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「科学的社会主義」討論欄

『我々は何処からきて、どこへ!』

2016/6/28 百家繚乱

第7章 精神の弁証法

 ① 精神のパラダイム

 情報の世界は実に興味深い。核酸の配列を組替・組み合せしただけで、片方は大腸菌になり、もう一方は人間になる。だが、これはセントラルドグマの安定性・確実性によって実現できるのだ。これは世代から世代へと40億年の歳月をかけた生命の歴史の学習効果である。この宇宙には地球に似た惑星は幾らでも存在するに違えないが、全く同じ惑星は存在しない。物質にも様々な個性があり、辿ってきた歴史的記憶がある。この記憶に基づいて自己保存を計る物質系は生命体だけである。如何なる物質も安定性・平衡性によって自己を保存しようとする本性を持つ。記憶情報に基づいて己の自己保存を計る能力は、物質にとんでもない可能性を切開いたのだ。セントラルドグマに拘束されている限り、大腸菌が人間になるまでは40億年の歳月を必要とした。
 脳はミラーニューロンを開発した。これは他人の記憶情報を自己の記憶に転写する機能である。従来の記憶情報の転写は世代から世代へと語継ぎ、選択されることによって獲得された。ある意味ではミラーニューロンは遺伝情報のコミュニケーションによる転写と似ている。言語までは一歩手前まで来ているが、遺伝情報に拘束されている。言語はセントラルドグマから解放された記憶情報である。これは獲得形質の転写である。獲得形質は遺伝情報と同じように個々人に対してはセントラルドグマのような機能を果たしたし、果しているからこそ獲得形質なのだ。だが、遺伝情報はセントラルドグマを否定してきたからこそ、多種多様な形質を獲得できた。当然、言語情報も同じ機能を持つ。
 言語情報は人間に多種多様な機能と専門性を付加し、連結する。医者・警官・官僚・労働者・農民・エンジニア・科学者・哲学者・芸術家・芸能人・詩人・弁護士・政治家等々。過去の時代ではレオナルド・ダ・ヴィンチのような天才もいたが、今日ではおよそ考えられない。言語はネットワークのソフトであり、道具はネットワークのハードである。人間はネットワークの主体(ノード)であり、組織はネットワークのハブだ。人間は一つの組織ではなく、数多くの組織と関わり所属する。バーナードによれば顧客も組織の構成要素だから、人間は消費者としても数多くの組織と関わる。また、組織には自主的なサークルのように非公式組織も数多く存在する。国家は巨大だから、ハブのハブだが、今日の人類は国連の下で一つの組織に所属する。ネットワーク理論によれば、70億の人間はわずか数人の結合関係で全人類が結合する。10の10乗は100億である。実際の調査によれば、約6人の友人関係で全アメリカ人が友人関係を取結ぶそうである。
 各々の専門領域ごとに特有の言語とパラダイムがある。言語は国・地域・民族ごとに異なるが、一定のルールで翻訳可能である。多様に分化した言語は形式論理的な関係で結合する。パラダイムは形式論理的な力としてネットワークに作用する。ある者が有罪であると同時に無罪であったら、パラダイムは破綻する。右腕と左腕を協調させて道具を操作するには腕を形式論理的に拘束する必要がある。人間集団・ネットワークも似たようなものである。一定のルールに従うことによって人間は各々の領域で特有の専門的能力を獲得する。クーンによれば、職業の訓練と学習は専門用語の習得であり、これは科学者の世界でも同じだ。言語情報は各々の専門領域でセントラルドグマとして機能する。パラダイムにも柔軟性はあるから、新現象・新発見等があれば新言語が創造されパラダイムも調整される。これはパラダイムシフトではなくパラダイムの正確化・精密化に過ぎない。パラダイムシフトは革命であり、有罪と無罪、支配と従属が反転するような現象だから、そんなに度々起きるような現象ではない。だが、人類の歴史上では、革命は何度も起きており、今でも度々起きている。生命現象では魚が上陸し、技術上では車が空を飛ぶ。革命と言うのは、何人にとっても恐ろしい事であるが、何人にとっても、やはり興味深い。

