はじめに
週刊新潮一九九六年十月三日号は、特集として『人体実験七三一部隊幹部が設立した「ミドリ十字」の黒い歴史』を伝えている。「葦牙」第二三号で、宮地健一氏が森村誠一氏と下里正樹氏との共同研究と、しんぶん赤旗紙上での連載中止の問題を詳説されている。そこで、七三一部隊についての労作『悪魔の飽食』シリーズについても紹介されている。森村誠一という小説家とすぐれたジャーナリト下里正樹氏とがいなかったなら、あれほど七三一部隊の反人間的な実態が広く国民に知らされることもなかったろう。
週刊新潮の誌上で、匿名の記者は、「元社長、前社長、現社長の三人が逮捕された製薬会社ミドリ十字を設立したのは、人体実験で有名な七三一部隊の元幹部たちだったし、同社の役員が帝銀事件の容疑者だったこともあり、黒い歴史が連綿と続いた会社なのだ」と批判している。十年以上も、ともすれば体制側の御用記事や反体制勢力を揶揄する記事の多い同誌であるが、宮本顕治氏の「網走の覚書」の初出は一九七〇年代の週刊新潮であった。四ページにわたるその記事では、ミドリ十字は昭和二五年に、内藤良一氏、二木秀雄氏、宮本光一氏が興した「日本ブラッド・バンク」が社名を後に変更したものである。内藤良一氏は、京都帝大医学部と陸軍軍医学校卒で、表向きの経歴はアメリカやドイツに留 学した軍医学校教官だが、実際は日本の細菌戦争研究の第一人者石井四郎軍医中将に見出され、軍医中佐として七三一部隊を切り回した人物であった。当時の内藤氏の本拠は、石井中将が作った早稲田の陸軍軍医学校内の防疫研究室で、彼がそこの事実上の指揮官だった。石井中将は満州のハルピンの関東軍防疫給水部(七三一部隊の正式名称)で、捕虜を使った人体実験を行い続けた。同時に支那派遣軍や南方派遣軍にも防疫給水部を作って細菌戦争の準備を進めた。そのアジアにまたがる防疫給水本部が早稲田の防疫研究室で、内藤氏はその秘密の本部組織の運営者を任されていた。
1 なぜ芝田進午氏は予研=感染研と闘ったのか
芝田進午は、国立予防衛生研究所の移転強行と闘った。略称・予研は、名前を改めて国立感染症研究所(略称・感染研)となってからは。「予研=感染研」の危険なままの実験強行を差し止めする運動を展開し、裁判闘争として闘った。「予研=感染研裁判」とは以上のような経緯がある。予研は、住宅地で人口密集地、近くに早稲田大学などの文教施設もある東京都新宿区戸山に移転を強行した。当初芝田氏らは、住宅地に高度の実験施設をつくることに環境権の侵害として反対していた。書名を集め、意思を明確にし反対闘争を積み重ねてきた。機動隊を導入して、移転を強行する予研=感染研にしだいになぜそれほどまでに住民の意向を無視するのかを調べた芝田氏らの反対運動は、立地・実験差し止め 訴訟の裁判をおこし、裁判闘争を柱に長期的な闘争を続けていった。地元の住民をはじめ、早稲田大学教職員組合や大学当局、多くの知識人、労働組合、住民団体などが支援を続けている。この予研=感染研裁判原告の会の代表として、一貫して反対運動の中心に立ってきたのが、法政大学、広島大学の教授を歴任した哲学者であり、社会学者である芝田進午氏である。この運動を芝田氏とともに担った武藤徹氏(数学者、芝田氏亡き後は裁判の会会長を引き継がれた)は、『国立感染研は安全か―バイオハザード裁判の予見するもの』(国立感染症研究所の安全性を考える会編著 緑風出版二〇一〇年初版)の中で「芝田進午という人」という小見出しで以下のように芝田氏の運動家としての様子を綴っている。
予研=感染研裁判は、芝田進午なくしては考えられません。その厚い人脈が、この裁判を支えてきたからです。/予研=感染研裁判に関して言えば、「支援する会」で裁判を支え続けた浦田賢治は、芝田とともに東京唯物論研究会の再建に奔走した間柄であり、日本共産党副委員長として一貫してこの裁判にかかわってきた上田耕一郎もその一人です。/
予研の主任研究官でありながら、予研の危険性を歯に衣着せずに語った新井秀雄も、芝田の謙虚で穏和な人柄にうたれたといっています。戦う哲学者と、温顔とをつなぐものは何でしょうか。その秘密は、実は福沢諭吉の『学問のすすめ』にありました。福沢は、その中で「顔色容貌を快くして、一見、直ちに人に厭わるること無きを要す。・・・」と書いています。「以来、つとめて笑顔をたもち、ジョークを交えながら論争するようにしている。笑顔をたもつだけで、心に余裕がうまれ、頭の回転が速くなる」と芝田は書いています(『人生と思想』*櫻井注―芝田進午著青木書店一九八九年)。/残念ながら、芝田は、胆管がんのため、二〇〇一年三月一四日、地裁の判決を前に亡くなりました。奇しくも 、マルクスの命日でした。
