これまでの投稿で説明不足と思われる点を、私の理解の範囲で手短に補足して おきます。
1)アドラーについて
アドラーは「個人心理学」(individual psychology)の始祖として著名ですが
、日本ではこの語感が誤解を招くとの理由から「アドラー心理学」と呼ばれるこ
とが多いようです。「その1」で書いたように、ポパーはウイーン大学に入学す
る前から、アドラーが主宰していた児童相談所の活動に参加し、この頃は実際に
孤児の面倒を看ていました。後にポパーは、フロイト同様アドラーの学説も「疑
似科学」の一種であると考えるようになりますが、表立った批判は控えていたよ
うです。それはおそらく、アドラーが、理論より実践に力を注ぎ、特に教育の現
場で実績をあげていたことを見知っていたからだと思います。現場で実績をあげ
るということは、反証に耐えるということでもあるでしょう。
現在の日本でも、アドラー心理学に傾倒する教育者や心理カウンセラーは多く
、アドラーの理論がどれだけ正確に実践に移されているかはともかく、その効果
を力説する現場の人達は多いようです。ためしに、「アドラー」と「教育」をキ
ーワードにウェブ検索をかけるとたくさんのサイトが表示されます。私の友人の
一人も、「アドラー心理学」を基礎に教育現場で仕事をしていて、個人的には好
感を持っています。
2)クーンについて
トマス・クーン(1922 - 1996)の「科学革命論」を採りあげると話題が拡散す
ると思い、ふれずにおきました。しかし、「その4」の冒頭部分に書いたことは
説明を要するでしょう。
まず、クーンは科学哲学の専門家ではないということ。物理学専攻の院生時代
にセミナーで科学史についての発表を行ったことをきっかけにこの分野にのめり
込んで進路を変え、「科学史家」として名を成したということです。しかし、1962
年に主著『科学革命の構造』を発表してこれが評判になると、たちまち、ポパー
をはじめとした科学哲学の専門家達からいっせいに批判されました。それはまさ
に激烈な総攻撃であって、そのためにクーンは精神に変調をきたしたと伝えられ
ています。主な批判のポイントは三つあったと思います。
第一に、彼の論文中で重要な役割を担うはずの用語が、意味論的に曖昧すぎて 話にならないというものです。例えば、最も重要な「パラダイム」という用語で さえ、クーンの著作の中で21の用法があるという指摘もあります。クーン自身も 、この言葉に少なくとも二つの用法が混在していたことを認め、後に「パラダイ ム」に替えてdisciplinary matrix(「専門図式」、「専門母体」、私なりには「 分野基質」)を用いるようになります。今となってはクーンの学説を「パラダイ ム論」と称してはいけないわけですが、日本では通りが良いので、私もうっかり 使ってしまいます。
第二に、クーンの科学史の整理は乱暴すぎるし間違っているとの批判です。こ れは科学哲学界のみならず、むしろ現場の科学者からの反発が大きかったように 思います。クーンにとっては致命的な批判ですが、このことに触れると長くなる のでやめます。関係する書籍としては例えば下記があります。
*スティーヴン・シェイピン(Steven Shapin)著,「科学革命とはなにか(原題 はThe Scientific Revolution):川田勝訳,白水社,1998年」
シェイピンは、もともと「科学革命」という観念は18世紀のフランス啓蒙思想 家達により生み出されたもので、産業革命を通して中世から近代へと移り変わる ヨーロッパの学問の中心に居る者らが自らを正当化しようとしてねつ造したもの であると断じています。
第三に、クーンの言説は「相対主義」であるとの批判です。「相対主義」のレ
ッテルが、すなわち批判になり得ているというのは変だと思われるかもしれませ
ん。しかし、なにごとにも厳密であろうとする科学哲学の立場からすると、相対
主義者は、相対主義の立場から自説に固執してはいけないという自己矛盾に陥る
ので、ナンセンスということになるのです。クーンもこの批判には傷ついたらし
く、熱心に反論しています。すなわち、「科学」それ自体の価値を認めるし、「
科学」は進歩するものであることも認めているという反論です。しかし、『科学
革命の構造』をどう読んでも、科学を進歩させる原理や、「革命」の前後で科学
が進歩したと判断できる基準についてきちんと示されていないことに気付きます
。クーンが科学を擁護するのは、主観的な価値論に基づくものに過ぎないのです
。
いずれにしても、クーンの学説は、現場の科学者にも、科学哲学界にも全く不
人気であるということだけは確かだと思います。私は、クーンの学説がどういう
人達によって宣伝されているのかに興味があります。
