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「科学的社会主義」討論欄

世界革命=人類のパラダイム・シフト(1)

2009/5/7 百家繚乱

 ①自己組織化と合目的性

 トロツキー・グラムシによれば、弁証法の3原則の中では質量転化の原則が、最も 重要だと言う。物質の質量転化は物質の古い秩序から新しい秩序への転換であり、物 質のパラダイム・シフトである。政治的に表現すれば革命の原則である。物質の決定 論的運動は粒子的なゆらぎ・振動を捨象して成立する。一般的には多少のゆらぎがあっ ても、全体としては安定した軌跡・関係を維持する。しかし、相転移(質量転化)の 閾値周辺では、ゆらぎが増幅し予測不能のカオス現象が発生する。カオス現象は予測 不能であっても無秩序ではない。無秩序は熱平衡だから次の秩序に向かって転移しな い。物理現象においては雲や結晶のような自己組織化現象が発生する。これは非線形 的な運動でカオス的な現象であり、予測が極めて困難である。自己組織化現象は新し い秩序の発生・形成であり、質量転化(パラダイム・シフト)でもある。生命現象は、 この物質の自己組織化運動の中から発生したのは明かである。生命体は細胞膜内で、 様々な物質の自己組織化運動を巧妙に組込む。細胞膜自体がタンパク質と脂質の自己 組織化運動によって形成される。遺伝子は物理的には自己組織化運動によって発生し た物質だが、生体全体の設計図としての機能を持っている。生命現象は、多様な物質 の自己組織化を遺伝子の設計図に基づいて繰返す、合目的的な現象である。
 雪には様々な結晶構造があり、人間は同じ結晶構造を持った雪を作る事は出来ない、 と言われる。ところが、生命体は遺伝子の設計図に基づいて、多様な物質の同じ構造 を持った結晶を作っては壊す事を計画的に繰返す。生命体は全体の運動から見れば、 それほど不可思議な現象ではない。人間は犬や猫を飼うし、鶏は籠の中に閉じ込めて も、餌さえやれば卵を産む。大地に種を撒けば花を咲かせたり、果実・穀物を実らせ る。しかし、ミクロ的に見れば、どんなに単純な生命体(ウィルスを除く)であって も、実に神秘的な世界である。生命現象は物質のパラダイム・シフトを計画的にコン トロールする現象である。予測可能性という視点から見れば、物質のカオス現象は予 測が極めて困難であっても、予測不可能な現象ではない。しかし、多様な物質のカオ ス現象を計画的に結合・分離しながらコントロールする事は、極めて遠い未来世界の 課題である。種を大地に撒けば、成長する事は子供でも理解できる。しかし、ミクロ 的にどうやって成長して来るのかとなると、例えいかなるスパーコンピュータを駆使 しても、説明不可能である。今日の人類にとって、生命現象は極めて神秘のベールに 包まれた世界である。
 今日の生物学・医学は結果から原因を推定しているだけであって、どのようにして 因果性が獲得されたのかは、全く謎である。転移RNAとアミノ酸は一対一で対応し ているが、その必然性はないと言う。こうした偶然性は全生命現象の特徴である。物 理化学的には生命現象は偶然な現象の連鎖である。多様で偶然な現象を結合・分離し、 合目的的に再生産するのが生命現象だ。生命体は様々な物質の結晶や雲を自己組織化 的に再生産するが、なぜそれが再生産されたのかは偶然であって、物理化学的には他 の物質によって置換え可能である。生命現象は偶然な現象を必然性として、置換え不 可能な現象として再生産する。従って、生命現象は物理化学的な決定論の世界からの 離陸である。生命それ自体は自由な意志を持たないが、物理化学的な現象に対しては、 自由な意志を持っている様に振舞う。
 複雑系の理論によれば、新しいマクロな秩序の発生は創発である、と言う。創発は それ自体としては自己組織化的な過程であって、合目的的な過程ではない。物質は元 来盲目的で必然性の奴隷である。物質は一般的には熱平衡(無秩序)に向かう傾向を もつ。だが、物質は相互作用の中で、自己組織化する傾向をも持っている。生命は物 質的な必然性(自己組織化)を利用して、己を熱平衡(死)へと向かう必然性から開 放する。自己組織化現象を合目的に組織化する事によって、熱平衡に対抗する。生命 は物質の自己脱出的な創発、合目的的な創発の開始である。生命は物質的必然性から の、最初の自由である。
 人間の世界においては、自然発生的な運動と意識的な運動がある。種を撒くのは意 識的な運動であり、種が成長するのは自然発生的な運動である。物質の自己組織化現 象は自然発生的運動であるのに対して、遺伝子の設計図に基づいて運動をコントロー ルするのは合目的な運動である。この合目的性は自然淘汰によって獲得されたが、自 己組織化的に発生した合目的性でもある。物質の物理化学的世界には自己組織化現象 はあるが、合目的的な現象はない。自然現象は多様で偶然性に満ちている。遺伝子は、 多様な現象の中から選択された結果である。生命の合目的性はこの偶然性を必然性に 高める。進化は生命体の新しい質の獲得であり、生命のパラダイム・シフトだ。だが、 他面では進化そのもが生命のパラダイムだと、見る事も出来る。進化のパラダイムは 自己組織化的過程であって、合目的的な過程ではない。生命の合目的性は物質の盲目 性に対する新しいパラダイムであるが、このパラダイムの転換は盲目的である。進化 のパラダイムは盲目的であったとしても、全くランダムで偶然にゆだねられてきた訳 ではない。進化における大脳の発達に見られる様に、ある種の機能(神経等)が産れ ると、その機能を一段と強化する方向性が働く。人間の場合は言語獲得に向って淘汰 の圧力が高まったと想定できる。個体の発生過程から考えれば、系統進化の過程は自 己組織化的な発生過程として見る事が出来る。言語活動は精神活動の発生の基盤となっ た。人類における前頭葉の発達は精神活動に対する選択圧力の結果であると推定でき る。

