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「科学的社会主義」討論欄

左翼から右翼への転換とマルクス主義の方法の問題

2013/3/30 櫻井智志

 牧太郎氏は毎日新聞社の記者だった。牧氏がサンデー毎日で連載『牧太郎の青い空 白い雲』を受け持っている。四月七日号を呼んでびっくりした。石原慎太郎氏の三男の宏高氏のパチンコメーカー業者との「腐れ縁」スキャンダルを取り上げつつ、書いている別のことに驚いたのだ。

 牧太郎氏の原文のまま写す。

【石原一家は慎太郎・裕次郎の天才的な兄弟が作ったファミリーである。結束の家族である。その柱を作ったのは、二人を産み、育てた母親だった。
 今でこそ、右翼?の慎太郎さんだが、高校生の時は左翼だった。『太陽の季節』を引っ提げて華々しくデビューしたとき、『サンデー毎日』は「五つの道をゆく”石原慎太郎批判”」と題し、9ページの特集を組んだ(1956年9月9日号)。記事の中にある湘南高校時代の教師の証言。
「慎太郎が高校一年生の時だった。学生運動が盛んになろうとしていた48年に、民主学生同盟にいち早く入り、学内に社会研究会を作った。日本共産党へのヒロイックな気持ちにかられていた時、母は”大衆のために両親や弟 を、そして地位も財産も捨て、獄につながれても後悔しない自信があるなら、私は反対しないが、その覚悟をしてほしい。それならお父さんが、どんなに反対しても、私は賛成する”と言った。この言葉にそのあくる日から慎太郎は学生運動を離れている」
 慎太郎は後に「主義主張が母親の意見で変わるなんてウソですよ」と否定的に語っているが、慎太郎は若い時から「家族」を大事にするタイプだった。】

 この話で出てくる民主学生同盟は、日本共産党との関係はやや微妙である。日本共産党の幹部であった志賀義雄氏(徳田球一氏とともに獄中に十八年いて非転向を貫いた)が、ソ連の核実験の時に、共産党主流派と対立してソ連を支持した。そのために志賀義雄氏、中野重治氏、佐多稲子氏らとともに共産党を除名され(主体的には離党して)「日本共産党日本のこえ」を創設した。このときに共産党の青年組織であった民主青年同盟(民青)と別に結成されたのが民学銅である。私は1970年代初期に早稲田大学の民学同にいたいとこから一緒に活動しないかと入学時に勧められてあいまいにことわった記憶がある。民学同の学生は、自らを新左翼とは思っていないし、早稲田大学で学生運動の主導権を 当時握っていた革マル派からは「スターリニスト!」と呼ばれていた。

 かつて週刊金曜日の編集委員で私が尊敬する評論家の佐高信氏が石原慎太郎氏と対談したことがあった。対談の内容が掲載された雑誌の次週の投書欄は、佐高氏が石原氏とあいまいで強く厳しく論破していないことに読者は怒りを感じたらしい。

 だが、石原氏がかつて左翼学生運動を高校生の頃に経験していて、なおかつ60年安保の時には大江健三郎氏、江藤淳氏らとともに「若い日本の世代の会」を結成して安保反対の意思表示もしたことがあった。石原氏は既に保守反動化していたと思うが、左翼経由の石原氏に佐高氏は活字にならない対話があったか、予想していた石原氏と異なる何かがあったのだろう。本多勝一氏が 大江健三郎氏を『貧困なる精神』で徹底的に批判したのと比べて、佐高氏と石原氏の議論にはやや性質の相違が感じられる。
 私は今年2013年3月にこぶし書房から双書こぶし文庫「戦後日本思想の原点」シリーズの一巻として復刻され出版された鈴木正氏の『日本思想史の遺産』を思う。
 そこで鈴木正氏は「有機的知識人の思想と行動」として古在由重氏を読み解いている

【古在によれば、本来の方法とは、ものの見方・考え方ということばから、ともすれば表象されがちな、知識を獲得するための一つの術といった外的なものではない。それはわれわれの知識と生活のすみずみにまで養分を与え、それを成長させるための根のようなものである。生活と闘争のなかで、真に生きてはたらく思想体系は、かならず実践と結合するはずだが、その連結点にこそ、方法の問題がよこたわるというのが古在の立場である。それにひきかえ、理論と実践の行動の統一の確立ないし回復をくりかえし規定しなおし、再定義してゆく領域を、マルクス主義が自覚的にもっていることを認めないものには、所詮、方法の問題は意識されずに終わる。
(中略)「現在」と「実践」に参加する姿勢と切れた、ひたすら「過去」と「文献」をあさる態度である。 そこには史料操作の技術的方法(批判)はあっても、まともな意味での歴史的方法(批判)は、最後まで存在しない。われわれが思想の生きた歴史をみるとき、思想の科学性だけではなしに、思想に対する誠実、勇気、責任等の実践性ないし倫理性をみすごすなら、けっしてその真相をつかむことができないだろうというのが、これと対極に位置する存在の思想史の方法である。】

