事的防衛情報と同格に扱われるようになり、国民
に秘匿されることになります。知る権利や思想信条の自由や表現の自由などの国
民の諸権利の制限もリスク管理の視点から合理的であるとみなされるようになり
ます。反対勢力の弾圧もおこります。こうしたことは既に現実のものとなってい
るのです。ポパーが夢想した「ひらかれた社会」が、マルクス主義思想との闘い
を通して実現されるとする観念は虚構であったと言えるでしょう。
一般論として言えば、こうした現実がただちに漸次的改革の絶対的な限界を意 味するものでないことは明らかです。「改革」の落ち着き所は資本家と労働者の 力関係によって決まります。しかし、そのバランスの位置は、資本主義権力のも とでは、大多数の労働者にとって極めて不利で、忍耐の限界ギリギリの線になら ざるを得ないのです。そのバランスの相対的な位置が、すなわち改革の限界です 。大多数の労働者は忍耐の限界近くか、せいぜいちょっとマシくらいのところで 生きて行かざるを得ないことになります。そして、その下には無視できない数の 、人間の尊厳だけを必至で保ち続けようともがく人々がいます。
資本主義の枠内での漸次的改革にこうした限界があることは、ポパーの想定外 のことであったと思います。仮にポパーが新自由主義的な思想の持ち主であった としたら、競争原理主義に反し、国際競争力を弱める福祉充実の政策などは、も はや改革ですらありません。ポパーはマルクスを尊敬していたということなので 、それは考えられないでしょう。そうだとして、漸次的改革の積み重ねによって 抜本的改革が可能になると主張するのであれば、それが可能になる道筋をマルク スに反論しつつ具体的に示すべきだったのです。
抜本的改革への道
貧困の放置や国民の諸権利の制限が国際競争力論という社会的リスク管理の視
点から合理的であると納得され、しかもこれが虚構ではないとしたら、これを克
服する道は国家の枠を超えた労働者の団結以外にありえません。これは、ナショ
ナリズムを克服する道でもあるでしょう。おそらく、国際化を進めている企業活
動にとってナショナリズムは大きな障害となるので、世界規模での資本主義の発
達そのものが、これを克服する道を準備することになると思います。ナショナリ
ズムを煽った阿部政権の挫折はこのことと関係しているでしょう。
しかしそのことを歴史法則主義に基づいて論じることは、ポパーが指摘したよ
うに、極めて弊害の大きいことであると考えます。なにより、国家の枠を超えた
労働者の団結などといったことは、資本主義の発達によって棚ぼた式にやってく
るような未来状況である筈がありません。現状は、各国の労働者がナショナリズ
ムにとらわれ反目し合っているばかりでなく、国内においてさえ公務員と「民間
」労働者の対立の構図が煽られ、双方ともに労働条件の悪化を招いているなど、
否定的な側面ばかりが目立ちます。
私は、こうしていとも簡単に労働者が分断され団結が阻害されてしまう状況は
、競争の敗者であることが確定した貧困層ですら「競争原理主義」を克服できず
にいることから生じていると考えています。同じことは、政党をはじめとしたい
ろいろな運動体にも言えるでしょう。国内労働者の団結すら確保できずして国際
間の団結などありえません。これらの問題を克服する取り組みがいかに困難な道
のりであるかを示しています。
しかし、議会制民主主義の諸原則を通して社会変革を目指すことを決意した以
上、時々の政治課題に対応して、労働者の立場からの改革を訴え続け、国民の広
範な支持を獲得する以外に道はないことも自明のことです。運動の母体それぞれ
に、当面の目標や戦術にいろいろな違いも表面化するでしょう。その際には、幅
広い団結を育てることを優先課題とし、互いに真摯な議論を続けることが重要で
す。そうして、労働者の国際的な団結へむけた具体的な取り組みが意識的に追求
されない限り、未来は切り開けないのです。
まとめ(ポパーの遺産)
証拠の再現性(検証可能性)や論理性といった基準に照らせば、マルクスの歴
史科学は確かに「科学」であると認めることはできるでしょう。だからといって
、それだけで社会に意義あるものと認められるわけでないのも自明のことです。