 言語は人間を形式論理的な力で支配し操作する手段だが、他面ではメッセージを発信する手段でもある。古来より、革命家は広報活動を重視し、マスコミを重用した。エドガー・スノーの『中国の赤い星』は中国革命では重要な役割を果した、と言われる。ルーズベルトも愛読し感動した、と言われる。アメリカの対日・対中政策を決定する上では大きな役割を果した訳である。カストロがジャングルでアメリカのジャーナリストと会見した時は、背後に大きな部隊が控えているように見せかけた。大風呂敷は大衆の解放への夢を掻き立て、民衆の積極的なエネルギーを引出す役割を果す訳だから、何ら詐欺行為ではない。ジャーナリストも単に騙された訳ではなく、意図的に騙された可能性は十分ある。ただ、これを乱発すると化けの皮が剥がれて誰にも相手にされなくなるから、機を見る直観力が不可欠だ。  人間は言語の持つ形式論理的な支配力で生きている訳だし、一定のパラダイムの支配力なしには安全に暮らす事はできない。人間の意識は極めて保守的に出来ている。革命はこれまでのパラダイムでは安全に暮らす事が出来なくなった時点でしか起きない。地球環境問題は刻々とこの一点に人類を導いているのは確実である。言語はコミュニケーションの手段だけでなく、記憶の手段であり、記憶に基づいて反省する手段である。この反省から未来への可能性が見えてくる。言語は自己言及的であり、この自己言及によって未来を創造する。この自己言及過程はパラダイムの学習過程であり、この学習でパラダイムは正確化・精密化する。パラダイムシフトは自己言及性が行き詰まり、パラダイムの学習機能が働かなくなった時に起きる。旧来のパラダイムでは解決が困難な社会問題・環境問題が多発すると否応なしに、パラダイムシフトを強いられる事になる。
 長倉洋海氏によれば、アフガンゲリラの指導者マスードは部下に毛沢東の『矛盾論』を読ませていた、と言う。実に興味深い指摘である。極端な表現をすれば、『矛盾論』がソ連を解体した事になる。言語は自己言及的だから己自身に反響する。言語は宗教・党派を超えて人間を一つにする。矛盾は人間を苦しめるが人類発展の原動力だ。矛盾からの脱出方法を発信し記録する。この記憶の中から必要なものを発掘し、現代の矛盾からの脱出方法を考える。我々の苦悩と戦いの記録は未来で生きる。人間は反省的な動物であり、この反省性・自己否定性が勝敗の帰趨を決定する。自己言及的な人類社会の構造は実に柔軟な構造体である。一つのメッセージが世界を大きく揺動かした事は歴史上いくらでも見つかるし、今日でもいくらでも見つかる。ゲテスバーグにおけるリンカーンの簡潔なメッセージは今日でも全人類に大きく反響し続けている。一つのメッセージが小さな組織・サークル・ハブを大きく振動させ、この振動が他の大きなハブの振動へと転化する事もある。わずか数人で全世界の人間と結合している今日の人類は、いくらでも世界を変える主体に成りえる訳である。

 ② 宗教と共同体

 人間は自己意識を持つ動物だから、予測不能性が極めて高い。理性的コントロールを失うと感情的になってどうなるか分からなくなる場合もある。形式論理的な支配だけでは人間の自由な自己意識をコントロール出来ない。人間社会は生命現象と同じように矛盾を動力にして運動するから、一般的に命題は反対の意味を含んでしまう。平和は軍事力によって確保される。愛や信用関係は騙し合いによって成立する。信じる事は金儲けの手段になる。自由は強制によって確保される。こうした矛盾は人類誕生から変わらない命題の本性であり、今後も中々変わらない本性である。この矛盾は人間を苦しめ苦悩させるが、この矛盾をうまくコントロールすれば、社会の形式論理的な支配関係から人間を自由にする矛盾でもある。
 人間は精神的動物であるが、動物の為に産れた精神を持つにに過ぎない。だが、精神と言うのは極めて物質性からの自立性が強いから、自立性の為に、己の動物性を手段とするようになる。物質はそれ自身では矛盾の中で己を保存し得ない。この矛盾から脱出しようとする物質システムが産み出すエネルギーによって、矛盾関係そのものを保存する運動が生命現象である。精神は生命現象の自己意識であるから、この矛盾の自己意識である。宗教はこの意識を『罪の意識』として、端的な言葉で表現する。人間は誰でも己を育んでいる自然を犠牲(消化)にしたり、社会に負担を架けなければ生きて行けない。人間は誰でも「原罪」を背負って誕生してきたし、これを背負って生きている。愛情は他在との物質的な対立を乗越えて、一体化しようとする感情である。愛情は「原罪」から脱出しようとする感情であり、超える事が出来ない一線を超えようとする感情でもある。この欲望する矛盾こそ、人間の全意識的活動の原動力である。物理化学の方程式で人間の愛情、この矛盾を表現する事は出来ない。愛情が抱える問題の解決策は幾らでもあるように見えて、中々見つからない。解決したと思ったら、それが仇になる。愛情は自己言及的で悩ましく、極めて予測不能性が高い感情であるから、己の対立物たる憎悪と紙一重の所で振動する。一般的には、宗教と共同体はこの振動にある種の安定をもたらし、この振動を動力源にして成長する。時には、この振動が激しい共鳴現象となって、共同体全体を揺さぶる事もある。この共鳴が、時には共同体の自壊に成ったり、飛躍になったりする訳である。

