第6章 自己意識の弁証法
○ 物質の矛盾 ー質量転化 ー物質の運動
○ 物質の合目的性 ー対立物の相互浸透ー物質の自己運動
○ 物質の自己言及性ー否定の否定 ー物質の自己展開
○ 物質の自己意識 -好奇心と愛情 -物質の自己反省
学習における自由は身体性・環世界からの自由であり、この自由は環世界への好奇心・愛情となって現れたが、人間においては意識が身体性から独立するから、自然・社会関係そのものへの好奇心であり、自然・社会関係そのものへの愛情へと転化する。
① 物質の運動
物質は一定の質的状態を維持しようとして、安定点・平衡点を求めて運動する本性を持っている。だが、物質は運動するのが本性だから、この安定点・平衡点での静止状態は仮象の姿に過ぎない。物質の安定点・平衡点では激しく物理化学上の力学が対立する均衡状態に過ぎなく、ミクロ的には何ら安定でもなければ、平衡でもない。ミクロ的には、物質は平衡点・均衡点では激しい揺らぎ・振動の中にある。物質は相互作用する。相互作用しない物質は運動しない物資と同じように存在しない物質である。この相互作用によって、突然、物質の小さな振動・揺らぎは増幅し、マクロな物質の安定点・均衡点は脱出を開始する。だが、この脱出は新たな安定点・均衡点への移行に過ぎない。一般的にはマクロな物質の安定点・平衡点は物質の揺らぎ・振動を排除する事によって成立する。生命の進化・発生過程では遺伝子は自己言及的に発展する。こうした生命の自己言及性に類似した物理現象は共鳴・自己組織化である。だが、これは類似していると言うだけであって、共鳴・自己組織化から進化・発生を説明できる訳ではない。ただ、生命現象は自己組織化し、共鳴・共振し合う化学物質の複雑なネットワークとして見る事も出来る。
② 物質の自己運動
生命現象では安定・平衡に向かう物質の本性が逆転した姿を取る。物質の動的平衡・安定は物質自身の揺らぎ・振動を動力にして確保される。己の対立物が己自身を維持する力になる。己を排除する力で己自身を保存する。排除する力を保存する力に転化するのは合目的的なシステムの特徴である。生命は己を排除する力を記憶し、記憶によってこの力をコントロールする。合目的性は排他性と自己保存性の矛盾の統一であり、止揚である。記憶はセントラルドグマとして物理化学的に作用する。合目的性はセントラルドグマとして自己言及性の否定であるが、自己言及的な運動によって進化・発展してきた。遺伝子は自己言及性を否定するが、生命は自己言及的に発展成長する。生命の自己言及性は否定の否定であり、自己否定である。学習は自己言及的な生命活動である。だが、学習における自己言及性は、自己言及性を否定する遺伝子によって制約されている。生命現象における否定の否定は遺伝子による制約を受ける。
③ 物質の自己展開
遺伝子の制約から解放された自己意識は物質の自由な自己言及運動である。学習は合目的性を自己言及的に獲得するが、この自己言及性は結果的な性格を持っているに過ぎない。自己意識は合目的性を合目的的に獲得する。学習は自己言及的な合目的性であるが、自己意識は合目的的な自己言及運動である。合目的的な生命運動は自己言及性を否定する事によって安定性・正確性を確保してきた。学習は自己言及によって合目的性を獲得するが、遺伝子による自己言及に対する制約・否定性を克服は出来ていない。学習は否定の否定として獲得する合目的性であるが、合目的的な発生・展開ではない。自己意識は合目的性と自己言及性の統一である。自己言及的な合目的性であると同時に、合目的的な自己言及性でもある。自己意識は合目的的な否定の否定であり、合目的的な発生・展開である。
④ 物質の自己意識
