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「科学的社会主義」討論欄

世界革命=人類のパラダイム・シフト(2)

2009/5/7 百家繚乱

 ①意識のパラダイム・シフト

 遺伝子は淘汰の結果、刻印された生体情報の記号系である。動物は学習によって外 的な自然の写像を記号化して記憶する。これは淘汰によって外的に刻印された記号と は異なる。自らの行為によって獲得した記号である。しかし、この獲得した記憶は、 ほとんど一世代で消滅する。動物の記憶は写像による記号であり、個体的な外的経験 (環世界)から離れる事が出来ない。この環世界においては個体と外的世界は区別さ れていない。物質は生命過程を通じて、己を記号化する事によって再生能力を獲得し た。この物質の再生能力は生命体自身の利己的な再生能力であって、共生的な外的自 然の再生能力ではない。外的自然は極めて強力な矯正能力をもって、利己的な遺伝子 に作用し、競争の共生的なルールを押付ける。更に、物質的自然は動物の意識を通じ て己を記号化した。この記号化は動物自体の適応性を高めたが、それは生命体の再生 能力を高めただけに過ぎない。共生のルールによって、生命の利己的なパラダイムは 生態系の共生的なパラダイムと調和発展してきた。高等動物においてはある程度、学 習によって共生的なルールを獲得する能力を持つが、個体的な限界を超える事は出来 ない。
 人間の言語は個体から自立し、個体に対して先験的に働く記号系である。言語体系 は個体にとって、先験的に与えられたパラダイムである。このパラダイムは、個体か ら自立し、世代から世代へと受継がれる。しかし、個体はパラダイムの単なる受手で あるだけではなく、パラダイムの創造的な担い手でもある。様々な個人や世代によっ てパラダイムは変容を遂げる。個体が学習した経験(環世界)は個体から自立し、パ ラダイムの変容として受継がれる。文字情報はこの経験のパラダイム化を飛躍的に拡 大した。更に文字情報は共同体間の情報交換を飛躍的に拡大した。人間は言語によっ て、己自身と全宇宙を記号化し、己自身と全宇宙を環世界にする。言語は環世界(経 験)から自立したパラダイムとして、世界自体を表現する記号として立ち現れる。人 間の自己意識は、環世界(経験)と世界自体を区別する。動物の志向性は環世界に向 うが、人間の志向性は環世界から離脱し、世界自体と己自身に対する志向性となる。 人間の精神は言語の働きであるが、この働きは個体内における単なる思考ではない。 個体内における思考を通じて展開するパラダイムの働きである。人間は個体外部の記 号によって記憶し再生する。この再生能力は創造能力へと容易に転化する。人間の記 号系は単なる現実の写像ではなく、創造的な写像である。人間は環世界の像を、現実 の世界に押付ける。
 動物の自我は幼児の自我と相同な関係にあると考えられる。人間の幼児には猿の幼 児に比べて広範な模倣が見られる、と言う。模倣それ自体は間主観性ではないとして も、模倣なしに他者の心理を理解する事は出来ない。模倣はパラダイムの受容である。 人間の自己意識は間主観性から出発する。他者を他者の立場(感情)から観察し、操 作の対象とする事から始まる。他者を己の立場から観察する限り、意識は単なる自我 から抜出せないし、他者を操作する事は出来ない。他者を他者の立場から観察する事 は、己を他者の立場から観察する能力の獲得でもある。この能力は己自身を対象化し、 操作する能力の獲得に転化する。猿には「共感」という現象はほとんど見られないが、 人間においては幼児の世界から広範に見られる。他者を他者の立場から観察するには、 他者とのコミュニケーション、従って言語獲得なしには出来ない。自己意識を獲得す るには言語能力が不可欠である。コミュニケーションは他者との共生的な関係が前提 となる。他者との敵対的関係の下では、コミュニケーションは成立しない。人間の自 己意識は共生的な関係によって育まれ、そしてこの関係自身を再生産する。
 人間の意識は動物の利己的な意識から出発する。従って、人間の意識は利己的なパ ラダイムから出発せざるを得ない。利己的な意識のパラダイムは否応なしに、外的自 然の共生関係と激突する。人間社会の利己的な構造は利己的な意識の写像である。人 間社会は利己的な構造を持って出発したとは考えられない。原始共同体においては、 個人と共同体は不可分で一体的であったと考えられる。言語は共同体の共生的な関係 から出発した。しかし、欲望は個体的な感情であって、剰余労働の拡大は否応なしに、 個体と共同体を分離する。共生的な人間関係によって獲得した自己意識は、個体的な 感情と激突する。個体的な感情は利己的な自己意識となって、共同体の共生的な精神 のパラダイムと激突する。宗教感情は利己的な自己意識と共生的な精神の矛盾を調和 する役割を果した、と想定出来る。宗教感情は共同体の階級分裂の利己的構造を覆い 隠す役割を果すが、共同体の共生的な関係を維持する役割をも果す。共生的な精神の パラダイムは宗教的な性質を帯びて出発した。人間社会の利己的な構造は、共生的な 精神を宗教化・神格化する。前近代社会においては、宗教的なパラダイムによって、 共同体は共生的な精神を育んだ。
