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「科学的社会主義」討論欄

『我々は何処からきて、どこへ!』

2016/6/28 百家繚乱

第3章 生命の弁証法

 ① 動的平衡系 ー 自己運動

 福岡伸一氏によれば生命体は動的平衡系であると言う。生命体は外部を内部化し、内部の内部として外部を吸収する。内部化した外部は外部である限り、異物でしかない。この異物を分解・解体しながら、己自身を再生する。この異物の分解・解体作業は多様な化合物の質量転化であり、この質量転化によって、己の運動エネルギーを確保する。物質は一般的には熱平衡へと向かう性質を持つが、生命体はこの運動エネルギーによって、熱平衡に対抗して動的平衡を維持する。生命現象は物理化学現象から自立した動的平衡系である。物質は己自身の中に閉じ込められており、外的な必然性の奴隷であるが、生命体は外的な必然性からの自由を確保した動的平衡系である。
 外部の物質とエネルギーによって、己を再生する能力を確保した動的平衡系は己自身を複製する能力をも獲得した。再生は物質代謝であり、複製は自己増殖である。再生から複製への上昇過程はどのような過程だったのかは、今日の生物学では全くの謎である。生命の起源をDNAにしてしまえば、生命の誕生過程は簡単になってしまう。複製が最初で、再生は後から発生したことになる。結晶の発生過程のように、複製自体はそれ程複雑な物質現象ではない。再生は極めて複雑な物質現象だから、多くの化学者は複製から再生を説明しようとしてきた。そうすると、ウィルスは独自の再生能力がなくても生命体であるとなった。それでは、ウィルスの起源の説明が付かなくなる。この起源を地球外に求めたところで何ら問題の解決にはならない。とは言え、物質代謝能力だけでは己を普遍化出来ない。複製能力まで上昇して、初めて普遍化した。

 動的平衡系であれば、自己増殖能力を持たなくても、一時的・個別的には熱平衡に対抗し、自己を保存し得る。自己保存と言う視点から見れば、遺伝子なしでも否定的な統一として、生命の要件を備えているように見える。我々の細胞社会を構成している個々の細胞は、それ自体として生きている細胞である。環境条件さえ整えば、増殖能力なしで長期にわたって生きていく能力を備えている。だが、自らこの環境を選ぶ事も、整える事も出来ない。合目的的に与えられた環境で生きていく能力しかない。つまり、増殖能力を失った生命体は生きて行くための条件を、外的に与えられなくては自己を保存し得ない。生きてい行くための条件を、自ら選択するか創造する能力が無ければ、熱平衡に対抗した自由を獲得した生命体とは定義できない。増殖の変異による多様性は、この選択と創造の可能性を拡張する。淘汰の力学は増殖の精密性と同時に、あいまい性(変異性)を要求する。遺伝子はこの矛盾する力学の結果である。

