レーニンが、分配論による二段階発展説を定式化した、と言う問題を考えます。
すでにみたように、レーニンの分配論には問題があります。その上に、次のような問題点が指摘できます。
レーニンは社会主義になっても「ブルジョア的権利は・・・社会の成員の間の生産物の分配と労働の分配との規制者(規定者)として、やはり残っている。」(p135)と言います。
さらに「共産主義のもとでは、ある期間、ブルジョア的権利が残っているばかりでなく、ブルジョアジーのいないブルジョア国家さえ残るということになる!」(p141)と主張します。なぜなら「労働に応じて」という「ブルジョア的権利」も「権利の基準の遵守を強制できる機関なしには、ないのも同然であるからである」(p141)ということです。
しかし、
①「労働の分配」をブルジョア的権利とするのは正しくない。社会主義が、生産はもちろん経済全体を管理・運営するのであれば、労働の配置や分配は、移行する過程があったとしても、社会主義の権力の仕事にならなければならない。そうでなければ計画的生産は不可能となる。
②「生産物の分配」が、ブルジョア的権利による分配から、社会主義的権利による分配への移行を通じて、「必要に応じて」が達成できるのであれば、克服の計画・見通しがなければならないが、レーニンにはその問題意識がない。
レーニンは「労働に応じて」の意味も、「必要に応じて」の意味もそれへの発展も十分検討していなかったのでは、と疑わざるを得ないでしょう。たとえば「必要に応じて」を「欲望に応じて」と考えていたようですが、基本的に間違いです。単に「欲望」を満足させるのが共産主義ではないことは言うまでもないでしょう。
③「労働に応じて」の「ブルジョア的権利」を守るために「ブルジョア国家」が必要とする論理はナンセンス。社会主義は「ブルジョア的権利」を否定することを通じて成り立つのであり、「等価交換」と言うブルジョア的権利を一度に無くすのは不可能だが、社会主義の権力が保護する必要がないことは明らか。
さらに、レーニンには、分配論だけではなく、国家論にも問題があったことが指摘できそうです。
すなわち、レーニンは、社会主義はプロレタリア執権(=独裁)国家でありながら、ブルジョア的権利を認めるブルジョア国家が同居している、とします。したがって社会主義から共産主義へ発展するためには、まず、ブルジョア国家(ここは社会主義国家でもある)を否定する(共産主義)国家が必要になり、その次に、その国家を否定することで「国家としての国家が死滅」していく、と言う過程を想定せざるを得ないでしょう。
不破氏も言うように、共産主義の段階は「国家としての国家」を否定することが課題となっているのであり、社会主義を否定して新しい国家を作ることなど必要ないはずです。
以上、繰り返しになりますが、まとめると
マルクスは、「ゴータ綱領批判」で、生まれたばかりの共産主義の分配「労働に応じて」を資本主義の母斑として位置づけ、その克服の過程を分析し、「必要に応じて」へが「ブルジョア的権利」を否定することで実現する、ことを示しました。
しかしレーニンは、当面、「労働に応じて」を取らざるを得ないことを過大視したばかりか、
①レーニン自身、労働に応じての意味があいまいになっている
②レーニンには「労働に応じて」から「必要に応じて」へどのようにして発展していくのかの分析や研究が、ほとんどなされていない。
③さらに、社会主義と資本主義が同居する「国家」を想定している
等のことを前提にするなら、レーニンが「二段階発展論」を定式化したと言う、これまでの「定説」そのものに疑問がわいてきます。確かにレーニンは、マルクスの指摘に従って二段階での分配方式について述べていますが、それ以上の分析・追求はしていません。さらに、最初に見たように、レーニンは「労働に応じて分配」をブルジョア的権利、不平等としています。すなわち、レーニンが「労働に応じて」を社会主義の分配原則とするための根拠が薄いと言うことです。
結論だけ言えば、「労働に応じて」が社会主義の分配原則としたのはスターリンです。
スターリンは、社会主義は市場経済によるとし、価値法則が働いており、分配は「等価交換」で行われており、労働能力の高いものほど高報酬は当然とします。
不破氏が「社会主義的分配論」を否定する理由がここにもありそうです。つまり、スターリンと一緒にされたくない・・・・?