3)ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の位置
ウィトゲンシュタインの生前の唯一の著作である『論理哲学論考』は、ウイー
ン楽団のバイブルとも目されていて、バートランド・ラッセルが主査となってケ
ンブリッジ大学へ博士論文として提出されたものです。ウィトゲンシュタインは
、『論理哲学論考』に書かれた内容を後年自ら否定したと一般には理解されてい
るようです。「その1」の参考文献1にも、ウィトゲンシュタインには前期のウ
ィトゲンシュタイン(I)と後期のウィトゲンシュタイン(II)が居て、(II)は(I)を
否定したように書かれています。
しかし彼は、『論理哲学論考』の重要な点について編集者宛に書いた手紙で、
「この本のポイントは倫理的なものです。・・・わたしの著作は二つの部分で構
成されています。この本に書かれている部分と、書かれていない部分です。そし
て重要なのは、まちがいなく、書かれていない方なのです」と書き送っていると
のこと。この手紙を書いたのが、ウィトゲンシュタイン(I)の時期であることから
考えると、彼は、哲学の問題を『論理哲学論考』に凝縮して整理してみせた後、
自分には哲学の問題はもう残されていないと、おそらく『論考』の執筆段階から
感じていたのだと思います。後にウィトゲンシュタイン(II)は<言語の謎=パズ
ル>に取り組むわけですが、彼にとってそれは哲学の問題ではなかった訳です。
(もちろん、哲学界では現在でもなお彼の「言語ゲーム」についてのテクストが
哲学の問題として議論されているのですが・・・)
ウイーン楽団の学問的な成果はポパーによって粉砕された、というのが一般的 な評価のようです。こうした見方は、ウィトゲンシュタイン(I)の誤りがポパーに よって明らかにされたという評価を自動的に導くものです。しかし詳細に視ると 、ポパーの批判が成功しているかのように見えるのは、その中の「論理実証主義 」の表層だけであって、見方を変えれば、ポパーの理論は「論理実証主義」を精 密化、あるいは手直ししただけと言えなくもないのです。ウイーン楽団の考え方 は、ポパーによってねじまげられて批判されたと主張する専門家もいるようです 。これらのことは、ポパー理論をさらに精緻化しようと試みたラカトシュの仕事 をふりかえれば了解されるかもしれません。
4)ラカトシュの仕事
ポパーの後継者となったラカトシュは、ポパーの「反証可能性」のテーゼに無
視できない弱点を発見し、これを補い、ポパー理論を精緻なものに組み直そうと
しました。すなわち、ラカトシュは、「反証」の手続きそれ自体が科学の営みそ
のものであることに起因する「同語反復」の中にある自己矛盾(疑似命題の失敗
)を発見したのです。クーンもまた、一旦は反証に成功あるいは失敗したかに見
えた実験も、後年、その評価が逆転した事例が少なからずあったことなどを指摘
し、「反証可能性」にこだわると科学の進歩に害があると批判しました。
そこでラカトシュは、ひとつの科学理論は、主張の根幹である「中核部分」と
、これを取り巻いて支える保護仮説、初期条件、実験技術や誤差論などの「保護
帯」からなるとし、反証テストに際しては「中核部分」に変更を加えることなく
「保護帯」の調整を可能な限り続けるべきであって、そうしてどのように「保護
帯」をいじってもついにテストに耐えられなくなった時点で「中核部分」の反証
が完了すると考えました。当然、このような反証テストは長期にわたる歴史的経
過に委ねることになります。
ラカトシュはまた、帰納の問題についても、エッフェル塔から飛びおりてはな
らない理由をポパーはきちんと示していないと批判しました。帰納で考えない限
り、どうしたら良いか判断できないことが世の中には多すぎるとの批判です。つ
まり、「二度ある事は三度ある」が非論理的であるとしても、実社会では有益な
経験則としてあるとき、それを哲学の問題として深めるべきだと主張したのです
。
こうしたラカトシュの批判は、科学哲学界の中ではおおむね肯定的に受け入れ
られたと思います。「その3」で私は、ラカトシュの視点にプラスして、「自然
の現象学」の視点を交えてポパー理論の批判を試みました。
ところがポパーは、弟子ともいえるラカトシュを「変節者」として激しく攻撃
しました。それは、ネオ・マルクス主義者達のアド・ホックな言い逃れをラカト
シュの理論が擁護することになると考えたからです。
二十世紀のネオ・マルクス主義者達は、マルクスが予想できなかった事態に直
面し、批判への対応を迫られました。革命が、資本主義の先進国ではなく、半ば
封建主義の時代にあった国でのみ起こったのは何故か?「それは、かくかくしか
じかの理由からです」。富が一部の資本家のみに蓄積されなかったのは何故か?
