第5章 意識の弁証法
① 脳と身体
ミクロの世界では、物質は個性と言うものがない。ある水素原子と他の水素原子は全く同じであり、全く同じ原子を何度も再生可能である。物質運動は時間を逆にすれば、過去へと戻ることができる。マクロの世界では物質にも個性があり、歴史もある。この世界では物質運動は不可逆である。歴史を持つのは生命現象特有な現象ではない。だが、この個性も歴史性も、物質自身にとってはどうでも良い外的な関係に過ぎない。物質は一般的に己を質的に保存しようとするが、矛盾点を通過すれば過去を忘れる。物質は矛盾を排除しようと運動するが、生命はこの排除しようとする物質運動のエネルギーを利用して生きようとする。従って、生命体はこの矛盾を保存・記憶し、矛盾を乗越えてきた己の過去を記憶しようとする。これを最初に成遂げたのが遺伝情報である。遺伝情報は種が辿ってきた苦闘の歴史的記憶であり、種の普遍的な学習情報である。
この学習情報が遺伝情報に限定されている限り、個体は歴史の盲目性から解放されない。歴史の盲目性から解放されるためには、己自身の中に個体の歴史性を記憶する以外にない。これを最初に始めたのが脳である。個体の経験から学べば、遺伝情報以外からも予測可能な行動が出来る。いくら脳を持っていても、記憶能力が無ければ経験から学べない。ニューロンは細胞間の通信回路に過ぎないから、それ自体で学習能力を持ってはいない。本能的な行動は単なる機械的な反応に過ぎない。個体の学習能力は種の適応能力を高めはするが、個体の学習情報自体を記憶する訳ではない。
生物は三つの要素(物質・エネルギー・情報)から構成されている、と言われる。身体器官は多様な物質・エネルギー・情報交換によって相互に作用する。脳は電気信号によって情報を送受信する身体器官である。化学物質の交換とは違って、電気信号は身体の遠くまで素早く情報を送受信する事が出来る。身体器官の情報送受信機能・調整機能は脳に集中する。情報は合目的的な生命現象特有の要素であって、遺伝情報は生命体の設計図として先験的に他の細胞器官に作用する。情報は転写可能な記号として、多様な物質媒体を通じて反映する。遺伝情報は自立化した反映であるから、単細胞生物における生命の合目的性は遺伝子の細胞器官に対する合目的性として展開する。だが、この遺伝子の合目的性は細胞全体の合目的性としても現象する。細胞器官は遺伝情報の合目的性の実現手段であるが、この手段の作用も転写された合目的的な作用となり、合目的性の契機となる。タンパク質の一次構造には遺伝情報の目的が転写されている。その三次構造・立体構造は目的の実現である。遺伝子の合目的性は細胞自身の合目的性になる。それはちょうど、私の脳の意識は身体を持った私全体の意識であるのと同じ事である。ただ、人間の場合は自然そのものを人間化するから、全自然が情報化する。
物理化学者は情報を数学的に、負のエントロピーとして定義する。人間は全自然を情報化するから、物質の物理化学現象も情報の変化として捉える。しかし、これは人間にとっての情報であって、物質自身が己を情報化している訳ではない。物質自身が己を情報化・記号化するのは遺伝情報を獲得した生命体においてのみである。遺伝情報を数学的に表現しても、何らかの内容を表現する訳ではない。
生体の親和的な関係は自己組織化し、多様な身体器官を創発した。個体はこの多様な身体器官を組織化した関係となった。先ずは物質循環系として外部の消化と排泄器官であり、エネルギー循環系として呼吸と循環器官である。それから、情報循環系として知覚と運動器官である。身体器官は多様な分化を果すが、合目的的な自立性を持った器官でもある。身体器官は相互に作用するが、この相互作用は情報の送受信によって調整される。操作的な意味を持った情報によって多様な自立的身体器官は調整される。脳はこれら身体器官の調整装置として出発したが、次第にこれら身体器官の上に聳え立つ。脳は多様に分化した身体器官から、生体全体を合目的的に調整する能力を持った器官に転化した。脳と身体器官の相互作用は単なる物理化学的な作用とは異なる。個体内の細胞はそれ自身で自立した合目的的な作用主体だから、脳の身体器官に対する作用は信号による誘導であり、受信である。この作用は親和的な目的を持った情報となる。合目的的で自立的な身体器官の統一性は脳の情報制御によって実現する。脳は知覚装置の外界に対する反映情報を環世界として受取る。脳は環世界とそれに対する反応・行動情報の結果を記憶する。この記憶情報によって、個体自体をコントロールする。
