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二〇〇一年三月に逝去された唯物論哲学者、芝田進午。氏の最後の著作と追悼
文集が出版された。これらには、戦前に戸坂潤が高鳴るファシズムの前に抗しつ
づけた姿が被さって感じられる。戸坂潤を尊敬していた芝田進午が構築した哲学
が、人生の終末迄にどのような段階に達していたのかを鮮やかに示してくれてい
る。
◆『実践的唯物論への道 人類生存の哲学を求めて』(青木書店二〇〇一年九月
初版)は、著者芝田進午をめぐり三人の編者―平田哲男・三階徹・平川俊彦の諸
氏が対談と聞き取りをもとに、一冊の本にまとめたものである。
芝田が胆管がんで逝去されたのは、この著作をまとめている途上であった。そ
れゆえ、この対談集は後半からは芝田自身が手をいれる作業が断たれ、後半 で
は芝田の構想がやや不十分な箇所もあったようだ、それでも、極めて本質的な課
題に触れているため、読み応えのある遺著となった。
◆『芝田進午の世界 核・バイオ時代の哲学を求めて』(桐書房二〇〇二年六月
初版)は、芝田さんを偲ぶ多くの知識人や労働運動家、市民などの追悼の言葉を
編集した三三三ページにも及ぶ追悼文集である。法政大学時代の教え子らを主に
結成された「芝田進午さんを偲ぶ会」が編集にあたったまだ幼年時代の友人から
晩年の予研=感染研裁判闘争の同志に至るまで、たくさんの人々の寄稿が芝田氏
の全体像を浮き彫りにしている。
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冷戦は、軍備拡張競争を政策方針としたレーガンらがアメリカ支配層のもと、
軍事産業による国内産業の畸形的発展により国内社会に大きな歪みを生じさせ
た。ソ連解体という決定的なダメージによって、アメリカ一国覇権主義の制覇で
「冷戦」は終焉した。この結果、アメリカの繁栄というよりは、世界的停滞と紛
争多発を招き、深刻で世界的な政治社会情勢となって現在に至っている。
ソ連邦共産党は崩壊し、国際共産主義運動は瓦解した。日本でもかつてのよう
なマルクス主義に対する知識人の信頼は縮小し、既にマルクス主義社会科学は戦
前に多くの進歩的知識人から集めた信頼と知的尊敬の栄光とはほど遠い。なにを
今更、芝田進午だ、という声さえ聞く。マルクス主義は問題解決能力を喪失 し
たという発言さえ出てくる時世となった。
だが芝田の学問は、いつでも、時代が解決を必要とする切実な問題を解明する
ために、自らが主体として問題との緊張関係に立ち、その矛盾を解決する実践的
姿勢に立脚していた。金沢の商家に生まれ、軍国主義少年として育ち陸軍幼年学
校で十五歳の八月十五日を迎えた。旧制四高から東大哲学科に進んだ芝田は、ド
イツ古典哲学と社会科学方法論を知る。出隆教授のゼミナールで学んだ。
芝田が実践的唯物論を、自らの学問的方法として形成し展開していったか。二
冊の書物を読むと、若い知識人が戦後日本の激動に関わり続けた誠実な軌跡をた
どることができる。芝田は五〇年勤続の日本共産党員であると、「偲ぶ会」の席
上友人代表の挨拶を行った当 時の日本共産党副委員長であった上田耕一郎から
顕彰されている。
芝田は、日本の正統派社会主義が陥りやすい傾向に、理論家として少数派であ
ることが多かった。そのことにより、日本共産党がまともな運動を推進する為に
尽力した。日本共産党の官僚的な傾向や組織的問題に、「全面的に反対」の立場
はとらなかったけれど、誤謬には理論的に根底から批判し、その克服の展望を示
した。たとえば、民主集中制や社会主義の問題についても、民主集中制や社会主
義擁護の側に立ちつつ、それらの問題は、官僚集中制や帝国主義が存在する限り
は、〈対立物の相互浸透〉によって歪められざるを得ない必然性をあきらかに
し、克服の手立てを示した。民主集中制を根拠として、中央指導部によって排除
されたり 、除籍されたりした人物に対しても、温かい励ましやいたわりある言
葉かけを惜しまなかった。いったん組織から排除された人間に対して、共産党員
が無視やあいさつさえ交わさなかったなかで、芝田の様子は際だっていた。そん
な多くの党員とは全く異質な対応を示した芝田は、自らの生活態度においても民
主主義精神を貫いた根本がうかがわれる。
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一九五〇年代。日本の大衆社会状況をどう把握すべきかという論争に加わった
芝田は、労働の現代的形態として精神的労働の実態を分析し、そこから労働運動
論を構築していった。資本主義は著しく生産力を高め、生産の社会化、労働の社
会化は、資本主義の枠組みを変化させていた。今まで「中間層」と呼ばれたサラ
リーマン、教師、医師、教育関係者、医療関係者を広く資本と労働の関係に含み
入れていった。最初「ブルーカラー」と呼ばれた労働者は、「ホワイト・カ
ラー」と呼ばれる精神的労働の労働者階級に組み入れて、広範な雇用された労働