 ②生命と自己意識

 ドーキンスによれば遺伝子は利己的であると言う。しかし、遺伝子そのものが欲望 を持っている訳ではない。単細胞生物も欲望を持っているとは認められない。欲望は 神経活動であって神経組織を持った動物のみが持つ感情である。欲望は欠乏した物へ の感情である。自己と自己自身ではない状態との矛盾した状態(苦痛)から、自己の 同一性を回復しようする衝動である。ヘーゲルによれば、「苦痛は矛盾の感情」であ り、「生命的自然のもつ特権」であると言う。苦痛は欠乏の自己感覚と言える。単細 胞生物や植物は神経組織を持たないから、感覚自体を持たない。しかし、これらの生 命体においても、自己の生命システムにおける欠乏を物理化学的に感知し、その充足 のための物理化学的な機構が発動する。性は異性の欠乏である。この欠乏している物 は物質代謝のための要素だけではなく、自己増殖のための関係をも含む。欲望は欠乏 の意識的な表出である。意識は記憶から開始する。過去と現在の変化と同一性の区別、 この区別を貫く必然性(因果性)の抽出と記憶、この記憶による未来への予測である。 従って、学習能力を持たない動物には、欲望を認める事は出来ない。欲望は、それを 満たすための条件を過去の記憶から抽出する能力なしには存在しない。記憶によるコ ントロールを受けない行動は単なる機械的な反応に過ぎない。欲望と記憶は不可分の 関係がある。欲望は課題の提起である。一般的には、課題はそれを解決する能力なし には認識し得ないし、発生もしない。
 神経組織は個体外の環境情報と内部環境に対する情報を管理する。内部環境に対す る情報統制はほとんど無意識的で本能的な過程だが、外部環境に対しては学習活動に よって記憶情報による統制も受ける。高等な動物においては、記憶情報は記号情報と して外部化し、個体間で通信される。動物の学習過程は動物の合目的性の獲得でもあ る。記憶は外界の単なる写像ではなく、外的な必然性の内部化である。学習によって、 個体は結果を原因として定立する能力を獲得し、外的な自然必然性から己を解放する。 遺伝情報は生命体が長い自然淘汰の過程を通じて獲得した学習情報だが、個体的な学 習による記憶ではない。淘汰の外圧によって、外的に刻印された記憶情報だ。神経組 織における記憶情報は個体が環境との相互作用・試行錯誤を通じて獲得した学習情報 である。外圧によって刻印された合目的性ではなく、自らの行動を通じて獲得した合 目的性だ。しかし、一般的には後天的に獲得した学習情報は、個体の死と共に消滅す る。高等な動物社会では、学習によって獲得した記憶情報は社会の文化として世代間 で受継がれる事もあるが、極めて限られた範囲に限られる。
 人間の言語情報は個体的な制約から解放される。個体の学習情報は共同体の学習情 報となって蓄積され、更に、共同体間の言語交流を通じて類的な学習情報となって蓄 積される。動物においては、学習情報は個体的な経験を通じて発生的に獲得する以外 になかったが、人間社会においては、言語情報を通じて先験的に学習情報を獲得する。 言語情報そのものは経験的にしか獲得できないが、言語活動を通じて共同体の経験を 先験的に獲得する。共同体内のコミュニケーションにおいては、観念上の「共通のルー ル」、思考の枠組みがある。共通した思考の枠組み、つまりパラダイムなしには会話 は成立しない。学習情報の先験的な獲得はパラダイムの受容でもある。児童はこの受 容によって、共同体の学習情報を先験的に記憶する。言語は個体の認識の道具である が、同時に共同体の認識の道具でもある。共同体の認識から見れば、個体の認識は手 段であり道具に過ぎない。個体の経験と認識を通じて、共同体自身も新しい認識と能 力を獲得する。
 記憶は外部環境の反映であるが、幼児は外部世界と己の存在を区別できない。自我・ 自己意識は極めて高度な精神活動である。己の進路を己の意志で決定できるようにな る精神活動は、高学年の児童からである。幼児は世界と共同体を有りのままに受取り、 そこから多くの経験を先験的に獲得する。同時に個体的な経験を通じて、共同体に働 きかけそれを改造する事によって、共同体から自立する。こうした主体的な経験を通 じて児童は己の意志で世界の前に立つ。教師は教育される事によって、教育する事が 出来る。共同体と児童の関係も似た様な関係にある。共同体自身が児童から学ばねば、 児童も共同体から学ぶ事は出来ないし、自立する事も出来ない。元来、人間の社会関 係においては、組織と個人の関係は従属関係になっていない。個人は組織のパラダイ ムを受容する事によって、共同体から多くの経験を先験的に獲得できるが、同時に、 独自な経験と思考を通じて、パラダイムを変革する自立化した主体でもある。個人の 自立性を否認すれば、パラダイムの進化は停止する。個人は組織の一部であるが、人 間の意識的な関係においては、個人と組織は対等平等の関係にある。個人の認識の方 が、組織の認識より優位に立つ事は珍しい事ではない。むしろ、パラダイム・シフト (進化)はこの様な優位性の逆転によって起きる。