細胞器官は全体の細胞システムなしでは器官としての性格を持てないが、個々の細胞は生きた自立性を持っているから、身体器官は個体から分離されても、環境条件さえ整えば生きて行くことは出来る。生命力・合目的性と言う視点から見れば、細胞器官と身体器官の性格は全く異なる。細胞器官はそれ自身で自立した合目的性を持っていないが、身体器官はそれ自身で自立した合目的性を持っている。個体は自立的身体器官の統一体であり、脳はこの統一を情報制御によって実現している。脳はこれら身体器官の合目的性を代行している専門的器官である。脳は遺伝子による情報制御機能と類似の情報処理能力を代行する。
本能は脳の身体的能力である。この身体的能力は生まれながらにして自動的に備わっているとは考えられない。個体は可能性として多様な本能的能力を保持して誕生するが、この可能性が現実化するかどうかは、誕生後の多様な経験によると考えられる。だから、本能的能力自体が経験・訓練によって変化する。鳥類の塗り込み現象はこうした事を裏付ける。いずれにせよ本能的能力は遺伝情報によって、強く規定されている。高度な本能的能力は、誕生後の経験(記憶)によってコントロールされている。記憶には多様な記憶があり、単純なアメフラシでさえ短期的な記憶が実証されている。このような短期的な記憶や、本能的な能力を補完する記憶と意識は直接的な関連はないと考えられる。意識は個体を本能から独立した記憶情報によって、長期にコントロールする活動である。
条件反射活動は個体の学習によって規定される。記憶が本能的活動を補完する関係から、記憶によるコントロールを本能活動が補完する関係へと進化したのが学習である。ゲシュタルト心理学が語るように、この活動は単なる外界からの刺激による反応と見るべきではない。元来、生命体は合目的的な存在だから、行動反応は先験性を持っていると考えられる。意識は経験の反映であり、この反映態として身体器官を合目的的にコントロールしている。意識は記憶から出発する。身体は様々な必要情報を脳に送信するが、脳はこの情報によって欲求を解発される。脳によって知覚された環世界は外界の刺激によって解発された環世界とは限らない。脳の活動は欲求(身体性の欠乏)によってコントロールされている。脳は必要とする情報を知覚する(求める)のであって、その点では知覚すべき対象を記憶によって、潜在的には知覚している。意識はこの潜在的な知覚である。個体の活動はこの潜在的な知覚を可能性から現実性に転化する運動である。
元来、生命体は合目的的な運動体であるから、本能的な動物行動も合目的的な運動である。だが、この合目的性は遺伝情報の反映であり、個々の細胞の持っている合目的性の反映でしかない。多様な身体器官は生命の持っている機能が専門分化した器官である。消化器官は生命の同化機能が専門化したに過ぎない。生殖機能は生命の生殖機能が専門分化した。脳は生命の合目的性が専門分化したに過ぎない。遺伝情報は物理化学的な反応で合目的的な運動を実現する。個体の本能的な行動もまた、個体内における物理化学的・機械的な合目的性でしかない。だが、意識を伴った運動は個体内の単なる物理化学的な運動ではない。物質の物理化学的な運動は己自身を記憶する事はない。身体器官は脳内に己の経験を刻印する。身体器官は遺伝情報によってではなく、己の経験によって己自身をコントロールする。脳の機能を通じて初めて、生命は己の経験の記憶情報を外部に持つに至った。生命は脳機能によって、記憶の外部化を実現したのである。
本能活動では脳の合目的性は身体性によって制約されているために、その合目的性は遺伝情報の実現であり、身体的な機械性を克服できない。だが、学習によって記憶が外部化すると脳は独自の歴史性を獲得する。脳は遺伝情報を実現する単なる機械ではなく、脳独自の潜在的な環世界を目的として実現する主体に転化した。脳は遺伝情報によってではなく、独自の身体的記憶によって身体器官をコントロールする主体となった。従って、脳の学習による合目的性は遺伝情報の合目的性からの脱出の開始である。
