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「科学的社会主義」討論欄

『我々は何処からきて、どこへ!』

2016/6/28 百家繚乱

第4章 自由の弁証法

 ① 生命体の自由

 物理化学においては「自由度」・「自由エネルギー」の概念が存在する。「自由度」は力学・統計学上は偶然に取り得る独立変数の数によって決まる。「自由エネルギー(F)」は熱力学第二法則によって示された状態量である。「F=U(内部エネルギー)-温度(T)*S(エントロピー)」。これらの「自由」概念は厳密に数学的に定義された形式論理的な概念に過ぎない。物質の偶然性・不確定性と若干結びついた概念であっても、物理化学的な必然性・同一性によって拘束されている。物質は如何に自由で偶然的であろうと統計力学上の必然性に拘束される。生命体における熱平衡からの脱出としての自由は、形式論理的な方程式では表現できない。生命現象は形式論理的には、熱平衡に向かう運動としてしか表現できない。自己組織化現象は熱平衡からのゆらぎ・振動であるが、脱出ではない。生体が一端外部を内部化すると、熱平衡から離れる爆発力を抱えてしまう。ATPの酸化還元反応はこの爆発力を小出しに使い消耗する。それによって熱平衡への運動を開始するが、この同じ運動が新たな爆発力を抱える運動となる。生命体は多様な環境に適応し、多様な自然資源を内部化する。生命体が内部化する外部は一義的には決まっていない。従って、どんな爆発力を取り込むのかは、偶然で不確定であり、一義的に決められない。取込んだ内容によって、生体制御はダイナミックに転換するから、制御・運動方程式・化学式には無限の多様性が発生する。「情報」概念に係る、負のエントロピーは統計力学上の逆数に過ぎないから、生命体の持っている無限な可能性(自由)を表現し得ない。
 生命の合目的性は手段に対する目的の定立ではなく、操作主体の自己言及的な目的の定立である。一般的には、目的の定立は手段に対する目的の定立であり、その限りでは、物理化学の論理的な同一性を破らない。だが、操作主体である自己への目的の定立は形式論理的な同一性で表現し得ない。生命現象における自由は熱平衡(死)からの脱出「自由」であり、熱平衡に逆行する自己言及的な目的の定立である。形式論理学上の「自由」は一定の目的・結果を示すために操作の対象となる「自由=偶然性、外的必然性」に過ぎず、熱力学第二法則に従う。生命現象における自由は熱力学第二法則(死)に逆行する自己言及的目的の生成・定立であり、自己言及的目的の定立そのものを形式論理的な数式で表現する事は不可能である。形式論理学的な同一性によって表現できる物質運動は第二法則によって目的を実現する運動であり、手段の「合目的性」に過ぎない。第二法則に逆行する自己言及的な目的の生成は矛盾であり、表現しえない。生命現象は熱力学第二法則に定義された「自由」を操作し、手段として利用しながら、第二法則に逆行する目的(自由=必然性の内在化)を実現する。生命現象における「自由」は第二法則に逆行する合目的性であり、従って矛盾なしには説明できないから、形式論理的な表現は不可能である。生命体の「自由」を数式で表現しようとする事は、我々の「心」を数式で表現しようとする事と同じである。こんな数式で人間を支配しようとすれば、支配者の「心」はこの数式自身の持つ力で裏切られるだろう。人間の自由な「心」は己を支配しようとする外的力を自覚し、この力を必然性から解放し、この自由になった力自身によって支配しようとする者を支配するのだ。必然性によって拘束された民主主義は、自由な力を失い、方程式で管理可能となるが、自由な知性は方程式で管理できない。自由な知性は波動として現れ、民主主義を方程式から解放する。自由な力を獲得した民主主義は方程式で管理できない。

