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「科学的社会主義」討論欄

『我々は何処からきて、どこへ!』

2016/6/28 百家繚乱

第2章 自然の弁証法

 サルトルやルカーチ、メルロー=ポンティ、ハーバーマス、広松渉等々は、エンゲルスの「自然弁証法」は学問(哲学)や科学と見なされていない。アインシュタインはエンゲルスの「自然弁証法」の出版にあたって、「この理論には特別の興味はない、しかし、エンゲルスの著作であるならば、出版の意義はあるだろう」と言ったそうである。エンゲルスの時代はニュートン力学の決定論が支配的な時代であったから、彼の弁証法的誤解は避けがたい一面もあった。レーニンはエンゲルスの「自然弁証法」を否定はしないが、弁証法を認識論上の論理学と見なしている。この点では武谷三男氏も同じである。認識や歴史(社会史)は矛盾を原動力として発展してきた事は、前述の思想家だけでなく、ハイデッカーやフッサールでも認める、当たり前の議論である。エンゲルスの「自然弁証法」を擁護する「弁証法的唯物論」を科学的な理論として持ち上げ、それを批判する思想や科学理論を「観念論」と決めつける「弁証法」は何一つとして、弁証法的でもなければ科学的でもなかった。これは「科学的社会主義」に名を借りた宗教でしかない。この「科学的社会主義論」には、更にたちの悪い「科学性=党派性」と言う観念がまとわりつき、より一層「観念論」化・宗教化を促進してきた。ソ連解体後の今日の世界ではこんな宗教を支える力は存在しない。

 科学性は「党派性」と全く無縁である、とは言えない。原子爆弾や公害のように、科学者・技術者は社会現象と深く関わっている。しかし、矛盾を動力とする社会認識が厳密な形式論理を要求される科学に介入する事は、一般的には許されない。科学・技術は社会制度には中立であって、如何なる社会制度でも一般的には有益な効果をもたらす。如何なる社会制度も、古い関係と新しい関係が共存しているから、矛盾を動力にしている社会科学も、一般的には有益な知的効果をもたらす。対象の如何を超えて、科学の世界に「党派性」の概念を持込む事は知的な退廃(大敗)である。文化や報道の世界においても、同じである。文化は自由な創造・直観の世界であって、党派性の概念でこの自由を奪えば、文化的な退廃にしかならない。「社会主義的な文化」とは退廃的・官僚的な文化でしない。報道の世界では客観的で無党派である事が要求される。商業新聞も、一定の客観性・無党派性なしには利益を出せない。ジャーナリズムの世界に党派性を要求する事は、敵側に立つ事を要求するのと同じであり自殺行為である。「党派性」の概念は無党派を味方に獲得するのではなく、敵側に押しやる効果しかない。
 元来、「科学性=党派性」の定式における「党派性」の概念は階級への忠誠を意味しているのであって、特定の党派への忠誠を意味してはいない。階級の意志は特定の党や党派によって独占できない。階級は多様な階層・職層によって構成されているのだから、その統一した意志は様々な党や党派の統一として現れるのだ。「闘いは敵を味方に変える事によって成功する」という命題に従えば、ブルジョワ階級の党でもこの統一から排除すべきではない。こうした階級の統一と言う視点から見れば、「党派性」の概念は、政治的な無党派性を意味している。政治的には無党派であって初めて科学的に成りえるのであって、政治的な「無党派」に徹する「党派性」こそ、科学と結びつく事が出来るのだ。だが、唯一の「前衛党」の概念が現れると、党は「革命の司令部」となり、党の発展が階級の成長となる。党は階級の上に君臨し、階級に命令する主体であり、階級の運動は党に従属すべきものとなる。「党派性」の概念はセクト主義と結びつき、党官僚の保身の為の概念として機能してきた。つまり、「党派性」の概念は階級に対する忠誠心ではなく、階級に対する裏切・革命に対する裏切の概念として政治的に機能してきたし、今日でも同じである。