動物の本能活動は遺伝情報の実現だから、その合目的性は身体器官の物理化学的現象に分解可能である。だが、学習によって個体が歴史性を獲得すると、個体の歴史的経験によって個体の運動がダイナミックに激変するから、物理化学的な現象に分解出来なくなる。細胞活動では分解すれば、単なる物理化学現象に解消し得る。動物の本能活動も合目的であるが、分解すれば同じように物理化学的な現象に解消可能である。だが、学習活動では個体が何を学習するかは偶然であり、学習の仕方も学習自身によって変化する自己言及性を持つ。動物の環境は個体によって激変するから、何をどのように学習するかは特定できない。学習活動は生命特有の合目的的活動としてしか解明できない。動物の学習活動を物理化学現象に分解する事は不可能である。
特定の動物を特定の空間に閉じ込め、特定の刺激によって訓練すれば、特定の学習活動を数学的・形式論理的に表現可能なように見えるが、元来開放的な空間のの中で、自ら多様な刺激を求めて学習しなければ生きていけない一般の動物行動を数学的・形式的に表現する事は不可能だ。特定の空間に閉じ込める事自体が、生命の自立性・自由を否認している。特定の形式的活動を強制して、その強制された活動に動物が適応したからと言っても、何ら自由な合目的的動物行動を解明した事にはならない。
自己原因的な物質運動は共鳴・自己組織化等にも見られる。だが、これらの物質運動は決定論的予測が困難でも統計力学上の法則によって拘束され、確率論的な予測は可能である。生命現象はこの自己組織化的な運動を媒介(手段)にしながら、自己組織化的に発生した合目的的な運動である。生命現象は自己を自己組織化的に展開する運動だから、予測が極めて困難である。それでも、この現象を分解すれば個々の自己組織化的な物質運動に分解可能だから、統計力学上の物理法則で解明可能となる。生命現象は単なる物理化学現象の総合に過ぎないように見える。植物の活動・動物の本能行動までは、物理化学的な機械的現象に分解する事が出来る。元来、セントラル・ドグマは生命現象における自己言及性の否定である。遺伝情報による一元的な支配によって、生命の安定性・確実性を確保した。しかし、このセントラル・ドグマ自身は自己言及的に発生してきたし、自己言及的に進化・発展してきた。合目的的な運動は自己言及性を排除する事によって実現するが、自己言及性なしには合目的性を獲得できない。学習は合目的性を獲得する自己言及的な物質運動である。動物の学習活動・意識活動は物理化学現象に分解できない。この活動は合目的性を捨象して分析する事が出来ない。学習は欲求を実現する行動だから、欲求(矛盾)がどうして産れたかを物理化学的に解明しないと完結しない。本能的な欲求は物理化学的に解明可能な機械的現象に分解可能であるが、学習によって育まれた欲求は、合目的性・矛盾なしでは解明不可能である。
脳の記憶過程は脳自身に対しては合目的的な過程ではなく、脳の自己組織化的な過程でしかない。脳の合目的性は身体器官に対する合目的性であって、脳自身に対する合目的性ではない。脳は身体器官に対しては合目的的な調整力を持つが、己自身に対しては合目的的な調整力を持たない。個々の細胞をコミュニケーション主体としてみれば、各身体器官のネットワークは脳内に特有のハブを持つ。このハブは他の身体器官のハブと連絡する複雑ネットワークを形成している。脳は身体器官のハブとして機能する。脳内のハブ的階層構造は脳内の複雑なネットワークの階層構造を現している。この階層構造の複雑性は自己意識を準備するが、この複雑性の発展そのものから自己意識が誕生したとは考えられない。自己意識はこのネットワークを脱出した先にある。