デカルトは「道具は身体器官の延長である」と言う。神経生理学によれば、義手で腕を延長すると遠くの物体が身近に感じるようになる。我々は衛星によって地球全体を身近に感じる事が出来る。人間の意識は身体器官の単なる反映ではなく、「身体器官(道具)」を創造する「自立化した反映」である。この「身体器官」を身体自身の外部に創造する能力は、己の意識を環世界から分離する事によって獲得した。道具を創造する動物は数多く存在する。この点での社会性昆虫やニワシドリの創造能力は芸術的ですらある。社会性昆虫の創造能力は彼らのコミュニケーション能力による力である、と考えられる。だが、この創造能力・コミュニケーション能力は環世界から分離できていない。創造もコミュニケーションも身体性から分離できていない。学習能力が限られているために、創造能力・コミュニケーション能力は遺伝情報による本能的能力となっている。
自我は意識と環世界を分離する。極めて高等な動物では自我の存在が実証されているが、このような高等動物は、極めて高いコミュニケーション能力を持っていると考えられる。チョムスキーは「思考とは己自身との会話である(内言)」と言うが、自我はこうした思考能力なしには発生しない。己自身との会話は、己を己自身から分離する。この思考能力を獲得するには、他者との高いコミュニケーション能力が必要であって、この他者との会話が内的な会話に転化する事によって獲得できる。意識が環世界から自立するには、言語情報、従って高い社会性が不可欠である。言語は他者の経験の反映態である。他者の経験によって己の身体をコントロールする事は己の意識を己の身体から自立させる。環世界から意識が分離するためには、言語が不可欠である。逆にこうしたコミュニケーション能力を持った動物は自我と思考能力を持っている可能性がある、とも考えられる。
最近、「ミラーニューロン」が猿で発見された。他者からの模倣を制御する「ミラーニューロン」は興味深い。「ミラーニューロン」は他者の経験を己の経験として共有する。人間の幼児は猿に比べて高い模倣能力を示すと言うが、猿においても模倣能力を神経生理学的に証明された。人間においてはこのミラーニューロンは言語野と前頭葉で著しく多いと言う。模倣能力は系統発生的な類的経験を個体発生的に獲得する上で、重要な役割を果すと言える。こうした能力が人間だけでなく、高等な動物では珍しくないのかもしれない。人間の幼児はおもちゃ等によって道具の使用で環世界を変える事を覚えるが、これは人間に限らず高等な動物はかなり持っていると思われる。ただ、こうした好奇心は一般の動物は大人になると急速に退化するが、人間は衰えないと言う。他の動物から見れば、人間は生涯幼児のままなのかも知れない。
環世界は主観的な世界に閉じ込められている。自己意識を獲得するためには、この主観から脱出して己を客観的・対自的に観察する能力が不可欠である。この観察能力は他者とのコミュニケーションによって獲得できる。幼児は間主観性によって、他者の立場に立って他者を観察する能力を獲得する。幼児は母親を喜ばせる事によって、目的を実現する事を覚える。他者の心理・感情を理解するには、コミュニケーションの手段である言語の獲得が不可欠である。極めて高等な動物は本能ではなく、学習によって道具を創造する。学習によって道具を創造する事は、身体器官を創造する事と同じである。ここまで来ると、人間と動物の違いが不鮮明になる。だが、道具の創造は言語活動と結合して初めて普遍性を獲得できる。言語は個体的な経験を普遍化するから、個体的な道具の創造の経験は、言語によって類的な経験として普遍化する。イルカやクジラは極めて高いコミュニケーション能力を持っている。こうした動物に「自我は存在しない」と決めつけるのは人間の驕りである。だが、言語とコミュニケーション能力だけでは、自我を延長し普遍化する事は出来ない。自我の延長と普遍化は、生命の代謝と増殖に類似する。道具の創造能力が代謝能力だとすれば、言語の獲得は増殖能力の獲得、と言える。道具の創造、言語活動を考えてみると、人間は自己意識の獲得に向かって進化してきた。人間の脳(言語野)と身体(手足、二足歩行)は自己意識の為に創発された、と言える。
