①市場と人為淘汰
市場関係それ自体は交換関係であって、共生的な人間関係である。市場には需要と
供給の関係が発生して競争が起きる。だが、一般的には需要過剰は代替品に対する需
要を呼覚まし、多元的で多様な人間関係を加速する。従って、市場で発生する使用価
値に対する競争関係は弱肉強食を惹起しない。市場それ自体は人間社会の自由な交流
の場であり、人間社会の共生関係を発展させる場であった。交換価値は諸商品の交換
における等価基準を定める抽象的人間労働の労働時間である。この価値(交換価値)
が一人歩きして、あらゆる商品の価値を決定する。今日でも、ピラミッドや長城は歴
史的な価値を持つ。歴史的な遺産としての価値は交換価値とは異なるが、巨大な人間
労働の対象化としての価値としては同様な性格を持つ。どんなに人類文明が発展して
も、と言うよりは発展しているからこそ、これほどの歴史的遺産は残せない。今日で
はこれらの遺産は、平和のための公共事業・失業対策として見直しが始っている。ちょ
っと、こじつけ的な感じはするが、全く道理がないとも思えない。
市場は淘汰の世界でもある。この淘汰の力学が政治家・資本家・経営者・高級官僚
に働く限り、市場は人為淘汰の世界として機能する。労働者・農民・消費者・市民は
彼ら指導層を利用しながら己を守る。指導者は指導される者によって指導されなけれ
ば、指導できない。これが民主主義と弁証法の哲理であり、人類の歴史を貫いてきた
哲理である。だが、歴史はジグザグで皮肉に満ちている。指導者は民主的な力で指導
される事によって誕生し、指導力という特殊な情報能力を獲得する。この指導力は指
導される者のために行使されるべき力として獲得した力だが、この力を己の利己的目
的の手段として行使する事は可能となる。人類の利己的パラダイムはこれを正当化す
る。利己的パラダイムは市場を人為淘汰の世界から、盲目的な自然淘汰の世界に転化
する。指導者は強者として弱者を指導・支配する権利が自然権として備わっている事
になる。市場で淘汰されるのは指導者ではなく、指導される者になる。
利己的パラダイムの下では、民主主義は官僚主義に転化し、生きた弁証法は死んだ
形而上学・官許哲学に転化する。同時に指導者の知性は官僚化し、腐敗・堕落する。
他方では利己的欲望は自己増殖する性向を持っている。利己的欲望は他者に対しては
合目的的であっても、己自身に対しては盲目的であるという性向を持っている。こう
して彼らは指導される者に働きかけて生産力を高める。この生産力の発展は否応なし
に指導される者の知性と欲望を高める。そしてこれは反乱となり歴史は繰返される。
市場が人為淘汰の世界として機能するためには、民主主義の制度が不可欠である。こ
の制度が機能しなくなると市場は盲目的な性向を帯びる。民主主義の制度を確立する
ためには、利己的パラダイムの転換が不可欠である。共生的パラダイムは組織力の物
象化を抑制し、市場を人為淘汰の世界に転化する。
官僚の使用価値に対する意識的計画的な配分は、自由な市場の価値関係・交換関係
を通じて補完されねば成らない。官僚の意識的な統制と自由な市場は相互に補完的な
関係に立つ。官僚の古いパラダイムが時代錯誤になり、官僚の利己的なパラダイムが
暴走し、盲目的な統制となって現れた時には、市場は意識的な装置を回復する機構と
して現れる。市場は共生的な社会関係を回復する生命力を現す。官僚は盲目的であり、
自由な市場こそが真の意識的な主人として姿を現す。これがパラダイム・シフトであ
り、社会や組織の真の主人が顔を出す瞬間でもある。この意識的計画性と盲目性の関
係は、人間の意識性と自然発生性の相互補完関係の反射でもある。両者は他方を排除
する事によって成立するのではなく、両者は対立関係に立ちながらも、相互に補完し
あう事によって成立する。共生的なパラダイムと利己的なパラダイムの関係も同様な
関係にある。両者はいつでも他方に転化する可能性を秘めている。共生的な関係が利
己的な関係に転化した時には、利己的な関係が共生的な関係を回復する機能を発揮し
始める。利己的な関係が暴走を始めた時は、共生的な統制力への要求も強化される。
とは言え、長い人類の歴史は、共生的なパラダイムの進化の歴史であって、利己的な
パラダイムの進化の歴史ではない。共生的なパラダイムは利己的なパラダイムによっ
て補完されながらも、より大きな範囲と能力を獲得して来た。パラダイム・シフトは
古い共生的なパラダイムから新しい共生的パラダイムへの転換であって、利己的なパ
ラダイムへの転換ではない。
価値はそれ自体としては、人間社会の共生的な交換システムの共通なルールであり、
利己的欲望を意味していない。しかし、資本においてはこの価値が自己目的化し、使
用価値の創造者として現れる。人間が使用価値を創造するのではなく、人間が創造し
た商品の価値が自己目的化し、自らの意志を持った主体として現れ己自身を創造する。
人間はこの資本の奴隷として、この過程に参加するだけである。生命の自己増殖は利
己的な関係であるが、資本においても同じ関係に立つ。資本は商品を、従って共生関
係を生産する。死んだ生命体(商品)が生きた生命体(労働力)を道具にして、それ
自身の生命力を持つ。貨幣は共生的な関係を表示するが、資本に転化する事によって、