 左翼の世界では「確信を与える」と言う言葉が今でも堂々と通用する。「確信」は主体的な研究と公開の討論によって自ら獲得するものであって、上から与えられるものではない。指導は「確信を与える」のではなく、確信を持てるような環境を整える事に注力すべきである。民主集中制によって、公開で自由な討論を禁じては、「確信」など獲得出来る訳がない。こうした言葉を発する政治家は「確信」を自ら獲得したのではなく、上から与えられたのだろう。こんな政治家の指導では「確信」は逃げていくばかりである。今日では、宗教家でさえ「確信を与える」等とは言わないのが一般的だろう。その点では、「民主集中制」は宗教以上に宗教的な制度になっている、と言える。

 ところで、エンゲルスは「弁証法の三法則」を提起した。これはヘーゲルの「論理学」から導き出された法則である。第一の法則、質量転化の法則は物理化学の世界でも一般的に見られる現象であって、物質運動の連続性と非連続性の転化によって起きる現象である。第二の法則、対立物の統一(相互浸透)の法則は物理化学の世界でも排除は出来ないが、一般的に見られる現象ではないし、この法則で物理化学の世界を理解する事は出来ない。物理化学の世界では矛盾が発生すれば、一瞬にして消滅する運動だから、矛盾によって運動を説明する事は出来ない。ただ、確率論的にしか予測できない現象では、認識論上の意義があるだけでなく、存在論的にも排除できない可能性はある。第三の法則、否定の否定の法則は物理化学の世界では全く適用の余地はない。益川氏によれば「否定」の原理は科学の世界では厳密に定義される、と言う。否定の否定は、単に肯定であり、肯定以外の何か別のものには成りえない。この法則は発展の法則であり、合目的的な有機的運動においてのみ、見られる現象である。物理化学では1+1=2であり、それ以外にはない。だが、生命現象や精神現象ではこのような形式論理では解明不可能である。ホーキングの言うように宇宙が合目的的に運動しているならば、この法則は物理化学の世界でも排除できなくなる可能性はある。しかし、素粒子・原子や岩石・太陽のような物質が合目的的に運動している、とは言えない。地球は生命の存在によって、一般の惑星とは異なった物質システムになったとは言えるが、一般の惑星は、生命体抜きに合目的性を語る事は出来ない。一般的には物質運動を合目的性によって、説明する事は出来ない。
 コンピューターは0と1の複雑な論理的計算機械である。0と1は厳密に区別され、相互に転化し合う事はない。相互に転化し合う事がないからこそ、正確で大量の計算を超高速に実現する。時には物理的な雑音で転化する場合があるが、その場合は厳密なエラーチェックが架かり、修復されるようになっている。0と1の状態は極めて小さな空間(1ビット)に一定量の電子が閉じ込められているかどうかで決まる。マシンが小型化・超高速化するとこの空間に閉じ込められる電子量の数は極めて減少する。電子量が減少すると、トンネル効果により1ビットの電子状態は不安定になり、この雑音(エラー)の発生率は幾何級数的に増幅する。この問題を解決するために、量子コンピューターが研究されている。いずれにしても、今日のコンピューターは論理的な計算機であり、雑音や揺らぎは排除の対象でしかない。それに対して、生命現象や精神現象は雑音や揺らぎを利用した物質現象であって、免疫・逆転写・突然変異や進化、直観のような現象は論理的な計算とは全く異なる。乱数の導入によってこの論理的な限界を超えようとする研究もあるが、この乱数の利用は形式論理的に設定された枠からはみ出る事は出来ない。

 タンパク質は遺伝子によって、一方的に生成されている訳ではない。生命現象を別の視角から見ると、タンパク質が遺伝情報を利用しながら、己自身を再生している現象として観察する事も出来る。免疫システムはこの典型例である。脳と身体も同じような関係である。従って、生命や精神では乱数によって論理的な回路が破綻しても、タンパク質と身体が論理回路を再生する事ができる。生命や精神は揺らぎや雑音を積極的に利用する事によって、複雑に変化する環境に適応してきた。形式論理的な理論によってだけでは、生命や精神現象を解明する事は不可能である。生命や精神では1+1が突然3・4になったり、マイナスになったりする。むしろ、生命や精神はこうした混乱を利用する事によって発展・進化してきた。生命・精神は形式論理的な限界を超える事によって、新しい質を獲得してきた。従って、自然の弁証法は物理化学の世界では一般的には適用できないが、生命や精神現象では、弁証法なしに科学的な説明は不可能である。

