不破氏・「古典への招待」(中巻)の「ゴータ綱領批判」の解説から見ていきます。ここには、これまでとは少し違う視点から、分配論について述べられています。二つのことを検討します。
第一は、不破氏は「変革の核心は、物的生産諸条件を『労働者自身の協同組合的所有』に移すところにあるのであり、この変革が行われれば、消費手段の分配の方式は『おのずから』変ってきます」(古典への招待・p168)と主張します。
日本共産党綱領は「社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である。社会化の対象となるのは生産手段だけで、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される」と言っています。
つまり、「生産手段が社会化」された社会でも「私有財産は保障され」ているのだから、「おのずと」決まる分配も、私有財産となるのであり、結局これまでと変わらない分配方式にならざるを得ないと言うことでしょう。不破氏が社会主義的分配論を語るのを拒む理由もうなずけます。
たしかにマルクスの言うように、「消費手段のそのときどきの分配は、生産諸条件そのものの分配の結果に過ぎない」(未来社会論p68)のですから、社会主義社会での分配は生産手段を社会化することによって生まれるのは当然のことです。しかしそれは「おのずから」(自然に)生まれるものでしょうか? 生産手段を社会化しただけでは「おのずから」社会主義社会が実現されないことは、ソ連の歴史が証明しています。
これまでの歴史は、生産力の発達に応じて「おのずから」新しい生産力を担う階級が生まれ、支配階級同士の抗争・交代で時代が変わり、それに応じて分配方式も変わってきました。しかし階級そのものをなくす社会主義は、自然に生まれるものではなく、『科学的社会主義』の理論のもとに、労働者階級を中心とした目的・意識的運動を通じて実現されるものです。
分配も新しい社会に照応した全く新しいものを意識して造らなければならないのであり、単に出来合いのもので間に合わせたり、「おのずから」の流れに任すことで生まれるものではありません。
なぜならこれまでの「分配方式」は、「搾取のあり方」を表した(封建社会では年貢として、資本主義では賃金として)ものであり、社会の発展に応じて自然に変化してきたものですが、社会主義は搾取をなくすのであり、全く新しい「分配方式」を目指さなければならないのは当然でしょう。
第二に、不破氏は「「労働に応じて」の分配は、サンーシモン派が提唱し、「必要に応じて」の分配は、エティエンヌ・カペーが未来社会の分配方式として提唱した」((古典への招待・p165)もので、マルクスのものではないことを指摘します。
そしてこれまでも、「労働に応じて」では分配上の不平等を生むことが問題とされ、カペーの「イカリア旅行記」では「全ての市民が同じ種類、同じ分量の食物を受け取り、同じ服装をし、家族の人数に応じた同じ構造の家に住むなど、画一的な消費生活が描き出されていました。」((古典への招待・p166)とされており、「必要に応じて」では生産力の巨大な発展等が前提とされる、と問題点を指摘します。
さらに、不破氏は「未来社会を、社会主義と共産主義の二つの段階にわけるという見地」はマルクス、エンゲルスのものではなく、レーニンが分配論と未来社会の国家論と結びつけた(古典への招待・p172)ものだと指摘します。
しかしマルクスが「ゴータ綱領批判」で二種類の分配方式について述べているのは明らかであり、さらに「資本主義社会と共産主義社会とのあいだには、一方から他方への革命的転化の時期がある。その時期にまた政治的過渡期が対応するが、この過渡期の国家はプロレタリアートの革命的執権」(未来社会論・p209)であると言っています。
この「過渡期の国家」こそ共産主義の第一段階、すなわち社会主義の「国家」でなくて、なんでしょうか。資本主義からいきなり共産主義の高い段階に変ることがないのは明らかであり、その発展のためには国家権力の掌握が不可欠であるならば、この段階が「社会主義」であるとすることに何の問題もないでしょう。
そしてこの「国家」は、労働者階級の権力のもとに、生産手段を社会化し、市場経済に代わる新しい生産物の流通組織を作り、人民の民主主義を確立し、共産主義的社会を築いていく過渡期に照応した様々な課題を実現していきます。その一つが分配問題です。そして共産主義の高い段階に至ったとき、人々は「必要に応じて」分配される、これまでと全く違った条件の中で生活することになるでしょう。
不破氏は、「社会の様々な側面で『二つの段階(共産主義の低い段階と高い段階・筆者)』どころか、無数の段階を画しながら進む」((古典への招待・p173)と一般化しますが、この「段階」とは何か? 単に量的な変化を言うのか? 質的な変化を意味するものか? 社会主義から共産主義への発展に、無数の段階を想定することは、質的発展を無視することにならないでしょうか。
生産手段の社会化を基礎とした、共産主義の第一段階と高い段階に「画然」とした境界線を引くことは不可能であり、そのことに意味があるわけではありません。しかし同時に、そこには質的に異なる世界があることもまた明らかでしょう。分配方式の発展は、その一つの標識となるでしょう。
繰り返しますが、分配のあり方はその社会の人々の生活のあり方であり、階級社会では搾取のあり方です。生産手段の社会化が搾取をなくす条件であり、搾取のない新しい分配方式は人々の労働意欲を高め、社会発展の力となるのであり、生産手段の社会化と正しい分配方式は表裏の関係にあります。分配問題を無視した過渡期はありません。
不破氏は、マルクスは「未来社会の分配問題は、社会の発展に応じて変化発展する可変的なものであって、決まり文句をもって、あれこれの方式を労働者党の綱領の旗に書き込むべきものではないことを、明確にしました」(古典への招待・p166)と言いますが、否定されるべきは「決まり文句の綱領」であり、「分配のあり方は生産関係に応じて発展する」ということとは別の問題です。
すでに見たようにマルクスは、「公正な分配」「平等の権利」といったことも、生産様式に規定されるものであり、生産諸関係と遊離した単なる「空文句」「決まり文句」では、科学的用語にはならないこと、したがって、労働者党の綱領に持ち込むことは厳に慎まなければならないことを指摘しました。
そして、マルクスは「生まれたばかりの共産主義」の段階では、資本主義的な分配方式「労働に応じて」にならざるを得ないことを指摘しているのであり、不破氏のように「労働に応じた分配」方式は「あくまで議論を進めるうえでの仮定であって、これとは違う方式になる場合も当然ある」(未来社会論p36)と特殊化したり、「もともと分配方式と言うものは、社会の歴史的性格によっても違ってくるし、生産者たちの発展段階によっても変化するものだ」(未来社会論p37)と、一般化するのは誤りでしょう。
このような不破氏の観点から
「マルクスは、共産主義の低い段階では、生産物の量に限りがあるから、何らかの分配の基準がいる。それには「労働に応じて」の分配と言う方式がとられるのが普通であろう。」(第22回党大会・7中総報告)となるのでしょう。マルクスが「普通であろう」などと、思い付きのようにして分配方式を取り上げたとの解釈ですが、マルクスもバカにされたものです。
眼鏡の色が違うと、どこまで行っても景色の色も違うと言うことですが、不破氏には、今一度原点に戻る考えはなさそうです。