言語は遺伝情報から脱出を開始した自立化した反映である。自己意識は言語によって主観性から脱出した。道具の創造と言語能力の獲得は、どちらも自己意識の獲得と展開のためには不可欠な必要条件である。どちらが、先に獲得できたのか、と言う議論は「鶏が先か卵が先か」と言う議論と同じような議論になる。ただ、猿でも原始的な道具は創造可能であり、人類の原始的な石器使用の歴史はかなりの長期的な期間に亘っている。従って、道具創造を第一原因とすることには無理があるのに対して、言語能力は先天的な能力であって、チョムスキーが語るようにある程度の普遍文法を身に着けて人類は誕生している、と言える。だが、創造能力は言語能力とは違った独自の能力であって、創造能力を言語能力に解消する事は出来ない。人間は言語能力によって猿から区別された独自の社会的・意識的能力を獲得したが、この言語能力は道具の創造能力と結合する事によって進化発展出来た、と言えるだろう。言語は人間の模倣能力を高める。模倣は創造の基盤となるが、それだけでは創造能力を産出しない。言語が自立化した反映として機能するのは道具の創造と結合する事によってである。
道具は身体の延長であり、言語は身体の延長を創造する能力として人間の意識に作用する。人間は身体を延長する言語によって、全自然を人間化する。遺伝情報が生命の設計図として機能するのは、翻訳装置が存在するからである。この翻訳装置そのものを遺伝情報が設計する事によってセントラルドグマが成立する。自己意識は言語の翻訳装置である。だが、自己意識は言語によって設計されている訳ではない。言語は道具を設計するが、翻訳するのは自己意識であり、言語も道具も自己意識の手段に過ぎない。自己意識にとっては言語も道具も与えられた手段として出発し、与える手段にもなる。自己意識にとっては、言語も道具も自己意識から独立した独自の論理的法則(パラダイム)を持って存在している。自己意識はこのパラダイムを受け入れ、模倣する事によって自己を実現し得る。
パラダイムの側から見ると、自己意識はパラダイムを実現する手段に過ぎなくなる。元来、自己意識はセントラルドグマの否定であるから、パラダイムはセントラルドグマのような機能を持ってはいない。だが、時にはセントラルドグマのようにパラダイムが自己意識に作用する場合もある。言語は共同の精神を実現する手段でもあるから、元来セントラルドグマのような作用能力を持っている。道具は人間の意識が産出した手段に過ぎないから、セントラルドグマのような力を持たない。しかし、資本主義的な生産様式では疎外された形式を持って独自のセントラルドグマ的力を現す。つまり、人間と人間の関係が物と物の関係として現象する。物と物の関係・商品関係が人間関係を規定し支配する。また、情報革命時代になると通信手段が飛躍的に発展する。通信手段によって拡大するネットワークは共同の精神と道具との融合である。
生命現象で自立化した反映として機能しているのは遺伝情報だけである。リボゾームも脳もそれだけでは自立化した反映として機能していない。これらの細胞器官・身体器官の機能は遺伝情報が転写した機能に過ぎない。遺伝情報のセントラルドグマによる支配力は圧倒的である。大腸菌はわずか1千個の遺伝子しかないが、人間は2万数千個の遺伝子を持つ。同じ生命体であるにも関わらず、遺伝子の組合わせが変わるとこんなにも姿が変わってしまう。物理化学的には大腸菌の遺伝子と人間の遺伝子は原理的に大して変わらない。遺伝子が自立化した反映として機能を始めるとわずかな物理化学的な違いは全く異なった物質的姿を現象させる。リボゾームと脳は全く違った物理的構造を持つが、遺伝情報の実現手段としては大して変わらない。遺伝情報に基づいて内外の情報を処理し、転写する器官であるに過ぎない。生命は多種多様な進化・発生過程を辿ったが、この展開過程はセントラルドグマの安定性・確実性によって保障されてきた。だが、同時にこの進化・発生過程はドグマに対する挑戦の歴史でもあった。脳は初めて遺伝情報からの自立を模索し始めた器官である。脳は遺伝情報が初めて外部に確保した記憶装置である。この脳は同時に外部世界を記憶する事によって、セントラルドグマからの脱出、従って、遺伝情報自身からの脱出を開始し始めた。
