マルクスが「与えられた条件の中に解の諸要素を含んでいない方程式は解けません」(「マ」p22)(不破氏「マルクス未来社会論」から引用)と言うように、マルクスの理論が現実の社会・経済を分析・思考・抽象することで組み立てられているからこそ「科学的」であり、空想的社会主義者のように「設計図を頭の中で描いて、それを外から社会に持ち込もうとする」(「フ」p15)立場でないことは、不破氏の指摘するとおりです。
そしてこれは、分配問題も、現実の社会・経済を分析・研究・思考することで、解が得られることを示しています。すでに見たように、マルクスは「消費手段の分配は生産諸条件そのものの分配の結果に過ぎない」(「マ」p68)と指摘しています。すなわち、社会主義(共産主義)の分配のあり方は、一方では、資本主義的分配方式(=搾取の方式)を否定・克服することであり、他方では社会主義(共産主義)的生産に即した分配方法を探究することで得られると言うことです。
しかし不破氏は、社会主義、共産主義の分配のあり方を語ることは「青写真主義」(設計図を頭の中で描くこと)に過ぎないと主張します。その根拠はマルクス、エンゲルスの言葉の中にあるとして、以下のような解説をしています。
第一が、資本論「商品の物神的性格とその秘密」でマルクスが取り上げた分配問題に対する不破氏の解釈・解説です。
ここでマルクスは、「分配の仕方は、社会的生産有機体そのものの特殊な種類と、これに照応する生産者たちの歴史的発展程度に応じて、変化するであろう」(「マ」p34)と言っています。
それに対して不破氏は「分配の仕方は、『社会的生産有機体そのものの特殊な種類』によって、また『生産者たちの歴史的発展程度』に応じて変化する、ことを強調します」(「フ」p36)とマルクスは主張していると解説します。
明らかにマルクスは、生産有機体に「照応する」生産者たちの歴史的発展程度に応じた分配方式、つまり、「共同的生産手段」に「照応する」「自由な人々の連合体」も「歴史的に発展」するのであり、それに応じて分配方式も発展することを言っているのですが、
不破氏は「生産有機体」と「生産者たち」を「また」とつなぐことで、別のものとして扱い、「同じ共産主義社会でも多様であり、歴史的にも変化する」(「フ」p36)と一般論的に解説します。
つまり「共同的生産手段」による生産(社会主義的生産)と「自由な人々の連合体」は別のものであり、それぞれが様々に変化・発展するのであり、何らかの分配方式を想定し、決め付けることはできない、それは「青写真主義」であるといいます。
言い換えると、社会主義的(共産主義的)分配方式は、「共同的生産手段」のあり方に応じて、また、「自由な人々の連合体」の「歴史的発展程度」に応じて「変化する」のであり、不確定要素が大きすぎて、ある決まった分配方式を想定することはできない、とします。
以上のように不破氏は、マルクスの分配論の理論的基礎である「消費手段の分配は生産諸条件そのものの分配の結果に過ぎない」(「マ」p68)と言う指摘、資本主義的生産には資本主義的な、社会主義的生産には社会主義的な分配方式があると言う指摘を、なぜか、常に無視します。
さらにマルクスは、先の文章に続けて「もっぱら商品生産と対比するだけのために、各生産者の生活手段の分け前は、彼の労働時間によって規定されるものと前提しよう。そうすると、労働時間は二重の役割を果たすことになるだろう。・・・労働時間の社会的計画的配分・・・生産者たちの個人的関与の尺度・・・」(「マ」p34)と言います。
明らかにマルクスは、「労働時間によって規定されるものと前提」することと「二重の役割を果たす」ことを「そうすると」とつなげ、前者が原因で、後者が結果であるとしているのですが、不破氏は、ここでも両者を分断します。
そうすることで不破氏は、「ゴータ綱領批判」が「労働に応じて」が社会主義の分配方式と「断定」(「フ」p36)しているのとは違い、資本論では、「『もっぱら商品生産と対比するだけのために』前提するのであって、この段階ではこうなるのだと言う断定ではないのだ、と言うことを、わざわざ断っています」(「フ」p36)との解説の根拠とし、