 人類の共同体は、長い間、地縁・血縁関係によって産まれ、それによって規定され て来た。共同体は身分関係的な人格関係によって支えられて来た。農業社会において は、土地所有の関係が主要な支配関係である。テンニエスによれば、社会は共同社会 と利益社会に分かれると言う。前近代社会においては、共同社会が主要な役割を果し、 利益社会は副次的な役割しか担っていない。この共同社会は人間の人格的な支配従属 関係によって支えられて来た。これは階級的な支配関係であって、共生的なパラダイ ムの関係ではない。とは言え、共同社会としてのイデオロギー的な擬制によってこの 支配関係は維持された。利益社会は利己的なパラダイムの関係であるが、共同社会で ある限り、共生的な関係をも含んでいた。人間は自由な市場を通じて、共同社会の支 配従属関係から開放された。階級支配の下では、共生的な関係(共同体)は利己的な パラダイムとなり、利己的な関係(市場)が共生的なパラダイムとなって現れた。
 産業革命は合理的な精神を育む。この精神は宗教的なパラダイムと激突した。階級 社会の利己的な構造は、宗教的な覆いを剥され、利益共同体として公然と正当化され た。共同体の精神は合理的なパラダイムとして現れる。利己的な構造が共生的な関係 として合理化された。利己的な意識は動物の延長として否定されるのではなく、社会 発展の原動力として合理化される。他方では、国家は個人を守る共同体として現れ、 忠誠を義務付けられる。国家は利益共同体の上に聳え立つ共生的な共同体となる。合 理的なパラダイムにおいては、階級関係は自由な意志に基づく契約関係に解消される。 宗教的なパラダイムにおいては、人間は生まれながらの身分として特定の階級に属し たが、合理的なパラダイムにおいては、自由な意志に基づく契約として属した。合理 的なパラダイムでは、財産や利益は神聖化され、利己的な意識が神聖化される。
 元来、合理的なパラダイムは共生的なパラダイムと敵対的な関係には成っていない。 しかし、利己的な意識の神聖化は人間社会の共生的な関係を破壊する。この破壊から 逃れるために国家を神聖化する。国家の神聖化は権力支配の神聖化となる。利己的な パラダイムと権力支配は不可分な関係になっている。盲目的な行動には盲目的な支配 が対応する。元来、合理的なパラダイムと利己的なパラダイムは両立しない。利己的 なパラダイムは盲目的なパラダイムであって、合理性の欠如である。どうして利己的 な意識が合理的なパラダイムとして立現れたのか?。それは宗教的身分的なパラダイ ムの盲目性に対抗する合理的な力として、利己的なパラダイムが立現れたからである。 宗教的なパラダイムは背後の利己的なパラダイムを覆い隠している。合理的なパラダ イムはこのベールを剥し、利己的な意識を正当化した。しかし、この正当化はパラダ イム自身の合理性を奪う役割を果す。
 合理的なパラダイムは、利己的なパラダイムを否定する事によってしか、己の合目 的性を回復できない。資本は利己的意識が物神化した姿である。資本の利己的パラダ イムは、その盲目性を極度に高める。資本は反面教師として、人類に向かって盲目性 からの脱出を強要する。産業革命は巨大工場と巨大官僚組織を産み出し、人類の盲目 性を加速する一面を持っている。労働者階級の量的な成長だけでは、自動的な階級意 識の成長を約束しない。階級としての知的な成長・自覚が不可欠である。情報革命は この階級の知的な成長と自覚を加速する物質的な基礎となる。しかし、情報産業自体 が、この階級の知的な自覚を約束する訳ではない。情報産業は知的な自覚を眠込ませ る役割も果す。資本とのヘゲモニー闘争なしには、この自覚を獲得できない。情報技 術は資本の支配技術になると同時に、この闘争の自覚的な武器にもなる。資本とのヘ ゲモニー闘争を通じて、人類は共生的なパラダイムを獲得できる。この闘争は極めて 知的な闘争である。資本の盲目性に盲目的な力を対置しても、勝負にならない。意識 的で合目的的な知性を対置しなければ、資本の盲目性に勝利できない。
 精神は個体的には、生命の盲目性から己を解放し、個体に無限の可能性を付与した。 しかし、精神の力は個体的に発生して来た訳ではない。精神は共同体によって、共同 体自身を育む力として育まれて来た。従って、精神の無限性は共同体の無限性によっ て、実証されなければ成らない。精神の自己意識は利己的な意識には現れない。精神 の自己意識は共同体の共生的な自己意識である。共同体のパラダイムシフトは個人か ら始まる。だが、個人的な変動は単なる揺らぎ・動揺に過ぎない。パラダイムシフト は個人から始まった動揺・揺らぎが全社会的な規模に拡大した時に現れる。この時、 最初に動揺を始めた個人はカリスマと呼ばれる。カリスマ自身は自己組織化的に出現 する。生産力と生産関係の矛盾の拡大・深化は否応なしに新しいカリスマの誕生を強 要する。しかし、このカリスマは官僚化・制度化すると共に権威を喪失し、破綻する。
