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「科学的社会主義」討論欄

『我々は何処からきて、どこへ!』

2016/6/28 百家繚乱

第8章 支配従属関係と契約

 ① 身分制と契約

 私的所有は人間社会を原子的な社会に分裂させたが、他面では商品交換の市場を創発した。ルソーは人間の不平等の起源は私的所有にある、と言う。この不平等は政治的な不平等となって、国家の意志と一般意志を分裂させる要因となる、と言う。ルソーの思想は、ほとんど社会主義の思想に近い。だが、この市場は原子的に分裂させた人間社会に、自由な経済活動による交流・交通の機会を誕生させた。だから、私的所有は人間を不平等社会に転化したが、他面では人間の自由な経済的活動を促進し、人間社会の自由な契約関係を創発した。契約関係は人間の信用・信頼関係によって成り立つから、契約関係は人間社会の親和的・分子的な関係でもある。中世ヨーロッパの封建的身分制はアジア的専制に較べて、契約的な性格を持っている、と言われる。貴族身分の自治性が強く、貴族は戦時には自分で戦争準備をして国王の下に集った。貴族は同時に騎士でもあった。この事とヨーロッパが長い間、内戦を続けてきた事は深い関係がある。地方の自治権が強いため、強力な統一国家が形成し得なかった。だが、これは相対的な一面に過ぎない。絶対王政の下でも激しい戦争があったし、アジア的専制と言っても多様である。契約によって王政が成り立つ現象はアジアでも多く見つかる。

 様々な職種・職業に専門分化した社会を一定の秩序によってコントロールするためには支配と従属関係によって結合した官僚組織が不可欠である。国家はこうした官僚組織の頂点に立つが、国家自体が大きな官僚組織でもある。官僚組織の支配と従属関係は身分制によって決定される。身分制は前近代社会の特徴で洋の東西を超えて共通する。この身分制の内容が多様なだけである。身分制は能力的な身分制ではなく、制度的な身分制である。この身分性が相続の対象となるのが、封建社会の特徴である。
 制度的な身分制は相続によって決定されるから、極めて安定した身分制である。この身分制は社会に対してセントラルドグマのような先験的な力として作用する。他面では硬直した身分制であるから、生産力・技術等の発展のような社会環境の変動に対する適応能力が低い。能力的な身分制は社会環境に対する適応能力は高いが、能力評価とその制度に対するストレスを高める。身分制は社会の富の再配分に重要な作用をするから、能力的な身分制は社会的な不平等を拡大する性向を持つ。能力的身分制は自己言及性が高い身分制である。社会の内容に対応して形式を変えると形式そのものが内容の変動要因となる。形式と内容の分裂は社会的な混乱・内乱・戦争要因となる。従って、人類は長い間、洋の東西を超えて制度的な身分制を選択せざるを得なかったし、この制度によってしか安定した平和的な環境を維持する事が出来なかった。こうして、制度的な身分制は平和の代償として、生産力・技術・科学の発展に対する阻害要因として作用した。

 制度的な身分制は政治的な不平等を前提し、能力的な身分制は経済的な不平等を惹起する。前近代社会は政治的な不平等を相続する事によって、制度的な身分制を存続させた。政治的な不平等は人間の対等平等な分子的結合を歪める。価値の等価関係が政治的な関係によって歪められる。自由な契約による人間の親和的・分子的な結合は、制度的な身分制に対する否定的な意識を誘発する。
 生産力・技術の発展は古い制度的な身分制と激突して、社会関係を変革してきた。この革命は、前近代社会では古い身分制度を新しい制度的な身分制度に取り換えたに過ぎない。生産力の発展と宗教改革は制度的な身分制度自体を変革し始めた。制度的な身分制度自体から生産力を解放し、生産力によって産み出される富によって社会をコントロールし始めた。これがブルジョワ革命である。産業革命は古い制度的な身分制度自体を桎梏とする。
 資本主義的な生産様式では実際に産み出される富(利益)によって、集団と個人の能力が客観的・合理的に評価される。能力評価に対する恣意性は排除されるから、能力評価とその制度に対するストレスは緩和される。合理的・科学的な思考が社会の前面に押し出され、観念的先験的な思考は忌避される。実証的・経験的思考が重視され、宗教的な思考は背後に押しやられる。実証的・経験的思考は批判的な思考であり、自己言及的な思考である。資本主義は利益のために、あらゆる領域で自己言及性を高める性向を持つ。