者が様々な産業で広がっていった。このことを『現代の精神的労働』にまとめて
三一書房から出版した芝田は、双書『現代の精神的労働』 で各論として五冊を
編著書として青木書店から出版した。
著しい戦後技術革新は、朝鮮戦争の特需景気を契機に潤い、五〇年代から六〇
年代へと、続いていった。高度経済成長は、同時に資本の高度の蓄積過程であっ
た。芝田は、この経済成長と技術革新の向こう側に、本質論としての「科学=技
術革命」を構想して、「科学=技術革命」が達成しうる潜在的可能性を積極的に
擁護するだけではなく、実体論や現状分析として、「高度管理情報社会」の危険
性や「地球破局」の危険性をも見通していた。 例えば、生命科学に関する国家
の研究が「自主・民主・公開」の原則から大きく逸脱して、国立予防衛生研究
所=国立感染症研究所が東京都新宿区の住宅街・文教地区に強行に移転した。芝
田を「生産力主義 」と批判する学者は、実験差し止めに芝田が原告団長として
裁判闘争に取り組み続け、その闘争は東京地裁でほぼ二か月後に第一審が出る年
に胆管がんとの闘病の末ついに斃れてご逝去された事実をどう受けとめるのだろ
うか。芝田のバイオハザードとの闘いの理論的意義をどう説明しうるのであろう
か。
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芝田の科学方法論において、分析的悟性と弁証法的理性とを峻別し、その分析
と総合の意味を強調したことは、つとに有名である。たとえば大工業理論につい
ても、歴史的過渡期における機械制大工業の意義を過大評価し過ぎるという批判
もある。改訂も構想していた『人間性と人格の理論』(青木書店一九六一年)
で、芝田は早くから自然史的過程と人類史的過程とを統一的に把握した。人類史
的過程において、人類は労働の技術的過程と組織的過程において人間として発達
する契機を得たとする。労働の技術的過程と組織的過程の統一の概念は、芝田の
哲学を把握するキイワードである。大工業と労働過程の本質的関連も、本質規
定・歴史的分析・実体分析・現状分析による相違と関連 の把握が欠落すると、
ラッダイト運動のように本質を見失った闘争形態に陥りやすい。
すぐれた政治学者であり、なおかつソ連や東欧、戦前の国際共産主義運動史を
自分の手足で丹念に調べるとともに、インターネットを自由自在に駆使する加藤
哲郎でさえ、社会主義の原理において労働からの転換を訴えている(加藤哲郎の
ホームページ「ネチズン・カレッジ」参照)。人間発達の契機や言語、コミュニ
ケーション(広義の「交通」概念)音楽、認識、文化の形成とも絡めて考察して
いた芝田の理論をふりかえると、労働概念の芝田による把握を批判するには、も
う少し丁寧な自然史的哲学的批判が必要ではあるまいか。
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遺著に、対談の相手を務めた編者たちは、「実践的唯物論への道 」と意図し
ていた。芝田は、「人類生存の哲学」を主張した。芝田は、なぜ「人類生存の哲
学」を重視したのか。私はこうかんがえる。
かつて東ドイツ(ドイツ民主共和国)に法政大学教授として留学した芝田は、
東欧社会主義の実際を見聞きし、留学生活を経験することで、「社会主義国東ド
イツ」の限界を肌で知った。氏は、アメリカ独立宣言に結集する民主主義人権思
想に、社会主義再建の重要な要素を見出していた。そのことは『人間の権利』
(大月書店国民文庫一九七七年七月初版)に詳細にまとめられている。その芝田
が、マルクスやグラムシ、国内では片山潜や戸坂潤から再発見した実践的唯物論
「だけ」にとどまらず、広く多くの思想と哲学、宗教にも目を向けて、核兵器と
バイオサイドによる 人類皆殺しの瀬戸際の現在に、「人類生存の哲学」を遺著
のタイトルにすることを病床から切実に願った。今日の社会的政治的現状のなか
で芝田が切実に考えていた思索と情熱とがひしひしと感ぜられる。
◇『実践的唯物論への道 人類生存の哲学をめざして』を読むと、芝田がどのよ
うな思想形成をめざし、理論を展開し、その理論にもとづく実践に取り組んだの
かが明晰に叙述されている。なおかつ、どこが不十分でさらに執筆を構想してい
たのかも明らかにされている。
◇『芝田進午の世界』を紐解くと、のべ一八〇人近くの、芝田にじかにふれる機
会のあった有名無名の人々が、人間芝田進午に接して得た、「血肉化された友愛
の思想」とがどんなものであったのかが、生き生きと描かれている。
現代を混迷や失望の時代と嘆くことなく、世界中の生きとし生けるものたちの
生命の尊さをもう一度ロゴスに高める必然の道を、芝田は後に続く私たちに啓示
してくれている。特に左翼全般の思想的哲学的 運動が陳腐な訓詁学に沈み、保
守勢力の全般的台頭に抗しきれない現在の日本で、芝田進午に学ぶことは、豊か
な理論的実践的展望を具体的に示してくれている。「人類が生存するために何を
なしうるか」。私たちの現実は険しいけれど、芝田進午さんの人生によって明る
く照らし出された未来の課題をもっている。