 宗教的なパラダイムは今日の世界においても、共生的な人間関係を回復する上では、 重要な役割を果している。このパラダイムは階級関係にベールを被せる一面を持ちな がらも、共生的なパラダイムとして機能する。しかし、今日の世界における共生的な パラダイムは資本の盲目性との闘い抜きには獲得できない。資本から自立し、資本の 利己的なパラダイムに対抗する合理的な知性が不可欠である。共生的な人間社会のパ ラダイムは、外的自然の矯正力から、人間社会を解放する。共生的な物質関係は、人 間社会を通じて己自身を合目的に創造しようとする。人類の合目的性は地球の合目的 性である。人間社会の共生的なパラダイムは共生的な地球生態系の写像である。この 写像は単なる写像ではなく、己自身を合目的的に、従って共生的に創造しようとする 記号体系である。資本の盲目性は地球の合目的性と激突する。人類はこの激突の中で、 利己的なパラダイムを乗越え、意識的な合目的性を獲得できなければ、この地球は人 類を解体するだろう。

 ②手段の自己目的化(物象化)

 人類の歴史は多様な観点から分析できる。唯物史観は多様な歴史観の一つの見方と して考えるべきだ。文化・芸術には、それに応じた独自で多様な見方(歴史観)が成 立する。政治や経済についても同じであって、唯物史観だけが唯一、科学的な歴史観 だと言うのは、余りに独善的過ぎる。人類の歴史を諸国民の闘争の歴史として観るか、 階級闘争の歴史として観るかは、見方によってはどちらも正しくなるし、どちらも間 違っている。他方の見方を排除すれば、どちらの見方も非科学的になる。両者の見方 を相互に尊重し、どちらか一方の見方を中心に展開するならば、両者とも存立根拠を 持つ。人類の歴史には階級闘争が実際に存在し、この闘争は大きな歴史の原動力と成っ てきたのは明かだ。しかし、この闘争だけが歴史の原動力だと言う考えは、実に馬鹿 げている。
 トフラーは、人類の歴史を農業社会・産業社会・情報社会として分析する。人間社 会の存在様式は多様なのであって、多様な視点から人類の歴史を概観し、未来を予測 する事は可能だ。階級闘争を中心とした歴史観でなければ、未来を予測できないと言 う歴史観は、階級闘争の持つ独自な歴史的役割を否認する議論と同じだ。存在は意識 を規定するが、意識も存在を規定する。経済は意識的な人間生活の道具に過ぎない。 道具の発展の歴史だけによって、人類の歴史を分析する事は、人間の意識的な合目的 性を否認する結果となる。下部構造の歴史的役割は極めて大きい。下部構造の持って いる物質的制約を無視した上部構造を議論しても、空中の楼閣となる。しかし、下部 構造だけが歴史の決定因だと言う議論は、人間の持っている独自な意識性を否認し、 上部構造を下部構造の奴隷にする盲目的な歴史観となる。情報通信革命は上部構造の 自立性と優位性を加速度的に高める役割を果す。それに伴って、政治闘争は文化的知 的な闘いに転化する。
 ルカーチやグラムシが語るように、下部構造は上部構造の手段に過ぎない。人間の 意識性は下部構造の物質的制約から自立し、土台自身を合目的的に再構築しようとす る。上部構造は土台の単なる反映ではなく、土台自身が上部構造の反映である。手段 が目的を規定するのではなく、目的が手段を規定する。決定論はこの目的の自立性を 否認し、手段自体を自己目的化する歴史観である。こうした倒錯は、革命と党の弁証 法にも見られる。党が革命の司令部に成る事によって、党自体が自己目的化する。党 は革命の道具ではなく、革命が党の道具に成ってしまうのだ。こうして、あらゆる大 衆団体は党の指導に従属する事を義務付けられる。資本主義社会においては、生産と 消費の関係が逆転し、生産それ自体が自己目的化する。物は人間の道具ではなく、人 間が物の道具となる。スターリン現象の倒錯と資本主義の倒錯は双子の兄弟である。 盲目性において両者は瓜二つである。
 物象化(手段の自己目的化)は、手段が自立化し目的自身を規定する現象である。 手段の自己目的化そのものは、生命現象や人間社会にはよく見られる現象である。神 経組織は細胞間のコミュニケーションの道具に過ぎなかった。脳は手段の自己目的化 した典型的器官である。貨幣も一般的等価物として商品交換のための道具に過ぎない。 資本はこの貨幣が自立化し、商品自身の創造主となった姿である。動物の意識は肉体 が環境に適応するための道具として機能する。人間の意識も動物の意識と同様に、物 質の単なる反映として出発した。しかし、言語が人間の意識から自立する事によって、 人間の意識は単なる反映ではなくなり、物質自身を創造する反映として立現れた。人 間は社会的動物である。この社会性が人間の意識を自立化した。進化の歴史は手段の 自己目的化の歴史でもある。資本における倒錯は進化の結果であるが、スターリン現 象は退化の結果に過ぎない。手段の自己目的化は常に進化(発展)とは限らない。進 化は、退化という逆流を産み出しながら、この逆流を乗越える事によってしか前進し ない。