 近代社会では経済的な不平等は相続できるが、能力的な身分制は相続できない。商業の発展は資本の本源的蓄積を加速し、この蓄積した資本は産業資本となって、古い制度的な身分制と激突した。今日の世界でも、産業資本は古い制度的な身分制と戦う上では有効な利用価値がある。それに対して、金融資本は産業資本に寄生する資本だから、古い制度的な身分制と融合し易い。
 近代社会は制度的な身分制を廃止して、能力的な身分制に切り替えたに過ぎない。能力的な身分制を維持するためには、身分制の相続を廃止しなければならない。「科挙試験」に見られるように、中国の身分制は近代的な性格を持っている事は興味深い。能力的な身分制でも、身分を付与する主体が君主なのか、国民なのかによって、前近代と近代が分かれる。身分を付与する主体の実態がブルジョアなのか?国民なのかによって、国家の民主的な内容が決まる。ブルジョアは己の財産上の利権を行使して国家を自己の下に包摂しようとする事は如何なる社会においても共通だ。従って、ブルジョワジーとの戦い抜きに国民は国家を己の下に包摂できない。ブルジョワジーの財産を産出したのは労働者だから、労働者階級の戦い抜きに民主主義を語る事は出来ない。近代社会の社会原理は、既に社会主義的な社会関係を内包している。

 絶え間ない内戦を続けたヨーロッパは戦争のための資源を海外に、とりわけ南北アメリカに求めた。次にはアジアに求め、アメリカはアフリカに人的資源を求めた。資本主義は急速に人類史を世界史にした。制度的な身分制の解体はとてつもないエネルギーを人間社会にもたらした。これは資本主義的な生産様式が自己言及的な生産様式だからである。特別利潤の再配分をめぐって、絶えざる技術革新が要求される。この技術革新は経営革新も要求される。労働者ばかりでなく、経営者も淘汰の対象であり、資本家も投資先を見誤れば、忽ち他の資本家に飲込まれる。資本の世界では巨大資本家も安泰ではない。「小が大を飲込む」のは日常茶飯事となる。資本主義は己の自己言及性によって、人類史を世界史にし、戦争を世界戦争にした。この自己言及性、否定の否定は己自身を解体する否定性に転化せざるを得ないだろうし、この否定を準備する否定性でもある。
 資本主義的な生産様式は自己言及的である、と言う点では否定の否定であるが、利益に対する合目的性であって、社会的利益一般に対する合目的性ではない。資本の利益は社会一般の利益とは衝突せざるを得ない。資本は社会一般の利益から見れば、実に盲目的な運動体であって、この盲目性は科学の合目的性とは衝突せざるを得ない。資本は原子的に分解された労働力を結合し、この結合力で利益を上げる。社会全体を人間の有機的な結合力で意識的計画的に管理すると言う視点から見れば、資本主義的生産様式はその準備である。資本主義は盲目的であると言う点から見れば、否定的な生産様式であって、乗越えなければ人類が生き残れない生産様式である。

 資本主義は人間の契約関係を基礎にした社会関係だから、支配従属関係も契約による支配従属関係である。人間の経済的な不平等は政治的な不平等を惹起するから、契約による支配従属関係は政治的な不平等に基ずく支配従属関係を覆い隠している。経済的な不平等は相続可能だから、能力的な身分制度は制度的な身分制度を覆い隠している。資本主義的な生産様式は、その体内に古い身分制度を覆い隠している。資本主義の盲目性は、この古い身分制度によって支えられている。
 資本主義は人類の弱肉強食の世界的普遍化のように見える。動物は元来、弱肉強食で生きているから、人類の弱肉強食は資本主義によって産れた訳ではない。中国・インドの歴史を観察すれば明らかなように、制度的な身分制は人間社会の弱肉強食による戦争を抑止する性質を持っていた。だが、この身分制は同時に人間社会の弱肉強食の制度化でしかない性質をも持っている。原子的な社会に分裂した社会は物理的な力(政治的身分制)によって、矛盾の爆発を抑えるしかなかった。契約関係はこの矛盾から脱出しようとする人間の自由な活動である。だが、この関係は社会の副次的役割しか与えられず、その発展は物理的な力によって抑えられていた。資本主義は自由な契約関係を基礎にするから、人間社会の分子的・親和的関係を発展させる。

