さつきさん、連続で大変長い、珍しい論文を、お疲れ様でした。僕の読後感として、科学方法論から見た「科学的社会主義」という側面から感想のようなものを書いてみます。
①先ず初めに、こういうことが学べました。自然科学が自然科学として存立していくために当たり前のことが、いわゆる「科学的社会主義」の実践においてはずっと考慮されて来なかったのだなと振り返っていました。
『結局、ある学説が「科学的」なものであると言えるための要件についてポパーは、間違いであることを検証する(つまり反証する)手だてがその説自身の中に明示されていること(反証可能性)であると結論しました』
こういうような検証の手だてが、(日本)共産党の重点方針立案時に多少とも考慮され、明示されていたならば、その実践の総括のたびにその方針がもっと科学的なものになっていったはずだがなーと僕は振り返っていました。
ところが、こういう観点からの「総括」などは現実にあった試しはなく、現実はむしろ「この重点目標は達成できなかった。しかしこれは党員による理解が不十分で皆が動かなかったからだけのことであって、正しい方針には違いないのだから、これからも重点である」と、こんな風にばかり処理されてきたのではなかったでしょうか。
②またもっと広い科学方法論としても、観察の知識負荷性とか不確定性原理とか、自然科学でも正しい仮説を立てることこそ最重要の作業だとか、これらのいわばなにか「主観が客観に浸透してくる」側面があるということも、何か改めて新鮮に読みました。このことは、ドイツ古典哲学最大の問題「主観と客観の問題」をちょっと振り返っても分かることです。そのように、これがそんなに単純な問題ではなく、主客が実際にはそんなに単純、明確に分けられるようなものではないということを想起していました。これについても、「科学的社会主義」は極めてプリミティブな、素朴な理解、態度に終始してきたなと振り返っていました。
③また、マルクス主義本来の、最重要の概念「実践」こそ、「科学的社会主義」にも、ポパーにも最も見えていなかったものではないだろうかと、考えていたものです。ちなみにこの実践概念によってマルクスは主客の統一を原理的に準備したと言えるのだと思います。
「科学的社会主義」が「実践による検証」などと語るからと言って、それをその十分な広がりに於いて捉えているということにはなりません。それは、主客を事実上厳然と分けて、その上で認識できるとただ語っているに過ぎません。ここに考え及んで僕は、素朴実在論とか素朴反映論とかいう言葉を思い出していたものです。
この点にかかわってポパーにおいては、こんな部分が壁だったのだなと、読んだものでした。さつきさんの論文のモチーフ、主要論点もまさにここにあると僕は思ったものですから、長くなりますが。
『ウィトゲンシュタインは、彼の「論理哲学論考」の中で、数学的な証拠や論理的推論は単なる同語反復にすぎないことを指摘しています。それらはどんなに精緻なものであっても、例えば、「雨は降るものだとすると、雨は降っているか、降っていないかである」、あるいは「人間は死ぬ。Aさんは人間である。従ってAさんは死ぬ。」といった命題と本質的には同類です。これらの命題は、文や方程式の内的な関係について語っているにすぎず、現実の世界についてはいかなる情報も与えてくれないし内容がない、とウィトゲンシュタインは主張しました。(中略) 実際多くの科学者は「仮説検証法」を多用しながら研究を進めています。しかし同時に、多くの科学者は、検証よりもむしろ仮説構築に労力を割いているというのも事実です。ところがポパーはこの仮説構築のプロセスや仮説の論理構造そのものについてみるべき考察を行なっていません』
ポパーも結局、「実践」、現実世界を遠ざけてしまったということでしょう。科学としてもこういう彼の主張は全く狭い世界しか保証しえないことになるのですね。マルクスが「観照の哲学」と語ったものではないでしょうか。ウィトゲンシュタインが上記のようなことを語るのであれば、後年ポパーとは正反対の方向に進んでいったというのもよく分かる気がしました。これこそ「日々実践的に生きている人間というものをも食らい込もうとせざるをえない、まっとうな哲学者」というものでしょう。
④「科学的社会主義」とポパーの科学哲学、この両方を観ながらの、正しい哲学、正しい主体性の建て方、実践概念については、さしあたってはこういう以外にありません。
人間社会は自然史と違って、意識が変えるという側面があります。特に現在の進んだ資本主義社会の変革はそうのはずです。選挙などで国家という上部構造を変えなければ何も始まらないのですから。そして、この国家をめぐる攻防においては、その都度正しい政治方針が立てられているということを実践で証明して見せて、この正しさを体験させることによって多くの人々を結集していくことが肝要なのではないでしょうか。教育や宣伝だけではまったく不十分なのであって、その教育、宣伝のためにもそうだとは、レーニンがいつも言ってきたところでした。これは、原仙作さんがレーニンの「左翼小児病」を引用していつもここで語ってきたことでもあります。
なお、意識が問題だという意味では、労働者であるというだけではそういう意識の保証は全くないと、そんなことも今は重要だと考えています。
⑤ソ連型社会主義、「科学的社会主義」はなぜ、全体主義に成り果てたのでしょうか。
他にも理由はありましょうが、少なくとも客観主義哲学(窮乏革命論的視点を含む)と民主集中制がその2大要因だったことは間違いないと思います。
この点にかかわって、論理実証主義哲学の大家のこんな言葉を今回の結びに代えたいと思います。
「人間の歴史のいかなる時期においても、その時期の政治や宗教、哲学、芸術は、マルクスによればその時期の生産諸方式の結果であり、またより少ない程度に分配諸方式の結果である。わたしはこのことが当てはまるのは、文化のあらゆる詳細な点にいたるまでではなくて、文化の大ざっぱな輪郭に対してだけである、と彼が主張するのであろうと考える。この教説は『唯物史観』と呼ばれていて、きわめて重要な主張であり、ことに哲学史家の関心を魅くものである。わたし自身は、その主張をそのままそっくり受け入れる者ではないが、わたしはそれが、真理の重要な諸要素を含んでいると考えている。そして本書に述べた哲学の発展に関するわたし自身の見解が、その教説に影響されていることを自ら意識しているのである」(バートランド・ラッセル「西洋哲学史」、みすず書房、市井三郎訳、下巻261ページ)
マルクス主義へのスタンスでは、ポパーの学位取得を援助したラッセルは、ポパーとはかなり違うようですね。
なお、文中の以下の言葉は、主体性を正しく理解して客観主義を戒めるという観点では、極めて重要なものだと考えています。
「わたしはこのことが当てはまるのは、文化のあらゆる詳細な点にいたるまでではなくて、文化の大ざっぱな輪郭に対してだけである、と彼が主張するのであろうと考える」
この点については、マルクスよりも客観主義が強いと見られてきたエンゲルスですらこう述べています。ただしマルクス主義古典には、こういう側面の叙述は極めて少ないです。
「経済的発展がこれらの諸領域に対しても究極において主権を有するということは疑い得ないことであるが、しかしこの究極的規定作用は、個々の領域そのものによってあらかじめ決まっている諸条件の内側でおこなわれる。経済はここでは、新規には何ものをも作り出すことはないが、しかしそれは既存の思想材料の変え方と発展のさせ方とを規定する。しかしそれといえども、たいてい間接にである」(「シュミットへの手紙」真下信一訳)