 生命における自由は、単細胞生物では熱平衡からの脱出として現れるが、学習能力を持った動物の世界になると環世界(身体)からの脳の自由・自立化現象が発生する。我々は身体を自由に操れると喜びを感じる。動物も同じような快感を感じているに違いない。これは環世界に対する支配・自立であり、環世界への好奇心に対する満足である。これは身体が脳に与える喜びでもある。脳は身体から喜びを与えられたとは自覚できない。自分で自分に与えたとしか感じられない。脳の合目的性は身体からの自立性(脱出)である。合目的性とは自分で自分を説明する事、逆に自分から他者(細胞器官・身体)の運動を説明する事である。合目的性は淘汰の力学で獲得してきたが、一端獲得されると自分で自分を再生産し、自分を産出した当の身体・物質性を自分が産出したものとして説明する。今日の実証的な神経生理学では、人間は意志決定する前に、身体がその決定の準備を無意識にしているそうである。このため一部の学者は、「脳の自由な意志決定などは存在していない。自由な意志決定は身体の無意識的な機械的判断だ」、と言う。しかし、身体は一体どうやって脳無しで判断できるのだろうか?無意識に思想や哲学等、身に着けられるのだろうか?とは言え、フロイトが言うように無意識や夢の果している役割は我々の想像を遥かに上回る機能を持っているのは明かである。フロイトによれば無意識は検察官として我々の意識をコントロールしているようである。
 いずれにしても、一般の社会的自由が意味している自由は生命体にとってはほんの一部に過ぎいない。E・フロム『自由からの逃走』によれば、自由とは「~からの自由」と「~への自由」があり、前者は消極的な自由で官僚主義・全体主義に繋がり、後者は積極的な自由で参加型の民主主義的な自由である、と言う。これを生命現象的に解釈すると、前者は必然性・熱平衡からの自由であり、後者は共生的な関係によって獲得する自由である、と言える。前者は他者の自由を奪うことによって獲得する自由であり、後者は他者を自由にする事によって、己自身の自由を獲得する自由である。一般的には生命進化の歴史は弱肉強食の歴史である、と言われるが、ちょっと考えれば直ぐに分かるように、生命進化の歴史は共生的な関係構築の歴史でもあった。生命体は共生的な関係の構築(複雑化)によって適応淘汰を繰返してきた。
 今西錦司氏は、ダーウィンの進化論は共生的な視点を軽視していると批判する。それにしても、生物学では遺伝的には全く別種になっているにも拘らず、形態的には近似している種類は極めて多い。これは今西氏の言う「棲み分け」によって全く別種になっても、環境条件が同じなため、似た形態になってしまうのだ。生命体は合目的的だから、生命体によって構築された生態系には、自己を保存しようとする、ある種の合目的的な力が働き始める、と考えても何ら不自然ではない。個々の生命体は盲目的であっても、種的な保存の力学・生態系の保存の力学が外的な力として個々の生命体に働く事は明かだ。害虫が多くなれば害虫を食する動物が多くなる力学は典型的な力学だが、生命系にはその他の多様な自己保存の力学が働いている、と考えられる。我々の生体内では、アポトーシス(細胞の自殺)現象がある。これは個体内で働く合目的的な生態的力学による。この力学は死よりも生と発生をコントロールしているのであって、このような合目的的な力学が自然の生態系の中で働いていても、なんら不自然な事ではない。
 生物学では動物は植物への栄養的な依存性が高いから従属生物である、と言う。結構、面白い表現である。人間社会の支配と従属の関係に似ている、とも言える。何を持って自由であり、幸福なのかは測りがたい。支配者はいつも人気や評判を気にしなければならないが、従属する者にはこんな評判は関係ない、と言う自由がある。自由は人間の幸福にとって根本的な条件だが、そんな自由に満足していれば、どんどん搾取と収奪が進行するから、ほどほどの満足に留めるべきである。生命体にとって、支配力を高める事は従属性を高める事でもある。最も自由(独立的)な生物とはばい菌であり、植物である、とも言える。とは言え、人間的な価値観で見れば、自然への支配力を高めた生物が最も自由だと、一般的には言える。進化の歴史は合目的性(自由)の発展であり、物質的盲目性からの自由の発展過程である。生命体はこの自由を熱平衡から脱出としてだけではなく、共生的な関係の構築によって獲得してきた。