 資本主義の対等平等な契約関係は古い制度的な身分制度と激突せざるを得ないから、この関係によって発展する人間の分子的な社会関係は資本主義的な社会関係自身をも乗越える基礎を拡張する。市民社会は市民の対等平等な社会関係を志向する。政治社会は政治的な不平等を覆い隠している支配従属関係である。資本主義的な生産様式は必ずしも民主主義を前提とした生産様式ではない。能力的な身分制度を維持し正当化するためには、民主主義的な制度が必要となる。能力的な身分制度は古い身分制度と激突するから、古い身分制度を否定すれば、己を正当化する新しい政治原理を必要とする。この民主主義は政治的な不平等と激突する。政治的な平等を求める民主主義は、否応なしに経済的な不平等と敵対的な関係に立たざるを得ない。
 この分子的・親和的関係によって獲得された共同体(国家)の力は原子的な力として人類社会で現象したに過ぎない。元来、国家や部族は人類社会では原子的な結合関係しか持っていなかったから、資本主義によって国家が原子化した訳ではない。資本は他面では労働力を商品化し、労働者を原子化する。資本は労働力を結合するが、生きた人間として結合するのではなく、死んだ商品として結合する。労働力は可変資本であり、材料と同じ流動資本の現実態に過ぎない。労働運動や労働組合はこの原子的な結合を生きた分子的で親和的な関係として回復しようとする。資本主義はその体内に社会主義的な関係を胚胎せざる得ない。この運動や組合が企業内や国家内の内側での活動に限定すれば、社会主義と結合する事は出来ない。社会主義と結合しない運動は資本を超える事が出来ない。国家の外部(植民地)から産み出される超過利潤によって、運動は制約される。だが、植民地の独立・自立性の拡大に伴ってこの搾取と収奪の関係は次第に制約されていく。今日の世界では、先進国の経済危機を新興国の経済力で乗り切るしかなくなってきている。資本主義は世界を資本化する事によって、世界を己の墓場にする本性を持っている。

 ② 個人主義と集団主義

 ヨーロッパは個人主義的な志向が強く、アジアは集団主義的な志向が強い、と言う。人間社会は原始共産制から出発した、と言う視点から見れば、集団主義から出発したと見る事が出来る。だが、私的所有は人間社会を原子的な社会に分裂させたのだから、集団主義と個人主義は同時に始まった、と見る事も出来る。個人主義を絶対化すれば利己主義となり、集団主義を絶対化すれば全体主義となる。ヨーロッパでは原子的な社会の分裂を分子的・親和的な社会関係によって克服しようとする傾向(個人主義)が強かったのに対し、アジアでは集団主義的な社会関係によって克服しようとする傾向が強かった。人間社会の有機的な結合は、原子的な関係の延長上では獲得できない。利己主義を乗越えようとする集団的な合目的性が不可欠である。利己主義は「~からの自由」であり、否定的・受動的な自由である。全体主義は利己主義を否認するが、実は己の利己主義を無意識に絶対化・正当化しているに過ぎない。全体主義は自由の否認であり、知性の破綻である。全体主義は利己主義以上に危険な役割を果たす。個人主義は民主的な志向を持つが、民主的で親和的な自由は「~への自由」であり、積極的・参加的な自由である。集団主義は利己主義の否定であるが、民主主義と結合すれば個人主義と結合する。個人主義も民主主義と結合すれば集団主義と結合する。個人主義も集団主義と同じように社会の親和的関係を強化する力を持つが、それだけでは社会の合目的的な力を獲得できない。集団主義も個人主義なしでは有機性を獲得できない。人間の合目的的な自由は「~からの自由」を否認・排除するのではなく、民主的な自由によって個人の自由を拡大・発展させようとする。
 自由と民主主義は個人主義と集団主義を否認するのではなく、両者の統一を求める。両者の統一によって、人間社会の合目的的な構造を獲得できる。民主主義の原理は極めて自己言及性が高い。人間の分子的・親和的結合を加速し、自己組織化的な力を持つ。個人と集団の合目的的な力を有機的に結合する。民主主義は集団の自己意識である。自由で民主的な討論によって集団は自己意識を獲得する。自由で民主的な討論は相互の批判力を獲得する。自分で自分を批判的に観察する事は容易ではない。自己を内部に閉じこめてしまえば、己を客観的に観察できない。自由で民主的な討論によってこそ、己を客観的に観察し、己を批判的に観察する能力を獲得できる。この事は集団についても同じであって、自由と民主主義は集団自身の批判力・反省力を高め、激変する環境への適応能力を高める。