 物質の世界ではエネルギーの保存法則がある。この保存法則ほど強い拘束力ではないが、質量保存法則もある。質量が保存されても、多様なエネルギー間で変換が起こる。物質は一般的には一定の質的な限界の中に変化を閉じ込めようとする。これが量的変化である。質量転化においては、この保存法則が破れて、わずかではあるが質量のエネルギーへの転換が起きる。生命体は変換したエネルギーとこのわずかの転換エネルギーを最大限有効に活用する。生命現象にも保存法則の力学が働く。だが、この力学は形式論理性を同一にした物理的な保存力学ではなく、淘汰の力学であり、進化の原動力である。物理化学的な保存力学は厳密に規定された必然性であるのに対して、淘汰の力学は偶然性の力学であって、何処に向かうか予測不能である。物理的な保存則は外的に働く作用であるのに対して、淘汰の力学は外的に働いた作用を内在化・記号化して内在的に働く作用に転化する。生命体は淘汰の中で己を結果として保存・記憶する。生命は己を遺伝子として記号化する。生命体は己の保存を質量的にではなく、システムとして記号系として保存する。この記号化は翻訳装置(リボゾーム)の獲得によって現実化した。生命現象では淘汰の結果が原因となる。生命の力学では形式論理的な同一性・無矛盾性は何処にもない。物理的な因果関係は逆転し、結果が原因となる。無矛盾ではなく、矛盾が運動の原動力となる。生命運動は遺伝記号の合目的的な現象である。物理化学の世界においても結晶のように自己増殖現象が起きるが、物理化学的な増殖現象に過ぎない。生命の自己増殖は自己保存システム・記号系の自己増殖現象である。自己増殖の過程は己を種として普遍化する過程でもある。
 遺伝子は物理化学的には、何の目的もない核酸に過ぎない。DNAは単にエネルギーの保存則に沿って、物理化学的な反応をしている装置に過ぎない。だが、リボゾームの獲得によって、DNAは単なる物理化学的な存在ではなくなり、生命体全体を記号化(転写)した反映体となった。遺伝情報は生命の自立化した反映である。リボゾームは遺伝情報に基づいて作成されるから、生命現象は極めて自己言及的な構造を持っている。DNAの物理化学的な反応は、記号系としては自己増殖を目的に運動する利己的な分子のように現象する。生命の合目的性はDNAの合目的性ではない。核酸をどんなに分析しても、そこからはどんな神秘的合目的性は見つからない。生命の合目的性は物理化学的分析の彼岸なのだ。生命現象をどんなに物理化学的に分析しても、合目的性は出現しない。これは精神現象においても同じである。精神現象を物理化学的に分析すれば、精神は機械の単なる随伴現象に過ぎなくなる。デカルトのコギトなど、何処にも見つかる訳がない。コギトは物理化学の彼岸なのだから、物理化学的に分析すれば何処にも見つかる訳がない。精神の合目的性は脳という自動機械の随伴現象に過ぎない。だが、この認知心理学者の精神は一体どうなっているのか?毎日、日々何の目的もなく、脳を研究しているのか?この学者の精神は、どこかの知能ロボットの随伴現象なのだろうか?すでに決定された宿命を何の疑問もなく、悩みもなく、機械の随伴現象のように家族を愛しているのか?すでに決定されている息子の進路を歩ませるために日々子育てしているのか?生命の合目的性の否認は精神の合目的性の否認へとつながって行く。

 自己増殖と淘汰の過程は忠実な複製ではなく、複製の間違い、組み換え、変異をも伴う過程である。淘汰の力学は、一般的には複製の精密化に向かって働くが、時にはこうした変異を積極的に取り込み、この変異を進化の原動力としてきた。種的な普遍化はまた、種的な多様性の獲得過程でもある。生命体の種的多様性は生命体の多様な自然環境への適応能力を高めた。この種的な多様性は、生命体の共生関係の前提である。自然淘汰の過程は基本的には競争関係であるが、同時に多様な自然環境に適応するための共生関係をも創造した。共生関係によって生命体は多様な自然資源を外部から内部化する事が出来るようになった。真核生物は原核生物の共生関係によって誕生した。多細胞生物は各々が生きた独自の生命力を持った個体の共生関係によって誕生した。生殖細胞はこうした生きた独自の生命力を持った自立的細胞の生殖能力を代行している関係と見なす事が出来る。