利己的なパラダイムに転化する。だが、人間は消費者としては奴隷ではなく、自由な
意志を持った人間として現れる。他面では、資本は産業を産み出し、古い共同体的制
約から生産力を解放した。また、古い官僚的なパラダイムに対する抵抗力を持ってい
る。従って、資本は利己的なパラダイムの担い手ではあっても、人類の共生的な関係
にとっては十分に利用価値がある。人類にとって必要な関係は、資本を排除する意志
ではなく、資本を導く意識的な合目的性・自己意識である。
明治維新は素晴らしい革命であった。この日本でも、新しい時代が産れ出る時には、
「時代の流れ」は実にジグザグである。時代は大きく右に向ったと思った途端に、左
旋回する。左に向ったと思った途端に右旋回する。これは多様で多元的な社会を新し
く生れ変らせるためには、様々な人間の協力と合意が必要だからだ。歴史はジグザグ
と試行錯誤を繰返し、様々な人間の協力と合意を獲得しながら、新しい時代を切開こ
うとする。それに対して、指導者に逆らう者を異端者として排除する思想・運動では、
一見ジグザグなしに平和的に新しい社会を産み出せるように見える。しかし、歴史の
教える所によれば、これこそが巨大な破綻・ジグザグを生出す。ナチス・日本の軍部・
スターリン体制等々。トロツキーはスターリンをジグザグ路線だと批判した。これは
正当な批判だとは言えない。元来、政治も市場もジグザグにしか進み得ない。トロツ
キー自身も「戦争とは未知数の方程式だ」と語るように、試行錯誤で進路を決めるし
かない、と認識している。ただ、ジグザグを繰返す度に異端者を排除したスターリン
体制は、このジグザグをより一層悲劇的で悲惨な結果を産んだ。
②金融と情報
金融の自由化は資本主義経済全体を爆破する。金融は利子を産む。だが、貨幣自体
はどんな価値も産まない。貨幣は単なる商品の一般的等価物だ。貨幣が利子を産むの
は、中間の商品交換で価値が発生したからだ。金融が利子を産むのは、投下資本が利
潤を産む場合だけだ。金融は産業資本の道具に過ぎない。市場経済では貨幣は商品に
対して優位に立つ。自由化した金融は産業を道具にする。自由化した金融資本は産業
資本や社会に対して大きな支配力を持つ。こうして、金融資本は産業や社会から自立
し自己目的化する。自己目的化した金融は自ら自由に信用を創造し、自分で自分を格
付けして、創造した信用を保証する。金融バブルと不動産バブルは同時に進行する。
創造した信用が不動産価格を押上げ、これを梃子にして何倍も信用を創造する。だが、
不動産需要には限度があるから、この限界を超えた所で、突然何倍も膨張した信用は
一挙に収縮を始める。
金子勝氏によれば、金融・土地・労働力は市場原理にはなじまない、と言う。労働
力の市場における自由な売買は労働者の奴隷化に転化する。土地は地球の一部であっ
て人類共有の財産だ。この地球を市場が自由に売買する事は許されない。土地の自由
な売買と乱開発は地球環境を破壊する。金融は産業の道具であり信用経済の根幹だ。
金融の破綻は経済全体の破綻となる。一般的には、一産業の破綻は経済全体の破綻に
は成り得ない。金融が安定していれば金融が産業の破綻を調整する。しかし、金融の
破綻は信用の破綻となって、全産業を破綻させる。金融機能は極めて公共的な機能で
あって、自由な市場経済にはなじまない。破綻を防ぐための多様な規制・監視が不可
欠だ。昨今の金融の自由化は経済のグローバル化に伴って、一国的な規制・監視が役
立たなく成り始めた事から始まった。不透明で非公開な規制・監視は、グローバルな
経済の下では通用しない。しかし、その事によって規制・監視を放棄するのは筋違え
である。今日のグローバル化する経済の下では、世界的な金融の規制・監視が不可欠
となる。
グローバル化に伴う金融の自由化は世界システムを絶えず危機に落す。経済のグロー
バル化は否応なしに、金融の不透明で非公開なシステムと対立し、駆逐しようとする。
世界各国はその民族・地域の特徴に応じた産業組織を持っている。従って、その特徴
に応じた金融システムを持つ。グローバルな金融は強引に金融システムを透明化・公
開化を迫る。しかし、この透明化・公開化は国家の特徴に応じた変化をすべきであっ
て、押付け的な方法は経済を解体するだけだ。資本は理念のために生きている生命で
はなく、利益のために生きている。国際資本の要請通りに透明化・公開化したとして
も、経済が停滞すればさっさと引上げる。国際資本の要請が通らなくても、利益が有
りさえすれば関係は親密だ。今日の世界システムの問題はこうした無責任な国際金融
資本に先進国の国家が支配されている事にある。
情報格差は優位者に特別利潤をもたらす。情報は戦争時に巨大な利益をもたらすの
と同様に、経済的にも巨大な利益をもたらす。国際金融資本は周縁国との情報格差を
利用して、その共生メカニズムを解体し、分断支配する事によって多くの利益を上げ
る。しかし、情報通信技術は交通・流通手段以上に、国境の壁を越え易い。この技術
を武器に共生メカニズムを確立した国・地域はグローバルな競争で優位に立つ。国際
資本の要請によって共生メカニズムを解体した馴れの果てが、今日のソマリアである。
かつて、ソマリアは社会主義を志向したが、エチオピアとの戦争によって国際金融資