意識は身体器官の経験の反映であるが、身体器官から自立した身体器官の反映態ではない。脳は身体器官をコントロールするが創造するわけではない。従って、脳の合目的性は身体性によって強く制限され、身体性から脱出できない。意識と環世界は未分化であり、意識は環世界から自立していない。環世界による主観的な学習活動では、己の身体性から脱出できない。脳は身体器官の反映態(情報)によって、身体を合目的的にコントロールするが、身体器官から「自立化した反映」として機能している訳ではない。脳は学習によって遺伝情報から自立した合目的的な身体器官となったが、身体器官から自立した合目的性を獲得してはいない。身体器官は遺伝情報によって制約されているから、脳の遺伝情報に対する自立性は物理化学的に制約された自立性を超える事が出来ない。合目的性は遺伝情報から脱出を開始したが、遺伝情報による制約を超える事が出来ない。脳の合目的性は遺伝情報の合目的性の延長・外延に過ぎない。
個体の脳器官の発生過程は自己言及的な発生過程であるが、この自己言及性は遺伝情報の自己言及性に過ぎない。動物の学習は脳の自己言及的な運動である。学習活動は身体器官と脳との交互作用であるが、単なる交互作用ではなく、この交互作用によって脳はこの作用自身を記憶し、この記憶によってこの作用自身をコントロールする。否定の否定の法則(自己否定)は遺伝情報によって規定されていたが、脳においては遺伝情報からの脱出を開始した。この自己言及運動を推進する動力は環世界と欲求の矛盾である。個体にとって外部は環世界として立ち現れ、内部は欲求として立現れる。個体はこの環世界を内部化し、個体内では内部化された外部と身体器官の矛盾・対立が惹起される。個体はこの矛盾とこの矛盾を排斥しようとする内部的な運動によって発生するエネルギーを動力として運動する。この矛盾によって発生した結果・成果は脳内に学習成果として刻印される。この刻印は快感・恐怖のような感情と共に刻印される。学習の成果はこの記憶された感情によってもコントロールを受ける。刻印された記憶は欲求自身をコントロールする自己言及性を持っている。学習された記憶は自己言及性を持つために、この刻印が個体に対してどのような作用をするかは個体の置かれた状態(環境・感情)によって大きく変わるために一義的に特定できない。つまり、物理化学的に決定不能である。だが、環世界も欲求も身体器官の反映でしかない。脳の自己言及性・否定の否定は身体器官によって制約されている。その点では遺伝情報の制約から解放されていない。遺伝情報から脱出を開始したが、遺伝情報からの制約(身体性)を脱出する事は出来ていない。
生命体における自由は環世界に対する個体の自由として現れる。生命現象における自由は先ず、熱平衡(死)からの脱出であったが、個体発生過程では親和的な共生的な自由として立ち現れた。親和的になった細胞は多様化と協業化によって、激変する自然環境に対する適応能力を拡大した。この共生的な自由は自己組織化的な進化を推進した。この進化によって脳が立ち現れた。脳は独自の合目的的な主体だから、環世界に対する自由を求める主体となって立ち現れた。本能的な活動は利己的な遺伝子によって規定されているから、自由を求める運動は個体的には発展のない展開でしかない。この展開は単なる自己運動としての展開であり、否定の否定(自己否定)とはなっていない。自由は生殖活動を通じた進化によって初めて獲得できる。そのために動物の生殖活動に対する欲望は全面的な支配力を持っている。利己的な遺伝子によって規定された本能的な動物の欲求は排他的で利己的な性格を強く持たざるを得ない。それでもある程度は、種や個体による変異はあるが、共生的な欲求も強制的に刻印されている。この欲求が無ければ生態系も種も保存し得なかったに違えない。とりわけ社会性のある動物ではこうした欲求無しでは集団性を維持できない。
動物の個体的な自由は学習能力を獲得して初めて発展性を獲得できた。動物は欲求の充足の為には環世界を分解・解剖しなければならない。動物はこの活動を通じて学習するが、好奇心はこの身体性の欲求から独立した脳独自の環世界に対する欲求である。高等動物になるほど好奇心は強くなる。好奇心も環世界を分解・解剖して支配しようとする作用であるが、対象が生命体であれば、分解・解剖すれば支配し得なくなる。対象への排他的な支配力が強化されれば、逆に対象への親和的な関係も不可欠となる。一般的には知性が高等な動物になるに従って、人間と親和的な関係を取結び易いのはこの為であろう。高等動物になるほど、生命体に対する愛情(共生)の欲求も現れてくる。好奇心は利己的な性格を持って出発するが、それ自身の性格(合目的性、自己否定)で愛情へと転化する可能性を持っている。好奇心は自己自身への好奇心、自己否定への転化可能性を持つ。学習能力を持った動物の欲求は遺伝子による支配から脱出しているから、個体の経験によって可変的になる。この自己否定に向かう好奇心は、利己的な欲望の対極にある愛情を発展・成長させる。