 物質の合目的的な運動はいつから始まったのか?人間の活動に合目的性を否認する人はほとんどいないだろう。人間とほとんど変わらない脳容量を持つチンパンジーの活動に合目的性を否認するのは、どう考えても科学とは言えない。チンパンジーと哺乳類、哺乳類と魚類、魚類とミドリムシ、ミドリムシとゾウリムシ、ゾウリムシと原核細胞。これらは全て同じ生命体である。一般の細胞とニューロンは同じ遺伝子の支配を受けているから、ニューロンの存在で合目的性の有無を判別できない。ヒドラやクラゲのような単純な無脊椎動物でもニューロンを持つ。ニューロンは単なる細胞間の通信手段に過ぎない。ミラー・ニューロンは単なる通信手段ではなく、模倣するニューロンであるが、創造するニューロンではない。人間はいつから合目的性を獲得したのか?人間の幼児はチンパンジーの幼児と同じく、母親の胎内で1個の細胞から発生する。幼児は人権を持ち、学ぶ力を持って誕生する。誕生によって合目的性を獲得したなどとは科学的には考えられない。物質の合目的運動は生命現象と共に始まった、と言える。生命現象とは物質の合目的的な運動に他ならない。
 人類は長い間、合目的性と意識性を混同してきた。デカルトは生命活動は複雑な機械的運動だと考えた。マルクス・エンゲルスも同じである。人間は労働によって合目的性を獲得した、とマルクスは考えた。そのために児童労働を否認しなかった(「ゴータ綱領批判」)。ヘーゲルは若干異なる。自然は概念の外化だから、生命活動は合目的的な運動だと考えた。存在の有機的な運動は合目的的な運動である。今日では、コンピュータの登場と共に機械的な運動に合目的性の概念が入り込んできた。確かに、自動制御機械は合目的な機械である。しかし、この合目的性は自ら獲得したものではないし、自己言及的な合目的性ではない。合目的性は人間が外部から押付けたものに過ぎない。今日では、学習する機械は多数登場している。だが、元来記憶と学習は同じである。記憶する機械としてのコンピュータが、学習能力を持ったからと言って、何も不思議な事じゃない。人工知能の研究は大いに役立つ研究であることは確かだが、人工生命さえ遠い未来の話なのに、真の人工知能などおよそ考えられない。ただ、人間の思考は弁証法的で、矛盾に満ちている。複雑な計算を直観的に処理するから、間違いを犯しやすい。論理計算機としての人工知能は、人間の思考を補完する機能を持つ。

 物理化学の世界における対立関係は物質にとっては、外面的な関係であり、この関係が矛盾した関係まで上昇するかどうかは、外的な作用(力)が働くかどうかによって決まる。物理化学の世界では自ら外部を内部化する事はない。外部が内部化すれば、外力による質量転化になる。物質は自らの質を保存しようとする力学が働くので、一般的には外力なしで外部を内部化しない。物理化学の世界では外力による内部化は対立・矛盾の解消であり、否定的関係の解消に過ぎない。内部は全て内部であり、外部を内部と区別して、内部に保存する事はあり得ない。例外的に、物質は揺らぎや振動によって外力なしで外部を内部化する事があるが、極めて特異な例である。場合によっては、こうした物理化学の特異点で、生命が誕生したのではないだろうか?
 生体の内部と外部は単に対立関係にあるのであって、それだけでは区別された関係と変わらない。内部と外部が否定的な関係になるのは外部が内部化される事によってである。内部の内部として同化された異物は生命体にとっては、否定的な物質である。この異物を分割・解体する事によって、つまり、再否定する事によって、生命体は自己を再生する。だが、この再否定はそれ自体は否定の連続(肯定)であって、発展の法則のとしての「否定の否定」(自己否定)ではない。この再否定は化学的な肯定と似た関係であり、単純な自己の再取得である。物質代謝は否定性を動力にした運動である。生命体は内在的な物理的力学で外部を内部化する。生体制御の世界では対立物(内部と外部)は相互に浸透する。矛盾は一瞬の内に解消に向かうのではなく、相互に浸透する動力として保存される。これが対立物の統一であり、矛盾の止揚である。だが、この止揚は円環の繰り返しであり、円環からの脱出ではない。円環からの脱出機会は増殖の時期に出現するが、それは増殖そのものからの脱出でもある。この脱出は極めて不安定で、成功の確率は極めて少ない。
 ある意味では、ヘーゲルの合目的性と機械の合目的性は近似している。両者の合目的性は精神の外化・外的な押付でしかない。しかし、生命は精神無しで、十分に生きているのであって、精神によって合目的性を押付られなくても、十分に自立的で内在的な合目的性を持った生命誌を生きてきたし、生きている。コンピュータも合目的的な機械であるが、それは単に人間によって合目的的に制御されているだけに過ぎない。コンピュータは正確で形式論理的な計算機であり、矛盾を動力にして運動する事は出来ない。形式的には外部を内部化する事は出来るが、この内部化した外部は厳密に内部自身と区別されており、この外部によって己の身体・論理回路を更新する事はない。機械にとっては、身体と論理回路は厳密に区別されているが、生体ではこの区別は相互浸透により、あいまいである。人間は機械の論理回路を支配する事によって機械自体を支配するが、生命体の身体と論理回路の区別はあいまいであり、相互に浸透しあっている。機械にとって外部が内部化する事は論理的機械的なエラー・故障でしかない。合目的的な運動体はこのエラー・故障を動力して運動する。今日の科学・技術では、こんな更新(外部の内部化)をする計算機はおよそ考えられない。合目的的な運動体は矛盾を動力として持たねばならないが、手段としては正確な形式論理的な計算機構が不可欠である。生命体はこの機構間の対立・葛藤、その衝突から生まれるエネルギーと質量を動力にして運動する。その点から見ると、一個の生命体自身が無限の分子的スーパーコンピュータを備えている、とも言えるだろう。直近のコンピュターは囲碁でも人間に勝ち始めていることには驚かされる。論理的な計算能力はとっくに人間超えているのだから、それ程驚くことでもないとも言える。これは人間の設定したゲームの延長であり、自らゲームを設定・選択している訳ではない。