本の奴隷となった。国際金融資本の奴隷化は国家自体を解体する。国際金融資本と産
軍複合体は盲目的な本性によって、絶えず第二第三のソマリアを欲しがる。彼らは自
国をもソマリア化する事さえ厭わない。ソ連がアフガン戦争でソマリア化したように、
アメリカはイラク戦争でソマリア化する瀬戸際に立った。
金融は経済の情報だが、交換価値の情報であって、使用価値の情報を反映できない。
金融は利益の有る所に流れ様とするのであって、社会にとって必要な所に流れる訳で
はない。監視・規制を怠れば勝手に信用を創造し、利益の誘導を図って自己目的化す
る。社会にとって必要な部門・地域に金融を誘導するには社会的な政策・規制が不可
欠だ。貨幣は一般的等価物として諸商品を反映している。諸商品には使用価値が含ま
れる。従って、貨幣は間接的には使用価値を反映している。産業資本は諸商品の生産
資本だから、使用価値の生産資本でもある。流通資本においても、諸商品の流通とし
て使用価値が付着している。それに対して金融資本には使用価値が付着していない。
金融資本は交換価値の交換価値である。例えば、金融資本は為替ギャップで利益を上
げる。金融ギャップは不経済の原因ではなく、利益の源泉となる。経済バブルは投機
のチャンスとなる。他人の不幸は投機のチャンスである。安定した経済は魅力に欠け
た経済となる。経済格差が拡大する市場こそ魅力的な市場となる。国際金融資本はこ
の格差を餌に特別利潤を獲得する。諸商品の安定した再生産では利益を獲得できない。
資本主義的な生産様式は市場の失敗を繰返すが、国際金融資本はこの失敗から学ぶの
ではなく、利益を上げる。彼らは失敗を防ぐ方法を学ぶのではなく、失敗を拡大する
方法を学ぶ。
資本は生命体と同様に自己増殖する。金融資本は資本に寄生して増殖するウィルス
である。DNAが生体全体を設計している様に、産業資本は特定の使用価値を生産す
る情報を保持している。産業資本は使用価値を媒介にして増殖するが、金融資本は使
用価値なしに資本のみを媒介にして増殖する。金融資本が保持している主要な情報は
使用価値の生産ではなく、自己増殖に関する情報である。利益第一主義から見れば、
金融資本は専門家の中の専門家であり、官僚の中の官僚である。盲目的な資本主義的
生産様式では、金融資本は圧倒的な支配力を持つ。これはウィルスが生命体を支配す
るのと同じ現象である。ウィルスと同様に、金融資本は死んだ生命体であり奇形であ
る。金融資本の権威・支配力の源泉は利益以外には中身が空っぽである事による。金
融資本は絶えずリスクを避けようとするが、実はリスクこそが利益の源泉であると言
う矛盾を抱えている。そこでIT金融現象のようにリスク評価を機械化・合理化しよ
うとするが、リスク評価こそが金融の魂・直観である。リスク評価を機械化すればす
る程、リスクは高くなる性向を持っている。使用価値抜きにリスク評価する事は出来
ない。未来に対する感性抜きにリスクの評価は不可能だ。利益第一主義ではリスク評
価は出来ない。
産業資本は使用価値を創造し販売するが、金融資本は信用関係を創造しそれを販売
する。金融資本は共生的な関係を創造し販売する。信用機能と言う点から見れば、金
融資本は極めて公共的な性格を持った資本である。資本は一般的には利己的だが、金
融資本は利己的では己を維持できない。この公共的機能が金融資本の奇形性の原因で
ある。どんな資本も使用価値なしに自己増殖し得ない。特定の使用価値に拘束されな
い金融資本は経済全体の使用価値に拘束される。従って、金融資本は利己的な資本と
しては死んでいる。公共的な資本としてしか生きて行けない。この様な公共的資本が
利益第一主義で暴走する事は、経済全体の信用機能を解体するのと同じ事である。ウィ
ルスが生命体に害悪ばかりを働く寄生体ではなく、時には生命体を蘇生し、創造する
役割を果して来たように、金融資本も同様な役割を果す。しかし、そのためには金融
資本に対する公共的な管理・統制が不可欠である。金融に対する意識的計画的統制が
欠けると、金融資本はウィルスのように忽ち暴走し、経済全体を飲込み破壊する。
マイクロクレジット運動は興味深い。金融とは本来何のためにあるのか?。どうあ
るべきなのかを原点に立って教えている。ヒルファディングによれば、金融資本の利
潤は創業者利得である、と言う。金融は生活と創業の意欲に役立つ公共的な機能を持っ
ている。従って、その利益は公共的な機能の限度内で受けるべきものだ。それに対し
て、金融の自由化は金融市場を賭博場にする。「最後のババ」を掴んだ者が全責任を
負う賭博場だ。破綻を予見した者は先にさっさと賭博場から引上げ、破綻後に買叩く。
人類はこんな馬鹿げたゲームを繰返すべきではない。今回の金融破綻ではマイクロク
レジット運動は一切傷付かなかった、と言う。金融資本の利潤を創業者利得の限界内
に抑える公共的な統制と監視がなければ、金融はウィルスのように成って世界を席巻
する。
生体制御ではホルモンによる液性調節と電気的な刺激による神経性調節がある。神
経制御は調節する部位を特定し、瞬時に刺激・抑制する。それに対して、ホルモンは
広範な部位に、比較的長期に刺激・抑制する。情報通信網が神経制御的な役割を果す
とすれば、貨幣はホルモンのような役割を果す。金融の調節は経済全体に対して、一