高等動物の自由は好奇心と愛情の対立・相克によって発展する。高等動物においては利己的な遺伝子による支配を乗越えて、共生的な関係によって自由になろうとする物質運動が立ち現れてくる。愛情は否定(利己性・排他性)の否定としての欲求であるから、自己言及的な欲求である。共生的な欲求は他者の欲望の実現が自己の欲望の実現となるから、相互に共鳴しあって、欲望の実現自体が欲望自身を変えてしまう。共生的な関係そのものが欲望化する。共生的な関係は生命関係を加速度的に変革する力を持つ。高等な動物ほどこの共生的な欲求は高度化・発展する。遺伝子は共生的な関係への適応能力を規定できるが、どこで誰とどのような共生関係を取結ぶかを規定する事は出来ない。従って、共生的な関係への適応能力が高度化する程、個体の遺伝情報からの自立性は高度化する。
食欲や性欲等の身体性の欲望は本能的な欲望に近く、遺伝子の支配を強く受けるが、社会的な欲望は身体と脳の相互作用によって、経験的に生まれる。社会的な経験によって何を学ぶか?如何なる欲望を持つかを、遺伝子は予め決定することは出来ない。如何なる形象・色彩が一定の食物・性欲とどのように関係しているかは、遺伝子にとっては無関心である。この無関心性にこそ、学習の意義・適応能力の柔軟性がある。従って、遺伝子自身が遺伝情報からの自立化を個体に強要しているとも言える。遺伝子は身体と脳の相互作用によって、社会的な欲望を経験的に獲得する事を個体に強要する。
② 愛情と親和性=自己言及的欲求
生命の危険性・爆発性ー快感
愛は「落ちる短剣である」-危険性
物質と物質が接触する、触合う事自体が快感になる物質関係は、物理化学的に見れば実に不思議な物質関係である。生殖関係では下等な動物でもこうした欲求を観察出来るし、高等な動物になると、生殖関係だけではなく社会関係でも一般的に見られる。一般的には物質は多様な力を持ち、相互に作用し合う。物質は相互に反発したり、牽引し合う。生命体においてはこの反発と牽引は合目的化する。脳を持った動物においては、欲望の実現となる。太陽と地球が触れ合いば、地球は消えてなくなる。地球が存在し続けるためには太陽との一定の距離を保ち、尚且つ離れ過ぎないようにしなくてはならない。こうした物質関係は生命体の社会関係にも共通した関係である。
地球は合目的的に太陽の周辺を回転している訳ではない。一定の物理的な力学関係によって運動しているに過ぎない。生命運動ではこの共生的な物質関係は合目的的な運動過程になる。生命体は利己的な遺伝子に支配されながらも、こうした共生的な社会関係を保つように遺伝子に刻印されている。個体的には利己的な目的の実現でしかない事が、共生的な生態関係の保存であるような生命現象は数多く散見できるだけでなく、一般的・普遍的な生態関係でさえある。むしろ、共生的な生態関係は個体の利己的な行動を通じて発展成長してきたのだ。遺伝情報は共生的な物質関係の「自立化した反映」として、個体の利己的目的に作用し制御してきた。生命現象においては、物質の共生的な関係は物理化学的な機械的運動ではなく、合目的的な関係として立ち現われてくる。
生命体は合目的的な物質システムだが、一般的には共生的な生態関係を目的として行動する事はない。共生的な生態関係は個々の利己的な行動の結果選択された結果に過ぎない。生物の社会関係は共生的な生態関係を創造する利己的な目的を遺伝情報に刻印する。共生的な生態関係自身は個体の利己的な合目的的な活動を通じて進化・発展してきた。だが、脳を獲得した高等な動物になると、学習によって共生的な生態関係と利己的目的を結合する事が可能になる。利己的な目的と共生的な関係の同一性を経験的に獲得する。物質の共生関係そのものが欲望化すると、物質と物質が触合う事によって喜びを感じるようになる。近未来において、こうした感情をロボットにプログラミングする事は不可能である。愛情は外部からプログラミングする事は出来ない。自らの社会的な経験によって、学習する事によってしか獲得できない。何をどのように「愛する」かは、個体の個性と経験によって様変わりする。愛情は生命と生命の一体化・分裂の回復の感情である。これは生命現象における共鳴であるが、単なる共鳴ではなく、合目的的で意識的な共鳴である。だが、動物は環世界から離陸できないから、この共鳴は結局の所、環世界との共鳴・脳と身体との共鳴を超える事は出来ない。