なぜ芝田氏は、予研=感染研と闘ったのか。大きく二つに分けて言えよう。
戦後四大公害病と呼ばれた水俣病事件、富山カドミウム汚染によるイタイイタイ病事件,新潟水俣病事件。さらに四日市公害事件(四日市喘息)など。これらの公害病に関わる裁判では、すでに健康破壊等の被害が発生した後に被害者と遺族が加害企業・政府の責任と金銭的賠償を要求する訴訟となった。芝田氏は、予防は治療と賠償にまさるものと考え、公害裁判で肝要なことは「予防の法理」であり、それこそが公害裁判の本来の在り方にほかならないと力説する。ところが、予研=感染研当局の立場は、被害が判明すれば賠償するという「賠償の法理」であった。さらにこれまでの公害裁判は、「化学災害」(ケミカル ハザード)であったが、一九七〇年代から人類は「バイオ時代」に突入し、「生物災害」(バイオハザード)の危険が警告されるようになってきた。
生物災害を引き起こす病原体・遺伝子組み換え実験施設では組み替え微生物・生物産出毒素・DNA・寄生虫・有害昆虫などを保管・培養・実験しているので、バイオ施設が生物災害の源泉になる危険性が高い。バイオテクノロジーによって、未知の病原微生物が出現する可能性があり、その被害の範囲は、地域にとどまらず、全国民、全人類に拡大する危険がある。病原体と生物災害の間の因果性を論証することは、化学物質と化学災害 間の因果性に比べてはるかに困難である。それゆえ、生物災害に人類ができることは「予防の原則」を徹底させることである。
感染研が強制移転した新宿区戸山は、感染研の周囲は住宅や学園、公共施設ばかりである。諸外国では、このような実験施設は周囲がきわめて人家とは離れた距離や空間を設定して建設・設置されている。まさに住民にとって、毎日が危険にさらされ続けている状態である。しかも感染研の周囲の住民のがん罹患率は高いことも立証されている。このような環境上重大な問題をはらむ予研=感染研に芝田氏らが裁判闘争にたちあがったのは理にかなっていると言えよう。
もうひとつ重大な問題があきらかになった。
反対闘争を通じて、予研=感染研の体質そのものに七三一部隊との関連があることが徐々に明らかになっていった。七三一部隊の生き残り幹部が、歴代の予研の管理職を務めていた。敗戦は、日本の天皇制そのものの護持と引き替えに重要な国家主権に属する事柄をアメリカ占領軍GHQに引き渡した。そのひとつは、石井七三一部隊の生体実験に基づく化学兵器の重要機密と石井部隊そのものの存在の隠蔽である。また、広島や長崎に落とされた核兵器による被曝者をなんら治療行為を施さずに観察分類の対象としてモルモット扱いしたアメリカ軍ABCCの実態調査も、被曝治療のためではなく、落下した核兵器の成果を効果的に核戦略に利用するために使われた。ABCCの日本側組織が、予研であったの だ。予研=感染研反対運動によって、戦前の軍事機密が、アメリカ軍の庇護のもとに歴史の水面下で維持され続け、ついに日本帝国主義的復活の現段階において、暴露された。
2 バイオハザードとの闘争
先に紹介した武藤徹氏は、芝田氏が予研=感染研裁判闘争に関わって、『生命を守る方法』(晩聲社一九八八年)『論争生物災害を防ぐ方法』(晩聲社一九八九年)『バイオ裁判』(晩聲社一九九三年)『バイオハザード裁判』(緑風出版二〇〇一年)を精力的に執筆したことを紹介されている。武藤氏によれば、総ページ数は一六四五ページにのぼる。芝田氏がご逝去されてからも、一緒に裁判闘争を闘った方々は、東京高裁、最高裁と上告し長期にわたる裁判闘争を闘い続けた。さらに芝田氏亡き後も先ほど紹介させていただいた『国立感染研は安全か―バイオハザード裁判の予見するもの』(緑風出版二〇一〇年全三〇五ページ)を刊行されている。執筆者のお名前を掲載させていただくと、鈴木武仁 、伊東一郎、武藤徹、島田修一、川本幸立、新井秀雄、本田孝義、長島功、本庄重男の九名の皆様方である。