 ② 自立化した反映 - 遺伝情報

 遺伝子はタンパク質の1次構造を決定する。生命体の1次構造をあらかじめ決定する情報を持つ。遺伝情報は淘汰の力学によって選択され、記号化された情報である。生命現象においては結果(情報)が原因として作用する。生命体は遺伝情報の実現(現象)形態である。遺伝情報は生体の1次構造の模写である。だが、この模写(反映)は存在自身から自立し、存在そのものを己の模写として実現する。「反映」が反映している当の存在を己の反映として実現する。存在は「反映」の反映態に過ぎない。遺伝子は己の存在の根拠を、己の「存在(実現)」そのものから自立し、逆に己自身が己の「存在」の根拠となった「反映」である。遺伝情報は物質運動の中で現れた最初の「自立化した反映」である。「自立化した反映」は、己の存在根拠(始源)を己自身の中に持った「反映」である。
 物質は相互に作用する。つまり、相互に反映し合う。人間は鏡の前で己の写像を見る。鏡は己を視覚的に映しているだけであって、視覚的な一面的反映に過ぎない。己と相互に作用する物質は全て一面的反映である。相互作用する物質関係は作用主体の痕跡を作用媒体に残す。だから、あらゆる物質は他の物質の一面的な反映態であり、他の物質関係の一面をを記憶している、と言える。だが、ある物質が他の物質の反映態・記号と見なすにはこの反映態を翻訳する装置が必要だ。鏡の前の反映態が我々の模写であるのは、我々の知覚機能・知覚の解釈機能があるからだ。記号の翻訳装置と創造装置があれば、反映態を基にして反映対象自身を再生可能である。更にこの再生機構自体を反映態として持っていれば、この反映態は己を己自身で創造する反映態である、と言える。このような自己創造的な反映態は単なる反映ではなく、己自身を実現する自立化した反映態となる。