物質と物質の触合いは元来、衝突・摩擦・抵抗を惹き起し、大きなエネルギー転換を惹起しやすい。生物集団においても、こうした現象は変わらない。同じ遺伝子によって支配された細胞集団でも、ちょっとした変異によって忽ちのうちに異物の侵入として認識されて攻撃の対象とされる。生物集団の触合いは、その内部におおきな危険性と爆発力を抱えている。胃の中で活きている細菌は実に興味深い。胃酸による強力な攻撃を受けながら胃の消化を助けている。こうした特異な共生関係こそ、あらゆる異物の解体を進行させる力になる。
愛情は元来、自己言及的な欲望である。動物の欲望は一般的には環世界の対象へと向かうが、愛情は対象自身の欲望を媒介にして己自身へと反作用する。他者の欲望を満たすために己自身の欲望をコントロールする事が必要となる。物質の親和性は先ず分子的・化学的な運動として現れてきたが、合目的的な生命現象は物質の排他性と親和性の対立・矛盾をコントロールする事によって自己を現実化する運動である。生命現象は物質の親和的な関係を合目的的に再生産する。真核生物や多細胞生物・植物・下等動物までは、この合目的性は単細胞生物の合目的性・親和性の延長に過ぎない。だが、高等動物の愛情行動になると、この物質の親和性は全く新しい様相を獲得する。物質の親和性は自己言及的な性格を持ち始める。
物質は熱力学の第二法則が示す均衡点に向かう傾向を持つが、一定の質的な均衡点に到達すると安定する。物質は多様な相互作用を繰り返すから、この作用で振動・揺らぎが起きるが、一般的にはこの均衡点に戻って安定しようとする本性を持つ。つまり、物質は一定の安定な質的性格を持つとその質的性格を保存しようとする性格を持つ。生命現象はこの物質の質的保存を合目的的に実現する。物質は一般的には物理化学の力学法則で質的性格を保存するだけだが、生命は物質の排他性と親和性の対立・矛盾を動力にして質的性格を保存する。生命体は一般的には「~からの自由」として、他の生命体にも排他的な関係を持つ。だが、一旦共生的・親和的な関係によって自由の領域を拡張する能力を獲得すると、この親和的な生命関係は加速度的な発展・進化を遂げる。
セントラル・ドグマは利己的な遺伝子の作用として、排他的であり、自己言及性の否認である。だが、セントラル・ドグマの獲得と進化・発展は自己言及的であり、生命体の親和的な関係によって飛躍してきた。生命体は「~への自由」を獲得する事によって、「~からの自由」を飛躍的に拡張した。学習は自己言及的な物質運動であるが、愛情は自己言及的な親和的物質運動である。動物の愛情は学習によって育まれ、この育まれた愛情が学習を育む。従って、愛情は極めて自己言及性が高い学習である。学習それ自体は親和的な生命活動ではない。食欲を満たす活動は、直接的には排他的な活動として現れる。好奇心は親和的な関係を誘発する事があるとしても、直接的には排他的な活動となり易い。それに対して生殖関係は、親和的な関係を誘発する可能性を高める。哺乳類における子育ては親和的な欲望なしでは成立しない。子育てに長い時間をかければ、それだけ個体の多様な環境条件に対する適応能力を高める。個体は大人になるまで、長期にわたって集団と自然環境から学習する事が出来る。学習能力の高度化と親和的な社会集団の高度化は相互に誘発する関係になる。生命体は学習能力によって自己言及的な能力を獲得したが、この能力は親和的な社会関係を高度化する事によって高度化してきた。