 今村仁司氏『社会性の哲学』によれば与えられる事は人間にとって「負い目」になるという。この「負い目」は人間社会に対する責任と義務の感情を誘発する。責任と義務は法律上の用語だが、この感情は法律によって産れる感情ではない。人間と共同体の相互作用の中から産れてくる自然な宗教的感情である。矛盾の感情を意識する人間にとって共同体は、矛盾を統一し止揚する社会関係になる。人間にとって共同体は個々人から自立した超自然的な生きた主体として現れる。契約関係としてみれば、共同体は単なる自由な意志を持った人間の集団であり、自由な個人の手段に過ぎない。だが、人間の共同体は個人の総和ではない。共同体は人間と同じように、独自な記憶と反省力を持ち、独自な知性を持って意志決定する主体となって個人に対峙する。人間は共同体の中に、多様な矛盾する感情や欲望を持ち込む。共同体はこの矛盾を調整し統一する。
 共同体は個人では実現不可能で、多様な自然改造能力・創造能力を持つ。また、他の共同体に対する自立性を保障し、協力強調関係を創造する合目的的な生きた社会関係でもある。人間にとって共同体は与える客体ではあるが、個人では与える事が出来ない力を与えてくれる主体として個人に対峙する。人間は自然によって育まれながらも、この自然をも改造・創造する能力を保持する。人間は自分を自然化すると同時に全自然を人間化(概念化)する。全自然の人間化は、個人が参加する共同体の創造的な力によって産れる。原始の人間は全自然を人間化(創造・概念化)する共同体の力を神の力として受取った。共同体のリーダーは神ではなく、神の意志を代弁する僧侶に過ぎない。

 共同体の創造的な力は人間社会の先験的な力に過ぎない。だが、一個の人間がそれ自身で共同体の力を体現する事は出来ない。個人の観念を超えた、共同体の先験的力を原始の人間は神の力として受取った訳である。それでキリストは興味深い事を言う訳である。「先に言葉ありき」と。言葉の力は「神の力」でもある。日本語では「言霊」という概念がある、これは言葉には魂が宿している、と言う事を意味している。約束は古来よりあまり当てに出来るものではなかったが、とは言え、これを当てにする以外に何も産み出せないのも事実であった。「当たるも八卦、外れるも八卦」であるが、当たった時には神がかり的力を発揮する。外れた時は脳の健忘症的機能を活用する。まあ、こんなに都合よく共同体は活きる事が出来ないから、予測可能性を出来るだけ高めなくてはならない。
 人間の持っている力は大して変わらない。ただ、人間は多様な矛盾した感情・欲望を共同体に持ち込むから、相反する意志決定を共同体に押し付けようとする。共同体において最も効率的な意志決定は民主的な意志決定である。民主的な意志決定であれば、失敗しても非難は最小限になるし、組織の縮小も最小限に食い止める事が出来る。だが、何を持って民主的な意志決定と言うのか、これが人類史上の解決困難な重大問題としてある。共同体は相互に相争い、相互に浸透し合ってる。つまり、共同体は相互に騙し合っている訳である。従って、共同体内部でも相互に騙し合う関係が浸透する。何が、真実の言葉なのか?、何が民主的な言葉、つまり多くが納得できる言葉なのか?、この言葉を見つけるのが僧侶の最も重要な能力となる。共同体が解決困難な問題を抱えた時は、誰も思いつかないような言葉が大勢の魂を揺さぶる事もある。こうした時は、僧侶の交代、新たなカリスマの誕生となる。この交代が民主的に簡単に行かなくなると革命・内乱となる。それでも、革命・内乱が起きなければ、共同体は自壊する。革命・内乱は、共同体が解決困難な危機にあったた時に、己の存在を架けた雄叫びである。

