第1章 質量転化
物質の量的規定は質的差異を捨象した規定であり、質的規定は量的差異を捨象した規定である。従って、この規定は存在論的規定ではなく、認識論上の規定である。しかし、量的な変化が増幅して閾値周辺に達すると、質・量的規定が相互に転化し合い、他方を捨象して一方の規定のみで認識するのが不可能になる。ベナール砲は温度変化によって、対流が発生し、新しい質(気体)が自己組織化した現象である。質的に均質で、質的差異を捨象する事が可能な状態から、量的な変化によって新しい質が現れると、質的差異を捨象する事が出来なくなる。
一般的には、或る物と他の物は一定の質的な差異で区別される。しかし、相互作用によってその区別の境界領域では、ミクロ的には相互に浸透し合い、長期的に見れば微小な変化や揺らぎが起きて、区別の境界は固定していない。こうした微小な変化・揺らぎは一般的には捨象可能であり、この捨象によって決定論的な区別・認識は十分可能である。ところが、環境条件の激変によって、この微小な変化・揺らぎが増幅すると境界領域があいまいになったり、大きく変わったりする。物質はミクロ的には粒子性と波動性があり、波動性としては連続的だが、粒子的には非連続的でとびとびの量を持つ。物質の粒子性と波動性は、物質の連続性と非連続性の表現である。物質運動を決定論的に予測するためには境界領域を決定しなければならない。この決定をすると波動的な物質運動が見えなくなる。物質の波動性を承認すれば、波動的な物質運動は予測可能となるが、境界領域はあいまいになる。これは認識論上の矛盾であって、存在論上の矛盾ではない。従って、この矛盾によって運動を説明する事は出来ない。古いエンゲルス流の「弁証法的唯物論」は認識論上の矛盾によって、存在論上の運動を説明しようとしてきた。このため観念論的な「自然弁証法」となった。
物質の質量転化の閾値周辺では古い質的状態から新しい質的状態が出現し、それに伴って大きなエネルギーの解放・吸収が起きる。つまり量的な変化が質的変化を惹起すると同時に、質的な変化はエネルギー上の量的変化に転化する。燃焼は微小な運動エネルギーが摩擦によって熱(他の物質の運動)エネルギーに転化し、この熱エネルギーが他の物質内に閉じ込められていたエネルギーを解放することによって、大きな熱エネルギーに転化する現象である。転化の閾値周辺では、分子の運動は古い質や新しい質でもない特有の現象になる。また、単なる中間状態でもない複雑なカオス現象が現れる。カオス現象では決定論的な予測は極めて困難で、確率論的な予測しかできない。
火薬は爆発に酸素を必要としない自己反応性物質(危険物)である。燃焼は酸素を必要とするから、この定義に該当しないが、自己反応性的な物質運動である事には変わりない。物質は一般的には必然性の奴隷であり、その変化は外的な作用に対する反作用にすぎない。物質は相互作用する。作用は反作用となって現れる。この反作用は己の作用自身に対する反作用でもある。一般的にはこの己自身に対する反作用は微小な振動・揺らぎとして現れるだけで、物質運動の決定論的性格を左右しない。太陽は地球に作用し、引付ける。地球の太陽に対する引力は太陽の軌道を変更しない。安静時の火薬や燃焼物には様々な分子やエネルギーが作用しているが、微小であるために反作用は無視できる。物質の決定論的な運動はこの微小な反作用を捨象する事によって成り立っている。恒星は二体であれば、地球と太陽の関係のように、決定論的に予測可能である。しかし、三体になると予測が極めて困難になる。4体以上になればほとんど不可能となる。これは自己原因的な相互作用を捨象出来なくなるめである。
物質の決定論的な予測は物質の自己原因的な運動を捨象する事によって成立する。一般的には自己原因的な作用は微小な揺らぎ・振動であり、急速に収束する。形式論理学では自己原因的な物質運動は極めて予測困難である。周囲の微小な環境変異で原因たる自己自身が大きく変化するため予測が困難となる。物質の質量転化の閾値周辺では揺らぎ・振動が増幅し、作用に対する反作用は、自己原因的な物質運動となって予測不能になる。作用は己自身への反作用となって作用が増幅し、決定論的な予測が困難になる。閾値周辺では物質は自己自身に反応して、外部からエネルギーを吸収したり、解放したりするような自己反応性を指し示す。自らの本性(原因)によって新しい質を獲得する。