脳と身体の関係がどんなに進化しようとセントラルドグマからの完全な脱出は不可能である。脳自身が身体から脱出しなければこのドグマから脱出できない。これを解決したのが言語である。言語の持つ力は脳の外部に共同の精神(パラダイム)を育んだ。パラダイムは独自の歴史、つまり記憶を持つ。この記憶に基づいて様々な思考のルールを定め、個々人の脳に作用する。遺伝情報に代わって言語情報が脳をコントロールする。人間のネオテニー化(幼稚化)はこれを容易にする。人間社会では言語情報が自立化した反映として機能する。人間の意識は言語によって自己意識へと上昇した。自己意識は合目的的な自己言及であり、自立化した反映として身体に作用する。つまり、身体を道具によって延長する。こうして道具だけでなく、社会関係も身体の延長となる。従って、自立化した反映は二重になる。パラダイムは遺伝情報と同じように言語を通じてセントラルドグマのような作用を自己意識に働く。だが、自己意識もパラダイムから独立した自立化した反映だから、同じように言語を通じてパラダイムに作用する。パラダイムは人間を手段化するが、人間もパラダイムを手段化する。
パラダイムは形式論理的な性格を持っているから、それ自身では自己意識のような合目的的な否定性を持っていない。人間が一定のパラダイムに受動的になり、このパラダイムの下で競争を繰返している限り、パラダイムの否定性は現出しない。パラダイムは遺伝情報と同じようにセントラルドグマのような作用を人間に果すだけである。自己意識は自由な意識として、パラダイムに対する批判的な思考形式を保持している。パラダイムは己の意識の手段なのであって、自己意識はパラダイムに対する批判的な思考能力を持つ。自己意識は自由な合目的性だから、パラダイムを自己の延長として手段化しようとする。パラダイムシフトは自己意識の創造的な合目的性によって実現する。
哺乳類動物の記憶は大脳辺縁系が大きな役割を果すが、この記憶は体制神経・迷走神経や副腎等も極めて重要な働きをする。動物が生きて行くうえで危険を察知する能力は決定的に重要な要件である。自分が打撃・傷を受けた時は、その原因となる直近の記憶は極めて大きい。このような時は体全体で記憶する機構が発動する。快感は不快感ほど記憶力を増強しないが、強い快感も記憶の強化要因である。脳は脳だけで記憶しているのではなく、体で覚えるように出来ている。ただ、こうした記憶は無意識的な記憶であって、自己意識によるコントロールを受けない。逆に、自己意識がこの無意識的な記憶(原自己)によってコントロールされている。原自己が自己意識の可能性・創造性にどの程度期待するかは、人間の幼児体験が重要な意味を持つように見える。類の愛情によって育まれた人間は類そのものを愛情によって育もうとする。
人間の記憶は意識的な記憶であり、自己言及的な記憶である。この意識的な記憶は言語によって媒介され、言語による分析と総合の成果にもなる。この記憶は自己言及的であるから、己に対して批判的・反省的な記憶にもなる。人間は実存的・身体的には、一定のルールによる拘束を受ける。また、社会的な実存として一定の責任と義務を負う。実存的な拘束と責任は反比例する関係に成り易い。実存的な拘束が少なくなれば責任は重くなる。責任を軽くすれば実存的な拘束力が強くなる。だが、人間の自己意識は自己脱出的だから、自由に実存的・身体的拘束から脱出しようとするし、新しい責任と義務を模索しようとする。己の過去に対する批判的・反省的な記憶・学習はこの自由のために動員される。自由な自己意識は、実践的には批判的・否定的である。人間の自由な実践は冒険であり、投企である。この投企は試行錯誤なのであって、あらかじめ決まっているような行動は何ら創造性を高めない。