 宗教は面白いことを言う。「信じる者は救われる」。なるほど、「寄らば大樹の影である」。だが、無条件に信じすぎれば碌な事がないのは、大抵の信者は心得ている。宗教は魂を問題にし、政治は権力を問題にする。だが、人間を統治する、と言う視点から見ると、宗教と政治は不可分な関係として現れてくる。人間社会は自己言及社会だから、魂(心)の問題抜きに問題を解決できない。他方では心の問題ばかりを見ていると、権力に心が支配されてしまった、と言う現象は珍しくない。元来、政治と宗教は似たような問題を扱っているから、簡単には分離できない。宗教はアヘンだと言って宗教を侮辱する左翼は、己自身が宗教化するしかなくなる。
 人間は精神的動物だから社会矛盾を抱えた共同体の中で、物理的な強制力だけでは一定のルールに従って生きて行く事は出来ない。カオスな社会の中で生きて行く上では、己の意志決定を行う上で判断基準となる価値観が必要となる。人間は自己意識を持つ精神的動物だから、常に精神的にはルールから飛び出しているのだ。ルールに従っている日常生活は仮象の姿であって、本当の精神生活は自由である。実は本人自身も何を考えているのか分かっていないのが、人間の自由な精神生活である。精神的に見れば、人間社会は実にカオス社会である。これはインターネットの仮想空間を見ればはっきりする。この仮想空間を単なる空想と決めつけるのは、全くの空想だ。人類の歴史の発展は仮想空間を現実化してきた歴史である。従って、人間は一定の精神的な共同体・共同体の精神性なしでは、カオス社会の中でルールある判断が困難になる。

 ③ 支配従属関係と宗教

 人間は信じるものなしで、生きては行けない。この信じるものは、家族や共同体・思想、己自身でもよい。宗教団体に限らず、如何なる共同体も一定の精神性を持っている。同じように政治団体に限らず、如何なる共同体も政治性を持っている。人間は一つの共同体ではなく、数多くの共同体に参加し、手段化する主体である。人間は多様な共同体から、精神的な価値基準を受け取りながら、独自の価値判断をして日常的な精神生活をしている。共同体自身も個人を媒介にして、多様な精神性を持っているのであって、これを一元化しようとすれば、知的な退化にしかならない。結局の所、如何なる人間も、己の判断基準を信じて生きているだけに過ぎない。ただ、この判断基準を形成する上では、多様な共同体の多様性が重要な役割を果している。従って、如何なる宗教団体も重要な社会的機能を持っている事は明かだ。
 政治と宗教は社会的には似たような問題をテーマに扱うから、分離は簡単ではないが、分離しなければならない。権力は「心」の問題に介入すべきではない。宗教は「権力」の問題に介入すべきではない。この分離なしでは、人間の精神的な自由を実現できない。だが、この分離は宗教団体の問題だけではない。左翼自身の問題である事を左翼は自覚すべきである。ソ連は宗教を侮辱し、己自身を宗教化して自壊した。左翼の教条的な「科学的社会主義」は、左翼自身の宗教化でしかなかった。

 人間社会は原始共産制から出発した。実際の所、この社会は民族・部族にとって実に多様であって、それなりに複雑な社会構造を持っている。ただ、イデオロギー的には極めて宗教的な社会構造から出発したのは明かだ。この期間はかなり長期にわたるから、元来、人間は宗教的動物である、と定義しても良いくらいだろう。とは言え、この宗教的世界は剰余労働の発生とともに、階級社会に分化する。相続によって私的所有が発生すると、社会は原子的な分裂を開始する。原子的に分裂した社会を一定の秩序によって再編するには、二つの力が必要になる。第一には物理的な力であり、暴力的軍事的な統制力である。第二には精神的な力であり、宗教的な力である。宗教は、元来、共同体を支える精神的な支柱だったが、階級社会に分裂すると階級支配の精神的な道具に転化した。だが、この宗教は階級支配に対する抵抗の精神をも創発した。今日の宗教はこうした民衆の抵抗の思想を内部に含んでいる。宗教のその後の変節・変移はあるが、宗教のこの民主的な創発の歴史を再評価すべきだろう。人間は精神的動物だから、人間の支配従属関係は宗教的な性格を持たざるを得なかった。この支配従属関係なしには、原子的に分裂した社会を維持する事は出来なかった。従って、抵抗の精神から出発した如何なる原始宗教も、勝利の後には支配の道具に転化せざるを得なかったのだ。
 社会主義も宗教と何ら変わらない事を歴史は証明した。社会主義は人間を解放する思想なはずだったが、権力を獲得した途端に人間から自由を奪う思想に転化した。宗教がアヘンであるとすれば、社会主義もアヘンとして機能した。このため今日の左翼は権力を取る事を極端に恐怖する。権力者を批判するが、権力を取らない事が左翼の義務だと勘違いしている。一般的には、宗教は人間の不平等関係を前提とはしない。抵抗から出発した宗教である三大宗教は人間平等を基本原理としている。だが、これらの宗教も俗世間の平等を宣言しながら、神仏との関係では精神的な不平等を前提する。精神的な不平等は俗世間での不平等を正当化する役割を果している。だが、精神的な不平等が政治経済的な不平等の原因となっている訳ではない。政治経済的な問題を神仏との戦いに転化する事は出来ない。むしろ、俗世間での平等を実現するために、これらの宗教を活用できる可能性は高まっている。