物質の質量転化は自己原因的な運動である。質量転化の閾値周辺では二つの矛盾する質が共存するから、物質はこの周辺に留まっている事は出来ない。だが、物質の自己運動とは言えない。質量転化は物質が通過する一瞬であり、物質の連続性と非連続性が交差する一瞬である。物質は波動性に対しては、非連続的な粒子である。しかし、内部的には連続的な構造を持つ。非連続的な粒子の波動性が増幅すると内部の連続的な構造が振動を開始する。物質の波動性が共鳴し合い増幅すると、この波動性から新たな粒子的構造が産出する。この新しい構造が現れると物質は安定し、振動は一瞬に収束する。矛盾は一瞬に解消する。自己原因的な物質運動は物質が通過する一瞬であり、自己運動的な運動ではない。物質がこの一瞬を通過するためには、外部からの大きな作用・エネルギーが不可欠である。
熱力学第二法則によれば、物質はエントロピーの増大(エネルギーのギャップを埋める方向)に向かって運動する。物質運動は平衡点で静止するが、この静止は完全な静止ではなく、ミクロ的には絶えず揺らいでいる静止でしかない。あらゆる物質は運動する。この物質運動は相互作用となって現象する。相互作用による運動は一定の力学的な平衡点で安定する。この平衡点では外部から区別された一定の質的規定を持つ。物質はこの質的な規定の中で安定しているから、物質は一般的に己の質的規定を保存しようとする性向を持つ、と言える。物質は外的な作用を受けても、この作用による変化を一定の質的な範囲の中に閉じ込めて、己の質的同一性を保存しようとする。外的な作用による変化が質的な同一性を保存すれば、この作用は量的な、連続的な変化となる。だが、この変化が一定の質的な範囲の中に閉じ込められなくなると新しい質的な運動に転化する。この時、古い連続性から新しい連続性に移行する一瞬を通過する。
物質の質量転化においては、多様な物質の諸対立(区別)関係は新しい質と古い質との矛盾へと上昇する。しかし、この矛盾は一瞬にして消滅・解消する関係であって、弁証法の第二法則、対立物の統一・相互浸透の関係ではない。物理化学の世界における質量転化は外的な力(作用)によって、惹き起された外的な関係であって、内在的な力(作用)を動因として持っている訳ではない。矛盾は連続的な物質運動が、ある一瞬で非連続的に変化する通過点に過ぎない。物質はこの通過点で留まる事は出来ない一瞬でもある。物質にとってこの通過点は、外的な力が働かなければ超える事が出来ない限界である。しかし、一端この限界を超えると、物質は新しい質に転化すると同時に、己の中に閉じ込めたエネルギーを解放する、または外部から吸収する。「質量保存法則」によれば、質量転化によって質的規定が変わっても質量自体は変わらない。だが、質的な秩序が変わる事によって、内部の運動エネルギーが大きく変化する。質的な変化は量的な変化を惹起する。燃焼自体は質的な変化であり、この変化は量的変化に転じて更に他の物を燃焼させたり液体を温める。しかし、これら自体は全て外的な関係であり、外的な作用の結果に過ぎない。従って、矛盾は外的な認識の結果(規定)であって、物質運動の内在的な源泉(原因)とはなっていない。
ヴィドゲンシュタインによれば、「矛盾は論理学の彼岸である」と言う。これは形式論理学や数学では正しい。矛盾する命題や式が成立したら形式論理は破綻する。物理化学は矛盾の排除によって厳密になり、物質運動の予測可能性を拡張してきた。しかし、科学を認識論的に見ると、一つの矛盾を解決して決定論的な予測をすると、更に一層、矛盾するような現象が多く発見される。無矛盾の命題・法則の発見によって、ミクロ的・マクロ的謎が解明出来たと思った途端に、むしろ、この解明自身によって、ミクロ的・マクロ的謎が幾何級数的に拡大してきた。つまり、矛盾の排除が、更に一段と多くの矛盾を生成してきたのが、科学の歴史である。しかし、矛盾を認めれば、つまり、ヘーゲルのように矛盾によって物質運動を説明してしまえば、全てが分かったようになって、実は何も分かっていない、と言う事になる。「いま、ここにあると同時にない」と言う弁証法では、物質運動の決定論的な予測は不可能である。