 手段の自己目的化は、その目的の中に人間生活がしっかりと組込まれていれば、パ ラダイム・シフトであり、進化である。目的が党官僚や資産家の生活で、人間生活が 彼らの手段となれば、退化現象にしか成らない。目的と手段は相互に弁証法的な関係 にあって、共に発展する契機であると同時に、相対立する緊張関係も含んでいる。こ の相互発展の関係から、いきなり手段の発展が目的を発展させると言う結論を導き、 手段と目的の関係を逆転させる。逆流は多くの悲劇的な事件を巻起すが、長い目で観 察すると実に滑稽で喜劇的である。自分の目先の欲得にこだわり、他人の利益や感情 を見失って起きる倒錯である。一時的には成功しても、むしろ成功すればする程、と んでもない大失敗の元凶として歴史上に刻印される羽目になる。資本は手段(価値) の自己目的化だが、資本の排除によっては、この物象化を克服できない。資本に対す る意識的的な統制力を人類が獲得する事によってのみ、この物象化の果す弊害を克服 できる。この統制力は国境を越えた民主主義によって始めて獲得できる。

 ③支配と自己言及

 戦国時代の人間の闘いは、騙し合いの闘いである。相手に騙された振りをしながら、 相手を騙して意表を衝く。嘘を付いた方が悪いのではなく、嘘を信じた方が悪いのだ。 しかし、どんな武将でも仲間から信用されなければ勝てない。信用こそ武器となる。 つまり、嘘をつく相手と正直に語るべき相手を間違えては成らない、と言う事になる。 しかし、この人間関係も社会状況によって、度々逆転する。敵が味方に成ったり、味 方が敵に成ったりする。その度に嘘を付く相手も変る。時には、絶対に嘘を付かない 人間関係もあったりする。しかし、歴史的に見るとこの関係こそ絶対に危険な関係で ある事が多い。絶対的な関係は「無」である。今日の世界は戦国時代とは違って平和 な時代だ。しかし、ビジネス上は戦国時代以上に群雄割拠の世界となっている。政治 の市場においても、大して変らない。騙し合いの市場で勝つ事が勝利の要件である。
 ヘーゲルによればあらゆる命題は反対の意味を持つ。「私は嘘吐きだ」と言う命題 は、形式論理学上では解決困難な命題としてある。この命題が真であるれば私は正直 者となるし、偽となっても同じ事になる。「私は正直者だ」と言う命題には、こうし た論理的撞着はない。しかし、現実生活では前者の命題の方が真実味があり、後者の 命題には胡散臭さが付きまとう。どうしてこんな事に成るのか?。それは、この社会 が階級に分裂して、正直者が馬鹿を見る社会に成っているからだ、と言う解釈は分か り易い。実際にも、家畜はどうして人間の餌食になるのかを見れば簡単に理解できる。 家畜は人間に嘘を付けないため、人間の思う通りに利用されてしまう。少なくとも、 肉食を拒否していない限り「全ての人間は嘘吐きである」とも言える。嘘を付くとい う行為は、人間に限らず、動物の世界でも時折見られる現象だ。しかし、これほど広 範に嘘を付く現象は人間において初めて現れた現象である。実は、嘘を付く行為は実 に人間的な行為なのだ。理性とは、うまく嘘を付く技術である、とも言える。
 動物の世界では擬態行動がよく見受けられる。生命の世界では、捕食や防衛のため には敵を騙す能力が大きな力を持つ。敵を騙す技術としてだけではなく、生殖行為や 仲間との共生関係のためにも擬態は大きな効果を持つ。昆虫の擬態は遺伝的に備わっ た擬態で、捕食や防衛のための騙しの姿だが、遺伝的に獲得した形態に過ぎない。高 等な動物の擬態行動は、ほとんど遺伝的に獲得した能力に過ぎないと考えられるが、 一部は学習によって獲得したと思われる擬態行動もある。本能に依存しない擬態行動 は親から学んだ行動が多く、個体的な学習によって獲得したとは限らない。動物の擬 態行動は習慣化しており、その習慣を見抜けば擬態性の効果が消える。その点では 「動物は嘘を付けない」と言える。
 騙し合いは極めて人間的で、高度なコミュニケーション能力を必要とする。共生的 人間関係があって初めて騙し合いも可能となるし、共生的な人間関係の中の騙し合い に過ぎない。人間社会においては、騙された振りをしながら騙す関係は珍しくないし、 普遍的でさえある。「理性の叡智」とはこの様な関係である。権力への媚びへつらい の関係は、被支配者が支配者を騙している関係に過ぎない。支配者がこの関係を自覚 出来なければ、いずれはこの関係自身によって破綻する。とは言え、被支配者も同様 に無自覚であれば破綻するとは限らない。ただ、「金の切れ目は縁の切れ目」であっ て、突然、目覚める可能性は排除できない。いずれにせよ、この騙し合いの関係は支 配する者とされる者の共生関係を前提としているし、それを再生産している。
 人間社会の共生関係は契約・信用・信頼を基礎に成立する。他方では、この関係を 維持する上では官僚的な支配と服従の関係も不可欠である。信用関係と支配関係は相 互に対立しながら、補完的な関係にも成っている。人間は元来自由な意志を持った存 在だから、信用関係を基礎に支配されていれば、逆に、この信用関係を利用して支配 関係から脱出しようとする衝動は正当な欲求である。しかし、この欲求に基づく行動 も限度を超せば、つまり法的な制約を超えれば、信用関係自体から排除される危険を 伴う。いずれにせよ、信用関係も支配関係も政治・経済・文化の変化に応じて流動す る関係であり、この流動性が個々の人間の自由な意志を保証する。