機械はプログラムを取り換えるだけで、全く違った機能を持った存在に変換できる。また、記憶を変えてしまえば全く違った反応を示すことができる。人間の記憶はデジタルな記憶ではない。記憶内容は感情によってコントロールされた神経機構のシナプス結合の組合せによって決まる。脳の記憶においては、一定のホルモンや酵素の蓄積も重要な働きをするかも知れないが、極めて柔軟で可塑的な回路の結合が重要な働きをするのも明らかである。人間の記憶は、無矛盾の論理的打算的な計算機構ではない。矛盾に満ちた感情的な人間生活における、緊張と葛藤の全生活史の蓄積である。機械の制御回路は自己言及的な回路ではない。自己言及的な記憶回路は、記憶自身によって記憶回路が変わってしまう。こんな自己言及的な回路によって制御された機械は何をしてしまうか分からなくなる。人間の記憶は記憶回路自身を変えてしまう。だから、人間は感情的になると何をするか分からなくなる。
これほど予測不能性を抱えた人間行動が、一体どうして予測可能なのか?。それは人間の信用・信頼関係によって、かろうじて成立する予測可能性に過ぎない。この信用・信頼関係が壊れると、途端に人間関係は戦争状態に突入する。だから、マルクスは人間の交通は戦争を持って開始する、と言う訳である。人間は戦うことによって、戦いに勝つ方法を記憶するだけでなく、戦いを防ぐ方法をも記憶するのだ。戦いを急ぐ者は己の弱点を曝け出し易くなる。人間の戦いにおいては、戦いを防ぐ方法こそ闘いに勝つ最良の近道である事が多い。人間の信用・信頼関係は、人類の長い戦いの記憶によって構築されてきた関係なのであって、論理的・形式的な支配関係によって構築された関係ではない。
人間の支配従属関係は自由な意志の契約関係によって克服する事が可能である。人間の自由な契約関係は相互の信用・信頼関係によって担保されているが、他面ではこの関係は人間の騙し合いの関係を背後に隠している。売買取引では売る側は高く売りたい。買う側は安く買いたい。腹の探り合いでお互いに妥協して取引は成立する。こんな取引に熱中しすぎると、人生は小銭稼ぎで終わってしまう。騙されたふりをしながら騙す、これがゲームの醍醐味である。他人から恨みを買えば戦争になるから、出来るだけ、お互いに利益になるような騙し合いが人生を楽しくする。何事もやり過ぎれば、危なくなる。だが、時には徹底的にやらなければならない時もある。自己意識を持った人間社会の中で生きる技術は極めて複雑で困難を極める。だが、あまり難しく考えると何も出来なくなる。思いっきり己の脳を信じて人間社会に投企する勇気が必要だ。この勇気と人間に対する信頼があれば、結構何とかなるものである。
人間社会も物質と同じように安定・平衡に向かって運動しようとする。従って、人間社会に対する形式論理的な分析力は不可欠である。だが、人間社会は生命現象と同じように矛盾に満ちており、この矛盾を動力にして運動するから、この運動自体が不安定・非平衡の原因となる。更に、人間社会は自己意識を持つから、極めて予測不能性が高い。独裁社会は一見すると予測可能性を高めるように見えるが、実は予測不能性を潜在化させ、社会の爆発力を高めるだけである。人間社会の予測可能性は民主的な意志決定によってこそ高める事が出来る。人間社会を形式論理的な支配関係だけで予測しようとすれば、何も見えない。人間に対する信頼と勇気がなければ、何も学べないし、予測可能性を高める事も出来ない。これが、人類十万年の前史における人間の戦いで獲得した、人類自身の歴史的教訓である。
⑤ パラダイムの自己反省
自己意識にとって身体性は己を物理的に拘束する力である。人間は道具でこの身体性からの自由を獲得しようとする。この身体的な自由は物理的な自由であり、「~からの自由」として受動的な自由である、と言える。パラダイムは己を育んだ存在だから、身体性と同じような拘束力を自己意識に対して持っている。競争は人間を身体的に、自由にする。競争上の優位性を獲得する事によって、己の身体を社会的に延長する。一定のパラダイムの中での競争自体は肉体的な拘束からの自由を目指しているとは言えないが、己を拘束する身体性からの自由を獲得しようとする運動である事に変わりない。