 人間は共同体から言語を通じて先験的に学ぶが、この先験性が人間の想像力を高め る。人間の意識は単なる外部環境の反映ではなく、外部環境そのものを改造し創造す る自立化した反映である。人間の意識が物質の単なる反映でしかないとすれば、人間 の意志には自由が無くなる。単なる反映論では、人間の意識は物質的に決定される。 反映論と決定論は双子の関係にある。人間の意識は物質の受動的な反映ではなく、物 質から離れて「一人歩き」し、物質に対して己の姿を押付ける創造的な反映である。 観念は「一人歩き」するからこそ、自由であり創造的なのだ。反映である限り、何ら かの創造でなければ成らないし、その点では制約を受けている。想像力は空想力とし ての性格をも持っている。空想力は幻想的な力となって現れる場合もある。可能性は 不可能性と不可分な関係になっている。可能性が現実性に転化するかどうかは、やっ て見なければ分からない。一時的に失敗しても、試行錯誤を繰返せば実現するかも知 れないし、無理かも知れない。この矛盾が産み出す苦悩こそ、人類の進化の原動力で ある。

 ③自己意識と自由

 物質運動はミクロ的には確率論的にしか予測し得ない。しかし、一般的には決定論 的な予測が可能な場合が多いし、物理化学は決定論的な予測によって発展してきた。 ただ、カオス理論によれば、物理化学的にも決定論が通用する現象はそれ程広くない。 同一の法則的な現象でも、最初のほんのわずかな初期値の違いによって、全く異なっ た結果として現れる。生命現象そのものは物理化学的な現象の連鎖である。しかし、 この連鎖は長い淘汰の歴史によって、複雑に組み合わされた合目的的な物理化学現象 となった。この現象は遺伝的に決定されているだけではない。外部環境の変化によっ てダイナミックに運動軌跡が変動する。更に、学習能力を持った動物になると、精神 現象に似た生命活動が現れる。
 精神現象は物理化学現象に解消する事は不可能である。精神現象とは必然性を認識 し、その必然性から己を解放する現象である。従って、精神現象自体の必然性を認識 する事は出来ない。もし、その必然性が認識されたら、認識された精神は直ちに己の 必然性を克服しなければ自由な精神を失う。必然性を認識された人間の精神は、認識 した他者の奴隷となり自由を失う。精神は自由であり、予測不能である事に精神の精 神たる所以がある。とは言え、ある程度の確率論的な予測は可能でなければ精神の調 和も成立しない。人間社会の契約・信用・信頼関係による一定の予測は可能だ。これ は物理化学的な予測ではなく自由な意志による予測である。物理化学的には精神現象 を決定できない、この決定不能性こそ精神現象の核心である。ある程度の確率論的な 予測は可能だとしても、こうした予測自体が確率の変動要因となってしまい、正確な 確率予測は極めて困難である。
 高等動物の感情や意識は、どうやって生まれ、どんな内容かとなれば、全く分から ない。第一、彼らにも感情や意識があると認められたのは、つい最近である。動物の 意識は対自的な意識になっていない。つまり、己の意識を意識できていない。心理学 的には「無意識」に近い意識(随意運動)だと思われる。人間においても無意識的な 随意運動は広範な領域を持っているのであって、無意識的だからといって意識が無い とは言えない。自我は極めて高度な意識で、ほんの一部の動物だけが持っている。自 己意識のない意識は、自己組織化的に発生した意識である。自我を持った動物の意識 も、自己組織化的に発生した自己意識に留まっている。単純な自己意識(自我)は意 識的な計画性ではない。一般的には、意識的な過程は合目的的な過程である。動物の 合目的性(随意運動)は肉体諸器官(環世界)に対する合目的性であって、生命の合 目的性の延長でしかない。この合目的性は遺伝子の合目的性から自立した新しい合目 的性の獲得でもある。合目的性の合目的的な獲得ではないが、その準備である。
 人間は言語活動と創造的な活動を通じて、経験的な世界(環世界)と世界自体を区 別する能力を獲得する。世界と他者に対する創造性・主体性は、己自身に対する主体 性・創造性に転化する。己自身に対する主体性は、自己の意識を意識的(対自的・合 目的的)に獲得する創造性である。精神現象は合目的性を合目的的(意識的)に獲得 する現象である。自己意識なしでは合目的性を合目的に獲得する事は出来ない。自己 意識の合目的的な獲得によって、意識的な計画性が産まれる。精神現象は、生命現象 の中に現れた生命現象、と言える。精神は生命現象を合目的的に獲得する。ある種の 昆虫は本能的に種を撒くが、精神は合目的的に種を撒く。