 大江氏の評論に「言葉の再定義」というような表題の評論集を読んだ覚えがある。大江氏は、マルクス主義者ではないが、鈴木正氏が古在氏の思想を継承している箇所(太字部分)を見事に無意識のうちに踏襲している。
 鈴木正氏が表現した文中は、左翼とは何か、左翼が右翼になぜ簡単に転換するかの疑問を解く本質がある。通り一遍の左翼用語を難解な言葉で論文に書いたりしゃべるようになるまでは、さほどの年月は要しない。しかし、繰り返し繰り返し理論と実践の行動との確立を規定しなおし、再定義しなおすという生き方は、それほど簡単なことではない。

 言い換えれば、左翼とよばれる集団や個人の中にも、情勢が変われば簡単に周囲の状況に適応して保守反動にも容易に転換する事例が多々あるだろう。
 私は神奈川県に住んでいるが、他の地域が中心の社会人の学習運動に消極的に加わる機会があった。生活の多面的な要素をとらえて、講演会や映画鑑賞会、学習会をインターネットなどの現代的機器も活用してかなり広範な人数を動員している。私は内部のメーリングリストの討論に加わった。情勢が戦前のような危機の時代に入ったら、この集団は変わっていくだろうと思った。それは指導者自らが、思想的方法として体系化された左翼思想にはくわしいけれど、他者の意見と自分たちの意見とがどこが違うかを吟味して、討論して相手の指摘する事実が何を示しているのかを理解しようとする態度に疑わしい様子がうかがわれたからでる。ツイッター、フェイスブック、メーリングリストと現代が軍事技 術開発の鬼子として生まれたインターネット・テクノロジーは革命的な技術である。文明の様相を大きく変えたといってよい。それを容易にこなしている独創性は素晴らしいし、現代社会の特徴である最新技術をこなしていると感心する。

 ただインターネットの向こう側にある思想の方法はどうか。ふだんのやりとりはそうでもないが、たまに起きる事柄がある。指導者とその支持者が発言に権力をもち、異論を差し挟む者たちが指導者に問い続けていま内にそれは起こる。異論を唱える者を強制的にインターネットのサークルから排除していく。私の友人も同じ処置を受けたが、それから次の年に、私も退会に付された。見解の応酬に疲れはて三月いっぱいで退会すると公開で表明した。わずか四日後に月 がかわるのに、即刻強制的にインターネットの回路から切断された。理論は述べても、相手の意見をうけとめない。両者が議論において公平な立場にない。その学習運動の代表者への異論は、学習運動団体からの排除へとつながっている。

 ここに私は科学=技術革命の資本主義的形態をまとって技術革新時代における新たな装いの教条的方法主義をみる。ルソーやペスタロッチ、日本で言えば林竹二、丸木政臣、中野光などの教育思想家たちは「教師は子どもによって教育を媒介として教育される」ことを見究めて、学習や教育の思想的意味をあきらかにしている。
 現代の肯定すべき左翼、さらにいえばマルクス主義者たちは、自らが対象とむかいあい相手の現象や人間達とのずれを見つめつつ、それにどう対話し議論するかについて、理論と自らの実践との統一的な確立を規定し直し、再定義しなおす勇気が必須である。

 そのような覚悟のない左翼や社会主義者たちは、簡単に右翼に転換する。現在の左翼の中でも最も伝統的理論的正統的な日本共産党や社民党が、七月の参院選の結果によっては参院から政党でなく政治団体に転落しそうな厳しい政治の季節を迎えているのは、マスコミの操作や教育による教化、選挙制度の改悪、労働運動への弾圧と懐柔など系統的な反動支配層からの戦略的対策が功を奏してのことである。

 しかし、もしも本当に社会主義や共産主義が政治的冬の時代でも次の歴史を展望させるだけの民衆的支持を得ようと心から願うのならば、教条的で固定的なスタンスではなく、虚心坦懐に他者の意見を吟味し、時には受け入れ時には説得し、理論と行動との統一のために何度も何度も規定し直し再定義し直していく勇気ある謙虚さが必須である。

 このことがわからないと、自分への批判を誹謗しているのだと思い込んで冷静さを失う。相手に非難を浴びせ続け、サークルにおける相手の存在そのものを否定しようとしていく。かつて「内ゲバ」は、日本の革新運動に壊滅的なダメージを与えた。連合赤軍リンチ殺人事件はその典型だった。日本以外で、ミャンマー、戦時中のソ連、毛沢東指揮下の 文化大革命。次々に異端者が処刑されていった事実があきらかになった。長い目で見ると、一進一退の連続で世界史は変わり続けてきた。けれど、科学的社会主義が思想の方法としての社会主義の人類史的な理想的意義を示すとしても、思想の方法が実践された場合だけである。