パラダイムは共同の精神によって形成された思考形式だから、この拘束力から解放されるためには、人間の親和的分子的な結合力を持って対抗しなければ転換できない。これは新たなパラダイムを獲得しようとする自由だから、「~への自由」であり、積極的な自由である、と言える。これは身体の延長によってではなく、身体の共有によって自由を獲得する運動でもある。人間の自己意識は「合目的性」・「自由」自体を意識の対象とするから、自由は合目的的な性質を帯びる。合目的的な自由は「~からの自由」と「~への自由」を統一しようとする。人間は個人の自由と集団の目的を統一しようとする。パラダイムシフトはこの合目的的な自由の実現である。この自由は民主的・自主的な参加型の自由である。合目的的な自由では競争原理ではなく、平等原理が強く作用する。
競争と平等は全く対立関係に立っている訳ではない。人間には個性があり、各々の身体的・精神的、対象・必要性・可能性はバラバラである。この個性の可能性と必要性を拡張・確定するためには競争原理は有効な働きをする。人間を抽象化・平均化すれば、多様な個性の平等原理は解体する。とは言え、一定の抽象化・平均化によって、ある程度の平等性を確保しないと競争原理も働かない。つまり、競争自体出来なくなる状態まで落としてしまえば、競争原理自体が機能しない。機会均等の平等は競争上の必要要件である。とは言え、平等は競争の為にあるのではなく、民主的なパラダイムシフトの為に必要な精神的原理である。この平等は、抽象化・平均化によって競争を排除した平等ではなく、自由な個性の平等原理である。自由な個性は競争の形式を取って現れるのであり、ある種の不平等は避けれられない。だが、この競争によって全体の平等性が外延的に拡張する事は珍しくないだけではなく、一般的ですらある。パラダイムシフト自体が競争上の優位性を切り開き、この優位性によって転換が加速する。
パラダイム・シフトは人類の自己反省である。パラダイムシフトを推進する親和的分子的結合力は、感性的・直観的な結合である場合もあり、論理的な結合によっても加速する。ルソーの言う政治的な「一般意志」は、感性的であると同時に論理的な性格をも持つ。数学や物理化学では論理的形式的な性格が前面に出る。「客観」の概念は主観が持っている客観に対する観念を意味する事もあれば、「共同主観」としての客観を意味する場合もある。常に概念は主観と客観の間で二重化する。主観的な「国家」と客観的な「国家」は別個の観念である。別個の観念を同一の観念として議論すれば、議論はいつまでもすれ違う。
数学や自然科学は概念を厳密に定義し、主観性を排除して、同一の観念として議論できるようにしている。こうした科学技術の世界では、論理的に実証できればパラダイムシフトは容易になる。生物や脳の世界では矛盾が運動の動力となっているために、解釈は多義的になり易い。それでも、物質の運動に変わりはないから、一定の物理化学的な分析・実証が可能な場合もある。だが、精神や芸術の世界になると主観性の排除が困難となる。精神の世界は自己言及性が極めて強くなるから、主観性を排除できない。人類の自由で民主的なパラダイムを求める親和的努力は合目的的な努力でなければならない。例え、親和的な努力であっても、教条的・セクト的な努力であれば逆効果である。人類の民主主義は民主化を求める広範な勢力の統一なしでは獲得できない。この統一した力でパラダイムを転換する知性なしでは獲得できない。未来を見通す知性こそが客観的な物理力を獲得できる。主観性を排除できない社会科学の世界では、パラダイムシフトは長期の民主的で合目的的な努力によってしか実現しない。だが、時には社会的な事変によって、嵐のようなスピードでパラダイムシフトを人類が強いられる事もある。それでも、長期の民主的で合目的的な努力による準備なしでは、この嵐を人類は乗り越えられない。