 人類は長い間、ヘゲモニーを巡る闘争を繰返してきた。これはヘーゲル流に語れば「承認」を巡る闘争である。自由で民主的な構造を獲得した組織や社会はこのヘゲモニーを巡る闘争での優位性を一早く獲得した。ヘゲモニーは原子的に分裂した社会を分子的に結合再編する。軍事的な支配と服従の関係は原子的な物理的結合・再編であって、人間の持っている合目的性・有機性を低下させる関係でしかない。グラムシはこの関係を「機動戦」と「陣地戦」と言う定式で表現する。前者は人間社会の原子的・物理的結合であり、後者は分子的・親和的な結合である。物理化学の世界では、分子的な結合は電子の共有によって実現する。人間社会では私的財産の共有が人間社会の分子的な結合を加速する。人間社会が私的所有によって原子的な分裂状態になった事は必ずしも不幸な退化ではない。これは人間社会の原子的な盲目的・必然的結合から、自由な分子的・意識的結合を獲得するためには避けられない分裂であった。人間の分子的・意識的結合は私的所有の廃止ではなく、私的財産の共有・民主的コントロールによって獲得できる。

 人間は精神的動物である。従って、ヘゲモニーを巡る闘争は知性の優位性を巡る闘争でもあった。クラウゼヴィッツによれば、「戦争は外交の延長である」と言う。外交は国家の騙し合いでもあるが、この騙し合いは国家間の信用・信頼関係を醸成する関係でもある。人間はお互いの利益になるような騙し合いを繰返しながら進化してきた。人間はゼロサムゲームばかりを繰返してきたわけではない。クラウゼヴィッツは戦争を外交の延長として、騙し合い・妥協の手段として見る必要がある、と説いた。戦争そのものは外交の破綻であり、人間知性の破綻である。外交を戦争の手段にすれば知性の敗北である。人類の長い歴史を概観すれば、戦争と言う物理的な戦いも、結局知性の優位性を巡る戦いに終わった。己の軍事的・物理的な力に驕り高ぶった国家は、己自身の物理的な重圧に押しつぶされて破綻した。人間社会のヘゲモニーを巡る闘争は、結局の所、知性の優劣が勝敗を決めた。この知性の優位性を、人間社会はどのように獲得してきたか?。自由で民主的な社会構造こそがこの知性の優位性を高める事が出来る。
 戦争は個人に生死を架けた戦いを強いるから、人間の騙し合いの社会的機能が正常に駆動しなくなる。戦争は個人と集団を容易に一体化させる。だから、ファシズムは戦争と排外主義を志向するのだ。この一体化によって集団が個人化する。当初は、ナチスも日本軍部も大規模な長期戦を想定していなかった。言わば、取引材料として、外交の延長として、騙し合いの延長として短期決戦を想定して始めた。だが、実際は大規模な泥沼の長期戦になり、外交的な解決は不可能になった。国家が個人化したために、戦争は総力戦となり、国家自身が生死を架けた戦いをせざるを得なくなったのだ。
 戦争には機動戦と陣地戦がある。機動戦は短期決戦に有効で、長期戦は陣地戦になる。ファシズムは機動力を高めるが、民主主義は陣地力を高める。民主主義を破壊し、集団を個人化して高めた機動力を行使して、当初は華々しい成功を収めたが、陣地力はすっかり解体して消えていた。個人が国家のために次から次と消えて行くに従って、陣地も消えて行った。民主主義の陣営は絶えず敵陣営の胎内で、次から次と味方を獲得する。人間は一般的には己を死地に押しやるファシズムよりは、利益を与える自由を好むからである。恐怖によって人間を支配できても、それは一時的な効果しかないし、恐怖によっては経済効率も上がらない。人間を恐怖によってではなく、自由と民主主義によって、従って知性によって獲得した方が効果的である。自由と民主主義は、極めて長期の知的な陣地戦による戦いでしか獲得できない。