芝田氏は、予研=感染研との闘争によって、「戦後のわが国では、安全性の科学そのものが確立されてこなかった」ことを痛感したと述べている。このことは、芝田氏が亡くなられてかなり経つ二〇一一年三月一一日に起きた東日本大震災とそれに伴って発生した福島第一原発事故をめぐる菅・野田民主党政権、安倍自公政権の対応。原発に関わる専門機関などの対応しきれていない対応ぶりを見ていると、芝田氏の「安全性の科学」の問題は、高木仁三郎氏や武谷三男氏ら科学者が戦後訴えてきたのにもかかわらず、政府や専門機関によって充分に取り組まれてこなかったことの問題性を浮き彫りにしている。芝田氏は、武谷三男氏の『安全性の考え方』(岩波新書)を推奨している。執筆に先立つ三十年ほ ど前に当時の公害反対闘争の教訓を踏まえて書かれたもので、その内容は高く評価されると芝田氏は述べている。
芝田氏は、新しい病原菌が相次いで出ていることに危機感を覚えていた。戦前の指定伝染病だった猩紅熱が、抗生物質が効くので対応がゆるやかになっていた。ところが最近劇症の溶血連鎖球菌というバクテリアに変質したものが出てきている。「溶連菌感染症」という疾病が子どもたちに広がり、ひどい場合は死亡にいたるケースもある。大腸菌のO―157菌という新たな細菌が出現している。B型肝炎も普通のものと遺伝子が一つだけ違う劇症のものが出現している。病院内感染症をひきおこすMRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)も全国どこの病院でも大問題となっている。こういう病原体がなぜ出てくるのか。抗生物質によるもの、変異を起こさせる物質によるもの、遺伝子組み換えによるも の、原因はいくつか考えられるが、よくわかっていない。
芝田氏は、生物災害を研究すると同時に予研そのものを研究してきた。予研は七三一部隊に協力していた医学者を多数集めて、しかも米軍の命令でできたものであり、その隠れた目的は、ABCCへの協力のほかに、もうひとつ米軍監視下で七三一部隊の研究を継続することであった。芝田氏らは文献的にも予研の初期の年報からチェックし続けた。相模原にあった米軍四〇六部隊がアメリカのフォートデトリックにある生物兵器の研究センターの支部でアジアにおける出張部隊と考えられている。その指揮監督のために一九六〇年代の中頃までやってきたことも明らかにされている。
そのような体質の医学者が多数集められたことによって、日本の戦後の予防接種行政、予防衛生行政は非常に歪められたものとなった。
芝田進午氏の研究は、芝田氏ひとりにとどまらない。裁判闘争における予研=感染研裁判原告の会、予研=感染研裁判弁護団、予研=感染研裁判を支援する会が裁判闘争に取り組んできたし、バイオハザード予防市民センター、国立感染症研究所の安全性を考える会など時期的に名称が重複するものもあるが、これらの団体は日本の生物災害の解明に向けて、長期にわたって継続的系統的実践的に、バイエハザードとの闘争に貢献されてきた。
3 人類生存のための哲学
芝田進午氏の最後の遺著『実践的唯物論への道 人類生存の哲学を求めて』(青木書店二〇〇一年)は、三階徹氏・平川俊彦氏・平田哲男氏の三人の知識人が、芝田先生と対話をかわし、それを書き留めながらまとめた貴重な遺作である。その最終章の最終節は、『21 「人類生存のための哲学」の提唱』と名付けられている。芝田進午氏が構想していた領域を私の主観で歪めないために、小見出しを列挙させていただく。小見出しごとに若干のコメントをつけることとした。ナンバリングは私が便宜的に付けた。行数明示はどこに重点が置かれているかの参考になればと思ってのことである。
・① 百科全書の思想 七十五行
芝田にとって、戦前の唯物論研究会を組織した戸坂潤は、尊敬する先達であった。戦前の『唯物論全書』の復刻版三〇巻を編集して出し、各巻の解題を集め、『唯物論全書と現代』を芝田、鈴木正、祖父江昭二の共編で出し、自らは序論に「百科全書思想の人類史的意義」を書いた。ソ連が解体する以前の一九九〇年だった。芝田は、ソ連型唯物論には、自然論、自然史の思想、実践的唯物論、労働論、疎外論、そして人間論・人格論・個人論、大工業論、科学革命論、技術革命論、民主主義論、人権論、先進国革命論、世界革命論等々の豊富な遺産が無視されてきたという。さらに、マルクスの出版の自由論や民族自決論に反する理論と実際をソ連がおこなってきたともいう。ただし、芝田はソ連をすべて否 定はしていない。ソ連の歴史的形成と存在は世界の、とくに発展途上国の変革に影響を及ぼしたかポジィテイブな面を評価すべきとしつつ、問題点を冷静に把握する必要を述べている。芝田は戸坂の「唯物論研究」「唯物論全書」「三笠全書」などの百科全書の思想的展開に感銘する。