 学習能力は精神活動に似た能力であるが、精神活動ではない。外的な環境情報を記 憶し、この記憶に基づいて己の行動を制御すれば、外的な必然性から己を開放できる。 風は動物の自立性を奪うが、風の力(必然性)を内部化し、利用すれば空中を飛翔で きる。しかし、学習の結果によってコントロールされた環境と己の交互作用そのもの は必然的な過程となる。従って、己の内的な必然性(欲求・行動原理)を対自的に認 識し、この必然性を意識的にコントロールしなければ、この交互作用の必然性から開 放されない。精神活動は、己の必然性や思考を意識的にコントロールする事によって、 外的な必然性を内的な目的の実現の手段に転化する。人間の想像は単なる思い付きで はない。それは内的な必然性と外的な必然性との複雑な絡み合いの中から産れ出た人 間の直観だ。人間は物理的な制約によって、空を飛べない。しかし、人間の共同的な 想像は飛行機を創造した。「地球の重力から自由になりたい」と言う人間の願いは、 数多くの人間の共同的で創造的な努力を産んだ。この努力は己の持っている力の限界 への挑戦である。自己意識は、己の意志が己自身の主人として生きようとする、自己 変革的・創造的で自由な意志である。
 精神は自然を理解し、改造しようとする。生命は合目的的な物質システムであるが、 精神は物質システム全体を合目的的な過程に転化しようとする現象だ。地球は人間を 育んだが、それは地球全体を合目的的に管理するために育んだ、と言える。長い間、 物質は意志を持てないと考えられてきた。しかし、これはとんでもない誤解である。 なぜなら、物質が意志を持てないならば、物質たる人間も意志を持てない。人間の意 識は地球の自己意識である。今日の人類全体の自己意識は、単純な自己意識(自我) から抜け出せていない。己の利己的な欲望から開放されていない。その点では、人類 の精神は今だに自然発生的な精神でしかない。新自由主義は人間の精神が盲目的であ る事を誇りにしている。利己性の奴隷である限り、人類はこの盲目性から抜け出せな い。人類は共生的な関係を通じて、利己的なパラダイムを乗越える事ができる。共生 的なパラダイムによって始めて、精神は自己意識を獲得できる。

 ④利己的遺伝子と人為淘汰

 ドーキンスによれば、遺伝子に対する生命の利己的な行動は、あらゆる動物に共通 した現象である。アリやミツバチの昆虫社会は、極めて高度な社会構造を持っている。 この社会では個体は社会の一部であり、社会全体が一個の個体のように振舞うが、社 会構造は遺伝的に決定されている。昆虫も最近では、ある程度学習能力を持っている と考えられ始めている。しかし、昆虫の学習能力はその寿命と脳容量から見て、極め て限られた能力であろうし、社会構造に与える影響は限られたものでしかない。この ような高度な社会構造を持った昆虫社会においても、個体の利己的な社会構造には変 りないと言う。同じ働きバチでも、自分の近縁の遺伝子を持った幼虫を優先して育て ようとする。
 個体自体を細胞社会として観察すると、昆虫社会の構造は神経組織を持たない植物 的な細胞社会に近似している。昆虫社会においては、個体的には別として、社会的に は学習能力は存在しない。女王は社会の中心にあっても、単なる生殖器官に過ぎない。 植物的に表現するならば、単なる花弁である。特別な種(デバネズミの一種)を覗い て、高等動物においては、昆虫社会のような高度な社会構造を持った動物は存在しな い。だが、高等動物においては、リーダーが発生してくる。リーダーの下に順位や縄 張が発生する。動物社会の集団は利己的な競争原理で支配されている点では昆虫社会 と変らないが、学習能力の獲得によって集団独自の習慣・文化が後天的に蓄積される。 遺伝子はこうした習慣・文化を予定し、受容するように変異して来ている。つまり、 高等動物の社会構造においては、獲得形質が社会的に保存され変異している。従って、 高等動物の世界においては、共生的な欲望が後天的に形成され獲得される。遺伝子は 個体の自己保存と増殖のための基本的な欲望・行動しか規定し得ない。個体が動物社 会の中でいかなる欲望を持ち、行動するかは決定し得ない。遺伝子が決定するのはこ の社会への適応能力だけである。高等動物は集団生活の中で社会的・共生的欲望を後 天的に獲得する。
 自分と同種であろうが無かろうが、他の生命体の命を守り育もうとする欲望、或い は、他の生命体の死を悼む感情を愛情と定義できる。人間は生命体を超えて、おもち ゃ・建築物・山河に対しても似た様な感情を持つが、それは対象が観念の中で生命化 しているからである。このような感情は人間だけではなく、高等な動物においても見 られる生理現象である。動物の本能的な生殖欲は利己的な欲望として現れやすいが、 愛情は利己的な関係を超えて、自己犠牲的な欲望として現れやすい。飼育動物にはこ うした現象は度々見られるし、野生の高等動物の世界においても広範に見られる。一 部の社会生物学者は動物の利己的現象に注目するが、動物が利己的なのは当たり前だ。 利己性を超えた自己犠牲的な行動にこそ注目しなければ成らない。彼らは昆虫社会の 自己犠牲的行動の利己性に注目する。しかし、昆虫社会の延長上に高等動物の自己犠 牲的行動を解釈するのは、全く馬鹿げている。確かに、昆虫と同様に、高等動物も遺 伝子に対する利己性の原則は貫かれる。しかし、高等動物の自己犠牲的行動は本能的 な欲望を超えている。鯨・象・猿は人間と大して変らない記憶能力を持つ。つまり、 彼らは生命と生態系の神秘的な力を、我々人類と同様に記憶し学習している。生命体 に対する愛情・畏敬は、この記憶と学習によって育まれる。学習能力が限られた本能 的な自己犠牲的行動と広範な学習によって育まれた自己犠牲的行動を混同するのは、 余りに非科学的である。