 ヒットラーは「嘘を100回繰返せば真実に成る」と言ったが、これはとんでもな い誤解だ。嘘が真実に成るのは、ヒットラー自身にとってである。自分が信じてない 事を他人に信じさせる事は容易でない。先ず、嘘を自分が信じて、それから様々な歴 史的・世界的事件で正当化する。それからこの嘘に、軍事的官僚的な権威や威厳を付 加し、光輝かす。最後に、自分で創造した光の虜になる。この光が真実かどうかはど うでもよい。最近ではブッシュがよい見本である。こうしてこの嘘と共に、軍事的な 権威・威厳の解体が始まる。自由な精神は波動性を持つが、限度を超えた嘘は己自身 を破滅させる。自由な意志を持った人間として、嘘には一定の正当性がある。労働生 産物は一般には大量生産すると利益が上がるが、情報は真実である事・新鮮である事 が命だ。支配階級は嘘の大量生産で支配しようとするが、効果は限られるし破滅の原 因となる。支配を維持するには、イデオロギー上の優位性を確保しなければならない。 嘘の大量生産は自ら、この優位性を放棄する行動である。
 同じ嘘でも、意図的な嘘と結果的な嘘は性格が異なる。刑法上は前者の罪は重い。 一般的には意図がどうであれ、約束には履行義務が発生する。倫理上は意図の問題が 発生するが、社会的には自己責任と成り易い。意図の有無は内面的な問題となって、 立証が困難である。市場は極めて流動的で、何を信用するかは、基本的には自己責任 の問題である。市場が自己責任の世界として機能するためには、情報・経営が公正で 公開でなければ成らない。長い間、日本は集団主義的経営で発展を続けてきたが、最 早グローバル化する世界経済の下では通用しない。今日の日本は、公正で公開な市場・ 経営を確立しないまま、自己責任論ばかりが一人歩きする事によって、疲弊している。 他方では、共産党の「民主集中制」も異端者排除と歴史の偽造を繰返して来た。この 組織論は党防衛のための組織論ではなく、党官僚の特権を守るための組織論でしかな かった。歴史の偽造は党防衛の名を借りた党官僚の保身でしかない。インターネット の世界では、秘密で非公開な組織は急速に影響力を低下させる。トロツキーが指摘す るように、敵失によって一時的に回復できたとしても、その効果は忽ちの内に瓦解す る。
 物質のミクロな世界においては、観測された物質は観測行為自身によって変化して しまうため、正確に予測できない。人間の自己意識においても似た様な現象が発生す る。ただ、ミクロな物質においては他者の観測であるのに対して、自己意識において は己自身による観測である。人間は社会的な存在であり、社会的な関係における自己 である。自己言及は社会的な関係を変化させるから、それによって自己も変ってしま う。それは丁度「愛の告白」が憎悪に転じる様な現象である。また、自己意識は己自 身との対話であるが、対話しているのは過去の自己であり、この対話によって未来の 自己が現れる。人間が語れる自己は過去の自己であり、現在と未来の自己を正確には 語れない。人間の自由な意志は精神の予測不能性にある。人間の自己言及は現在と未 来についての決定論的な言及であれば偽になる。とは言え、ある程度の確率的予測は 可能だし、それなしには信用関係は成り立たない。従って、信用関係も確率的な関係 だし、支配関係も確率的な予測しか成立しない。

 ④前近代社会のパラダイム

 人間社会の共同体と個人の関係は単純な一体性で始った。階級社会は共同体と個人 の関係を分離し、個人の上に家族・共同体・国家を置いた。私的所有はこの社会と個 人の分離を所有関係で表現している。最初の所有は家族的な所有であり、個人的な私 的所有はその結果である。他方では、共同体間の交流によって交換関係が発生してい た。この交換関係は私的所有の発展によって市場となる。私的所有は自己が生産した 物に対する関係である限り、何ら不自然な関係ではない。しかし、それが自然資源・ 共同労働生産物に対する関係になるに従って、階級的な性質を帯び始める。動物にお いても縄張りや順位がある。しかしそれは絶えず変動し、相続できるものではない。 階級関係は所有の相続によって始まる。動物世界の利己的パラダイムは遺伝子、従っ て生命力に対して働くが人間社会においては財産・身分の所有関係に働く。人間の人 格は所有する財産・身分によって規定される。
 権力の正当性は、宗教的身分的な粉飾を持っていたとしても、共生的な社会関係を 代表すると言う、社会的な承認なしでは成立しない。この承認なしに宗教的・身分的 な権威を装飾すれば、権力機構と共に宗教的・身分的パラダイムも崩壊する。どんな あらゆる権力も、共生的な社会関係を代表すると言う性格を保持しなければ、正当性 を確保できない。権力の正当性が崩壊しない限り、権力の交代も有得ない。被支配者 の反乱が成功するチャンスは、権力の正当性の崩壊と反乱が噛み合った瞬間において のみ実現する。前近代社会においても、下部構造を規定する意識上のパラダイムは何 度も転換してきた。宗教的・身分制的パラダイムとしては同じであっても、その内容・ 様式は多様な形態を取ってきた。この時代におけるパラダイム・シフトは民主主義的 な形式を持たないから、戦争や内乱のような暴力的・非合法的な形態を取らざるを得 なかった。