しかし、決定論的な予測が困難な閾値周辺では、物理化学の世界においても、ある程度認識方法として有効性はあるように思える。ところで、「いま、ここにあると同時にない」という弁証法は正しいのか、偽なのか?ギリシャのゼノンが言うように、ある1点に存在する(場所を占有する)矢がどうして運動できるのか?この疑問は哲学的にではなく、物理学的に決着するべきだろう。素粒子は粒子であると同時に波でもあると言う。粒子が同時にどうして波なのか?波がどうして粒子なのか現代の物理学は決着を付けていない。無限に分割可能な物質など存在出来るのか?「最小構成単位の物質」はどうして分割不能なのか?ホーキングによれば「宇宙は合目的である」と言う。一体、この目的はどうやって誕生したのか?弁証法を非科学的と決めつけられるほど現代の物理学は偉くない。逆に「自然の弁証法」を存在論的にも正しい、と言うほど、現代の哲学者は科学性を備えていない。
益川敏英氏よれば、物質は様々な階層構造を持っており、階層が違えば支配する法則は異なる。これは物質的な質量転化である、と言う。物質の量的集合(相互作用)によって、マクロの世界ではミクロでは見られない新しい質的な法則が出現する。これは量の質への転化の一例でもある。しかし、同じ階層では同一の法則による形式論理的な支配を受けており、同じ階層内での物質運動を弁証法的矛盾によって説明する事は論理的な矛盾であり、こんな矛盾は排除しなければ科学的な説明とはならない。「矛盾は運動の源泉である」と言う弁証法上の命題は物理化学の世界においては適用出来ない。しかし、質量転化の閾値周辺では古い質と新しい質が同時に現れる一瞬が存在する。この一瞬では、矛盾は現れると同時に解消する。物質はこの矛盾する1点で留まる事は出来ないから、この矛盾を排除する事によって決定論的な予測は可能になるのである。だが、物理化学の世界でも矛盾する1点は存在する。ミクロな原理に還元できないマクロな原理が発生する1点は存在する。物質の相互作用の世界は様々な物理的な力学が対立する世界でもある。この対立は量的な変化によって、古い質的な力学と新しい質的な力学が両立しなくなる一瞬に辿り着く。物理化学の世界では、対立は矛盾に転化すると同時に消滅する。物理化学は矛盾を排除して物質の運動を説明する事は出来ても、「矛盾は彼岸」なのだから、矛盾する1点の非存在を証明する事は出来ない。
物質は質的規定と量的な規定が矛盾しているために運動している訳ではない。この質・量規定の矛盾は認識論上の外的矛盾であり、認識作用自身はこの矛盾を原動力にして進化する、と言える。質量転化によっても質量は保存される。つまり、質量は一般的には変わらない。質量転化は質的規定と量的規定の矛盾による自己運動の結果ではなく、外的な作用の結果に過ぎない。だが、生命や精神現象ではこの対立・矛盾を内部に蓄積させて、矛盾からの脱出力を運動・発展の源泉にする。エンゲルスの「自然の弁証法」は認識論上の矛盾を強引に「自然の弁証法」として押付け、認識論上の矛盾はその摸写である、と展開した。この事が長い間、弁証法を誤解させる大きな原因となった。意識は物質の単なる反映・摸写ではなく、自立化した反映である。意識は己自身を原因として合目的的に運動する。従って、最初から自立化した反映としての意識は、物質とは矛盾する関係にあり、この矛盾こそ意識の運動の源泉である。意識は物質に合わせて己を変える事によって、この矛盾を解消する事もあれば、逆に、物質自身を改造する事によって矛盾を解消する事もある。この認識・意識を貫く弁証法と物理化学を貫く弁証法は、全く異質なものであるのが当然である。認識論上の弁証法を最初に、自然(存在)に押付けたのはヘーゲルである。ヘーゲル弁証法は観念論的な弁証法である、と言われた。エンゲルスはこの観念的な弁証法を「自然の弁証法」の摸写として倒錯させた。エンゲルスは観念を支配する弁証法と自然を支配する弁証法を区別出来なかった。このエンゲルスの「自然弁証法」を擁護する「弁証法的唯物論」は、何一つとして唯物論的でなければ、科学的でもなかった。益川氏の指摘する「弁証法の不幸」とはこの事を意味している、と理解したい。