マルクスは社会主義での「労働に応じて」は、資本主義的分配(ここでも「労働に応じて」が行われている)より「進歩」していると言いますが、「この平等の権利はまだ常にそのブルジョア的制限に取り付かれて」(「マ」p59)います。
なぜなら、「労働に応じて」が「平等の権利」であるためには、分配は「労働と言う同じ尺度で測られる」ことが前提です。そして労働が基準として役立つためには「長さまたは強度にしたがって規定されなければ」なりません(「マ」p59)。しかし、労働者個々人を見ると労働能力には様々な違いがあります。社会主義では、個々人は全て労働者ですから、階級的差別はありませんが、個人的能力の差で分配にも差別が生じます。分配が「等価交換」であれば当然の結果です。
すなわち「平等の権利」に基づく「公正な分配」で、分配結果に差が出るのが「労働に応じて」分配ということです。これは「等価交換」で行われる商品交換の原則であり、「ブルジョア的権利」です。したがって、この「労働に応じて」と言う「平等の権利」は「あらゆる権利と同じく、内容の点では不平等の権利」(「マ」p59)です。このことについては「レーニンの分配論」でも指摘しました。
これに対して不破氏は「(社会主義の)『労働に応じて』の分配と言う原則そのものが、不平等な原則」(「フ」p62)であるとし、さらに「一見『平等の権利』に見えるものも、生産者の間に差別を作り出すと言う意味で、ブルジョア的制限に取り付かれたブルジョア的権利に過ぎないではないか」(「フ」p62)と解説します。
なぜなら、「自分が労働しただけのものを社会から受け取るといえば、ちょっと見ると、平等と公正の原則が守られているように見える」(「フ」p61)が、労働者は「天分から言っても、同じ時間内に行う労働量の多いものと少ないものがいる」(「フ」p61)等で、「『労働に応じた』分配が実行されたからと言って、実質的には大きな不平等が存在する」(「フ」p62)ではないか、と言うことです。
マルクスと不破氏の観点の違いは明らかであり、その差が大きいことに驚きます。マルクスは論理的に『労働に応じて』を分析しますが、不破氏は『ちょっと見ると』の観点からしか物事を見ることができないようです。しかも不破氏は、分配結果に差が出るから「労働に応じて」は「不平等な原則」であり、「ブルジョア的権利」であると言うだけで、何故なのか? と考えることを放棄します。
そして不破氏の主張は明らかに間違いです。奴隷制でも封建制でも常に生産者(奴隷、農民)は分配上の差別を受けてきましたが、ブルジョア的権利によるものでないことは言うまでもないでしょう。「労働に応じて」は「等価交換」と言う「ブルジョア的権利」に基づく分配方式だから、分配上の差別が生じるのであり、逆ではないことはマルクスの指摘する(「マ」p58~59)とおりです。
次の問題に移ります。
さらにマルクスは、「労働に応じて」分配で差別が生じる、別の原因を指摘します。それは分配を受ける労働者の評価と分配の基準の問題ですが、同時に新しい分配方式を示しています。
労働者の評価をどうするか
「不平等な諸個人(・・・)は、同じ尺度で測定できはするが、それはただ、彼らを同じ視点の下に置き、ある特定の側面からだけ捉える限りのこと」であるとし、「彼らを労働者とのみ」とみなし、「他の一切のものを度外視する限り」(「マ」p59~60)の場合の分配です
すなわち労働者個々人は、天分・教育・訓練等による労働能力は様々ですが、それらを全て捨象した場合、そこには「労働者(人間)としてのみ」が残ります。しかし分配が労働者個々人に対するものである限り、生活者としての労働者を無視できません。つまり「ある労働者は結婚しているが、他の労働者は結婚していないとか、一方のものが他方のものより子供が多い、等々」(「マ」p60)の違いです。(労働者個々人の生活環境により分配差別が生じるのと、労働能力による分配差別は全く違う問題です)
ここでも当然、「労働に応じて」分配された場合、分配上の差別が出ることはいうまでもありませんが、マルクスは、新しい視点から分配方式について指摘します
すなわち分配の基準の問題です。
マルクスは「同一の労働を行い、それゆえに社会的消費基金に同じ持分を有する場合でも、一方のものが他方のものより事実上多く受け取り、一方のものが他方のものより豊かである」(「マ」p60)と言う場合について述べています。つまり「同一の労働」に対し「同じ持ち分の分配」とはどういう分配方式なのか、ということです。
まず「同一の労働を行い」とはどういう意味か? 労働能力がそれぞれ違う労働者が「同一の労働」により「同一の分配」を受ける、ことがどうすれば可能か、と言うことです。