 前近代社会においては、共生的な社会関係が官僚的な社会関係として現れ、民主的 な社会関係は共生的な社会に対する反乱、エゴイズムとして現れる。階級社会におい ては、支配官僚は全体の利益を代表し、被支配層の要求は利己的な欲望として現れる。 被支配者は個人として支配者に対峙する限り、その要求は利己的な限界を超える事が 出来ない。被支配者は全体として対峙する時だけ、支配者の共生的な「化けの皮」を 剥ぐ事が出来る。被支配者は全体として結束した瞬間においてのみ、利己的なのは支 配官僚となり、共生的な利益を代表するのは被支配者となる。従って、支配官僚はあ らゆる手段を使って、被支配層間の分裂と敵対を作出そうとする。身分制はこの敵対 関係を作る上では極めて大きな役割を果す。しかし、他面では、身分制は社会の平和 を維持する上で重要な役割を果してもいた。
 階級社会への分裂は、動物の利己的な欲望・行動の延長として必然的に発生した。 生産力の発展そのものは共生的な労働・システムの成果であり、階級分裂の原因では ない。人間は利己的な欲望と共生的な精神を分離できずに一体化した。利己的な目的 のために共生的な精神を手段化した。人間社会が階級に分裂した真因はここにある。 人間が階級社会を乗越えるためには、手段と目的を反転しなければ成らない。共生的 な関係を目的化し、利己的な欲望を手段化する事によって、階級社会からの脱出が始 まる。階級闘争は共生的な精神の自己目的化であり、利己的な欲望の手段化の過程で ある。利己的欲望そのものはいかに否定しても消えない。利己的欲望を排除しようと する努力は、むしろこの欲望を潜在化させ強化するだけである。利己的欲望の排除は この欲望を無意識化し、共生的なシステムを利己的目的の手段に転化する。全体・国 家・党のために、従って支配層のために個人が奴隷化する。利己的欲望を乗越えるた めには、この欲望を排除するのではなく積極的に承認し、共生的なシステムの発展の ための手段に転化する必要がある。

 ⑤近代社会のパラダイム

 一般的には、労働者階級が相続するものは労働力のみである。この階級は歴史的に 階級関係そのものに対する敵対意識を保持している。しかし、この階級は眠れる獅子 である。この階級を育てたのはこの階級自身ではなく、ブルジョワジーである。この 階級は己を産み育てた階級から学ばなければ、己を己自身で産み育てる事は出来ない。 ブルジョワジーは利己的で盲目的な親であるが、それでも育ての親である。他方では、 ブルジョワジーは己の支配を正当化するために、近代民主主義の思想を産み出し、育 てた。この近代民主主義の原理は平和的・合法的にパラダイムを転換させる可能性を 開いた。
 知性が宗教的身分的なパラダイムから開放される事によって、科学技術が加速度的 な発展を遂げた。生産力を宗教的・身分的なドグマから開放した。産業社会の登場は、 人間の生産能力を土地から開放し、市場の機能を飛躍的に拡大した。産業社会は土地 所有に基づく古い封建的な身分関係を解体し始めた。利己的な関係が社会の主要な関 係となり、共同社会のイデオロギー的擬制を解体した。支配従属関係はイデオロギー 的擬制によってではなく、利己的な関係によって支えられる。資本主義社会の支配関 係は、利己的なイデオロギーによって支えられる。絶えず資本は人間の利己的な欲望 を刺激し、人間をこの欲望の奴隷にしようとする。資本にとって、共生的な関係は利 己的な欲望を満たすための道具に過ぎない。共生的な関係なしに労働力は補充されな い。従って、資本にとっても共生的な人間関係は不可欠な要素である。しかし、それ は利己的な利益の実現のための道具としてだけである。資本主義社会は身分的な支配 従属関係から人間を解放したが、利己的な支配従属関係に置換えた。市場における利 己的な関係は自由な意志に基づく関係であるが、この関係は支配従属関係を覆い隠す。
 近代民主主義の精神で産れた資本主義社会は、パラダイムの平和的で合法的な転換 に可能性を開いただけでなく、科学的な合理的精神を発展の動力とする。近代政治思 想は「万人に対する万人の闘争」として、政治経済社会を規定する。つまり、人間は 利己的であり、この利己的な欲望・行動を規制・調整する権力として国家を規定する。 前近代社会においては利己的な関係は否定的な関係として見られたものが、近代社会 においては合理的で積極的な関係として正当化される。前近代社会においても、利己 的な関係は公共性というベールが被さっていただけであって、実際に共生的なパラダ イムであった訳ではない。近代社会はこのベールを剥しただけであって、共生的なパ ラダイムを利己的なパラダイムに転換した訳ではない。むしろ、利己的な欲望・行動 を社会的な規制・抑圧から解放したブルジョワ社会の方が、より一層共生的なメカニ ズムは発展した。これは利己的なパラダイムとして否認されて来た、下方からの民主 的な政治圧力が合法的な力を獲得した事による。
