日本共産党綱領から「社会主義的分配論」が削除され、「社会主義市場経済論」が導入されたことを検討したとき、提起されている問題は、社会主義とはどういう社会か? というそもそも論でした。
すなわち、「社会主義市場経済」が社会主義への道であると主張する人たちは「社会主義的分配論」は「青写真主義」であると否定し、反対に「社会主義的分配論」を必要とする人たちは「社会主義市場経済論」は間違いであるとする、両者が相容れない立場であることです。言い換えれば、社会主義にも市場が有効であるとする人たちは、分配も市場にゆだねられるとする立場であり、基本的に今の「賃金」と変わらないと言うことになりそうです。反対に、社会主義にはそれに照応した分配方式が必要であるとする立場の人は、分配はもちろん経済運営を市場に頼るのではなく、新しい「場」を作らなければならないと考えています。
社会主義社会とは、資本主義社会が資本主義経済下にある社会であると同様、社会主義経済下にある人間社会ということです。そして資本主義経済が、資本主義的生産と市場経済で成り立っているように、社会主義経済は、社会主義的生産と市場経済で成り立つのか、ということが問われています。
不破氏は「市場経済といえば、即資本主義だという思い込みがありました」(ふたたび「科学の目」を語る)と反省し、「条件によっては社会主義に向かう道筋になる」(党創立81周年記念講演)と主張します。そして市場経済とは「自由に商品が売買され、市場で競争しあう仕組み、体制」(同上)であり、「だめな社会主義は当然、市場で淘汰される」(同上)と言います。
商品とは、自分が消費するのではなく、他人のために、交換(売る)を目的に生産された労働生産物です。マルクスが資本主義の秘密を暴くのに、「細胞」(資本論)である商品の分析から始めたのは、労働生産物が商品として売買されることが、資本主義を成り立たせる根幹であることを明らかにするためでした。同時にそれは、商品売買が資本主義の『搾取の方式』であることを暴くためでもありました。すなわち、市場は商品のためにあります。
もし、社会主義社会での生産物が商品となるのであれば、それは資本主義的生産とどう違うのでしょうか。生産手段を社会化した目的は何だったのでしょうか。社会主義的生産が共有の生産手段で行われるのであれば、生産物は社会のものであり、社会全体で消費するものでなければならないでしょう。つまり「社会主義市場経済」とは、本来商品生産を目的とはしていない社会主義の生産物を、無理やり商品として流通させる経済運営である、ということにならざるを得ません。
エンゲルスの次の言葉を今一度聞くことが必要のようです。
「価値法則は、ほかならぬ商品生産の基本法則であり、従ってまた商品生産の最高の形態である資本主義的生産の基本法則でもある」「デューリング氏は、この法則を彼の経済コミューンの基本法則に高め、経済コミューンは十分に意識してこの法則を実施すべきだ、と要求するのであるから、彼は現存の社会の基本法則を彼の空想社会の基本法則にするわけである」(反デューリング論・分配)すなわち「市場経済を通じて社会主義へ」という不破氏と同じように――。
マルクスは「ゴータ綱領批判」でつぎのように述べています。
社会主義社会では「生産者たちは彼らの生産物を交換しない」「生産物に費やされた労働はこれらの生産物の価値」にはならない。なぜならば、「資本主義社会とは反対に、個人的な労働は、もはや間接にではなく、直接に、総労働の構成部分として存在」しているからです。
また「分配は、生産諸条件そのものの分配の結果に過ぎない」(ゴータ綱領批判)と言っており、社会主義的(共産主義的)生産様式には、それに応じた分配方式があることを指摘します。そしてエンゲルスも「分配は生産と交換の単なる受動的な産物ではない。それは同時にこの両者にも反作用を及ぼす」(反デューリング論)と、分配問題の重要性を指摘しています。
分配論の詳細は既に述べたとおりですが、市場経済を前提にする限り、労働者への分配も商品と同じ「等価交換」によることにならざるを得ないでしょう。しかし、社会主義的分配は「等価交換」と言うブルジョア的権利を否定し、「物質的刺激」を克服することであり、新しい分配方式を作り上げていくことです。
何度も言うように、資本主義での「搾取」は、「労働力を買う」ことで生じており、まさに分配のあり方の問題です。社会主義での分配を問うことは、なぜ社会主義では「搾取」がなくなるかを明らかにすることであり、どのような社会を作っていくのかという「展望」と「道筋」を明らかにしていくことでもあります。
資本主義社会は、あらゆる労働生産物が商品として市場で売買される社会です。労働者(労働力の所有者)も商品(労働生産物を消費して生きているという意味では労働者も一個の労働生産物)として市場で買われることで、生活の糧を得ることが出来ます。そして、労働力が価値どおりに売られることで、資本の利潤が得られることを明らかにしたのがマルクスでした。
生産と消費は表裏一体であることは言うまでもありません。生産手段の社会化と同時に、生産物の分配、交換、消費が資本主義とはまったく違う方法で行われることで、社会主義は成り立つことができます。すなわち、生産物を社会的に所有した中では、生産者は同時に消費者であり、自ら生産したものを自ら消費すると言うことであり、資本主義のように市場で「買う」必要がないと言うことです。
ここで注意を要するのは「生産手段の共有を基礎とする協同組合的な社会」が、個々の生産共同体と言うことではなく、ひとつの共同社会全体を意味していることです。社会主義社会が成り立つためには、個々の生産組織が生産手段を社会化しているだけではなく、その社会全体が「協同組合的な社会」として存在していることが前提されます。だからこそ生産物は、共同体間で売買する必要はなくなり、共同で消費することができます。
したがって、生まれたばかりの社会主義が存続し、成長、発展して行くためには、その社会がそれ自体独立して成り立つ条件が必要です。この社会は自己完結的であり、自給自足的社会でなければならないでしょう。その単位は地域社会なり企業等様々な段階があり得ますが、それらは有機的に結び合っており、全体としての社会主義的社会(現在で言えば国家)の一構成部分であるとの立場が貫かれています。
社会主義は資本主義が発展した段階の社会として位置づけられますが、これまでの社会の発展と根本的に異なるのが、人々が意識的に資本主義を否定して行く過程が絶対的な条件となることです。資本主義から社会主義への発展とは、階級制度、搾取制度の否定と言う、これまでとはまったく異質の社会を作ることであり、人々の新しい社会を作ろうとする能動的な行動の裏づけがない限り、実現できない社会です。
社会は、経済体制に応じて変化・発展してきました。そして社会は、いうまでもなく「人間」が作るものです。しかし同時に、人間は「社会」によって造られるものでもあります。人間は生産活動とともに生産物を消費することで生きているのであれば、消費生活のありかた、すなわち人間はどのようにして「生産」されているのか、されてきたのか、の問題を避けて通ることはできないでしょう。
生産手段の社会化とともに、生産物も社会化され、社会的に分配・消費される「仕組み・方式」を作り上げることが「社会主義社会」の建設と言うことです。
以上で、分配論についての私の「主張」を、ひとまず終わりたいと思います。長々と、まとまりのない文章にお付き合いいただいた方、ありがとうございました。
マルクスもろくに読んだことのない、年寄りの世迷いごとですが、反論、ご意見等を聞かせていただければ、励みになります。
(なお、不破氏に対しての批判的言葉に、品のなさを感じられたことと思いますが、他意はありません。相手はあまりにも「偉い人」ですから、許してもらえるでしょう)