 物質には原子的な段階と分子的な段階がある。原子(H)と分子(H2)の違いは大して無いように見える。だが、原子内の素粒子の結合関係と、分子内の原子の結合関係は根本的に異なる。前者は物理的な力(核力)による結合であるのに対して、後者は物質(電子等)の共有による親和的な結合関係である。原子の多様性は極めて限られるのに対して、分子の多様性は無限である。形式論理的には根本的な差はないが、物質の排他性と親和性を表現している。排他的な関係における物質の多様性は限られているが、親和的な関係における物質の多様性は無限になる。この多様な物質運動は自己組織化現象になると、独自な秩序を形成する運動へと転化する。自己組織化現象は一時的には熱平衡に対する逆流である。物質運動は揺らぎや振動によって、ミクロ的には決定論的な予測不能性を持っている。自己組織化現象はこの揺らぎや振動が共鳴して増幅し、マクロ的にも予測不可能になった現象だと言える。だが、この逆流は一時的な逆流であり、一時的な揺らぎ・振動と根本的には異ならない。生命現象はこの逆流の合目的的な組織化である。自己組織化現象を合目的的に組織化する事によって、熱平衡から合目的的に脱出する現象である。この合目的的な運動は一般的には物質の有機的な運動だと言われる。物質の親和性は合目的性へと上昇する事によって、己の排他的な力学関係を乗越えたのである。
 物質の原子的段階と分子的段階は形式論理的な盲目的段階としては同じである。熱平衡に逆流する事があっても、一時的過度的現象に過ぎない。物質の原子性と分子性はその排他性と親和性の反映である。有機的な段階に到達して初めて己の物質性からの自由を獲得する。最初の物質の自由は熱平衡からの自由であり、原子的で排他的な自由でしかない。ミトコンドリアや葉緑体は独自のDNAを持つ。真核細胞は単なる単細胞生物ではなく、多様な生命体が親和的に結合した単細胞生物である。原核細胞の自由は排他的な自由であるが、真核細胞も同じく排他的な生命活動を繰返すが、生命の親和性を基盤にした自由である。生命はこの最初の親和性を獲得するために20億年の歳月を必要とした。これは生命の誕生に必要とした歳月の数倍に匹敵する。だが、一旦この親和性を獲得すると生命の多様な進化・発展の速度は爆発的な速度になる。菌類・植物・原生動物になると生命体の親和的な関係は実に多様で複雑である。この分子的段階の自由は、「~への自由」に対応するような共生的な自由である。植物や原生動物のような場合には、個体の複雑性・秩序性から見て自己組織化的な段階にある、とも言える。植物にも食虫植物のように動物的進化を遂げた種類がある。植物細胞は強固な細胞壁によって守られているために、数千年も生きる個体を現出させたが、この壁は逆に運動機能上の障害となった。このために植物は分子的な段階を超える事が出来ない。
 高等な動物になると高い学習能力を持つ。この段階の個体においては、脳によって身体器官が合目的的に調整される。細胞間の関係は身体器官の関係として調整される。身体器官の関係は合目的的に調整された関係となる。生命体の合目的的な関係は、遺伝子と細胞器官(タンパク質)の関係として出発したが、高等な動物においては脳と身体の関係になる。この段階になると、生命体の自由も脳と身体の関係として、新たなステージに上昇する。排他的な関係を乗越えて、「~への自由」(共生的自由)を獲得した真核細胞は多細胞体へと上昇し、多細胞体自身が有機的・合目的的な構造を持った一個の個体へと到達した。合目的性の関係は遺伝子と細胞器官の関係から、脳と身体の関係に転化した。だが、この合目的的な関係は、依然として遺伝子の制約を受けており、遺伝子から解放された自由にはなっていない。