 近代社会は知性を解放する事によって、巨大な経済力を獲得し、この経済力を基盤 にして軍事的な覇権を競い合った。エコノミック・アニマルのように多少知性が欠け ていても、経済力があれば権威を持つ。わが日本、最近ではウォール街がいい例であ る。ちょっと漫画的であるが!ところで、人類の長い歴史を概観すれば、人間社会に おいて巨大な影響力を残している力は知性である。それは前近代社会においても変ら ない鉄則である。人間の利己的な力は、一時的には経済力を解放し、巨大な力の源泉 となる。しかし、知性が欠けるとこの経済力は他人の力の源泉となって、己自身を支 配する力に転化する。利己的な力では未来を見通せない。未来を見通せない経済力は 己自身を解体する。今日の情報社会においては、知性のない経済力は価値さえ産む事 が出来ない。共生的な社会構造を獲得した国家でなければ、今日の世界では経済的に も成功しない。産業社会においては、一部の科学者・技術者がいれば、一般の労働者 には知性は不要であった。官僚構造に対する従順性こそ産業力の源泉であった。情報 社会においては官僚構造そのものが経済発展の障害となって現れる。エコノミック・ アニマルは世界構造の中で益々競争力を失う。
 人類の科学的な精神は近代社会になって誕生した訳ではない。アルキメデスの幾何 学・ギリシャ哲学・中国の百家争鳴・インドの0に見られるように、科学的で合理的 な精神は人類の誕生と共に始まっている。近代精神はこの合理的精神の自己意識であ る。だが、この近代精神は依然として利己的なパラダイムの手段となっている。近代 精神の自己意識は利己的なパラダイムの段階から抜出していない。近代社会そのもの が利己的なシステムを動力として発展しているから、近代精神も利己的な枠組みの中 に閉じ込められる。合理的な意識は利己的な社会構造に対する自己意識である。しか し、この意識の中では人間社会は利己的な制約によって分断されているから、盲目的 な自己意識でしかない。社会全体の共生関係は目に見えない潜在的な社会関係でしか ない。盲目的な自己意識はこの社会の中で潜在している共生関係に対する敵対関係を 取結ぶ。社会全体の共生関係は資本と賃労働の支配関係からだけでは何も見えない。 この支配関係を乗越えようとする階級闘争を通してのみ、全体の共生関係が立現れる。 近代精神の利己的なパラダイムはこの階級闘争に対する敵対意識となって現れる。階 級闘争は階級社会の誕生と共に始まったが、近代社会の自己意識は階級闘争の自己意 識へと転化する。社会主義の思想は階級闘争の自己意識である。

 ⑥階級闘争と民主主義

 官僚組織は共生的パラダイムを維持する上では必要不可欠な組織である。組織は多 様な人間の、多様な欲望を統一する。この欲望は利己的であると同時に共生的な欲望 でもある。組織はこの欲望を調整する。利己的な欲望は共生的なシステムによって調 整される。官僚は競争概念によって、部下に忠誠心の競争を煽り、下方に向かって命 令しようとする。だが過度な競争は共生メカニズムを自ら解体する。民主主義は官僚 同士を競争させ、より共生的な官僚を選択しようとする原理である。官僚の下方への 忠誠心を煽り、より進化した共生メカニズムを選択しようとする原理だ。確かに、民 主化自体は下方に潜在していた利己的欲望を開放し社会をアナーキー化する事もある。 官僚組織には利己的欲望を抑え統制する機能を持っている。しかし、利己的欲望を官 僚的・暴力的な力で抑圧している限り、組織や社会の利己的なエネルギーは拡大する のみだ。この利己的エネルギーによって支えられた組織はナチス・日本軍部である。 利己的エネルギーが極大化した組織は盲目的になり破綻する。利己的な欲望は官僚的 な抑圧によっては抑えられない。しかし、土地・金融・労働力に対する利己的な欲望 に対しては、官僚的な統制・監視は有効なだけでなく、不可欠だ。
 階級闘争は下方で抑圧された人間の欲望の開放であり、民主主義の原理と相同な関 係になる。農業社会においては、利己的な欲望は土地や領土への排他的な支配欲となっ て現れる。しかし、戦争は共生的な社会関係をズタズタに引裂き人間生活を破壊する。 平和と民主主義の両立が困難な関係にあったのと同様に、階級闘争と平和は両立が困 難であった。前近代社会にあっては、支配層の調整能力が崩壊し共生関係と敵対関係 になった時は、内乱や戦争が新しい社会関係を構築する過程となった。階級闘争はた だ新しい特権的な支配層を産み出すだけで終わらざるを得なかった。前近代社会の階 級闘争には自己意識(民主主義)が欠けていた。反乱や内乱は階級闘争としてではな く群雄の割拠となった。近代社会の階級闘争は民主主義的な闘争の性格を帯びる。大 量の労働者階級の欲望は土地への所有欲に向うのではなく、生産手段への支配欲とし て現れる。資本と賃労働という支配関係からの開放へと欲望は転化する。