 形式論理学と弁証法は単なる補完関係にあるのではなく、矛盾する関係にある。形式論理学は弁証法なしに成立する。弁証法は形式論理学なしに成立しない。形式論理学は矛盾を排斥するが、弁証法は形式論理学を排斥しない。これは弁証法の優位性である。形式論理学が新しいパラダイムを獲得しようとすれば、弁証法的思考が不可欠である。形式論理学は、それ自身の論理では己の限界を超える事が出来ない。今迄の理論で1+1が3になるような現象が見つかれば、1+1を3にする新しい理論を発見しなければならない。つまり、古い論理学では矛盾するが、新しい論理学では矛盾しない法則を発見する事が必要となる。「質量保存法則」が破れても、「エネルギー保存法則」が守られれば、形式論理的な同一性は保存される。アインシュタインの相対性理論は「質量保存法則」と現実の現象の形式論的な矛盾を解消した。形式論理学の世界でも矛盾は発展の動力だが、矛盾によって現象を説明してしまえば、発展は停止する。弁証法は形式論理学を排斥するのではなく擁護するのだ。己を排斥する者を擁護する、ここにこそ弁証法的思考の極意がある。

 如何なる思想(哲学・科学理論・宗教)も、一般的には一定の存在論的な根拠を持って存在する。その限りでは、その存在論的な根拠・社会的役割の範囲の中で擁護されるべき権利を持っている。だが、思想は存在を超え、存在を変革する主体だから、古い存在に基づく思想には批判的にならざるを得ない。新しい存在の基で古い存在は消滅するのではなく、新しい形式で保存されるのだし、保存しようとしなければ新しく産れ出る事は出来ない。従って、存在に基づく権利を擁護しなければ変革できない。変革する事は擁護される事ではなく、擁護する事である。擁護される側になるのか、擁護する側になるのかによって、ヘゲモニーの帰趨が決まる。ブルジョア思想は革命思想として、歴史の舞台に登場してきた。今日でも、古い官僚的な支配制度・風土に対しては、革命的な役割を果し続けている。利己的なパラダイムであっても、社会的・共生的な機能を持っている。スターリン現象・民主集中制は、ブルジョア思想を反動思想として批判しながら、古い官僚的支配制度・風土にしがみつき、その力で擁護されようとする思想である。