般的に影響を与える。貨幣は諸商品の一般的等価物として、貨幣需要がある所を一般
的に活性化する。その点では盲目的な調節でしかない。しかし、他面では貨幣需要が
ある所は平等に広範に活性化するという長所を持つ。盲目的な調節であっても、意識
的計画的な調節を補完する役割を持っている。パラダイム・シフトは官僚の意識的計
画性からは起らない。パラダイムの転換は官僚の意識的な統制を乗越えた一点で発生
する。貨幣による調節は盲目的であっても、パラダイム・シフトを誘発する可能性も
秘めている。金融資本は資本に寄生するウィルスとしての役割だけでなく、信用貨幣
の創造業者としての役割を持つ。従って、社会的には極めて重要な役割を担っている。
しかし、経済の調整を貨幣の調整のみに頼ろうとするマネタリズムは余りに盲目的す
ぎる。それはちょうど神経調節をやめてホルモンの調節だけで生きようとする経済理
論である。金融資本は時にはパラダイム・シフトを誘発するが、金融の自由化は金融
破綻を誘発する。
③二重権力状態のパラダイム
利己的なパラダイムの下では共生的なシステムは国家として現れたが、この国家は
他方ではブルジョワジーの財産を守り、階級闘争を抑圧する暴力装置でもあった。レー
ニンは国家は暴力装置であると規定する。ロシア帝制は明かにこの様な暴力装置であっ
た。国家が暴力によって階級闘争に敵対する限り、革命は軍事的に提起せざるを得な
くなる。しかし、ロシア帝制から国家の一般的規定を導く事は出来ない。レーニンの
国家論の神聖化は戦後の社会主義運動に様々な分裂と変質を引起した。暴力装置とし
ての国家と近代民主主義の精神は両立しない。近代民主主義の精神から見れば、合法
的な階級闘争は可能であるし、それは労働者の正当な権利である。更に、合法的な階
級闘争は国家そのものの変質を引起す可能性がある。国家の暴力装置を階級闘争に対
して中立化させ、国家を二重権力状態に転化する事も可能となる。革命は二重権力状
態を通じて合法的・平和的に進行する。二重権力状態の下で暴力的な運動を志向すれ
ば、運動自体に対して悲劇的な打撃を与える。
ロシア革命において発生した7月の武装デモはソビエトそのものを危機に落した。
しかし、トロツキーが指摘するようにボルシェビキは武装デモに反対し、結果を予見
しながらも、このデモに参加した戦略は素晴らしい。あくまでもソビエトの労働者・
兵士と共に歩もうとした戦略は、彼らの信頼と信用を獲得し、十月革命を成功させる
力となった。レーニンとトロツキーに指導されたボルシェビキは独善主義やセクト主
義と全く無縁であった。ロシアにおいては世界戦争が革命過程を加速し、数か月で二
重権力状態から社会主義革命が起った。ロシアにおける社会主義革命はボルシェビキ
が推進したのではなく世界戦争である。ブルジョワジーは戦争を利用してソビエトに
対抗しようとした。従って、ブルジョワジー自身が革命の推進力と成っていたのだ。
今日の新自由主義の破綻に見られる様に、ブルジョワジーの盲目性は革命の推進力と
なる現象は依然として変っていない。同様に、スターリン現象は社会主義の盲目性で
あり、反革命の推進力と成っている現象も依然として変っていない。
第二次世界大戦は人類の世界構造を劇的に転換した。この戦争は世界構造を民主化
し、人類の前史に終止符を打つような世界革命となったのは明かだ。第四インターの
マンデルは戦後の世界システムを「アメリカ帝国主義による世界の組織化と労働者国
家圏との対立の構造(世界的二重権力)」と規定した。ソ連解体後の世界をどう規定
したのかは不明である。もし、ソ連の解体によって、「世界的ニ重権力構造」が崩壊
したと考えるならば、余りに皮相的であり、民主主義的視点が欠けている、と言わね
ばならない。
社会主義システムは世界の労働者階級のヘゲモニーによって支えられた民主主義的
なシステムであって、一国的なシステムではない。各国で展開されている医療・社会
福祉システムは相互に影響し合いながら、世界の連帯した労働者階級の力によって獲
得された民主的なシステムである。ILOのような国際機関もあるように、特定国の
社会システムはその国の政治力学だけで生れて来た訳ではない。わが国の憲法9条も
国際政治と国内政治の力学で生れた条項だ。社会主義システムは社会福祉的なシステ
ムであると同時に民主的なシステムでもある。戦後のソ連圏は社会福祉的ではあって
も民主的なシステムであったとは言えない。果たせなかったとはしても、ペレストロ
イカを開始したソ連の指導部は北欧のような体制を目指したのは当然な成行きである。
ロシアの2月革命はロシア社会を二重権力状態にした。これはロシア国家の暴力装
置を無力化させ、ソビエトに対する軍事的な支配権を失った事によって生れた。第二
次大戦後のヨーロッパは2月革命後のロシアと似た様な状態にあった。ヨーロッパと
日本においてはブルジョワジーの労働者階級に対する軍事的な支配権は喪失した。し
かし、マンデルも指摘するようにアメリカのブルジョワジーは負け知らずで、この支
配権を失っていなかった。「赤狩り」はこれを象徴する。アメリカのブルジョワジー
は世界資本主義の再編成をしながら、ベトナム戦争で巻返しを図った。このベトナム
戦争に敗北したアメリカのブルジョワジーは世界の労働者階級に対する軍事的な支配