 労働者階級の利己的欲望は直接に共生的な欲望と結合する。生産手段に対する社会 的な支配関係がこの階級の欲望を実現する手段となる。また、他面では自主管理的な 支配では、資本と労働者は消費者に対峙し利害を共有するという関係に立つ現象も起 きる。公害問題ではこうした現象が起き易い。また、軍需産業における資本と労働者 の関係は極めていびつな利害共有関係を持つ。国有化は消費者のグローバルな利害と 対立関係に立つ事もある。所有関係から資本を追放する事によってはこの階級の利益 を実現できない。労働者階級は市場では消費者として、市民的な超階級として立現れ る。近代社会における階級闘争は必ずしも、戦争や内乱を惹起しない。ブルジョワジー と労働者階級は相互に敵対的な利害関係を持つと同時に、共通した利害関係(民主主 義)を持って歴史の舞台に登場した。近代民主主義の原理はブルジョワジーが封建階 級に対抗する思想的な武器となったが、この思想は他面では労働者階級がブルジョワ ジーに抵抗する思想的武器ともなる。近代社会における階級闘争は民主的な性格を帯 び、自己意識を持った階級闘争となった。
 近代民主主義は革命の思想として歴史の舞台に登壇した。産業ブルジョワジーは革 命家として歴史上の舞台に現れた。近代民主主義の革命性が消えていないのと同様に、 今日の世界においても産業ブルジョワジーの革命的性格は消えていない。近代民主主 義の革命性は一国的な狭い視野に限定されている。だが、一国社会主義はこの民主主 義を放棄する事によって、革命思想を放棄し裏切った。20世紀においては「社会主 義者」より、遥かにブルジョワジーの方が社会主義的政策を持っていたという現象は 珍しくない。目先の利益とセクト主義に取付かれた社会主義者より、遥かに革命的な ブルジョワジーを見出すのは簡単な事である。金融寡頭制によって支配された産業ブ ルジョワジーの革命性は極めて限定されるにしても、近代民主主義の担い手として見 れば、その利用価値は消えていない。自己意識を失った社会主義者の階級闘争至上主 義は労働者階級の闘いにとんでもない悲劇をもたらした。
 確かに階級闘争と民主的な市民運動は直接には一致しない。民主主義の原理自体は 階級関係に中立であり、この関係を覆い隠す一面を持つ。階級闘争至上主義は民主主 義運動の上に階級闘争を置き、民主的な権利を政治闘争に従属させた。こうして階級 的利益の名文で民主的な権利を否認した。この否認は党官僚の特権意識と深く結び付 いていた。社会と党の民主化は党官僚の特権の否認となる。社会の民主化は明かに労 働者階級のヘゲモニーを高めるのであって、民主主義の否認によっては、労働者階級 はどんな利益も獲得できない。徹底した民主主義と階級闘争の目標は同じである。社 会主義の思想は近代民主主義を乗越えはするが、それを否認するのではなく、その民 主主義的内容をより一層徹底して求める思想である。社会主義は近代民主主義の革命 性を否定するのではなく、これを国際的な水準に引上げる思想だ。近代民主主義の自 己意識は一国的な視野に限定されている。労働者階級の自己意識は人類全体の自己意 識となって、歴史上の舞台に登壇した。元来、労働者階級は奴隷階級である。奴隷階 級だからこそあらゆる一切の階級関係の廃止を目指す。人類が国境によって分断され ている限り、階級の廃止は有得ない。社会主義の思想は一国的な狭い視野を突破り、 世界革命の思想として歴史の舞台に上がって来た。
 マックス・ウェーバーはソビエト政権はいずれ官僚化していき、民主主義が危機に 陥るだろうと予想した。彼は「民主制そのものが不可避的に官僚制化を促進するにも 関わらず、官僚制化の促進を望んでいる訳ではないので、民主制は官僚制の支配の敵 対者である」(『権力と支配』)と言う。市場と民主主義を否認したスターリン体制 はウェーバーの予想通りに進行した。この点では、レーニンやトロツキーの盲点の正 鵠を射てる、と言える。また、民主主義と官僚主義の弁証法的な関係を的確に捉えた。 階級的利益の名文で民主的な権利を抑圧すれば、社会主義は官僚主義に変質する。民 主主義は社会主義の生命線である。また、ウェーバーは「『職務上の秘密』という概 念は、官僚制独自の発明物なのであり、まさしくこの態度ほどの熱心さをもって官僚 制が擁護するものは、他には何一つとして存在しない」(同上)と言う。国民が政治 の主人として判断するには情報の公開が不可欠である。これが無ければ民主主義は無 力化・形骸化する。情報の公開制度は民主主義の生命線である。政党の党内民主主義 の場合においても同じである。
 民主主義の原理は官僚的な意思決定によってではなく、自らの意志で共生的な関係 を築こうとする原理だ。共生的な関係は社会関係だけでなく、自然環境との関係も含 むようになる。動物の世界においては環境との共生関係は外的に強制された関係であ るが、人間の世界においては自らの意志で獲得した共生関係となる。だが、人類の前 史においては、この共生関係は利己的なパラダイムの手段として立現れる。従って、 人間世界の共生的な関係・民主的な関係を求める闘争は、利己的なパラダイムとの闘 争であり、階級闘争と融合する。人間世界の共生関係は多様なレベルを持つ。家族・ 地域・国家・企業・団体・森林・都市と農村等々。人類は長い歴史の中で、様々なレ ベルで利己的パラダイムと共生的パラダイムの闘争を繰返して来た。世界革命の思想 は、近代的な労働者階級の誕生と共に産声を上げた。グローバル化する「帝国」の下 で、今日の地球は悲鳴を上げている。地球環境と貧困問題は否応なしに世界革命を強 要しつつある。