 物質を合目的的に制御する情報は遺伝子として出発した。この情報は、原子的・排他的に出発したが、分子性・親和性を獲得してから自己組織化した。遺伝情報は極めて先験性・指令性が強く、帰納性・経験性が弱い。経験によって学ぶと言う作業が極めて苦手で、数百年・数千年の長期間をかけてやっと学習する。遺伝情報は自己組織化的にしか学習できない。セントラル・ドグマによって、遺伝情報の学習は外的で強制的な過程であり、合目的的に学習する事は出来ない。だが、この遺伝情報は30億年の歳月をかけた自己組織化による学習を通じて、ついに学習する機械・脳を発明した。だが、この脳の学習能力は遺伝情報から自立していない。遺伝情報によって制約された範囲の中でしか学習できない。脳が遺伝情報の制約を超えて、自由な学習能力を獲得するためには、新しい要素・手段が必要となる。この手段が言語である。言語情報を獲得した遺伝情報によってではなく、獲得した形質・経験によって自由を実現する。この自由は単なる共生的自由ではなく、合目的的な自由となる。

 ② 否定の否定 - 進化

 生命体の個体にとって、他の生命体は競争上のライバルであり、個体にとっては対立的な外部である。それ自体としては対立的な関係にあっても、共存し得ない矛盾の関係にはない。だが、場合によっては内部化の対象としての外部、となる時もあるだろう。この場合には、対立は両立しえない矛盾した外部に転化する。細胞が社会を構成する時は、お互いにこうした矛盾へと上昇しないための認識装置を開発した。植物の場合は細胞壁によって、こうした装置を省略したとも言える。この装置に故障が起きると忽ちの内に、仲間同士で殺し合う。従って、個体間の親和的な関係とは、実は危険を伴う対立が内在している。生体の共存関係はこのような否定性(危険性)の否定(否定の連続)によって成立している。
 物質代謝は矛盾の止揚であると同時に否定の否定であるようにも見える。だが、物質代者は単純な自己同一性の回復(肯定)でしかない。突然変異により変異する事があったとしても、それは単に外力による作用的変異に過ぎない。この変異が新しい環境に対して適応した変異であれば、単なる変異ではなく発展・進化となる。これは個体の学習・記憶であり、適応的な生体情報の記号化となる。個体は己の質を保存する性向を持つから、その変異には否定である、と言える。一般的にはこうした変異を防ごうとする生体機構があり、それでも変異が起きれば、淘汰により消滅する。生命システムの変異に対しては、その変異を防ごうとする内外の力学が働いている。この変異に対する否定性を乗り越えて、新しい変異が選択される事は、パラダイム・シフトであり、否定性の否定(自己否定)と言える。この否定の否定は、単なる自己同一性の回復ではなく、新しい質の獲得であり、質の展開である。物質は量の質的な転化によって変異に晒されているが、生命進化の過程では単なる質量転化ではなく、合目的的な運動の展開・発生である。
 物理化学の世界では質量転化は対立・矛盾の解消でしかなかったが、合目的的な運動ではこの矛盾は保存され、運動の原動力となった。だが、この合目的的な運動は単なる自己同一性の回復、質的な保存・安定のための運動にすぎない。この運動は同時に否定の否定であるが、この否定の否定は単なる肯定に過ぎない。生命体は己の否定性を否定的に保存する性向を持つ。生命体は一般的に否定性と共存する性向を持っている。矛盾を運動の源泉としている訳だから、元来、遺伝情報は否定性の記憶であり、記号化である。従って、遺伝情報は己自身への否定性、変異の保存へと展開せざるを得ない。変異の保存性と展開性は生命体が持っている宿命的な矛盾である。生命体の質的な保存性・安定性はその変異・展開によって獲得してきたのだから、生命体は宿命的に己の内部に己自身への否定性(自己否定)を保存せざるを得ない。この否定性が個体間の親和性・共存性へと展開し、生命進化の原動力となった。
 否定の否定の法則は、自己言及的な否定であり、合目的的な生命現象特有の法則であって、物理化学の世界では現象しない。自己言及的否定、自己否定(矛盾)は物理化学の「彼岸」である。ホーキングの言ように宇宙が合目的的であるならば、何らかの「否定の否定」が働いている、と考える事も出来るかも知れないが、今日の科学では実証的な議論ではない。地球は生命体によって、大きな変動がもたらされているから、合目的性を無視して議論する事は出来ない。とは言え、一般の物理・化学の世界で、この法則を適用すれば観念論・教条主義にしかならない。物理化学では1+1は2でしかない。質量転化は古い方程式・化学式から新しい方程式・化学式に移行する一瞬である。新旧の二つの質が矛盾して存在する一瞬であり、この一瞬を通過する事なくして移行し得ない。