権を喪失した。ベトナム戦争での勝利は、世界的なレベルでの二重権力状態を鮮明に
した。ベトナム戦争は単にベトナムとアメリカの闘いではなく、世界的な規模で戦わ
れた階級闘争であった。この闘いの中で、植民地の解放と世界の民主化は一段と進化
した。とりわけベトナム戦争と同時に戦われた黒人公民権闘争はアメリカの社会構造
を劇的に転換した。オバマの勝利はこの闘いで準備され、この闘いの成果である。
ソ連の解体によっては世界の二重権力状態は何も変っていない。むしろ、ソ連の民
主化によって、世界の労働者階級のヘゲモニーは一段と進化したと見るべきだ。ソ連
圏の社会福祉システムは蹂躙されたが、暴力によって支えられた社会福祉システムは
社会主義とは無縁である。ソ連による東欧に対する軍事支配を見ても明かなように、
ソ連の解体は社会主義システムをより一層民主的に創発(進化)した、と見るべきだ。
世界の共生システムは相互に影響し合いながら、民主的に発展して来たのであって、
ソ連の軍事力によって支えられた訳ではない。ソ連は世界の民族解放闘争には大きな
役割を果したが、他面ではこの軍事力は民主的な共生システム(社会主義システム)
に対して否定的な役割をも果して来た。
人類の長い歴史上では、戦争は革命や内乱の推進力となって来たし、今日の世界に
おいても変っていない。戦争はあらゆる矛盾の爆発で、国民を極めて不幸な状態に落
し込む。国民はこの状態から抜出すためには、否応なしにパラダイム・シフトを強い
られる。戦争は支配層の盲目性から発生する。この盲目性を一早く読取り、未来を予
見した勢力がパラダイム・シフトのヘゲモニーを獲得する。それに対して、平和的で
合法的な闘争においては、急速にパラダイム・シフトを強いられる事はない。平和的
で合法的な闘いは、一人一人の国民の政治意識の変革を迫る闘争である。国民の政治
意識が変れば、支配層もその変化に対応して譲歩・妥協したりしながら構造転換をす
る事が可能となる。戦争状態の場合には、政治意識の変化には暴力的に対応するしか
なく、平和的な転換が極めて困難になる。
今日の世界においては、「民主主義国家同士は戦争しない」と語られている。この
命題が今日の二重権力状態の世界に限定したパラダイムであるならば正しい。しかし、
これを近代民主主義一般のパラダイムと考えるならば間違っている。近代民主主義国
家はナポレオン戦争・帝国主義戦争・ベトナム戦争やイラク戦争をした。ベトナムや
イラクが民主主義国家でないから起った、と言うならとんでもない命題だ。ただ、E
Uの統一のように民主主義は平和を加速する制度に成っているのは明かだ。しかし、
古代ギリシャ・ローマ共和制を見れば明かな様に、民主主義は戦争のために産まれた
制度でもあった。兵士の志気を高めるには兵士自身の政治参加が有効だったのだ。こ
うした傾向は古代に限らず、洋の東西を越えて共通に見られる現象である。戦争はむ
しろ下級兵士の発言権を高める傾向がある。下級兵士の感情や権利を蹂躙するような
軍団は敗北する可能性が高くなる。戦争は生死を賭けた闘いに人間を駆立てる。この
様な闘いは、一歩間違うと反乱を誘発する。20世紀は戦争と革命の時代だった。戦
争が革命を誘発した。戦争が革命を誘発するのは近代社会の特徴であって、古代から
続いている特徴ではない。前近代社会においては、戦争は内乱と同様に新しい権力者
を産んだだけで、革命を誘発しない。新しい支配領土が兵士の不満の捌け口となった。
近代社会においては大量の労働者階級の登場によって、戦争は内乱を誘発し、民主
主義を創発した。戦後の二重権力状態の世界においては、近代民主主義を乗越えたは
ずの「社会主義」国家が民主主義を放棄する事によって、散々戦争を繰返した。この
ために、社会主義ではなく、近代民主主義が戦争を防ぐ、と言う倒錯が産まれた。し
かし、戦後の社会主義システムはソ連によって支えられたシステムではなく、世界の
労働者階級の民主的な力によって支えられたシステムである。ソ連はこのシステムの
ためにある種の貢献をしたのは歴史的な事実ではあったが、他面では裏切的な役割を
も果した。ソ連の積極的な役割はベトナム戦争で終了した。「民主主義国家同士は戦
争しない」というパラダイムは、近代民主主義のパラダイムではなく、国境を越えた
民主主義、従って社会主義システムのパラダイムである。今日の人類の盲目性の一因
は、この二重権力状態に対する自己意識・自覚を喪失している事による。
ブルジョワジーと言うのは実に盲目的なのであって、この教訓を学んで戦争をしな
くなった訳ではない。ブッシュがイラク戦争を始めた時は、ベトナムの敗北をイラク
で取返す、と堂々と宣言した。ベトナムの敗北から学んだのは、アメリカのブルジョ
ワではなく労働者階級なのだ。アメリカをブルジョワ国家と規定して満足すれば、こ
の政治力学を理解できない。産軍複合体を見れば明かな様に、ブルジョワジーと言う
のは実に利己的なのであって、国家が負けようが勝とうが儲かりさえすればよい。昨
今では金融バブルが弾けたので戦争が必要だという評論家さえいる。わが日本でも、
「鬼畜米英・一億玉砕」と国民に押付けながら、敗戦後に備えて資産の確保をした。
敗戦後は直ちに米軍に取入って資産の拡張を開始した。ブルジョワと言うのは実に変