「科学」がしばしば悪事のお先棒を担がされてきたことは歴史の教訓です。事実
、マルクス主義の名のもとに建設された二十世紀のほとんどの社会主義国家は、
実に悲惨な結果を残して終りました。それは、マルクス主義という「科学」を、
生きた現実に適用する、その仕方を誤った結果なのだろうと思います。
ポパーは、マルクス主義がそのように誤って用いられる現場を目の当たりにし
た経験から、その危険性を早くから見通して、これを原理的に否定しなければな
らないという使命感のようなものに駆られたのです。「その2」で整理したよう
に、その危険性は、「歴史法則主義(historicism)」を強調するときに表面化し
ます。このことは、このさざ波通信でも、人文学徒さんや原仙作さんによって繰
り返し指摘された視点だと思います。ポパー理論の正しさが極めて限定的なもの
であったとしても、彼がマルクス主義を批判した視点のいくつかは、なお有効で
あるというのが私の結論です。
そこで、ポパーの提言の中から重要と思われる点をもう一度整理し、私なりの コメントを付記して終ることにしましょう。
第一に、「歴史法則主義」の立場から未来に甘い期待を寄せることは百害あっ て一利無しということ。このことは、かつては日本共産党の文献にも散見された フレーズですが、現状はそうはなっていないように思います。原仙作さんの最近 の投稿は、そのことを具体的に示しています。
第二に、議会制民主主義を通して社会変革を目指すことを決意した以上、時々 の政治課題に対応して漸次的改革を追求することがなにより優先されなければな らないということ。ただし、労働者が主人公の政権が樹立されない限り、根本的 な改革は不可能です。ポパーはこの点での判断を誤っていたわけですが、そこに 共産党の存在理由もあるでしょう。そのためには、こうした取り組みを通じて、 広範な国民の支持と団結を確保することが意識的に追求される必要があります。
第三に、時々の政治課題に対応した指導方針が間違いであった場合に機を逸せ ず撤退できるよう、それを間違いであったと判断する基準が予め明示されている 必要があるということ。これは、指導者による失敗の言い逃れ(アドホックな言 説)を許さないためのものでもあって、指導者はその失敗の責任をとるという原 則を前提とします。原仙作さんの論考を読むと、日本共産党においてはこの原則 が無視されているという現実があり、これがこの党の惨状を招いている主因であ るように思えます。
第四に、再大多数の幸福を目指した改革は、「ひらかれた社会」でのみ実現可
能であるということ。これもまた、根本的には労働者の側に立った政権が樹立さ
れない限り不可能で、共産党の大きな存在理由の一つです。この点は、日本共産
党の現行の民主集中制の改廃を伴うものでなければ国民に対しての説得力はない
でしょう。
日本共産党の科学的社会主義の内容そのものがいかに素晴らしいものであって
も、国民は、その学説を宣伝しようとしている人物や組織をまず視て判断するの
です。党指導部がいかに強弁しようとも、国民の中では、非民主的な組織原則に
しばられて、責任をとらない指導部に率いられた党という評価は、拭いようもな
い固定観念として定着しています。国民の意見に耳を傾けるひらかれた党に脱皮
しないかぎり、やがて消滅する運命をたどることになるのは必至です。
おわりに
一連の投稿のテーマは、科学と哲学が社会と切り結ぶ局面にかかわることで、
私の最大関心事でもありました。躊躇しつつ投稿を決意したのは、一般投稿欄で
の青太郎さん(3/22)の呼びかけに背中を押されたという事情もあります。やや
浮世離れした話題に偏って落胆されたのではないかと思います。また、素人の気
軽さのなせるわざと映るに違いありません。その点では、私の投稿に先行しつつ
、原仙作さんによる「共産党指導部のサークル化・化石化・小児病化とその淵源
」と題された本格的な論考の投稿が続いていて、このさざ波通信も救われていま
す。何より、私自身がおおいに勉強になり励まされました。ありがとうございま
す。
いずれにしても、私なりの問題意識を披露して皆様のご意見を頂戴し、理解を
深めたいと考えてのことです。忌憚のないご批判をお願いします。