大杉栄の批評集からの演繹として、征服の事実における大陸大移動のコアは、アーリア大移動と、漢民族による中原平定の二大である。アーリアの勝利としての普遍的最古の存在理論はヘブライが継承し世界化したが、漢民族による中原平定に関しては実は中国道家独占としての秘中の秘として今でも継承されていると私は考えている。
一般的に世界宗教の各局面に顔を出すロンギヌス的存在は、漢民族の汎世界の裏の相貌であると言える。
これは漢文脈の文学的操作が出来ない日本の学者は基本的に10中八九ロンギヌス化傾向があることに裏付けられる。
つまり、中国の文学者やジャーナリズムを輸入すればするほど、実際には、議論が核心に迫りぶれない論理構成が可能になるということが予測される。
さざ波の社会科学版に比べると、やはり志位委員長の方がまだまだ上の議論をやっていると思われる。彼の長所は原則論で喋ることであり、演説も著作も論理分布の把握には長けている。例えば消費税制に関する問題の本質にあるものは、金融寡頭制度移行的な内政方針にあることを少なくとも議論において譲ることは志位にはありえない。リチャードハースの理論や、ハートの理論など、非常に退行的で論理分布の具体的な事例に、中国や韓国の学者の具体的な学説が一つも登場しないのは、そもそもほとんどの日本の社会学者がマルクスやルソーの根幹を理解していない証拠であると思われる。 彼らは(マルクスやルソーは)本質的に国際間対話たたき上げであり、漢文脈のロンギヌスの波動を知らないものは、エピステーメーにおける全と個のドライビングモールの関係を無視し、盤古的怪物のトランスナショナルの構造を説明しない(一応タボガミ元自衛隊上級幹部構成員のことを例にあげる。)。これは、おそらく百花繚乱氏に関しては、ほぼ犯罪者の心境で実行した文章ではあるまいか?
具体的な例として孔孟あるいは老荘自体の哲学と、漢民族道家中枢の哲学とは、完全に異なった二律背反的存在だと思われる。人文統治主義者とポールシフト理論という人間最大の二律背反である。こういった根源的パラドクスから盤古的生命体は登場し本質的には人口調整的なミュタータンティズムが行われる。理解しやすいところでは、地球大気における人霊乖離と鳥インフだろうか。
これと同じ事が赤旗にもいえる。中国人民主化運動及びジャーナリズムの導入を行なわない赤旗は、ほぼ百花繚乱氏と同じ犯罪者の心境に達しているのではあるまいか?
石川淳は、アナーキスズムは共産主義と資本主義双方に挟み撃ちで殺されてきたという文章を残している。スターリニズムの根本的批判をするならば、無政府主義者の含蓄を徹底的に洗わなければならないことに関しては建前上共通認識に立つ部分もあると思うのだが。これは、日本共産党の第二次大戦責任問題に関する大きな大きな矛盾だな。とりあえずの日本共産党の限界=志位の限界=日本のアカデミズム様式の限界というべきである。
結論的には、社会科学版の議論の全ては、姜尚中ら政治的反共の勢力と共に、本質的国際人育成のアカデミズムにおいて通用するのかどうか現実にはかるべきである。
歌舞伎役者よりブラジル系日本人の暴走族の方が偉くなった日本に対する私の結論。パラダイムシフト論は一般的に野蛮というよりも、野蛮を超えた人口縮小のウィルスというべきではないか?
一般的に戦後アナーキズムの日本の大統領というと住井すゑだろう。中国が差別された社会ならば徹底的に中国人のクリシュナを輩出せねばならない。だから俺は必ず赤旗新聞には中国人のクリシュナが必要だと主張するのである。ゼネストの指導と、、社会分析及び階級分析が、社会科学者の生業として、おそらくこの中国道家のパラドクスに関するクリシュナ的克服を行わないと、、つまりは坂本→中江→幸徳→北だろうが、絶対に進歩しないであろうことをここで指摘しておく。
幸徳よりの演繹が、日本政教分離の発端である吾妻鏡の創作性と、天皇の神道回帰社中共産主義による、完全直接民主制となる。