り身が早い。この変り身の早さを軽蔑するのは間違っている。これを良い方に解釈す
れば適応力がある、と言える。刃物も使い様なのだ。民主主義の制度は実に素晴らし
い。この制度を使えば、労働者階級の利益のためにブルジョワジーを利用する事は十
分に可能だ。ブルジョワは利益のためだったら、どんな事にも適応する習性を持って
いる。
株式市場に参加する権利は、労働者階級の市民的権利と同じである。株式市場を敵
視するような発想は実に馬鹿げている。経済と政治が不可分な関係に成っているため、
株式市場への参加は大衆の政治意識を覚醒する効果がある。株式市場は自己責任の市
場だから、青年の主体的で自立的な政治意識を目覚めさせる機能がある。青年の自立
的で民主的な政治意識は、古臭い左翼の教条主義・セクト主義と激突する。こんな古
臭い教条的な発想は左翼から青年を引離すだけである。また、この参加は経営と市場
への民主的な圧力となる。インターネット革命は一般投資家と機関投資家の情報格差
を縮小する。市場・経営の公開性・透明性が高まれば、一般投資家を「市場の君主」
として押上げる可能性がある。株式市場の大衆化は、企業の社会的責任を強化する。
そのためには様々な規制をグローバルに強化する必要がある。不透明なヘッジファン
ドの存在はこの市場を解体するだけだ。
労働者階級は消費者としてはブルジョワと同じ市民である。ブルジョワを排除する
事は、己の市民的権利を放棄する事を意味する。労働者階級の市民的権利はブルジョ
ワジーから与えられた権利ではない。ブルジョワジーからもぎ取ってきた権利である。
この市民的権利をブルジョワ的権利だと言って攻撃したスターリン主義者は、結果的
にファシストと同様な歴史的役割を演じた。市民社会はブルジョワ社会として登場し
たが、常に市民社会はブルジョワ社会であるとは限らない。ブルジョワジーのヘゲモ
ニー化にある市民社会は戦争を繰返したが、労働者階級のヘゲモニーが強化されるに
従って、市民社会は平和の武器となった。市民社会の国際的ネットワークと労働者階
級の国際的ネットワークは融合する。労働者階級は階級関係そのものの死滅を志向す
る。このネットワークの融合は第二次世界大戦直後から既に始っていた。階級闘争至
上主義は、この世界大戦でその歴史的役割を終えていた。ソ連の解体はこの融合を急
速に加速した。地球環境問題は更に一段とこの融合を加速する。
④組織と個人の対等性
グラムシは党を知識人と規定した。党は階級の利益を代表すると言う点では、ある
種の代行主義的性格を持つが、同時に階級を闘争の中に導き政治意識を覚醒する指導
的な役割を果す。しかし、今日の情報社会では労働者階級自体が知識人化しつつある。
労働の知性化によって党は階級の中の自主的なネットワークに転化して行かざるを得
ない。党は多様で多元的なネットワークの集合的で有機的な政治的代表として機能す
る。産業社会においては官僚的な産業組織が大きな役割を果したが、知性を低下させ
る官僚組織は競争上の優位性を失っていく。政党組織においても同じだ。情報社会に
おいては経営組織もネットワーク化しつつある。しかし、利己的なパラダイムのネッ
トワークはそれ自身の中に自己矛盾を抱えている。この自己矛盾は外部の共生的なネッ
トワークの補完と統制なしには解決しない。政党組織はこの経営外部の共生的なネッ
トワークとして大きな社会的役割を果す。自主的なネットワークの下では集団と個人
の関係は対等・平等の関係にある。集団と個人の対等・平等性が集団の多様性と多元
性を保証する。多様で多元的な集団構造によって、組織は適応性と発展性を獲得でき
る。下級機関や個人の自立性を奪い平均化する事は、自らの適応性と成長力を放棄す
るだけだ。民主集中制は党の統一性を保証したのではなく、党の分裂と衰退を保証し
ただけだ。
戦争の過程は民族・国家・地域によって様々だが、この過程の中で発生する「一国
一城の主」と言う観念は人間開放の観念でもある。ルネッサンスの時代は極めて個性
的な君主が入替り立代り発生した。それは洋の東西を超えて共通だ。下克上の権利は
家臣が生きるための当然の権利である。マキャべりは家臣がこの権利を行使しないた
めの技術を科学的に分析した。『君主論』をよく読むと、彼の意図とは反対に、君主
に対する家臣の操縦術とも読める。そのためか、大抵の君主はこの本を毛嫌いする。
誤解を恐れないで言うならば、社会主義者は隠れた「現代の君主」である。とは言え、
それは日の当たらない君主、縁の下で頑張るしかない君主だ。それでも、縁の下では
立派な一国一城の主である。社会主義者は労働者階級の家臣であり、この階級に光を
当てる家臣だ。人間は同時に複数の様々な組織に属し、諸組織の中で多様な人間関係
を取結ぶ。ある時はある組織で主要な役割を果す事もあれば、従属的な役割を果す事
もある。人間は常に多様で多元的だ。この流動性こそ精神の自由を表示する。情報社
会はこの流動性を加速する。日本社会は「勤続何十年」という従属性を誇りにする金
属疲労社会だ。これは世界では通用しなく成りつつある。多様な組織と関り、多様な
経験と顔を持つ事こそ必要な志向である。インターネットの世界では金属疲労は誇り
に成らない。教条的な不屈の精神ではなく、「刑務所から世界と日本を動かすために
