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「科学的社会主義」討論欄

不破哲三の「マルクス・エンゲルス革命論研究」における虚言癖の一例

2009/2/6 原仙作

 『前衛』の3月号の不破哲三による「マルクス、エンゲルス 革命論研究⑧」について簡単な批判を行うことにします。この論文は党幹部への講演を一般公開したもので、そのモチーフは不破の「多数者革命論」を基礎づけるためにマルクス、エンゲルスを生まれながらの議会主義の”クレチン病者”(=平和革命論者)に仕立てることにあります。その議論のモチーフからすれば、ドイツの事例に深入りすることは鬼門なのですが、この3月号では叙述の過半がドイツにおけるエンゲルスの革命論にあてられています。ドイツが鬼門だというのは、プロイセンが覇者となった当時のドイツは専制国家であり、議会で多数を得ての革命など最初から問題にもならなかったからです。不破はどこかで誰かにマルクスらの平和革命論に関してイギリスだけを取り上げることの不当性を批判されたのでしょう。不破は次のような文を書いています。

「ここでよく問題になるのは、マルクスは『議会の多数を得ての革命』の問題を論じるときに、なぜイギリスやアメリカの場合だけをあげて、・・・フランスの場合をあげないのか、ということです。」(同3月号200ページ)

 「フランス」というところがご愛嬌ですが、不破が実際にページの大半を割いているのはドイツです。不破は誰かにドイツを例にその”クレチン病”ぶりを批判されたのでしょう。躍起となってドイツではエンゲルスは平和革命の誤りを警告していると不破は強調しています。
 それはいいのですが、不破はもう習慣となっているかのようにウソをついているところがあります。不破はエンゲルスの「家族・私有財産・国家の起源」から次の文章を引用しています。引用は不破の引用のままに掲載します。

「普通選挙権は、・・・・労働者階級の成熟をはかる尺度である。今日の国家においては、普通選挙権は、それ以上のものではありえないし、決してそれ以上のものにはならないであろう。しかし、それで十分でもあるのだ。普通選挙権の温度計が労働者のあいだで沸騰点を示す日には、労働者も資本家も、自分の置かれている立場を知るであろう。」(不破、同3月号203ページ)

 止めればいいのに、何を血迷ったか、不破はこの文章を引用して「議会の多数を得ての革命」論に利用しようとしています。しかし、普通に読めば、当時にあっては普通選挙権は「労働者階級の成熟をはかる尺度」以上のものにはなりえないというのがエンゲルスの主張です。だからこのエンゲルスの主張は不破の持論である「議会の多数を得ての革命」論への反対論なのです。ところが不破は、このエンゲルスの文章に次のような注をつけて”細工”を施すのです。

「この文章を、『議会の多数を得ての革命』を一般論として否定した命題として読むことは、エンゲルスの真意を誤解したものです。これは、ドイツでの普通選挙権の限定的な役割を説明した文章で、ここで言う『今日の国家』とは、ドイツ新帝国のことです。」(不破、同3月号、203ページ)

 やれやれというか、不破の老人ぼけというべきか、はたまた老人性虚言癖が高じているというべきか、エンゲルスのような文章の達人が「ドイツ新帝国」という特定の国家を「今日の国家」というような一般的な用語で表現するはずがないのです。そこで不破の注が本当かどうか調べるために「家族・私有財産・国家の起源」から不破の引用より広くエンゲルスの文章を抜き出してみましょう。調べは簡単についてしまいます。
 不破の注がウソであれば、不破の「議会の多数を得ての革命」を基礎づける古典研究が一挙に瓦解するという格好の事例です。簡単明瞭でイデオロギー解釈が不要な日本語読解問題です。マル・エン全集の訳は不破の引用とは若干異なります。

「最高の国家形態である民主的共和制は、われわれの現代の社会関係においてますます避けられない必然となりつつあり、またプロレタリアートとブルジョアジーのあいだの最後の決戦をたたかいぬくことのできる唯一の国家形態であるが、─この民主的共和制は、公式にはもはや財産の差をまったく問題にしない。民主的共和制のもとでは、富はその権力を間接に、しかしそれだけにいっそう確実に行使する。一方では、これは直接に官吏を買収するというかたちでなされる。その典型的な見本はアメリカである。他方では、これは政府と取引所の同盟というかたちでなされる。・・・アメリカ以外では、最新のフランス共和国がその好例であり、実直なスイスもこの分野では相当なことをやってのけた。しかし、政府と取引所とがこういう兄弟同盟を結ぶのになにも民主的共和制が必要でないことは、イギリスのほかに新ドイツ帝国がこれを証明している。このドイツ帝国では、普通選挙権が、ビスマルクとブライヒレーダーと、どちらの勢力をいっそう高めたかは、なんとも言いかねる。そして最後に有産階級は普通選挙権を手段として直接に支配する。被抑圧階級が、したがってわれわれの場合にはプロレタリアートが、まだ自己解放をなしとげるまでに成熟していないあいだは、彼らの大多数は既存の社会制度を唯一可能な制度として認めるであろうし、政治的には資本家階級の後尾、その最左翼をなすであろう。しかし、彼らがその自己解放にむかって成熟するにつれ、彼らはみずからを独自の党に結成し、資本家達の代表ではなく彼ら自身の代表を選出するようになる。だから、普通選挙権は労働者階級の成熟度の計測器である。それは、今日の国家では、それ以上のものにはなりえないし、またけっしてならないであろう。しかし、それで十分でもあるのだ。普通選挙権の温度計が労働者のあいだで沸騰点を示すその日には、労働者も、また資本家も、どうすべきかを知るであろう。だから、国家は永遠の昔からあるものではない。・・・」(マル・エン全集21巻171~172ページ)

 省略をなるべく避けたために引用が長くなりましたが、「今日の国家」を「新ドイツ帝国」と読むのは国語の読解問題として誤りであることがわかるでしょう。エンゲルスは「今日の国家」を文字通りの一般的な意味で使っていることがわかります。というわけで、不破は日本語の読解力がないのかウソをついているのか、どちらかということになり、100冊にも上らんとする著作を出しているのですから、読解力がないのではなく、ウソをついていると断定するしかないのです。これで不破苦心の「議会の多数を得ての革命」論をマルクス・エンゲルスの古典で基礎づけるやり方が瓦解してしまったことは明瞭です。