 人間社会は動物社会の利己性を更に乗越える。人間社会の競争原理は人為淘汰の世 界である。自然淘汰・利己的な行動原理を利用しながら、世界と己自身を意識的に変 革する。人間は共同体のパラダイムから己の精神を受取る。物質的には個体として制 約されながら、精神的には個体的な制約から解放されている。人間の自己意識は、自 己を共同体の一部・従属物として認識するのではなく、共同体の変革主体として己を 認識する。人間社会における共同体と個人の対等平等な精神的関係は、利己的な関係 からは産れない。人間は物質的には利己的な関係に制約されているが、精神的には利 己的な関係を乗越える事によって、共同体の主人としての関係を持つ事が出来る。
 一部の社会生物学者は、昆虫行動の利己的現象を人間の行動まで延長し、人間社会 の構造を理解しようとする。利己的行動によって市場の競争原理の普遍性を一般化す る。これは科学に名を借りた似非科学である。利己性の奴隷である事、盲目的である 事が人間の本来の姿であるとなる。確かに、人間社会には昆虫行動と似た現象は度々 発生する。昆虫は「飛んで火に入る夏の虫」と言われる様に、光のある所に群がる。 バブルを見れば人間も昆虫のようだ。バブルは経済だけではなく政治にも文化にも現 れる。市場を超越したはずの社会主義者も自慢できたものではない。スターリン現象・ 民主集中制、これは社会主義のバブルだ。度々繰返し起こるバブル・昆虫行動から見 ると、ゴリラのプライド・ライオンの威厳・象の知性・イルカの好奇心・鯨の愛情は、 遥かに人間知性を超えている。ナチスやスターリン現象は人間による知性の否認であ る。元来、否定の否定は高度な発展であるが、それは知的である事・利己性を乗越え る事によって獲得できる発展である。無知である事・利己的である事を誇りにするよ うな「発展」は、人間を動物以下にする。バブルが弾けた今日でも、次のバブルの勝 者を目指すために、自由競争を先導する評論家・政治家が大手を振っている社会には 唖然とするしかない。
 象や一部の猿は自我を持っている事は実証されたが、人間の自己意識は言語活動を 通じて個体的な制約を離れ、無限の可能性を獲得した。人間の自己意識は、単なる内 的な自我の目覚めではなく社会的な意識である。人間は社会構造を通じて己を観察す る。自己は単なる社会構造の受動的な客体ではなく、社会構造に対する積極的な主体 として己を観察する。人間はこの様な主体である事によって、初めて己を猿から区別 できる。己が己自身の主人である事は利己的である事とは正反対だ。社会構造に対す る積極的な主体である事によって、己の自立性と同一性を確保できる。主体性のない 自我は単なる「穴」ブラック・ホールである。人間の利己的な行動は社会構造に対す る受動性・従属性を強化する。新自由主義者は人間の利己性を刺激し、競争のルール を解体しようとする。人間の積極性を高めるには、ルールある競争はそれなりの効果 がある。しかし、競争によって獲得する利益が全体の利益をも高める効果がなくては、 人間本来の積極性を高める事は出来ない。自然淘汰の原理は人間性を破壊する。人為 淘汰の目的意識性がなくては、人間の積極性は高まらない。新自由主義者はルールな き競争によって、労働者階級の受動性と従属性を強化しようとする。
 人間は与えられた類的なパラダイムを受入れ、そのパラダイムの中で競争する。こ の競争によってパラダイム自身はより一層発展する。しかし、競争によって発展する パラダイムは、己自身の枠組みを超える事が出来ない。競争による発展は、競争を規 定する枠組みをより一層精密にし、パラダイムの持つ力をより一層拡張する。しかし、 競争の持つ力はそこ迄であって、発展そのものが枠組みの持つ限界を明示するように なる。人間の知性は無限の可能性を秘めている。この無限性は自己意識からくる。人 間は己の限界を限界として意識する事が出来る。しかし、限界と言うものは、限界と して意識された時点から限界ではなくなる。意識が限界を越えない限り、限界を限界 として認識する事は出来ない。限界の自己意識は人間知性の無限性を指し示す。人間 の精神は自由であり、あらゆる限界(鎖)から己自身を解放しようとする意志である。 パラダイムは人間の自由な精神を育む枠組みである。しかし、自由な精神にとっては、 己を育んだ枠組み自身が限界となって現れる。そして、この限界を超える力は、この 枠組みの中での競争からは産れない。枠組みを超えようとする共生的な関係の中から しか産れない。パラダイムは共同体の共生的な関係によって育まれて来た。従って、 共生的な人間関係とその精神によってしかパラダイムを変革できない。人間は類的な 存在である。人間は類によって育まれ、類そのものを育む存在である。精神とは、世 界の主人として生きようする主体性である。

 ⑤好奇心と愛情