 「鶏が先か卵が先か?」と言う問題は、今日の生物学でも決着が着いていないと言う。生命現象は物理化学現象には解消し得ない。生命は物理化学現象から発生したが、物理化学現象を己の目的の手段として創造する自立的な現象である。従って、合目的的な物質運動は二元論的な物質運動であって、他方を一方の運動の反映として解釈する事は出来ない。合目的的な運動は一元論的に解釈出来ない。自立化した反映は単なる模写ではない。反映している当のものを創造する反映である。人間は機械と魂の二元論の世界である、とデカルトは言う。カントは二律背反で物自体は認識不可能だから、認識の世界は二元論の世界だ、と言う。ヘーゲルはカントを批判して、観念論的な一元論を展開した。長い間、弁証法的唯物論はヘーゲルを逆立ちさせた一元論的な唯物論だと言われてきた。だが、この一元論的な唯物論は機械的な唯物論にしかならない。他方の運動を一方の反映として見なす決定論は生命と精神の機械化でしかない。精神の運動が決定論的な運動ならば、精神は単なる機械の随伴現象に過ぎなくなる。
 遺伝情報は生体情報の自立化した像(反映)である。物理化学的には単なる核酸の配列に過ぎない。だが、この配列は、リボゾームの翻訳装置を通るとタンパク質の一次構造となる。また、この配列には翻訳過程そのものをコントロールする情報も入り込んでいる。つまり、遺伝情報は自己言及的な情報である。遺伝情報によってコントロールされた世界は自己運動の世界である。生命は矛盾が運動の原動力となっている。二律背反こそ生命運動の原動力である。フロイトの『快感原則の彼岸』によれば、生は死であり、死は生の動力である。有と無の同一性こそ生命力である。生命の世界自体が二元論的な世界なのだから、認識の世界は多次元の世界である。認識論の世界は芸術論の世界をも含んでいる。この多次元の世界を「弁証法的唯物論」「史的唯物論」「科学的社会主義」で一元化する事は出来ない。長い間、「弁証法的唯物論」が観念論以上に観念論的だったのはこのためである。今日の「科学的社会主義」は科学性を主張すればする程、空想的にならざるを得ない。形式論理学の世界、物理化学の世界は一元的な認識を志向する。この世界は矛盾の排除を運動・発展の動力にしているのだから、当然である。だが、その志向とは裏腹に、今日の数学は多次元化しているし、物質・宇宙論も益々多次元化している。物理化学の世界でさえ、多次元化しているのに、矛盾を動力にする「社会主義」が一体どうやって一元化し得るのか?「科学的社会主義」は空中の楼閣である。社会主義・民主主義は多元性の承認によって始めて統一可能だ。一元的な思想は運動を分裂に導くだけである。
 人間は自由な物質的存在であるが、全く完全な自由を持っている訳ではない。人間は自然的条件、社会的なルール、経済上の制約を受ける。自然条件は人間による加工が加えられているために可変的であるが、多くのルールを人間に押し付ける。物理化学はある程度、一義的・決定論的予測は可能だが、生物学・医学は極めて多元性が高くなり、一義的・決定論的な予測は困難になる。社会科学は基本的には必然性による制約を受けていない。歴史や経済・文化による制約はあるが、基本的には人間を制約するのは人間社会の民主的な意志決定である。民主的な意志決定の代わりに必然性の科学を持ち込むのは、実に馬鹿げている。確かに、社会的な矛盾は存在し、社会自身はこの矛盾を動力にして発展してきたのだから、社会科学はこの矛盾を対象にし、その解決策を考える科学である。しかし、この矛盾は必然性の発見では解決しない。民主的な意志決定・選択の問題であり、この意志決定のルールをどのように獲得するのか?、と言う問題である。
 マルクスの指摘するように、人間は利己的で盲目的であれば、市場には「神の意志」が必然性として現れ、人間社会は外的な強制力(盲目性)によって支配されざるを得ない。だが、民主的・共生的な意志決定によって市場を支配すれば、人間社会は必然性から自由になる事ができる。社会科学は必然性を発見する科学ではなく、盲目的な必然性・矛盾に対抗し、人間を民主的な意志決定によって自由にする科学である。矛盾は人間を苦しめる必然性ではなく、人間に幸福を与えるゲームの起爆剤となる。社会科学の必然性は、民主的な意志決定よって死滅する。戦争ゲームでは他人の不幸は己の勝利であり、快感となる。これは空想上である限り、大きな社会問題にはならない。だが、人間はリアルな世界で生きており、空想上の快感をリアルな空間で感じたくなるものである。こうした現象は現代社会で始まった事じゃない。リアルな戦争は空想上の勝利から始まったのだ。戦争ゲームはこのリアルな戦争を空想化しただけである。人間は歴史から学ばねばならないから、戦争ゲームを否定的に解釈するのは間違っている。悲惨な戦争を空想する事によって、平和をリアル化する事は可能だ。

 村山斉氏によれば、物理科学理論の予測通りに続々と新クォークが発見され、「アップクォークに対応する新しいクォークが見つかり、チャームクォークと命名された。物理学者達はこれを『11月革命』と呼んだ」そうである。物理学者も青年も、彼らはいつの時代にあっても、新しい科学理論・思想を目指しているし、「科学の革命」を目指している。その点では彼らも、時代の革命・革新の味方である。アインシュタイン、ウィーナー、ラッセルも社会主義思想には同情的であった。厳密な形式論理性を要求される科学の世界では、矛盾は排除の対象でしかない。弁証法的思考を批判したからと言って、観念論・反動呼ばわりしたら、「弁証法的唯物論・科学的社会主義」とは単なる宗教にしかならない。20世紀においては、むしろこうした教条的な「唯物論」を批判する思想・科学理論の方が遥かに唯物論的で科学的であった。