何をして来たのか?」が問われるべきだ。
動物の世界では全体と部分は明確に分かれ、一個体が複数の組織に属する事はない。
物質的には、全体は部分の総和だから対等にはならない。人間の世界では組織が個人
を選ぶのではなく、その利用価値に応じて、個人が多様な組織を同時に選び所属した
り止めたりする。人間の精神活動では、全体は一個の知的な主体であると同時に、個
人も全体から独立した知的な主体である。つまり、精神的には全体と個人は対等・平
等な知的主体だ。この関係は今日のインターネットの世界が特徴的に表出する。組織
も個人も、それぞれが独自のホームページを開設出来るが、従属関係など求められな
い。組織は諸個人を手段化するが、個人も多くの組織を手段化する。人間の組織と個
人の間には、優位性の関係は存在しない。ここにグローバル・ブレインの核心がある。
社会主義者はすべからく「一国一城の主」を志向すべきであって、例えどんな党や党
派であっても組織への従属は、社会主義思想の放棄である。
フーコーによれば、権力は刑務所によって支えられている、と言う。どんな権力も、
一定の歴史的な意識上の正当性によって成立している。この正当性のパラダイムから
逸脱すると狂気と見なされ、隔離の対象となる。しかし、古いパラダイムが現実の生
産力・科学技術に適応不能となれば、狂気こそが新しいパラダイムの担い手となる。
トロツキーが指摘するように、人間の意識それ自体は保守的である。この保守的な志
向と情報通信革命は対立し易い。だが、否応なしに進行する科学技術革命とグローバ
ルな生産力の発展はこの保守的な意識の変革を強要する。とりわけ、今日の地球環境
問題は一人一人の意識変革を強引に強要するし、この強制力を外的な強制力として反
発する限り人類の未来はない。情報通信革命はこの強制力をグローバル・ブレインの
内的な志向に転化する技術である。政治革命は民衆が突然、政治的に目覚めて起る訳
ではない。それなしには現実の物質的生活を維持できなくなる一点で開始する。今日
の人類はこの一点に、既に辿り着いている。今日の世界的危機は、人類に向って否応
なしに、狂気を強要しつつある。フランス革命のライオンと言われるミラボーの狂気
は世界のパラダイムを転換した。吉田松陰の狂気は長州藩の狂気となり、この国のパ
ラダイムを転換した。時代の大きな曲がり角では、古いパラダイムを乗越える狂気な
しには未来を見通せない。今日の日本は、己自身のパラダイムを転換して、人類のパ
ラダイム・シフトを先導する事が求められている。憲法9条は我々にその進路を指し
示す。
戦国時代の物語は洋の東西を超えて人気がある。戦争は数多くの悲劇をもたらした
が、他面では平和な時代で差別を受け、受難を受け続けた階級・階層に新しい夢と希
望の活路をもたらした。戦争は古い官僚組織を解体し、この官僚組織に抑圧された階
級・階層に上昇の機会を与えた。前近代社会においては、平和な時代よりは戦争の時
代の方が、遥かに夢とロマンに満ちた時代であった。フーコーは狂気こそ、時代を創
造する力であると言う。戦争は狂気によって産れ、狂気自身を創造する。戦争とは自
己増殖する狂気である。この自己増殖する狂気を転換する力は普通の正気ではない。
それは狂気となった正気、一か八かの進路に未来を見通す正気だ。戦争は内乱によっ
て終結する。
⑤社会主義と国際主義
労働者階級は生産手段を所有しない。一般的には、利己的な欲望の犠牲になる階級
であって、この欲望の加害者には成りにくい。この階級にも様々な職種・階層が存在
し、利害の対立・葛藤が存在する。ブルジョワジーはここに目を付け、この階級に分
断と対立を持込み支配しようとする。グローバルな世界にあっては、この対立・葛藤
は国境を越えて拡大する。一国社会主義の思想はこの分断策に利用される。民主主義
と共生的パラダイムを両立させるためには、国境を越えた労働者階級のヘゲモニーが
不可欠だ。しかし、今日の先進国の労働者のように、一国社会主義とセクト主義の盲
目性に汚染されると後進国の民衆に敵対し排他的になる。経済的には、グローバル化
は避けられない人類の進化だ。科学技術の発展は人類の交通・流通手段を劇的に変革
する。過去の歴史ではこの発展は戦争を惹起したが、今日では経済戦争を惹起する。
この戦争は各国・各地域の伝統的な共生メカニズムを解体し、経済格差を拡大するが、
科学技術の発展に対抗しても勝てない。この発展に対応した上部構造の変革・意識の
変革が必要だ。情報通信手段の発展はこの意識変革を加速する武器となる。グローバ
ル化を推進する科学技術は、この発展によって惹起する問題を解決するための、物質
的条件をも準備する。国境を越えた労働者階級の文化的・政治的交流が、この問題を
解決する鍵だ。壁の内側に閉じ篭って身を守る運動はこの壁自身の重力に押し潰され
る。今日の世界における共生メカニズムは国境を越えなければ再生不可能だ。
ところで、今日のグローバル化する世界においては、階級の自主的なネットワーク
は国境を越えたネットワークでなければ適応性を失う。政党そのものは国籍を持つし、
それに拘束されざるを得ないのは確かだが、運動や要求を国境の内側に閉じ込めよう
とすれば忽ちの内に影響力を失う。地球環境問題のように、国民の要求はすでに国境