 生物は異化と同化によって増殖・進化してきた。動物においては、この運動は好奇 心という形で現れる。動物の好奇心による学習は、刺激による反応ではなく、自発的 に環境へと向かう志向性である。動物は未経験の新しい事象が発生すると逃避行動を する。だが、この事象が度々発生すると次第に接近し、自分にとってどういう意味が あるか記憶学習しようとする。時間の経過と共に適応し、様々な行動を試すようにな る。好奇心による行為は直接的な欲望を満たすための行動ではない。これは外的な自 然を分析・総合する事によって、自然の法則性・因果性を記憶学習しようとする行動 だ。これは学習本能とも言えるが、他面ではこの事象を理解し、己の欲望を満たすた めの契機にする。好奇心は外界の物質的な条件に対する支配欲でもある。好奇心は 「内発的動機」であり、賞罰に依存しない。人間の社会においては、この好奇心は戦 争を惹起する力にもなったし、逆に平和をもたらす力としても作用する。好奇心は対 象を分析・分解・解剖しようとする。従って、対象が生物・人間であれば、共生的な 関係を発展させる事もあるが、相手の生命力・精神力をひどく傷付ける作用を果す場 合もある。精神の世界では好奇心によって対象を傷付ければ、己自身が傷付く力とし て作用する。今日の核戦力・地球環境問題は、この精神世界の特徴を炙り出している。 今日の人類は己自身を知らなければ、この地球上で生残れない時代に生きている。
 好奇心は下等な動物でも見られる心理現象で、動物の適応行動・学習行動には不可 欠な心理作用だが、愛情行動が現れるのは高等動物においてのみ現れる現象である。 高等動物においては外界の生命を守り、育てようする愛情の感情が現れる。利己的な 遺伝子に支配されている動物の世界においても、既にこの利己性を乗越えようとする 共生的なパラダイムが発生している。遺伝子によって規定された共生関係は遺伝子の 利己性によって支配されているから、この共生関係自体が利己的パラダイムだ。だが、 学習によって獲得した共生関係は遺伝子の利己的な関係を超えている。高等動物の遺 伝子はこの後天的な共生関係を予定し、この関係への適応能力を規定している。だが、 遺伝子が規定しているのは適応能力だけであって、共生関係そのものではない。その 点では、遺伝子は己自身の利己性を乗越える生命運動を予定している、とも言える。 ただし、この共生的パラダイムは萌芽的でしかない。共生的な関係が利己的な遺伝子 の制約を離れて全面的に発展するためには、言語活動を通じた自己意識が不可欠であ る。
 労働過程は肉体労働としては、単なる労働力の再生産過程であるが、精神的な労働 は労働力の再生産ではなく、労働力の拡大再生産過程である。従って、こうした労働 においては、自己啓発・自己実現・生甲斐といった自主性の要素が労働の効率性を左 右する。資本への意志の従属性は、逆にこの効率性を低下させる。なぜなら、従属性 は精神の自立性を奪い、労働の生産様式に対する保守的な意識を高めるからだ。資本 は競争の精神によって、この過程の効率性を高めようとする。しかし、精神的な労働 はスポーツではない。過度な競争の導入は、この過程に労働者の分断を持込み、労働 者の従属性を高める事は出来ても、知的な生産の効率性を一段と低下させるだけだ。 日本が過労社会である事とソフトウェア産業で競争力を持たない事は不可分な関係に なっている。過労は資本への従属性を高める効果はあっても、生産様式・労働様式に 対する自立的な精神を剥奪する。人間の知的な好奇心は自由であり、自由である事に よって多様な発展・発見・創造が産れる。この知性は共生的な社会関係を基盤に産れ、 この基盤の発展を目的として進化してきた。人間の自主性を資本の自己増殖の枠内に 限定し、この枠内で激烈な競争を強いる事は深刻な精神的葛藤・亀裂を引起こす。情 報社会は利己的パラダイムと共生的パラダイムの深刻な対立を個体的に誘発する。
 精神的な労働においては余暇時間の拡大が不可欠である。競争によって、特定分野 の記憶量・好奇心を高める事は出来るが、全体の記憶量・好奇心を高める訳ではない。 むしろ、この競争によって全般的な記憶力・総合力を低下させる場合もある。まして、 人間の想像力・創造力は競争によっては高まらない。人間の好奇心を刺激する事は、 この能力を高める上では重要な働きをするだろう。だが、競争によって自由な好奇心 を刺激する事は出来ない。資本への従属を強いる競争は人間の自由な好奇心を奪う役 割しか果さない。このために今日の情報社会においては、経営外部のボランティア活 動や自主的なサークル活動が注目されている。経営外部の自主的なネットワークは経 営内部の葛藤・亀裂を補完する。この自主的なネットワークで精神の積極性・自立性 を回復し、経営の効率性を高めようとする。他方では余暇時間の増大と共に、この自 主的なネットワークの社会的な比重は益々増大して行く。
 自主的なネットワークは経営の利己的パラダイムを補完するだけではなく、経営自 体の利己的パラダイム自体を統制する力を獲得し始めるだろう。また、この外的な統 制力なしには今日の経営は競争力自体を維持できない。今日の資本の巨大な影響力・ 生産力は、己自身の利己的な盲目性に耐え切れなく成り始めている。地球環境問題は この関係を雄弁に語っている。資本の社会性は否応なしに己自身の盲目性と激突する。 この激突は資本関係内部の力では解決し得ない。資本外部の自主的なネットワークに よる統制なしに、資本は生長らえる事は出来ない。今日のグローバルな世界において は、一早く自主的なネットワークを構築した社会が競争上の優位性を獲得する。なぜ なら、人間は本質的に知的な動物であり、盲目的な動物から離陸した動物であって、 盲目性から一早く離陸した社会こそ、競争上優位に立って来た長い歴史を持っている からだ。