 合目的的な運動は一般の物質運動と同じように、己の質を保存する運動であるが、この質を矛盾する運動によって保存する。矛盾を排除するのではなく、矛盾を保存する事によって己の質を保存する。だが、この合目的的な運動の自己保存性は、否応なしに自己矛盾性の保存にならざるを得ない。生命体は、宿命的に己の保存性と変異性を同時に保存せざるを得ない。生命の否定性は自己言及的な否定であり、セントラル・ドグマの否定であり、形式論理学の否定でもある。否定の否定の法則は物質の自己言及的な運動である。新しい方程式への移行ではなく、新しい方程式の創造(想像)である。個体の原子的な関係には弱肉強食・淘汰の力学が働くが、生命体の親和性は弱肉強食の否定であり、形式論理的な力学は通用しなくなる。生命の世界では天動説が通用する。生命体の親和的な関係によって発生する力学を、形式論理的な方程式・化学式で解明する事は出来ない。
 生命現象はバラバラに分解すると単なる物理・化学現象の連続でしかない。だがこの連続性は自己の保存・同一性の回復という合目的的な連続性となっている。この連続性を支配する中心には遺伝情報と言う、物理化学現象とは違ったファクターが働いている。遺伝情報は物理化学現象の記憶であり、歴史である。生命現象では過去の物理化学現象が記憶・歴史として現在の物理化学現象として再生する。物理化学的には、生命現象は単なる物理化学的な同一性の回復であるが、生命現象では過去が原因として目的として甦る。熱力学の第二法則によれば、物質の運動は不可逆であるが、生命現象はこれを突き破る。生命現象は過去を合目的的に再現する。

 合目的的な運動は対立物の統一としては、矛盾の保存であり、形式論理的な関係の否定である。だが、さしあたってはこの運動は自己保存であり、単純な自己の回復・肯定である。単純な自己の肯定としてある運動は、形式論理的な関係の回復でもある。弱肉強食の関係は生命体の物理化学的な進化であり、単なる自己保存・自己回復の関係である。生命体は矛盾を保存し、それを動力にして運動するが、絶えずこの矛盾に苦しみ、矛盾から脱出しようとする運動でもある。生命体の利己的な関係は、単純な自己保存であり、自己矛盾からの脱出である。だが、生命体は矛盾を動力にしてしか運動できないから、この脱出は新たな矛盾への投企でしかない。これは発展の限られた閉じた進化である。植物細胞は己の親和性を細胞壁によって閉じたため、進化の可能性も閉じられた、と言える。
 生命体には淘汰の力学が働き、この力学で進化・発展してきたのだから、利己的な関係の中でも変異があり、発展もある。だが、この変異・進化は限られた範囲・パラダイムの中に閉じ込められた進化でしかない。生命体は、元来自己否定性を動力にしているから、己を支配するパラダイムに対する否定性を胚胎している。生命体の親和性はこの否定性の実現であり、パラダイム・シフトである。このパラダイム・シフトによって、生命体の発展性は無限の可能性を獲得した。生命体の親和性は、物質進化の形式論理的な制約からの脱出である。共生的な自由によって、物質進化は物理化学的な制約から解放された。
 原核細胞の排他的な自由は物理化学的な自由である。合目的性によって、熱平衡(死)からの自由を獲得しているが、物理化学的な物質運動から解放されていない。運動は合目的性を持っているから、矛盾を動力にした物質運動であり、形式論理的な物質運動を超えてはいるが、それでもその自由は物理化学的制約を脱出できない。遺伝情報は単なる過去の再生・回復(肯定)であって、それ自体としては多様な発展・展開を否定する。生命それ自体は、セントラルドグマの獲得によって、つまり、多様性と発展性を否定する事によって誕生した。だが、生命体はセントラルドグマの獲得自体がこのドグマの否定によって誕生するしかない、と言う矛盾を抱えている。