 「民主集中制」は機動戦型の闘争戦略である。この組織論は党の地下活動、軍事的な戦いには効果のあった組織論かも知れないが、党員の知性を著しく低下させる組織論でもある。この組織論は機動戦・短期決戦には効果があっても、陣地戦には無効だ。民主主義によって敵陣営の内部に味方を獲得できる訳がない。右翼の「大物」は自分を国家と一体化する。客観的には単なる詐欺行為でしかないのだが、自分の利権と国家の利権が一体化しているために、詐欺行為として自覚できない。自分で自分を騙して他人を騙すから、騙していると言う自覚がない。右翼の場合は立場上、こうした人間も英雄であり、成功者となる事が出来る。なぜなら、彼らはこうした詐欺によって己の歴史的任務を遂行しているからである。だから、彼らにはそれこそ命がけでついていく者が後を絶たない訳である。だが、「民主集中制」によって守られた左翼の「大物」もこうした錯誤を起こし易いし、起こしている。彼らの場合は国家ではなく「党」であるが、彼らは立場上、喜劇であり漫画である。彼らは歴史的任務を遂行しているのではなく、裏切っている。

 私的所有を敵視する左翼の知性は時代錯誤である。人間の自由は私的所有と共に始まったのだ。自由になる権利を放棄して、一体どうやって自由な社会を構築できるのか?。カンボジアの事例を見れば明らかなように、私的所有の廃止は自由の廃止である。結局の所、ポルポトを含めて全ての人間を私的所有の奴隷にしただけであった。ルソーが語るように私的所有は人間不平等の起源だから、私的所有には民主的なコントロールが不可欠である。自由は民主主義なしには成立しない。個人主義と集団主義は、自由と民主主義なしには統一できない。自由と民主主義によってこの統一を獲得出来なければ、ファシズムが個人と集団を物理的に統一する事になる。
 グラムシによれば、ファシズムは受動革命である、と言う。ファシズムは民主主義によってではなく、民主主義を否認する事によって個人主義と集団主義を結合する。自由によってではなく、支配と服従によって個人主義と集団主義を結合する。人間の積極性によってではなく、受動性によって個人主義と集団主義を結合する。ファシズムは労働者階級が分裂によって、己の民主的な階級的任務を解決できない時に荒れ狂う嵐である。本来、労働者階級に導かれるべき中間層が、労働者階級が自ら解決できないために、労働者階級に代わって支配と服従によってこの課題を解決しようとする運動である。教条主義とセクト主義は労働者階級に分裂と分断を持込むだけである。左翼がこれから脱け出せない時は、ファシズムが左翼に代わって課題を解決するしかなくなる。ファシズムは左翼の無責任の裏返しである。左翼の無責任は左翼自身の頭上に断頭台として降り掛かる。ナチスの行末を見ても分かるように、ファシズムは人間性そのものの解体である。従って、ファシズムによって一時的にはともかく、長い目で見れば利益を得る集団は存在しない。それは中間層自身の自殺行為でもある。