物質は最初は電子の共有によって親和性を獲得した。この親和性は原子の力学作用の延長であり、物質の原子性・排他性と対立関係にあるとしても形式的な矛盾を含んではいない。物質の排他性と親和性は力学的な対立があるとしても、矛盾する関係にはなっていない。親和性を獲得した化合物が触媒となって高度化し、複雑な集合体を形成すると全く新しい現象が発生し始めた。特殊な触媒に己自身の設計図を刻印した。この触媒を媒介にして、集合体全体を再生産する。物質の親和性は合目的化した。物質の親和的な関係を合目的的に再生産する。直接的には淘汰によって選択されたのは、集合体全体であって触媒(遺伝子)ではない。この集合体は多様な自然環境の中にあって多様な質的性格を持って現象するが、触媒が同一性を保存する限り、集合体の質的同一性に変更はない。
生命は元来利己的な遺伝子によって支配されているから、生命体同士が触合い・交流関係を持つ事は「食うか食われるか」と言う危険な関係に立つ事でもある。同じように、個体と個体の愛情関係も、一歩間違えば憎悪と恐怖の関係に転化する。愛情関係は一定の流動的な支配従属関係を含む。集団関係は自立的な個体にとっては自立性の障害として現れる一面を持つ。この自立性は愛情関係によって育まれる力だから、自立性は己を育む関係を乗越えようとする力であり、愛情関係は己を乗越える力を育もうとする関係である。
愛情が脳と身体の共鳴から離陸するためには、意識が身体性(環世界)から脱出しなければならない。この脱出によって愛情は身体と身体の触れ合いではなく、意識と意識の触れ合いへと上昇する。意識の共鳴現象によって、愛情関係は精神的な現象に転化する。愛情が身体性から脱出しない限り、愛情は利己的な愛情を超える事は出来ない。身体は遺伝子によって制約されているから、この身体性によって制約された愛情は利己的な制約から脱出できない。人間においては、身体の触れ合いによって、意識と意識が触合う。身体の触れ合いはこの意識の共鳴現象の手段に過ぎなくなる。
一部の物理化学者はこの現象を一般の物質関係と同じように数学化して方程式で表現しようとする。本能によって支配された動物行動の自由度は限られるから、ある程度数学的表現可能な行動も数多く散見できる。だが、個々の細胞・個体の適応行動・能力は実に多様であり、可変性に富んでいるから数学的な表現は不可能である。細胞集団・社会集団としてのみ、一定の数学化・形式化が可能なだけである。集団的には一定のパターンを持つように本能的に遺伝情報に刻印されているし、この刻印なしでは生命体の自立性・個性から考えると集団を維持しえない。数学化・形式化は生物行動そのものではなく、生物行動の社会的一面だけに過ぎない。元来、生物は利己的遺伝子に支配されているから、社会性を持たない。生物の社会性は利己的遺伝子からの自立化でもある。この自立化は生物行動の合目的性・複雑性から見てあまりに多元性を含んでいるために、強引に数学的な形式化の刻印なしでは集団的な秩序を維持しえない。個体と集団の関係を数学化・形式化出来るだけであって、集団から自立した細胞・個体としての運動・行動そのものを数学化・形式化する事は出来ない。集団の中では一定の関係を維持するように遺伝的に刻印されているから、集団そのものは単純な形式に類型化できるが、個々の自立的な個体の運動そのものは極めてジグザグで多様である。
魚類や鳥類の集団行動を一定のパターンで類型化し、コンピューター上でシュミレーションをすると実にそっくりな運動を再現可能になる。この類型化が可能になるのは種の遺伝子上に集団行動のための情報が刻印されている事が推察される。だが、哺乳類のような高度な学習能力を持った動物の集団行動にこんな類型化が可能かどうかは疑問である。とりわけ、哺乳類は子育てに長い時間をかける。これは集団生活における共生的な欲望(愛情等)を育むための時間であると推察される。自己言及的な欲求は経験的にしか育む事しかできない。哺乳類の脳構造の複雑なネットワークはこの共生的な欲求を育む可能性を高める。高度な共生的欲求によってコントロールされた集団行動をパターン的な運動で解析する事は出来ない。学習能力が高いから、特定のパターンで理解したと思った途端にパターンが変わってしまう。だが、この学習・発展も遺伝子による身体的な制約からは脱出できない。