 化学の世界では触媒が存在する。この触媒は途中経過では大きな変化をするが、結果的にはどんな変化も受けずに、新しい物質系(触媒等)を産生する。多様な触媒が絡み合い、この絡み合いの中から、相互に相互を産生し合う触媒システムが現れる。このシステムでは触媒は自己原因的な存在になる。物理化学の世界では、一般的には結果は原因の反映であっても、原因が結果の反映にはならない。だが、自己組織化・共鳴現象では物質のこうした自己原因的な運動、交互作用が見られる。相互に産生し合う触媒システムは、相互に反映し合う自己原因的なシステムである。この自己原因的なシステムは己自身を産生する触媒システムである。この己自身を産生する触媒システムの中から、システム全体を産生する触媒が現れる。システム全体を産生する触媒にはシステム全体の一次構造が反映している。この触媒に反映している情報が遺伝情報である。遺伝情報とはこのように自立化した反映態である。こんな複雑な化学式は、今日の化学ではまだまだ机上の想定に過ぎない。とは言え、論理的には十分あり得る議論であり、矛盾は存在しない。
 遺伝情報とは遺伝暗号ともよばれる。DNAを単なる触媒ではなく、触媒の一次構造を決定する記号として見るには、この記号を翻訳する装置が必要だ。これがリボゾームだが、一端このような装置が誕生すれば、簡単な記号の変異・組替・組合せで、極めて多様な触媒を創造する事が出来る様になる。このため、今日ではDNAではなく、RNAワールドから生命は誕生したと議論されている。RNAからDNAに逆転写する酵素は、既に存在するから不可思議ではないが、翻訳装置の創造過程は全く謎である。翻訳装置だけでなく、己自身を再生するには、己の情報によって外部と内部を区別する動的な膜を再生する機能が不可欠だ。この膜で外部と内部が動的に結合する必要もある。物質は相互に反映し合い再生し合うから、生命現象をバラバラに分解すればそれ程不思議ではない。問題はどうやって統合したのか?、と言う謎である。とは言え、この統合がある時ある場所で偶然起きれば、忽ちの内に他の有機物を飲込んで自己増殖を開始するだろう。この極めて特異な偶然の一瞬が、生命誕生の一瞬である。

 金子邦彦氏(『生命とは何か』)によれば、この生命誕生の歴史の中で、最も重要な役割を果すのは希少性の高い触媒である、と言う。再生産性・増殖性が遅い触媒は、再生産システムの中では希少性が高くなる。希少性の高い触媒が再生産すれば、つまり増殖すれば、再生産する触媒系全体が再生産・増殖する。極めて少ないエネルギー的変異(遺伝子の複製)で、巨大なエネルギー的変異(生体全体の複製)が起きる。希少性の高い触媒には生体全体の1次構造が転写される。己自身を再生産する触媒系内における相互作用は単なる反映ではなく、他在への己自身の反映である。他在に作用する事によって、己自身を再生産するのだから、この作用は己自身の転写である。触媒系は相互に反映し合う関係であるが、この反映はエネルギー的効率性・正確性による淘汰の力学が働く。この力学は希少性と確実性の高い触媒に集中し、集中した触媒には触媒系全体が転写される。
 相互に触媒として再生産する関係は、相互に己れの再生産の手段として規定し合う関係であるが、この手段性が淘汰の力学で特定の触媒に集中すると、集中化した手段は自己目的化する。自己目的化した触媒の再生産はシステム全体の再生産の起爆剤になる。触媒の再生産は自己組織化現象であり、物質の自己原因的な運動である。この自己原因的な物質運動がシステム全体の再生産に転化すれば、他の触媒の自己組織化現象は特定の触媒によって組織化された現象となる。システム全体の再生産は特定の触媒によって合目的的に調整された自己組織化運動となる。多様でミクロな自己組織化現象が相互作用し組織化すると、ミクロでは見られなかった新しいマクロな自己組織化現象、合目的的な物質運動が出現した。
 物質の自己組織化現象は結果として、自己原因的であるに過ぎない。合目的性は自己原因性そのものが原因である。他の触媒の自己原因的運動は目的の結果にすぎない。他の触媒の自己組織化現象は目的によって組織された過程であり、契機に過ぎなくなる。他の触媒の反映性は目的の反映に過ぎなくなる。物質は元来相互に反映し合うが、遺伝情報はこの物質の反映性を独占し、己の写像としてシステム全体を規定する。物質の反映性がシステムの物質性から自立して、物質システム自身を創造する。これは物質の己自身の記号化(情報化)である。だが、この記号化は合目的的に進行したのではなく、物質自身にとっては淘汰の力学による外的な作用の結果に過ぎない。淘汰の力学によって、結果が反映態(情報)の写像として選択された。これは結果の原因化であり、新たな合目的性の獲得である。合目的的な物質運動では手段と目的の関係が倒錯して出現する。元来、遺伝情報は生体の設計図として、再生産の手段として選択されたのだが、この手段は自己目的化して自立し、生体を逆に己の実現手段として再生産する。こうして、遺伝子は利己的な遺伝子として立ち現れる。

