社会主義的分配論の深化を 「ゴータ綱領批判」もう一つの読み方①
2015/2/26 道 半端 70代
日本共産党が綱領から「分配条項」を削除した論拠が、2003年10月号の前衛誌上に掲載された不破氏の論文「「ゴータ綱領批判」の読み方」であることは明らかでしょう。この論文は、2004年1月の綱領改定後、7月に「古典研究・マルクス未来社会論」として出版されています。
不破氏はこの著書で、マルクスが「ゴータ綱領批判」を発表した真意、その内容を解説し、社会主義的分配論を語ることは「青写真主義」であり、未来の人々の「手を縛る」ことになると言います。そして「労働に応じてから必要に応じて」への「二段階発展論」は誤りであると断定しました。マルクスの真意はどこにあったのか、改めて検討する必要がありそうです。
ここでは、不破氏の「マルクス未来社会論」から、「ゴータ綱領批判」でマルクスは何を言っているのか(マルクスの発言は「マ」と引用)、それに対して不破氏はどう解釈し、解説しているのか(不破氏の発言は「フ」と引用)を検証していきます。(「ゴータ綱領批判」は多岐にわたっていますが、ここでは「分配問題」について、マルクスの指摘していることを中心に、検討します)
まず不破氏は、本著書の冒頭で、マルクスやエンゲルスが「青写真主義」を批判している事例を挙げます(p20~p41)。そしてマルクスもエンゲルスも、「労働に応じて」が社会主義、「必要に応じて」が共産主義の分配方式である、などと決め付けてはいないことを論証しようとし、その立場・観点から「ゴータ綱領批判」を読んでいきます。(これらの点の検討・批判は別の機会に行います)
他方、マルクス自身は、ラサールの主張を吟味(「マルクス未来社会論」のp51~P56、内容は省略)し、「『労働全収益』と言う決まり文句が消えうせてしまったように、およそ『労働収益』と言う決まり文句がいまや消えうせる」(「マ」p56)「『労働収益』という言葉は、今日でさえその曖昧さゆえに廃棄すべきであるが、こうして全てその意味を失う」(「マ」p56)と、ラサールの「分配論」を切り捨てます。
すなわちマルクスは、ここでラサールには決着をつけている、と言うことです。したがって、これ以降に、マルクスが語る分配に関すること(p56~61)は、マルクス自身の考えであることを示しています。
しかし不破氏は、これら(p56~61)のマルクスの指摘を「マルクスの要求は、『公正な分配』と『平等な権利』、『全構成員』への分配など、ラサール流のから文句を、党の綱領に持ち込むな、と言うことが主眼でした」(「フ」p63)と解釈し、解説を加えます(p61~63)。その内容については、あとで検討します。
マルクスの分配論を見て行きます。
まずマルクスは、「ここで問題にしているのは、それ自身の基礎の上で発展した共産主義社会ではなく、逆に、資本主義から生まれたばかりの共産主義社会」(「マ」p57)であるとして、「経済的にも、道徳的にも、精神的にも、この共産主義社会が生まれてきた母体である古い社会の母斑をまだつけている」(「マ」p58)ことを前提に、分配問題も考えなければならないことを指摘します。
そして「それゆえに、個々の生産者は、彼が社会に与えるものを――控除したあと――同じだけ取り戻す。彼が社会に与えたものは彼の個人的労働量である」・「個々の生産者は、彼がある形態で社会に与えたのと同じ量の労働を、他の形態と交換するのである。ここでは明らかに、等価物の交換である限りでは、商品交換を規制するのと同じ原理が支配している」(「マ」p58)
すなわちマルクスは、「生まれたばかりの共産主義社会」での分配は「労働に応じて」であるが、これは商品交換と同じ原理=「等価交換」であるといいます。
しかし不破氏は次のように言います。
「共産主義の低い段階では、生産物の量に限りがあるから、何らかの分配の基準がいる。それには「労働に応じて」の分配という方式が取られるのが普通であろう」(日本共産党第22回大会・7中総の不破氏の報告)と、マルクスは言っている・・・。何を根拠にしての発言なのか。説明が求められます。
