日本共産党綱領は「社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運 営を社会の手に移す生産手段の社会化である。社会化の対象となるのは生産手段 だけで、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される」と規 定しています。
この後段の部分は、そんなに簡単に言い切ってよいのでしょうか? 共産主義 は、「人々のあらゆる財産を没収する」との疑問や不安に答えたと言うことです が、それこそ、共産党や不破氏自身に共産主義社会が見えていないのではない か、自分たちがどういう社会を目指しているのかが分かっていないのではない か?・・・との疑問がわきます。
不破氏は、「私有財産が保障される」ことは、マルクスが言っている、として 「資本論」の次の言葉がその証拠であるとします。
すなわち、マルクスは社会主義・共産主義とは「共同的生産手段で労働し、自分 たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な 人々の連合体」であると定義し、「この連合体の生産物は一つの社会的生産物で ある。この生産物の一部分は、再び生産手段として役立つ。この部分は依然とし て社会的なものである。しかし、もう一つの部分は、生活手段として、連合体の 成員によって消費される。だから彼らの間で分配されなければならない」と書い ています。
不破氏は、マルクスの当然の指摘を「生活手段の方は、連合体の成員の間に分配 され、つまり一人一人の個人財産となって、彼らによって消費されるのです」 (以上の引用・新・日本共産党綱領を読む・p371)と解説し、だから「私有財 産は保障される」と言います。
しかしマルクスは単に、生産物は「連合体の成員に消費される」と言っているの であり、「個人財産」云々にどうしてなるのか? 不破氏のご都合主義的解釈に は驚かされます。
何よりも、生産物が消費される場合、当然その生産物は消費する本人のものであ り、他人の物ではありません。さらに所有の根拠は「労働」であり、(総)生産 物には個々人の労働が含まれています。そしてマルクスは社会主義では「労働に 応じて」、共産主義では「必要に応じて」分配される、と言っています。すなわ ち、共産主義の低い段階では分配の基準は「労働」だが、高い段階では「生活の 必要」が分配の基準となることを示唆しました。これはどういうことか、分配論 が追求されなければならない理由です。
もしマルクスの言うように、共産主義の分配が「必要に応じて」であるとした ら、「共産主義でも私有財産が保障される」とする不破氏の論理は成り立つで しょうか?
まず「必要に応じて」とはどういう意味か? 不破氏は「欲望のままに」と捉え ているようですが、マルクスがそんなことを言うでしょうか? 人間の全面的発 達を目指す共産主義が「欲望」をむき出しにした人々の社会であるはずはありま せん。「必要」とは、健康で文化的生活、自己実現、協力・共同して社会を作 る、自然と共生する等々のための「必要」であることは言うまでもないでしょ う。
育ち盛りの子供が、働いていないのに自分より大飯食らいだ、と言って怒る人は いないように、病人が働かずに寝て暮らしている、と言って文句を言う人はいな いように、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」社会が、誰もが自分の 能力を発揮し、助け合って生活する社会であれば、多くの人が望むでしょう。
また財産とは「財貨と資産。個人または集団の所有する財の集合」(広辞苑)と するのが普通の考え方で、直接消費する衣・食・住に関するものまで、財産とは 言いません。つまり「生活手段として、連合体の成員によって消費される」もの は単なる「消費物」であり、財産ではない、とするのが常識でしょう。
以上のことから、
① 単なる生活手段が「財産」ではないとすると、不破氏が「私有財産が保障
される」と言う意味はなんでしょうか? 意味もないことを、単に大げさに言っ
ているに過ぎないでしょう。
それとも、「必要に応じて」とは、好き勝手に何でも支給され、自分の財産とし
て蓄えることができる社会と言うことでしょうか?
② 「必要に応じて」分配される社会に、必要な「私有財産」とはなんでしょ
うか? 資本主義は「すべては自分の甲斐性」「自己責任」の社会で、「私有財
産」の多寡が個々人の生活を決める最大の要因です。それを克服して、社会が
人々の「生活を守る」のが共産主義であれば、「私有財産」の必要性はなくなっ
ています。
不破氏は、未来の社会は「自由の国」であることを強調しますが、彼らはどのよ うにして生活しているのか? そこがどんなに素晴らしいものであったとして も、霞を食っているわけではないでしょう。「必要に応じて」分配できるほど生 産力も安定し、人々の思想・情緒・感情等が、誰もが「健康で文化的な生活」が できると納得している社会であり、その体制が整った社会でなければ、「自由の 国」も絵に描いた餅にすぎません。
分配論を無視すると、どういう結果になるかの見本でしょう。