 ヘーゲルは「自由とは必然性の洞察である」と言う。エンゲルスはこれに対して、「自由とは必然性を認識し実践する事である」と対置した。必然性を認識する事と実践する事は重大な違いがある。必然性を認識し、それを己の意志に従属させ、己を必然性から解放する事と、己の必然性を認識し、己をその必然性の奴隷にする事は全く違った意味を持つ。人間の実践は選択であり、投企である。人間の意志は自由であって、必然性の奴隷ではなく、必然性を己の意志の実現に利用するのだ。エンゲルスの対置は何ら唯物論的な対置ではない。これは自由の放棄・捨象である。エンゲルスの時代は、ニュートン力学による決定論の全盛時代だったのだから、非科学的とは一概に言えない時代でもあった。この時代では、物質も人間社会もおよそ全てが決定論的な法則性・必然性が支配する、と考える事が科学的な精神であった。上部構造は下部構造によって決定される運命にあった。個々の人間は、一早くこの必然性を認識し、実践する事が自由を獲得する早道な訳であった。かくして、「歴史にIFはない」と言う事になる。このエンゲルスの自由論は、本人の意図はどうあれ、出世主義・官僚主義・保身主義と融合しやすい事に注目すべきである。
 自由とは外的な偶然性に身をまかせる事ではない。物質は元来、必然性の奴隷であると同時に偶然性の奴隷でもある。だから、ヴィドゲンシュタインもすべては偶然である、言う。偶然性とは外的な必然性(盲目性)に過ぎない。この外的な必然性によって拘束されている限り、選択の自由の範囲は限られ、己自身も必然的対応しか有得ない。だが、この偶然性を盲目性としてではなく、必然性として内在化させれば、この必然性を利用して己を偶然性から解放できる。自由とは偶然性からの、従って外的な必然性からの解放である。他在から見れば、自由とは己を偶然化する事であり、投企である。従って、最初の物質・人間の自由は原子的で排他的な自由とならざるを得ないのだ。生命と人間の親和的な関係は、この自由をお互いに尊重し合い、情報の交換・契約によって、お互いに予測可能な範囲に自由を拘束し合う関係である。

 人間と自然・生態系の関係では自由は劇的な転換をしている。生態系はそれ自身で独自な自己保存的な能力を持っており、この自己保存的な関係の中でしか人間は生きられない。生態系は自己保存のために、我々に対して既に一定の信号を送信してきている。この信号を翻訳し、それに答えなければ我々は生態系によって自由を剥奪されるだろう。エンゲルスの言う「歴史の法則性」と言うものを完全には否認し得ない。それは生態系の持っている合目的性と、ある意味で似たような関係になっている、と考えられる。エンゲルスは、ある意味ではこのような意味で自由を定義したのだが、長い間、この定義は極めて誤解され、決定論的に悪用されてきた。人間は自由だが、この自由は生態系や歴史によって制約されている。人間の利己的な「自由」はこの制約から解放されようとする。この解放は何一つとして、人間を自由にはしない。それは人間から自由を剥奪する自由でしかない。それは人間を盲目的な力の奴隷にするだけである。人類は長い間、この盲目的に働く力を「神の意志」として考えてきたが、「神」は決して利己的な自由によって人間を解放した事はない。

 人間の民主的な意思決定のみが「神の意志」に取って変わる事が出来る。この民主的な意思決定は指導者の代行的・官僚的な意思決定とは全く正反対の、自由で公開の討論に基づいた集団的な意思決定である。従って、「神の意志」には、革命の意志のみが取って代わる事が出来る。政治においても経済においても、市場はこの意志を求めて試行錯誤し、彷徨うのだ。スターリン現象という逆流も、ある意味ではこの彷徨の一部である。反面教師としてはこの逆流にも歴史的意義がある。