モレリ、ベール、ベーコン、ロック、ライプニッツ、ディドロ、ダランベール、ヘーゲル、サン=シモン、マルクス、エンゲルスに連なる系譜は、人類はキリスト教のために細分状態に陥れられるが、十八世紀は人類を細分と個別から抜け出させて総合し集中した世紀である。十八世紀は百科全書の時代である。エンゲルスのこの言葉を芝田は的確に把握した。戸坂潤は第一に自然史的な世界観、第二に実践的唯物論、第三に諸科学 がひとつの科学として位置づけている。芝田は戸坂の貢献を意義づけ、核時代、バイオの時代、環境危機の時代にはますます百科全書の思想でなければ、人類の生存はかちとれない、こう芝田はむすぶ。
「今日、論壇・学界ではマルクス主義は出番が少ないけれども、あらためて自信をもって大いに普及してゆく必要があるのではないかと思っています。その意味で戸坂のこの仕事を継承してゆく必要があります」。
・② 自身の「人間性と人格の形成」 五十九行
・③ 研究組織での経験について 三十三行
・④ 唯物論研究の現状と課題 六十四行
・⑤ 学会組織とのかかわり 十九行
・⑥ 闘争が趣味 八行
・⑦ 海外での出版 十二行
・⑧ 時代認識の転換 百五十五行
芝田にとって、時代認識の転換を迫られたことは、五度あった。
一度目 一九六七年にベトナムに行ってアメリカ帝国主義をはじめとする帝国主義がこんなにも残虐なものかと、身にしみて認識したこと。
二度目 一九七〇年から二年間、東ドイツに留学し、いわゆる社会主義陣営が西側に追いつき追い越すことは不可能だと認識したこと。
三度目 芝田氏にとつて、重要な時代認識の変化は一九七七年に広島で開かれたNGOのヒロシマ・ナガサキの原爆の実相と後遺症のシンポジウムに出て、バーバラ・レイノルズさんに出会ったこと。彼女はHIBAKUSYA・ヒバクシャと表現し、国際的に通用させなければいけないと述べた。そこにいた別のNGOの中心的な人物の一人が「原爆投下のとき私は数百キロのところにいたが、私もHIBAKUSYAだ」と述べた。
四度目 一九八七年に重要な転機があった。バイオ・テクノロジーの問題、予研との闘争である。
五度目 一九八九年の東ドイツの崩壊、一九九一年のソ連の崩壊がどういう時代なのか、たしかに新しい時代になったということ。
これらの五点を踏まえると、芝田は、帝国主義の残虐さに幻想をもっていない。さらに東ドイツなどの様子を見て、社会主義国の問題点をはっきりと認識していた。さらに核廃絶の問題において、社会主義か資本主義かではなく「核時代」という歴史認識において、社会主義も資本主義の国家ともに核廃絶の共同のテーブルにつく時代と認識していた。さらにバイオテクノロジーの問題は、新たな困難な課題を人類に突きつけており、事実の課題として人類は解決のための知恵を尽くさなければならないと主張している。また東欧やソ連の崩壊を事実として私たちの課題として引き受ける主体の決意をこめている。
結びに
芝田進午における「予研=感染研」裁判闘争は、バイオハザードの闘争であった。同時に芝田にとって、何回かの時代認識の転換を認識する中で、自らの実践的唯物論哲学をさらに発展させる必要に迫られた。
芝田は、「核時代」という歴史認識を最大の特質と考えていた。さらに「科学=技術革命」の一環としての「情報社会論」や予研=感染研と闘うバイオハザードの闘いについても、今までのソ連型哲学では解決し得ないことを見抜き、日本の戦前からの戸坂潤らの唯物論研究会の百科全書的思想や実践的唯物論哲学の発展を心がけてきた。
芝田は実践的唯物論哲学も「核時代」認識も、実践のなかでより精緻なものとして実質的に深めていった。
その過程で、社会主義か資本主義か、唯物論か観念論かという問題の立て方の不毛を新たな地平に発展せた。それが、「人類生存の哲学への希求」である。ベトナム戦争のアメリカによる北爆攻撃に抗議して焼身自死をとげたアリス=ハーズは敬虔なクェーカー教徒だった。核廃絶に取り組む闘いの中でも、感染研裁判でも新井秀雄さんのような敬虔なクリスチャンが国立感染症研究所の主任研究員という要職にありながら、自らに注ぐ不利益や処分に耐えて、人類のためにならないこととして毅然と告発した。唯物論者か観念論者かというふうな裁断ではなく、神を信ずるものもそうでないものも、核時代におけるバイオハザードに闘うためには、まさに<人類生存の思想>を最大の課題として、芝田は到達 していった。