を越えている。貧困・飢餓・格差問題は国際的な問題として発生しているし、世界的
な連関の中で考え解決する以外に道がない。志井氏は、当面ルールある経済の確立を
目指し、社会主義の問題としては、次のステップとして、国際的な問題として考える
と言う。社会主義の問題を国際問題として考えると言う志井氏の考えには大いに賛成
できるが、次のステップとして考えるのは余りにセクト的で視野が狭すぎる。グロー
バル化する今日の世界で、一国的に解決できる問題は益々少なく成りつつある。経済
の再生・内需の拡大も地球環境に適応した解決を志向しなければ悪循環に陥る。世界
第二の経済力を持つ日本経済の再生は世界全体の経済と直接に連動する。格差問題も
似た様な問題だ。
社会主義の問題は彼岸の世界にあるのではなく、今日の世界の問題だ。共産党だけ
が社会主義の問題を解決できると言う独善的な考えに立てば、確かに力不足で彼岸の
世界の問題にするしかない。しかし、国民は国際問題を彼岸の問題としては考えてい
ない。「世界9条会議」のように憲法問題も国際問題として提起されつつある。一般
国民は、国際問題を社会主義の問題として考えてはいない。しかし、国際問題を市場
原理で解決すると考える国民はほとんどいない。国際的問題は資本主義では解決でき
ない問題で、資本主義を乗越えた課題であるという認識は産れ始めている。社会主義
の問題を国際的問題として、今日の我々の課題として積極的に提起すべきである。地
球環境問題は人類の世界構造の転換なしには解決しない。世界革命は彼岸の課題では
なく今日の我々の課題だ。国際問題に関心を持つ広範な国民と共に世界構造の転換を
求める運動が必要だ。グローバルな世界で生きて行かなくて成らない青年は、とりわ
け国際問題に関心が高い。一国社会主義は青年を遠ざける役割しか果さない。社会主
義の優位性は国際主義にある。この優位性の欠如と教条主義は左翼の停滞の原因だっ
た。ベトナム反戦運動は広範な日本の青年を左翼陣営に惹きつけた。ベトナム戦争の
終了と共に青年は左翼から離れた。それは左翼が内向きになり、国内問題でセクト的
な争いを繰広げ、分裂を繰返したからだ。
瞬時に地球の反対側の人間と会話できると言う現象は国境の価値を益々低下させる。
今日の左翼の世界では国民国家の概念から「帝国」の概念が流行する。「帝国」は国
境を持たない概念だ。しかし、国境を持たない「帝国」がどうして軍拡を志向するの
か理解不可能だ。国境を越えた多国籍企業が「帝国」のような機能を持ち始めている
のも明かな現象だ。しかし、GMやシティのように帝国的な力を現しても、バブルが
弾けた途端に瓦解する。今日のGMは未来のトヨタかも知れない。興隆する多国籍企
業は一時的には華々しい姿を顕現するが、実はその時が御仕舞いという現象は度々繰
返されて来た。世界市場は実に素晴らしい可能性を秘めている。数社の多国籍企業に
よって独占される、と言うような事は有得ない。「奢れる者は久しからず」という鉄
則は世界市場の鉄則でもある。人類はまだまだこの世界市場の可能性を使い尽くして
はいない。「帝国」の軍拡への志向はイラク戦争を惹起した。「帝国」はテロを求め
て暗躍する。テロは格好の利益を彼らにもたらす。世界市場はイデオロギーに中立だ。
世界市場がテロを求めて暗躍する訳ではない。世界市場は国境の壁を越えようとする。
労働者階級にとっても、この世界市場は十分に利用価値がある。地球環境問題の解決
のためにも、大いなる利用価値がある。ただし、軍縮では利用価値は全くない。
グローバルな世界市場の発展は労働者階級の市民的権利を国際的に拡張する可能性
を秘めている。そのためには世界全体の民主化が不可欠だ。ブルジョワジーは世界市
場で儲かりさえすれば良いのであって、世界の民主化なんて何の関心も持っていない。
むしろ、独裁国家の方が利益を上げ易い様に見える。だが、実際は民主化した方が世
界市場は拡大する。同時に民主化は労働者階級の階級的成長を加速する。世界市場の
発展と世界の労働者階級の階級的成長は同時進行的に進む。ILOは世界市場が発展
すればする程その機能の強化は不可欠だ。資本にとっては格差が拡大した方が、一時
的には利益が上がる。資本は低賃金労働者を求めて移動する。更に、この格差を利用
して労働者階級を分断支配しようとする。しかし、結果的には、こうした弱肉強食経
済は社会関係を不安定化し、経済の恐慌的な循環性を高める。一時的には利益を極大
化できたとしても、長期的には経済構造全体を不安定化する。ILOの国際的機能の
強化は結果的に世界市場を安定化し、その発展を加速する。「帝国」の近視眼性と盲
目性は国際関係の民主化に敵対する。むしろ、国境を越えた労働者階級の運動と市民
運動が世界市場の発展を加速する。
「帝国」は国境を越えた力だから、一応は労働者階級と市民に国際化の協力をする。
しかし、実際には盛んに各国の国内では「愛国心」を賛美し、偏狭な民族感情を利用
する。「帝国」の支配のためには、国境を越えた市民と労働者の連帯は障害になるか
らだ。「帝国」は労働者階級の意識を国境の内側に閉じ込め、国境の壁でこの階級を
分断支配しようとする。市民を一国的な政治市民から、国際的な政治市民に上昇させ
る事は、労働者階級の任務である。