 好奇心と愛情は相互に補完的な役割を担っている心理作用である。好奇心は世界へ と向う志向性であるのに対して、愛情は世界との統一・一体化への志向性である。愛 情のない好奇心は暴走して、本来の目標を失い、利己的で破壊的な作用を果す。好奇 心のない愛情は、視野の狭い偏狭で利己的な愛情行動となって、共生システムに打撃 を与える。競争は集団への愛情を育む機能を持つ。しかし、愛情は憎悪と表裏の関係 にある。愛情はそれ自身で憎悪に転化する可能性を孕んでいる。「戦争への憎悪」と 言うように、憎悪自身は決して共生システムに否定的な役割を果す訳ではない。愛憎 のベクトルを正しく導くには自由な好奇心を失わない事が不可欠となる。競争も同じ であって、競争の効果を有効なものにするには、好奇心が不可欠である。自由な好奇 心は科学的な精神となり、この精神は競争に対しても、愛憎に対しても中立な性格を 持つ。自由な精神は一時的な敗北の道に勝利の進路を見出すし、憎悪を利用してそれ 自身の克服を模索する。
 生命体は物質に対する目的を持った物質システムである。このシステムの合目的性 は物質自身に対する好奇心へと進化した。好奇心は己自身への好奇心となって、自己 意識を持った物質システムを創発した。自己意識は己を育む共生関係への自己意識と なって、物質システムに対する愛情を育んだ。人間は物質システムに対する愛情を持っ た物質システムである。生命の利己的関係(自然淘汰)は共生的な物質システム(人 為淘汰)を創発した。人為淘汰は環境(生態系)との統一を志向する。既に動物にお いても愛情の萌芽はあるが、この愛情は利己的な愛情を超えるものではない。精神は 元来共生的な性格を持つが、動物の延長として、利己的な精神として現象した。愛情 も精神と同様に共生的だから、利己的な愛情は自己矛盾である。この自己矛盾は分裂 病として現象し易い。今日の地球生態系は分裂病から抜出して、自己意識を持った共 生的な精神の創発を人類に向って強要する。

 ⑥精神の波動性

 精神は波動である。人間は物質的には或る一点・特定の場所に制約される。精神は こうした物質的な制約から解放され、同時に多様な空間に存在し、力を現す事が出来 る。思想は人類の直観である。この直観は、時空を越えて未来の世界でも大きな力を 現す。メンデルの法則は死後の世界で力を現した。「汝隣人を愛せよ」や仏教の無の 思想は、波動と成って今日の世界でも巨大な力を現す。「悪事千里を走る」の諺は 「悪事を働けば忽ち千里まで噂になる」という意味だが、インターネットの時代では、 地球の反対側まで一瞬の内に届く。カオス理論では「蝶の羽ばたきが地球の反対側で 嵐を巻起す」と言うが、物理現象としては特異な現象であるのに対して、人間世界に おいては珍しくない。人間の戦いにおいて勝敗を決する鍵は知性である。孫子の兵法 によれば「謀を廟堂の上に巡らせて、勝を千里の外に決すべし」という。人間の精神 力は千里先で顕現する。知性が正しく機能するためには正確な情報を掴む必要がある。 「正確な情報は10万の軍に匹敵する」、力任せで盲目的に当たれば敗北は必死だ。
 人間の闘いにおいては、情報のネットワークとそれを正しく運用できる知性が勝敗 の分かれ目になる。正しい情報を獲得するには信用力を持たねば成らない。この信用 は貨幣によって獲得できる場合もあるが、貨幣だけに頼れば貨幣自身によって裏切ら れる。軍事的官僚的権威や威厳は情報を集め易い様に見える。しかし、こんな力は媚 びへつらいのための偽情報も集中する。むしろ、威厳は正確な情報を遮断する側面を も持っている。本当の信用は貨幣や権威によっては獲得できない。人間は誰でも未来 に生きようとする。従って、将来性のない組織や指導者には正しい情報が入りにくい。 将来性のある組織や指導者には、わずかな貨幣でも正確な情報が入る。将来性は未来 を見通す知性によって獲得できる。未来を見通す知性こそが本当の信用を産み出す。 この知性が欠落すると、貨幣も、権威や威厳もすべて逆回りし始める。精神の波動性 は自由な人間の知的な闘いにおいて現象する。民主主義を否認する官僚的な統制は、 人間社会の精神波動を停止し、パラダイムは発展を停止する。
 情報社会は否応なしに世界経済のグローバル化を推進する。情報社会は精神の波動 性を一段と加速する。ピーター・ラッセルが言う様に、世界構造は情報化によってグ ローバル・ブレインとなる。グローバル・ブレインは人間の脳構造と幾分か近似した 構造である。脳は生体全体の神経中枢機能だが、特別の中心を持たない。その時々の 状況によって活動中心は移動する。政治的な表現で現せば多極的で多元的な構造であ る。全体としては、興奮には抑制が働き冷静な判断をするように出来ている。だが時 には、ある一点の大きな興奮は全体を激しく揺さぶる事もあるし、全体の大きな興奮 が一点の抑制によって静まる事もある。グローバル・ブレインは官僚的な構造とは全 く異質であって、極めて民主的な構造となる。精神の波動性は情報化を通じて、否応 なしに世界の民主化とグローバル化を推進する。グローバル化自体は民主化を推進す るとは限らない。昨今の世界のように、国内の格差を拡大し、共生システムを破壊す る役割を果す一面も持っている。グローバル化は民主化と同時に進行しなければなら ない。政治の民主化は格差の拡大に抵抗しようとするし、経済の民主化は国際金融資 本に対するグローバルな規制・監視を拡大する。