動物の社会構造には原子的な段階と分子的な段階がある。原子的な段階は本能的な段階であり、利己的な遺伝子によって規定された社会構造・集団活動である。共生的な欲求・学習能力によってある程度補完されていても、本能的なパターンによって規定されている限り、どんなに高度な構造を持っていても、利己的な遺伝子によって拘束された原子的社会構造である、と考える事が出来る。それに対して、経験・学習によって獲得された社会構造は利己的な遺伝子から自立した共生的な社会構造であり、分子的な段階の社会構造である、と言える。長い子育てによって育まれた共生的欲求に支えられた社会構造は、自己言及的な社会構造である。このような社会構造は特定のパターンに類型化する事が困難で変異性に富んでいる。
動物の好奇心は環世界を支配しようとする欲望である。先ず、動物の自由は身体(環世界)からの自由として現象する。それに対して愛情は環世界と一体化しようとする欲望として出現してきた。これは環世界への自由であり、環世界との一体化である。この環世界との一体化は、同時に環世界からの分離・分裂へと帰結する。動物の自己増殖過程は代謝活動と同じように、一つの円環過程・繰返しに過ぎないが、円環の終了・破綻の危険を伴う。この破綻の危険性を極小化するために、動物は社会性を強化してきた。一つ個体が破綻しても、他の個体が成功すれば、全体としては安定する。それだけではなく、時にはこの破綻こそが新しい質・生命力の獲得、パラダイム・シフトへと繋がった。パラダイム・シフトは個体から始まるが、その普遍化には社会性の獲得が重要な要件である。野生の猿の社会構造は複雑な階層構造を形成している。高度な学習能力を持った動物の階層構造は遺伝子の制約とは関係のない独自の集団自身の力学によって形成されているとしか考えられない。このような階層構造は自己組織化された社会構造であり、合目的的に組織された社会構造ではない。
人間は高度な脳と社会性によって、言語記号を獲得した。遺伝記号と言語記号は、ある特定の物理媒体から他の媒体に転写可能である点では共通する。だが、遺伝記号は特定の物理媒体(DNA、RNA、タンパク質)に制約されるが、言語記号は特定の物理媒体を持たない。人間の社会と組織はこの記号化によって、自己言及力を飛躍的に高め、強力な学習能力・自己言及能力を獲得した組織は自己意識を獲得した。人間は多様な通信手段・情報処理手段によって合目的的な構造を持った組織を獲得し始めた。人間は個人として自己意識を持った主体であるが、組織それ自体も自己意識を持った主体として出現する。多様な個人と多様な組織が対等・平等な主体として出会い、交流する場が市場である。
市場は偶然が支配する世界である。人間の出会いも偶然が支配する。この出会いは予測不能で、爆発力を抱えた世界でもある。偶然だからこそ、予測不能で爆発力を持つのだ。この爆発力をコントロールする事、コントロールしようとする努力が生命と精神を飛躍させる。元来、生命と自然は物質の一部だから、物質全体をコントロールする事は出来ない。生命も精神も物質が定める運命に従うしかない。だが、限定された境界内では、己自身の過去を反省し、その歴史から学ぶ事によってこのコントロールが可能になるし、自然そのものを創造する事もできる。これは人間だけの特権である。このコントロールされた自然、ないし人間によって創造された自然は意識的に計画された自然であり、偶然が支配する市場とは原理が異なる。
人類の文明史は意識的な計画された自然の拡張・発展の歴史であったが、同時に人間社会の交通・通信・情報手段を拡張・発展させたから、それに伴い、偶然が支配する市場も拡張・発展してきた。人類にとって、市場は何よりも学習の場でもあった。交通・通信・情報手段は学習能力の開発手段でもあった。その点では、市場は全く偶然が支配する世界ではない。人間は市場を通じて、己と組織を淘汰の力学に晒すのであり、それは人間の自由な意志行為である。人間の市場には市場参加者の民主的な意志行為が働いている。自由で民主的な市場は、人間の自主的・参加的な「への自由」を加速する機能を持つ。ビジネスの世界では危険性は機会性とほとんど同一の概念である。ビジネス上では「危機はチャンスである」。ビジネス上だけではなく、人類の長い歴史上でも、パラダイム・シフトは危機の最中から誕生してきた。耐え難い苦痛・苦悩こそがパラダイム・シフトの栄養である。しかし、苦しむだけでは苦しみから抜け出せない。苦しみから抜け出そうとする冒険・試行(思考)なしでは、パラダイム・シフトは惹起しない。