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「科学的社会主義」討論欄

社会主義的分配論の深化を レーニンの分配論 ②

2015/1/16 道 半端 70代

レーニンは「国家と革命」で、社会主義的分配について、次のように言います。そしてここには、レーニンの混乱が如実に現れています。

「『働かざるもの食うべからず』――この社会主義的原則は、すでに実現されている。『等しい量の労働には、等しい量の生産物を』――この社会主義的原則もまた、既に実現されている。けれども、これはまだ共産主義ではない。そして、これはまだ、不平等な人間の不平等な(事実上不平等な)量の労働に対して、等しい量の生産物を与える『ブルジョア的権利』を除去するものではない」(国家と革命・p135)

 まずレーニンは、社会主義的分配原則は『等しい量の労働には、等しい量の生産物を』支給することだと言います。しかしこれは、「同一労働・同一賃金」あるいは「等価交換」と言うことであり、資本主義的賃金であり、ブルジョア的権利に基づくものです。言うまでもなく資本主義においても、これらを実現させるためには、労働者の戦いが必要です。

 社会主義の分配が、ブルジョア的権利・等価交換・労働に応じて、と言う形で出発することは、マルクスが指摘したとおりです。この分配方式は否定され、共産主義の分配「必要に応じて」へ高められなければなりません。そして社会主義は、それへの過渡期に有るわけで、分配方式も過渡的な形が求められなければならないでしょう。

結論的に言えば、ブルジョア的権利=等価交換→ 社会主義的権利=等価交換を否定していく過程→ 共産主義的権利=必要に応じて=不等価交換、へと発展していきます。これを明らかにするのが、社会主義的分配論の仕事です。

 次にレーニンは「不平等な人間の不平等な(事実上不平等な)量の労働に対して、等しい量の生産物を与える『ブルジョア的権利』」である、と言います。しかし、「不平等な量の労働」に「等しい量の生産物」が支給されるのであれば、これは「不等価交換」であり、「ブルジョア的権利」とはいえないでしょう。

すなわち「不平等な人間の不平等な(事実上不平等な)量の労働」とは「能力に応じて働く」ことであり、それに対して「等しい量の生産物」が生活できる分配であれば、過渡期の分配と言えそうです。

これは先の「労働に応じて分配」が個人の労働能力=発揮した労働量に応じた分配が行われたのに対し、ここでは個人的能力はそれぞれ発揮されており、それぞれの能力差があることを認めた上で、「等しい量の生産物」が支給されると言うことです。「必要に応じて」への過渡的段階であることは明らかでしょう。

労働・労働力の発揮は、マルクスも言うとおり「長さと強さ」で測られます。そして強さは個々に様々ですが、長さは共通です。すなわち、全ての人の労働は「長さ」で統一することができます。誰もが一定の時間働くことで、社会が成り立ち、人々の生活が成り立つのであれば、「同一時間労働・同一の分配」も可能です。

しかしこの分配方法では、「同一時間の労働」に肉体的・精神的に耐えられない人がいるかもしれません。また「同一の分配」では、家族構成によっては生活費が足らない人も出る可能性があります。誰もが「能力を発揮し、生き生きと働き」誰もが「不自由の無い満ち足りた生活」ができる分配方式が必要です。それが「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」共産主義の社会です。

「必要に応じて分配」される社会は、誰もが「健康で文化的な生活」を保障されており、「労働に応じて」を否定・克服した社会です。すなわち、人々は自分の能力を精一杯発揮して働き、社会の一員としての義務・責任を果たし、他方で分配は、社会から直接、生活に必要なものを十分に支給され、自由に消費します。

ここでの人々の生活は贅沢、無駄使い、奢侈、浪費、自然破壊、勝手気まま、と言ったものではなく、質素、倹約、自己実現、協力・共同、切磋琢磨、自然保護等、人間性を発揮した生活に進歩しています。

人々にこのような生活が保障されているからこそ、誰もが「自由の国」を実感できるのであり、自由の国だから「健康で文化的な生活」ができるとは必ずしもいえません。たとえば現在の社会は、資本家・富裕者等にとっては自由の国ですが、労働者が蚊帳の外にいることは言うまでもないでしょう。

不破氏がいくら、共産主義は「自由の国」だと言っても、そこでの人々の生活がどうなるのかが示されない以上、絵に描いた餅に過ぎないでしょう。