 ロシアの10月革命では、ソビエト兵士の武装デモ(7月事件)でトロツキーはケ レンスキー政府によって逮捕された。しかし、その後のコルニロフの反革命攻撃から ケレンスキー政府自身を守った水兵は、逮捕されているトロツキーにケレンスキーを 逮捕すべきかどうか尋ねる。トロツキーはまだその時期ではない、と回答する。歴史 上、逮捕されている者が逮捕している者を保護する、と言う事件はそれ程多くはない。 精神の波動は刑務所や国境の壁を飛越えて、自由に飛回る習性を持っている。むしろ、 逆に壁がこの波動を強化する場合もある。「囚人のジレンマゲーム」は社会生物学者 や経済学者には極めて好評である。このゲームでは利己的な囚人が勝利する。利己的 な囚人は他人を騙しても己の利益を優先する。利他的な囚人は他人の利益を尊重し己 の利益と調和させようとする。閉鎖的な空間では利己的な囚人が勝つのは当たり前で ある。しかし、人間の行動を閉鎖的な空間(刑務所)に閉じ込めるというゲームの前 提そのものが成立しない。開放的な空間は閉鎖的な空間の延長ではない。こんなゲー ムの延長で人間行動を理解しようとするのは、己自身の精神を刑務所に閉じ込めるだ けだ。トロツキーの例に見られる様に、人間の精神波動は刑務所の壁を飛越え、看守 自身が囚人の意志に従属する事件は珍しくない。マンデラは刑務所の中でアフリカ大 陸だけでなく全世界を揺動かした。
 トロツキーは長い間、「スターリンとの権力闘争に敗れ、悲劇的な生涯を閉じた」 と評価されてきた。しかし、トロツキーはボルシェビキ指導者の中では長生きした方 である。むしろ、ロシア革命の教訓と世界革命における貴重なメッセージを数多く残 す事が出来た、数少ない指導者であった。トロツキーは他のボルシェビキ指導者のよ うにスターリンの無知(鞭)に妥協しなかった。この事が結果的に彼の著作をスター リンの壁から開放し、彼の思想は大きな精神波動となった。スターリンの権威は盲目 的な機構が作った幻想に過ぎない。スターリンが死んだとしても、第二のスターリン が現れた可能性は十分にある。ソ連からの追放はトロツキーにとっては不本意な結果 だった。トロツキーはスターリンを過小評価し、ボルシェビキはいずれ自分を再び必 要とするだろう、と楽観した。この楽観がなければスターリンに勝てたかも知れない。 しかし、スターリンに勝てたとしても、腐敗を始めた機構に勝てると言う保証はどこ にもない。ソ連に留まっていれば、他のボルシェビキ指導者達と同様に無言のまま虐 殺された可能性の方が大きい。今日の視点から見れば、ソ連から追放された事によっ て、トロツキーはスターリンに勝利できた、と見る事が出来る。カストロはバティス タ独裁政権に追放された事によってバティスタに勝利する機会を獲得した。歴史上で は、こうした皮肉は幾らでも見つかる。権力の源泉は権威にある、と言う視点から見 れば、権力闘争に勝利したのはスターリンではなくトロツキーであった、と断言でき る。
 カオス理論によれば、大きな波動は抵抗や摩擦によって小さな逆流の波動を引起こ す、と言う。この逆流が時には大きな渦となって、流れ全体を混乱させ変えてしまう 事もある。人類史上においても、精神の波動は逆流に満ちている。この逆流の基盤は、 独善主義・官僚主義・教条主義である。心理学的に表現すれば利己主義、政治的に表 現すればセクト主義だ。自由と民主主義は精神波動の基盤である。精神の波動は国境 を越えて相互に反響し合う。ゲバラの革命思想は徹底的な国際主義である。彼の思想 は今日の中南米だけでなく全世界に大きな波動を惹起している。一国社会主義はこの 波動を国境の内側に閉じ込めようとする。スターリン現象は社会主義運動の中に現れ た逆流である。社会主義運動は新しい時代を目指す運動だが、旧時代の様々な遺産を 引き継いで発展せざるを得ない。時にはこの遺産が逆流となって全体を飲込んでしま う場合もある。それは運動全体の破綻となって現れる。民主集中制の組織論は、逆流 に対する抵抗力を奪う。一端、党中央に逆流が働くと運動全体が逆流によって支配さ れる。
 量子力学によれば、素粒子は粒子的な性格と、波としての性格を併せ持っていると 言う。素粒子の波動性と精神の波動性は無関係である。精神の波動性は時空を越えた 波であり、知的な波である。現実の物質的な社会構造を変革し、巨大なエネルギーと なって地球上の生態系を変革する。この波は大きな波になったかと思えば、突然停止 し、逆流に翻弄されて消えた様に成る事もある。しかし、この消えた様になっている 時代こそ、パラダイム・シフトを準備している時代なのだ。過去の栄光にしがみ付い てもパラダイム・シフトの準備は出来ない。失敗と逆流の意味を理解し、逆流と本流 の政治力学に対する正確な分析能力を獲得出来た潮流こそが、パラダイム・シフトの ヘゲモニーを獲得できる。宗教上においては、信じるものは救われると言うが、政治 上においては、現実の政治力学によって裏切られる。過去しか信じる事が出来ない者 には、未来は手を差伸べない。己の自立的な知性によって、未来への展望を指し示す 者にこそ、青年の魂は振動する。