「それは、これこれの理由からです」等々・・・。こうした反論は、ポパーにと
ってみれば疑似科学に典型的なアド・ホックな言い逃れですが、ラカトシュの説
では、「保護帯」の調整と位置付けられ、マルクスが打ち立てた理論の「中核部
分」が変更されない限り、むしろ推賞されるべき理論の精緻化ということになり
ます。ポパーの攻撃はラカトシュの死後も続いたとされています。
5)フッサール現象学
「その3」においては、フッサールの手法である「現象学的還元」が、本質的
には近代科学で用いられるインバージョンと同じものであるとの認識を示しまし
た。インバージョンにとって重要なのは、モデルを基礎付ける観察事実ですが、
フッサール現象学にとっての観察事実は、次のようなものでしょう。
すなわち、人が実在の物体とは何の関わりもない点、線、面などの図形の概念
を持ちうるということ、その図形の学である幾何学が実在する物体の運動につい
て純粋な記述でありえるということ、人がそれらの概念を共有できるということ
、例えば「三角形」が、サイズや形の違いによらず、誰によっても同一の概念像
を形成しうるということ等々・・・。フッサールは、このように実在の物体や知
覚された像とは無関係に、誰によっても誤解の余地無く同一のものと認知されう
るような対象概念を、与件としての理念の一つの態様と考えました。こうした純
粋意識の機能の観察にとって、人が持ついろいろな先入観は大きな妨害要素とな
るので、客観的世界が実在するというアプリオリな信念についての判断停止をも
とめたのです。
6)ポパーにとっての民主主義
ポパーは「ひらかれた社会」の重要性を説きました。それは、進歩は試行錯誤
によってもたらされるという「推論と反駁」のテーゼに基づいています。そこで
は、民主主義を社会の進歩にとっての重要な前提条件と位置付けるのですが、そ
れは、支配者を正しく選ぶ条件としてではなく、支配者を流血なしに交替させら
れる条件として必須のものと考えられたのです。この思想は、ヒトラーが手続き
上は正統に権力の座についたことの反省としても正しいと考えるなら、民主主義
というものの内実について絶えず深めること、そして、それに基づく法整備など
の必要性をも教えていると思います。
ところで、「我々はmistakeから学びうる」というポパーのアイデアの、mistake (誤り)を、fault(過ち)の意味を含めて拡大解釈すると、ポパーの思想をさら に深めることが可能であると考える専門家がいます。しかし、ポパーがあくまで 科学哲学の範疇で構築したテーゼについて、そうした倫理学的な拡大解釈はやっ てはならないことだと考えます。それはラカトシュによる批判と深化を無効にし てしまうということ以上に、倫理学的な価値判断は、相対主義に陥る危険を招く という理由からです。そう考えると、民主主義を運営していく中で、特定の施策 や指導方針が結果的に誤っていたと判断される基準が事前に明示されていること の重要性が理解されると思います。
7)ウイーンがナチズムに染まる頃
ウイーン学団の精神的支柱と考えられていたのは、アインシュタイン、バート
ランド・ラッセル、ウィトゲンシュタインの三人です。特にウィトゲンシュタイ
ンは、ウイーン学団の主力メンバーから神のようにあがめられていたのに、彼ら
とは常に一線を画していました。一方でポパーはウイーン学団のメンバーになり
たがっていたのに、ついに声がかかることはなかった。ウイーンがナチスに蹂躙
されることがなく、ウイーン学団の活動が続いていたなら、その後の科学哲学界
の動向は大きく異なっていたでしょう。
しかし、そうならなかった理由についても、私たちは学ばなくてはなりません
。ドイツでヒトラー政権が誕生するのが1933年8月ですが、その頃まだウイーンで
は、科学や芸術・文化が花開き、ウィトゲンシュタインの実家には著名な音楽家
らが出入りし、ウイーン学団の絶頂期でもありました。34年末にはポパーの『科
学的発見の論理』も出版されます。ドイツでユダヤ人排斥の制度を定めたニュル
ンベルク法が公布されるのは35年9月です。
1936年の6月、ウイーン学団は、リーダーだったシュリックが精神を病んだ教え
子の大学院生に銃殺されたことに端を発して、ユダヤ人排斥の波にのみ込まれ、
活動を停止します。1938年3月にオーストリアがドイツに併合され、4月にはその
ことの是非を問う国民投票が行なわれ、オーストリア国民の実に99.71パーセント
の支持が表明されるまでになります。
4年にも満たないこの間の圧倒的落差はどうでしょう。ウイーンで花開いた文
化は、ナチズムに対抗する防波堤として、事実上なんらの役割も果たし得なかっ
たのです。哲学もまた例外ではなかったと言えるでしょう。この時マルクス主義
がナチズムに対抗する力を発揮する契機をつかみ得なかったのはなぜでしょうか
。