不破氏は生産物の量から分配のあり方=分配方式を求めるわけですが、考え方自体に無理があります。第一に、一定の生産量がなければ分配論そのものが机上の空論となりかねませんが、生産量と分配方式は別の問題であること、第二に、これまでの階級社会における分配は、生産量に関わらず支配者によって収奪されていたこと、第三に、ここで問題にしているのは社会主義(生まれたばかりの共産主義)での分配方式であり、共同社会を作るための、すなわち搾取をなくすための分配方式についてです。
不破氏にはこれらの問題意識は全くないだけでなく、「分配論」は否定されるべきとの前提でしか考えられないようです。その理由は、マルクスの文章を全く理解することができないか、何らかの意図で無視せざるを得ないか、あるいは両方が絡んでいるのか、・・・徐々に明らかになるでしょう。
続けてマルクスは、社会主義(生まれたばかりの共産主義)の分配は「商品交換を規制するのと同じ原理」だが「内容と形態は変化している」(「マ」p58)とし、さらにこれは「進歩」(「マ」p59)であるとして、二つの点を指摘します。第1は、「誰も自分の労働」以外「与えることはできない」し、「個人的消費手段」以外「個々人の所有にならない」(「マ」p58)、つまり搾取する人もされる人もいないと言うことであり、
第2は、「等価物の交換は、商品交換においては、平均においてだけ存在し、個々の場合には存在しないのに対して、ここでは原理と実践とはもはや争いあったりしない」(「マ」p59)、つまり、共産主義では商品交換がなくなるのであり、価値法則が働くことはないから、等価物(労働と生産物)は同じ労働量同士で交換することができる、ということです。
なぜならマルクスは、この分配論を展開する一段落前で、共産主義社会を次のように定義しています。「生産手段の共有を基礎とする協同組合的な社会の内部では、生産者たちは彼らの生産物を交換しない。同様に、ここでは生産物に費やされた労働はこれらの生産物の価値として、すなわち生産物が持つ一つの物的特性として現れない」「資本主義社会とは反対に、個人的な労働は、もはや間接にではなく、直接に、総労働の構成部分として存在するからである」(「マ」p56)。と。
つまり、生産手段を共有した社会では、生産物も社会の共有であり、総労働が結集したものです。したがって分配は、個々の労働者が提供した労働の持分として行われる、と言うことで、これが社会主義の「労働に応じて分配」です。言い換えれば社会主義の分配は、労働力の価値に対するもの=賃金ではない、と言うことです。(しかし、社会主義が労働者の生活を守るためには「健康で文化的生活」ができる分配が求められるのであり、その意味では、「生活費」(賃金)としての側面を持っているのは当然です。)
さらにここで指摘されているのは、共産主義では「生産物の交換」「生産物の価値」はなくなるのであり、マルクスは市場経済を基本的に否定していることです。もちろん、共産主義がある日突然出来上がった形て出現するわけではなく、そこには過渡期があるのであり、そのあり方が追求されなければならないのは言うまでもありません。資本主義から受けついだ市場経済も分配方式も、一定の過渡期の中で変革させていくものです。
しかし不破氏は、一方では社会主義、共産主義の分配論を否定し、他方で社会主義に市場経済を導入するわけですが、これはマルクスとは全く違う立場であることは明らかでしょう。あとでも触れますが、マルクスは「消費手段のその時々の分配は生産諸条件の分配の結果に過ぎない」(「マ」p68)と規定しているのであり、「協同組合的な社会」ではそれに応じた分配の仕方があることを指摘しています。すなわちマルクスから見れば、社会主義に市場は必要なく、社会主義的分配方式は不可欠である、と言うことになります。
したがって、不破氏がマルクスの理論をどう評価しているかが問われています。
すなわち不破氏は、市場経済を取り入れたいから分配論を否定したのか、マルクスの分配論の理解ができなかったから市場経済に逃げ込んだのか、あるいはスターリンとの共通項が明らかにされるのを避けるためにレーニンを否定したのか・・・その理由が何処にあったとしても、不破氏には説明責任があるでしょう。
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