マルクスが資本論で「労働に応じて」分配方式を取り上げているのは「あくまで議論を進める上での仮定であって、これとは違う方式となる場合も当然ある。もともと分配方式と言うものは、社会の歴史的性格によっても違ってくるし、生産者たちの発展段階によっても変化するものだ」(「フ」p36~37)と、不破流解釈をし、解説を加えます。
しかし、すでにみたように、マルクスが「生まれたばかりの共産主義」での分配が「労働に応じて」であるとしたのは、「あくまで議論を進める上での仮定であって、これとは違う方式となる場合も当然ある」との立場、観点から導き出したものでないことは明らかです。不破氏は、あくまでも分配方式は社会的に・法則的に決められるのではなく、「偶然の産物」にしたいようです。
そして、ここでマルクスが言っているのは、資本主義的生産と社会主義的生産における「労働時間」の役割・働きの違いについてです。商品生産では、生産物の価値は価値法則により、常に不安定であり、したがって労働力の価値としての賃金も不安定にならざるを得ないこと、労働に応じての分配の根拠となるべき「労働時間・労働量」を確定することはできないこと、結局、資本主義における分配=賃金は、資本と労働の力関係によって決まることになります。
しかし社会主義、共産主義では、労働時間は分配の基準になるだけではなく、「社会的計画的配分」によって計画的生産のための尺度でもあることを説明しています。
そもそも、ここでマルクスが指摘しているのは、商品の「物神的性格」についてであり、資本主義では生産物も労働者も「商品」となることが問題の根源であることを解明します。そして社会主義、共産主義ではこれらが商品ではなくなること、ロビンソンと同じことが「社会的」に再現されることで、労働時間の役割も変わります。だからこそ「人々が彼らの労働力および労働生産物に対して持つ社会的関連は、ここでは、生産においても分配においても、簡単明瞭である」(「マ」p34)となるのです。
すなわち、分配問題についてマルクスは、資本主義では労働力は商品として、市場で様々に翻弄されますが、労働力が商品ではなくなった共産主義、特に生まれたばかりの段階では、「労働」が分配の基準となることを指摘します。そして共産主義的生産と社会の発展に応じて、分配方式も発展して「必要に応じて」になっていくことを示唆しました。
次に、エンゲルスが1890年、コンラート・シュミットにあてた手紙が取り上げられます。不破氏はこの手紙に対する返事で、「ゴータ綱領批判」の内容を熟知しているはずのエンゲルスが、分配問題について答えていないのは、何故なのか(「フ」p41)、と疑問を呈します。
しかしエンゲルスが、「ゴータ綱領批判」のマルクスの理論に触れなかったのは、簡単な理由からです。すなわちこの時点では、「ゴータ綱領批判」は公表されていなかったのであり、ドイツ労働者党の主要幹部間の「内部文書」だったからです。これが公表されたのは1891年1月発行の党の機関誌だったことは、不破氏自身が著書に書いていることです。(「フ」p90)マルクスがこの文書を公にせず、党の幹部にのみ回覧した目的に沿って、エンゲルスが慎重な行動をとったことは明らかでしょう。
以上のことから言えるのは、不破氏には分配問題の意味が全くわかっていないか、何らかの理由でこの問題に触れることを避けたいのか、そのいずれか、あるいはその両方だろう、と言うことです。
その証拠が、不破氏が議長だった7中総の「結語」で次のように述べていることです。
「これまでのように、社会主義になったら生産物を『労働に応じて受け取る』ことになると言った社会像だとしたら、未来社会も、現状とあまり違わないと思う人が多いかもしれません。多くの人は、資本主義社会での賃金とは『労働に応じて受け取る』ものだと考えているからであります。これは、分配論の角度からの社会主義・共産主義社会論では、未来社会の進化を的確に語ることは出来ない、と言うことです」。
レーニンもマルクスも、今日誰もが思うようなことを、未来社会の分配方式として掲げたのか? 彼らには理論的展望を描く能力が、そんなにもなかったのか? 資本主義も社会主義も、分配方式が同じだなどと、マルクスが言うはずがないのでは!?
不破氏はそういうけど、本当にそうだろうか、と疑うのが普通の人の考え方でしょう。
同時に不破氏は、未来には「自由の国」と言う素晴らしい世界があると言うだけで、そこでの生活がどうなるのかの展望は全く示しません。霞でも食っているのでしょうか?