 物質は必然性の奴隷だから、原因から結果を推定できる。逆に、物質の熱平衡へ向かう運動は平衡点では同じ結果だから、結果から原因を推定出来ない。平衡点では出発点(不均衡点)は消滅する。原因は結果の中で消滅する。合目的的運動においては、内外の環境条件で目的がダイナミックに変動するから、原因から一義的な結果を推定する事は困難である。逆に、結果から諸原因を推定できる。結果は目的の実現、非実現(反目的性)であり、目的は原因の一つとして過程に介入する。結果は一義的な熱平衡ではなく動的な平衡であり、この平衡の内に目的が原因として保存されている。目的は結果の内に原因として保存されている情報である。情報は転写可能である。触媒間の相互作用は情報の転写過程として、情報の送受信の過程として立ち現れる。
 物理化学では、情報量の概念は数学的に定義される。だが、この量は情報の送信側と受信側で反対になる。送信側では通信手段(情報媒体)はランダム性・無秩序性が高いほど多くの情報を記号化できる。受信側ではランダム性・無秩序性が少ないほうが、情報の意味を特定し易い。物質は相互に作用しあうから、作用された側(情報媒体)には、作用主体の質量・意志等が規則的に刻印される。送信側では情報量はエントロピーと比例し、受信側では負のエントロピーとなる。つまり、ランダムな媒体の中に現れた非ランダム性を翻訳する事によって、作用主体の質量・意志等を特定する。熱力学の第二法則ではエントロピーは増大するはずだが、生命体は負のエントロピーを食べて増殖する(シュレディンガー)、と言われる。だが、内部と外部を含めた全体では熱力学に従う。全体としては、生物はエントロピーの増大させるが、内部のエントロピーを減少(負のエントロピー増大)させる物質運動である。
 生命体を構成する生体物質は盲目的な熱力学の支配を受けており、熱平衡に向かって運動している。しかし、この運動には微小な揺らぎ・振動があり、この振動は物質の親和的な関係によって、時には大きな共鳴現象となって自己組織化する。生命現象は多様な自己組織化現象を更に、一段と自己組織化的に組織化する。合目的性とは、多様な自己組織化現象の自己組織化的な統一である。この統一は内的な力学によって発生したのではなく、淘汰の力学によって外的に強制された統一である。だが、一端、統一が実現されると、この統一は外的に強制された関係ではなく、己自身の内的な力学によって発生した関係として己を展開する。淘汰の力学がこの統一を情報として、内在的な力学として刻印する。この内在的な力学が合目的性である。自己組織化的な統一は、遺伝情報によって合目的的な運動へと転化する。合目的的な運動においては、生体を構成する個々の物質運動は熱平衡へと向かうが、システム全体から見ると熱平衡から離れていく運動となる。

 生命は代謝系と増殖系の統一である。代謝系としては、増殖系は代謝(再生)の延長に過ぎない。だが、一箪、代謝系が増殖能力を確保すると、己を普遍化する能力を持つことになる。己を普遍化する能力は利己的な遺伝子となって現れ、逆に代謝系を自己実現の手段に転化したのである。増殖系としては、代謝系は増殖の手段に過ぎなくなる。だが、単なる増殖系は結晶と変わらないし、寄生的な姿以外に取りようがない。己を普遍化する事が可能な増殖系は代謝系の延長に戻る。己を普遍化する増殖系は代謝系を手段化すると同時に、己自身を代謝系の手段に転化する。生命は外部と内部の内在的な矛盾を動力として生きる。自己増殖は、己を己自身の内部に外部として産出する現象である。己自身の内部に産出された外部は、己の反射であるから排除すべき異物ではなく、産出すべき己である。この外部として産出された己は己自身と同じように合目的的な存在だから、合目的的に産出されべきものとして誕生を開始した。生命現象では対立する両項、目的と手段、代謝と増殖、内部と外部は互いに転化し合う。生命はこれらの矛盾する両項の統一であり、矛盾の止揚である。