 「アッラー、アクバル」、実に神は偉大である。利子を忌み嫌うイスラム教は、社会主義にとっても興味深いはずである。「神は存在しない」と言う、唯物論の命題は完全に間違っている。神の存在証明は不要なのだ。それは丁度、「美」の存在証明が不要なのと同じである。「美」は人によって多様であり、証明する事は出来ない。神を信じる人間の魂の中に、神は存在しているのだ。時には、神を信じる人間の共同行為が予想外の「奇跡」を惹起する場合もある。南アフリカのツツ主教は「白人は我々から土地を奪い、代わりに聖書をくれた。だから、宗教はアヘンではない。人間には土地よりも、もっと、大切なものがある。『なんじ、隣人を愛せよ!』である」、と言う。マルクスなどには、比べにならないほど、偉大な宣言である。兵士には武器よりも、もっと、大切なものがある。己の戦いに対する、正当性の確信である。古来より、名将と言う者は兵士に、この確信を与えるために散々苦労してきたのである。「背水の陣」(韓信)は敗北そのものを勝利への動機に転化する戦略だが、こんな戦略は誰でも成功する訳ではない。指導者と兵士の信頼関係なしでは獲得できない。ソ連の解体で、すっかり敗北感で一杯の左翼の中で、「背水の陣」で勝利への進路を掴み取れる左翼は、未だに数少ない。教条主義と民主集中制にしがみ付く左翼に「背水の陣」と言う進路は現れない。
 高橋俊隆氏によれば、魯迅は「中国の基礎は全て道教にあり、儒教が滅んでも道教は滅ぶことはない、と言う。「無為を為し、無事を事とし、無味を味わう」。老子の「無」の思想は弁証法の宝庫である。中国では古来、道教の旗の基で農民反乱が多数起きている。ヒンズー教は、生命の循環(輪廻)から見ると実に興味深いが、現世のカースト制度は問題が多すぎる。グラムシはブッタの思想を高く評価する。仏教の「空」の思想も弁証法の宝庫である。「煩悩」は仏教にとっては重要なテーマであるが、嫉妬心は人類の極めてナイーブな問題でもある。どうして、ナイーブなのか?それは生きるか死ぬかの問題に人間を追詰めるからだ。戦争によって文明を発展してきた人類にとっては、国境を巡る問題は生死に関わる問題になる。隣国が軍事大国化すれば、自国の運命は極めて危険になる。国家の嫉妬心は物理的な正当性を持っていた。嫉妬や妬みは共生的な関係の下では、マイナス的な力しか持たないが、利己的な社会関係では生きていく上では欠かせない心理作用となる。共生的な社会関係も支配従属と言う利己的な社会関係を包摂せざるを得ないし、支配従属と言う関係も共生的関係なしでは存続し得ない。実に共生と強制は紙一重の差で交差し合っている。このカオス的な社会関係の下で、人間が己の選択(投企)した「道」を生きる上では、宗教は人類史上で多大な貢献をして来たし、して行くだろう、と言える。宗教は宗教間の対立や紛争を惹起する事もあるが、その寛容性・寛大性を受け入れることで、人間社会の親和的関係を支えてきた。宗教は矛盾に満ちた予測不能な社会の中で、人間の親和的な関係を支える力として機能してきた。