排他的な自由では、この矛盾(物理化学的制約)から脱出できない。生命体の共生的親和的関係は生命現象を物理化学的制約から解放する。合目的的な生命運動の共鳴現象は、生命運動そのものに合目的性を付加する。多様な目的・環境に適応した生命体の協調・共生関係へと可能性を拓いた。この共鳴現象は物理化学的な共鳴現象ではなく、合目的的な共鳴現象である。生命体は親和性を獲得する事によって、物理化学的な制約から解放された。親和性を欠いた生命活動・現象は物理化学的な制約を強く受ける。知的で親和性が高いほど、自由度も高くなる現象は全生命現象の特徴である。
 遺伝情報は種の淘汰の歴史、系統発生の歴史、種が学習して来た歴史を個体的に記号化・記憶している。個体発生過程は種の辿って来た歴史の展開過程である。グールドが語るように、それは単純な展開ではない。進化の歴史は同時に退化によって加速してきた。一般的には、幼稚化(ネオテニー)は競争上劣位になるはずだが、人類のように生命体はハンディキャップをバネに進化する。弱者が強者を圧倒する、生命進化の歴史は実に多様性に富んでいる。何を持って進化・発展と定義するかは困難だが、パラダイム・シフトによって新しい適応的な質が誕生すれば、進化と言える。とりわけ、生命体の親和的関係・分子的関係は人類の誕生にとって極めて歴史的な意義を持っている。
 個体が原子的・排他的な関係であれば、ダイレクトに個体の機能は利己的な遺伝子に拘束されざるを得ない。個体間に親和的・分子的な関係が働けば、個体の多様性と共に分業・協業関係の可能性が発生する。淘汰の力学は直接個体だけではなく、集団全体にも働くから、個体の多様性によって生命体の適応能力は著しく高まる。複雑で多様な環境に対して、生命体も複雑で多様な対応が可能となる。遺伝子はタンパク質の1次構造を決定しているだけである。タンパク質が触媒として機能するのは3次構造によってだから、遺伝子は生体の機能を決定出来ない。生体の機能は環境の変化に応じて複雑に変化する。従って、生体の親和的・共生的関係は遺伝子に対する個体の自立性の回復である。個体は集団を媒介にして、より大きな自由と多様な適応能力を獲得した。
 生命体は真核生物(共生体)まで20億年の歳月をかけたが、多細胞生物までは更に10(延30)億年の歳月をかけている。生命体は外部には極めて強い対立関係を持つから、この強い対立性・否定性を乗越えるためには、それ自身が共生体であるような複雑な構造性が要求される、と言う事なのだろう。だが、一端この親和的能力を獲得した途端に、脊椎動物(カンブリア爆発)まではわずか5億年である。脊椎動物は身体に対する脳の自立的な可能性を著しく高めた。魚が人間になるまではわずか5億年である。生命体の親和的能力の獲得は、生命体が持っている宿命的なセントラル・ドグマの否定であり、共生的な関係によってこの宿命を乗越えようとする物質運動である。
 物質は元来力学法則の奴隷である。力学法則は、形式論理的な必然性として強引に物質に作用する。物質はセントラル・ドグマの獲得によって、この外的な必然性に対抗し、自由を獲得した。だが、この自由はセントラル・ドグマが許す範囲の中の限られた自由でしかない。生命の進化の歴史はこのセントラル・ドグマを書換え、より大きな範囲の自由を獲得する歴史でもあった。いまや、こうしてセントラル・ドグマそのものから解放された、自由な生命体の誕生の瀬戸際に来ている。セントラル・ドグマが許す自由は「~からの自由」であり、消極的な自由である。生命体の親和的・共生的関係はセントラル・ドグマに対抗する「~への自由」であり、積極的な自由である。それは自らが主体となって、自由の範囲を拡張しようとするもがきであり、自由になろうとする物質の主体的な振動・共鳴である。