すでに見たように「労働に応じて」とは「労働の長さと強度」を基準とするものです。それぞれ、様々に能力の違う労働者を「強度」で括ることは不可能ですが、「長さ=単なる時間」で統一することは可能でしょう。それぞれ労働者は自分の能力を発揮して労働するが、分配は「(単なる)労働時間」に対して行う、とすることです。
また、労働者を評価する基準から「労働能力」を捨象したことからも、「強度」ではかることはできません。したがってこれは、先の「労働能力」が分配の基準となる場合とは違い、「労働時間に応じて」の分配と言うことです。
つまり「能力に応じて働き、労働時間に応じて分配する」・・・分配の基準から「労働能力」を捨象することで、同じ時間働けば、誰にも同じ量の分配が行うことが可能となります。個人的労働能力(労働の強度)という基準を無視することで、より「平等な分配(能力による格差を縮小すると言う意味と、必要に応じた分配に近づくと言う意味で)」となっています。
分配が「労働者の生活を保障すること」、言い換えれば、労働者の生活の「必要に応じる」ことであるならば、共産主義に一歩近づくことになるでしょう。
しかし、これで分配の不平等が解決されたわけではありません。
「社会的消費基金に同じ持分を有する」分配の場合、「結婚している、子供が多い」労働者にとっては、そうでない人より実質的な収入減となるのは明らかです。労働能力とは別に、労働者個々人の生活のあり方の差が、分配において事実上の差別が生じることになります。
もっとも新しい社会では、社会保障の充実で、実質的な差別は無くなっていくでしょう。そして全ての差別をなくすのが「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」分配を実現することです。社会主義、共産主義は「一人は万人のために、万人は一人のために」と言う意識とともに、その実現を保障する経済的基礎・制度を作ることです。
さらに分配問題を別の観点から見ると、資本主義から受け継いだ「労働に応じて」は、様々な資本主義的制限と制約に置かれていました。たとえば労働能力は正当に評価されず、正規・非正規、男女で差別されているだけではなく、生活給すら保障されていません。その意味では、社会主義の「労働に応じて」は真の意味での「労働に応じて(個々の労働能力を正当に評価した分配=同一労働・同一賃金等)」を実現していくことになるでしょう。
しかし、これでは分配に差別がなくならないばかりか、労働能力の公正な評価とそれに基づく分配は、差別拡大の可能性さえあります。二つの方策でこの差別の拡大を是正していきます。第一が、全ての労働者の教育・訓練、技術の向上等は、社会が社会の費用で行うことで、誰に対しても平等な機会を与えます。そして第二に、その成果は社会が取得していきます。
資本主義では労働能力に対する教育・訓練等の費用は、多くの場合個人や企業が負担していたので、果実の多くは彼らが取得するのは当然でもありました。しかし今、それはすべて社会に還元されるべきものです。もちろん一気にそれが実現できるわけではありません。人々の意識改革と共に、果実を社会保障の充実等に充当することで、社会全体を豊かにしていきます。(エンゲルス・反デューリング論参照・大月書店・p383)
以上のような問題意識、観点が不破氏には全くないことは明らかでしょう。
次に移る前に、「平等な分配」とは何か、と言うことを整理しておきます。「平等な分配方法」とは何か、「分配結果の平等」とはどういうことか、に分ける必要があるでしょう。
「平等な分配方法」とはすでにみたように、「分配の基準」に即した分配、と言うことで「平等な権利」に基づくものになるでしょう。すなわち今の場合「労働の長さと強度」を基準にすると言うことですが、①「労働の長さと強度」、②「労働の長さ=強度を捨象した時間」、③「労働を尺度としない」、に分類することができるでしょう。
「分配結果の平等」とは、分配が労働者の生活を保障するためのものであるならば、基本は「健康で文化的な生活」、言い換えれば「生活に必要な分配」がどれだけ行われているか、と言うことが基準となるでしょう。ここでの「必要」が贅沢、浪費、無駄使い、自然・環境破壊等でなく、自然を守り、共同社会を造り、協力して生活する、切磋琢磨、自己実現を目指す等々であることは言うまでもありません。
したがってたとえば、①、②の分配では、すでに見たように分配結果に差が出るのは当然であり、すべての人に「生活に必要な分配」が行われる保証はありません。③の場合は二通りの結果が想定されるでしょう。一つは「必要に応じて」が実現される場合、他は「好き勝手に消費」と言った場合です。
前者が共産主義の段階で目指すべき分配方式となりますが、後者は不破氏の想定する結論です。何故なら、分配の基準を生産量とするのであれば、生産が増大するに応じて分配も増えるでしょうが、そこに秩序はない、と言うことにならざるを得ないでしょう。