さて、社会主義(生まれたばかりの共産主義)の分配方式・「労働に応じて」は二つの方式に分けられることが明らかにされました。そしてそれは、何が「等価交換」されているか(あるいは何が「不等価交換」となっているか)に応じて、すなわち「労働能力に応じて」から「労働時間に応じて」へ、段階的に発展していくと言うことです。
しかしいずれの分配方式においても、分配結果に差別が生じることも明らかで、マルクスは、これは「欠点」(p60)であると指摘します。
すなわち「労働能力に応じて」は、労働者の「不平等な個人的天分と、また従って、不平等な個人的給付能力」(「マ」p59)が分配に差別を生じさせること、「労働時間に応じて」は、結婚している、子供が多い等の個人的生活条件で「一方のものが他方のものより事実上多く受け取り、一方のものが他方のものより豊かである」(「マ」p60)等の差別が生まれことになります。これを克服していかなければなりません。
すでに見たように、差別の生じる原因が「労働に応じて」と言う「等価交換」・「平等の権利」・「ブルジョア的権利」に基づく分配方式であることが明らかである以上、これを否定することが社会主義的分配、さらには共産主義的分配になる、と言うことです。すなわち「これらの欠点を避けるためには、権利は平等であるかわりに、むしろ不平等でなければならない」(「マ」p60)と言うことです。
つまり、これまでは「労働」を基準に分配を決めてきました。労働をどう評価するかの問題はありますが、労働は所有の根拠でもあり、誰にも納得できる分配方式でした。しかしこの方式では分配結果が不平等になるのは当然で、「平等な分配(誰にも必要に応じての分配)」を実現するためには、この方式を否定し、新しい分配の基準を作らなければなりません。
そしてマルクスは「こうした欠点は、長い生みの苦しみの後に資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会の第一段階では、避けることができない。権利と言うものは、社会の経済的な形態、およびそれによって条件付けられる社会の文化的発展よりも決して高度ではありえない」(「マ」p60)と指摘し、
「共産主義のより高い段階において・・・――その時初めて、ブルジョア的権利の狭い限界が乗り越えられ、そして社会はその旗に次のように書くことができる、各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!」(「マ」p60)と結びます。
このような分配方式が実現されるためには、「あふれるほどの生産」が必要なことは当然ですが、人々の意識改革が大前提で、ブルジョア的権利の狭い限界を克服し、「一人は万人のために、万人は一人のために」が人々の自然の行為として行われるようになることが必要でしょう。資本主義的権利意識・思考方法・思想が克服されるためには、数世代にわたる努力と戦いが必要となるでしょう。
では、不破氏は何を語っているでしょうか。
「不公平を乗り越えて、各人が必要なだけの生産物を自由に受け取れるようになるためには、『共同組合的富のすべての源泉』から、生産物が『一層あふれるほど湧き出るように』なることが必要だ、生産がそこまで豊かに発展することが、高度な共産主義社会に進む条件の一つになる。こういう議論が、二段階発展論の重要な柱の一つになっています。
しかし、すべての源泉からあふれるほどに生産物がわき出るから『必要に応じた』分配が可能になる、と言うことは、人間の欲望の総計を超えるような生産の発展を想定し、そのことを、共産主義の高度な発展の条件にする、と言うことです。はたして、そのような段階がありうるのか、人間社会のそういう方向での発展を想定することが未来社会論なのだろうか、ここには、私たちが考えざるを得ない問題があります」(日本共産党第22回党大会・7中総の不破氏の報告)
つまり不破氏は、「二段階発展論」では、人間の無限の欲望を満足させる無限の生産を実現することが、共産主義社会の条件となっているが、それは目指すべき未来社会論ではない、と否定します。この点は不破氏の言うとおりですが、では誰がそのような社会が共産主義だ、と言っているのでしょうか?
すでにみたように、マルクスの理論でないことは明らかです。また、レーニンが共産主義を「欲望に応じて」であると言った(「国家と革命」の訳文で見る限り)のは確かのようですが、不破氏が指摘するようなことまでは言ってはいません。と言うよりか、レーニンはそこまで追求していなかったのが本当の所でしょう。
しかし不破氏は、先に見たマルクスの分配についての分析(「マ」p57~61)に対して「私(不破)の解説を加えれば、生産物の量が限られている間は、どんな分配方式をとっても、この種の不平等は避けられない」(「フ」p62)と言っています。つまり分配の不平等をなくすためには「あふれるほどの生産」が必要だ、と言うことです。
明らかに不破氏は、生産量と分配方式を直接結び付けただけではなく、『無限の欲望・無限の生産』の論理に自らが陥っていることを示しています。すなわち、これは不破氏の理論です。考えなければならないのは不破氏自身です。
以上のような不破氏の解説から導かれる結論が
「―― このように、共産主義社会になったからといって、綱領草案が言うように「公正な分配」とか分配における「平等な権利」などといったものが、簡単に実現されることはない。だから、そういう現実の裏づけを欠いた空文句を、気安く党の綱領に持ち込むものではないことを銘記すべきだ。」(「フ」p62)ということです。
不破氏の文章読解力をどう評価すればよいのか?・・・マルクスは、ラサールの言う「公正な分配」「平等な権利」等が「簡単に実現されることはない」から、「現実の裏付けを欠いた空文句」だ、と言っているのでしょうか?
不破氏の言う通りだとすれば「社会主義・共産主義」が「簡単に実現されることはない」のは明らかであり、「だからそういう現実の裏付けを欠いた」課題を「党の綱領に持ち込む」ことも「から文句」となりかねないでしょう。不破氏の独り相撲はどこまで続くのか・・・?
長くなりますが、このテーマの最後に、不破氏の「ゴータ綱領批判の読み方」の「恣意的」解説について触れておきます。以下のことは、不破氏が「ゴータ綱領批判」を書いたマルクスの「真意」を発見した「キーワード」とするところです。
すなわち不破氏は、マルクスが「ゴータ綱領批判」を書いた目的は、「ラサール流のから文句を、党の綱領に持ち込むな」(「フ」p63)と言うことであり、そのことを「注意書き」している、と言います。それが不破氏の「未来社会論」p68~69のマルクスの言葉だ、と。
そして不破氏は「ここで批判されているのは、ラサール流の分配論の持込だけではありません。社会主義・共産主義の社会やその発展の展望を論じ、叙述するのに、『分配』に力点を置くこと、『主として分配を中心にするものとして叙述する』こと一般が『およそ誤り』であり、『俗流社会主義がブルジョア経済学者から受けついだ』ものだと指摘されているのです」(「フ」p70)と解説します。
マルクスがここで何を言っているのか、本文(p68~69)を読めば一目瞭然です。
マルクスは「消費手段のその時々の分配は生産諸条件の分配の結果に過ぎない。しかし生産諸条件の分配は生産様式そのものの一つの特徴である」(「マ」p68~69)と、分配論の基本的観点を述べ、具体的に資本主義での分配を分析したうえで、「物的諸条件が労働者自身の協同組合的所有であるならば、同じように、今日のものとは異なった消費手段の分配が生じる」(「マ」p69)と、社会主義的分配の研究方向を示します。
そして「俗流社会主義はブルジョア経済学者から(・・・)、分配を生産様式から独立したものとして考察し、また取り扱い、したがって社会主義を、主として分配を中心にするものとして叙述することを受け継いだ」(「マ」p69)と言います。
不破氏が、何をかくし、何をごまかしているかは明らかでしょう。