 生命体の個体発生過程は物質の否定の否定、自己展開の過程である。系統発生的には自己保存性(変異性に対する否定)の否定であるが、同時にこの否定された結果としての質を保存しようとする。これが利己的遺伝子の持つ内在的な矛盾(変異性と保存性)である。この矛盾を動力にして生命は進化する。この進化(否定の否定)は遺伝子の展開過程である。物質代謝としては、物質は単なる自己運動する物質システムに過ぎない。生命体は己自身の中で、内部性と外部性の矛盾、この矛盾によって発生する質量転化のエネルギーで自己運動する。進化の過程としてみれば物質の運動は自己展開の過程としてある。個体発生過程は系統発生過程で獲得した生命体の親和的・統一的能力の展開過程である。この親和的能力は利己的な遺伝子の持っている排他性の否定である。生命体は外部に対しては否定的な代謝活動能力を持っている。
 個体発生過程はこの否定性(排他性)を否定する展開過程である。細胞は其々が生きた細胞としての自立性・合目的性を持っている。この自立性は個体に対する排他性となって現れる。この排他性を否定し、親和性によって統一する事によって個体の秩序は成り立つ。細胞の排他性は己を個体として維持するうえでは必要な要件である。個体外部から侵入してくる異物・異生物に対しては、排他的でなければ個体として維持し得ない。従って、多様な機能に分化した多細胞体の統一は自立的な細胞の否定的な統一である。多様な機能に分化していない細胞の集合体は、単なる単細胞の延長と見なせるだろう。多様な細胞が集合し組織化する事によって、単細胞とは違った新しい質的な獲得があって初めて展開と言える。個体は細胞の排他性と親和性の矛盾を動力にして展開し、発生する。
 否定の否定の法則(自己否定)は単なる自己肯定(繰返し・保存)ではなく、新しい質の獲得であり、展開である。否定の否定の法則が現れる物質運動は生命の発生過程において初めて出現する。系統進化の過程はセントラルドグマの否定の過程であるが、同時にこのドグマを保存する。進化の過程は、遺伝情報が己自身を改変する過程として見る事も出来る。これは物質の自己言及的な運動である。物質の共鳴・自己組織化現象は自己言及に似た交互作用であるが、己を己自身で改変している訳ではない。この交互作用における自己言及性は外的な規定・観察である。生命進化は生命体が己自身で推進する交互作用であり、自己言及的物質運動である。人間による外的な規定・観察ではない。個体の発生過程でも、遺伝子と細胞の間でこうした交互作用が見られる。個体の発生過程では遺伝情報自身が特殊化していく。個体の発生過程は遺伝子の可能性を現実化し、展開される過程であるが、同時に遺伝子自身が己自身の機能を特殊化し改変していく過程でもある。否定の否定の法則は物質の自己言及的な運動において現象する。

 物質は原子から分子へ、分子から生命へ、生命から精神へ。この物質の発展段階は物質の親和性への発展段階でもある。物質は新しい親和性を獲得する事によって質的に異なるマクロな秩序を獲得した。親和性の獲得は多様性の獲得となり、この多様性によって多様な自然現象に対する適応性を高めた。この適応性は物質システムの自立性・安定性の獲得であり、自由の獲得である。物質は一般的には必然性の奴隷であり、この必然性は外的な必然性であり、盲目性・偶然性でもある。生命はこの盲目性・外的必然性に対する最初の自由な物質運動である。これは偶然性を内的な必然性へと高め、物質的な必然性によって外的な必然性に対抗する。自由な存在は偶然性に対抗し、この偶然性を栄養化する。自由な存在にとって、偶然性は必要不可欠な栄養でもある。偶然性が主導する市場は人間社会に度々混乱をもたらすが、自由な市場なしに人間社会の発展はあり得ない。生命体自身が自由な市場を己の内部に巧妙に組込んだシステムである。アポトーシステム・免疫システムは典型的なシステムである。個体発生過程は典型的な人為淘汰の過程でもある。  生命の合目的性の歴史は原子的・利己的自由と分子的・共生的自由の対立・矛盾の発展・展開過程でもあったこの過程は遺伝情報・身体性からの自由を巡る展開過程でもあった。人間は自己意識を獲得する事によって、自由を自己意識の俎上に載せ、自由と民主主義を統一しようとする。この統一は個人主義と集団主義を統一する。人間の合目的的な自由は原子的な自由「~からの自由」と分子的な自由「~への自由」を統一する。