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「科学的社会主義」討論欄

『我々は何処からきて、どこへ!』

2016/6/28 百家繚乱

第10章 ネットワーク社会

 ① ネットワーク社会

 人間は精神的動物だから、人類社会の構造はネットワーク構造を持って発展してきた、と言える。だが、人間社会が原子的に分裂し、対立的な関係であればネットワーク構造は分断される。階級社会で原子的に分裂した人間社会は宗教的なネットワークで結合した。物質的には支配従属関係であるから、この宗教的ネットワークは共生的関係を支えると同時に、支配従属関係を覆い隠す役割を持っていた。他方では副次的な人間関係として市場を創発し、この市場を通じて分子的なネットワークを形成した。市場は共同体の支配従属関係から解放された人間の自由な交通・交流の場である。この市場では情報力が大きな影響力を持つ。従って、商人は知識人・僧侶でもあった。知識人・僧侶も商人として他の共同体と関わった。シルクロードは洋の東西を結ぶ物流のルートだけではなく、知性の交流のルートでもあった。火薬・ 羅針盤・ 活版印刷はルネッサンスの三大発明とも言われているが、実際には3つともに中国で発明されたものを改良・実用化したものだ。この事は人間社会の秩序を維持した官僚主義の長所と弱点を同時に表現している。多様で多くの独創的な知的能力を蓄積できるが、それを生かす事が出来ない。自ら生かす事が出来なかった知的能力が他人の力となって、その他人に隷属させる力に転化した。盲目的な官僚主義は絶えず他人を支配しようとするが、その力は己自身を隷属させる力に転化するだけである。民主主義によってコントロールされない官僚主義は敵対者に隷属・隷従する宿命を持つ。
 ルネッサンスは『東方見聞録』に見られるように、東洋の知性が西洋に伝搬した事が大きな刺激となったのは明かである。元帝国の西洋への侵攻も東西のネットワークを拡張する役割を果した。私的所有は社会構造に二重の役割を果した。一方は社会関係を原子的に分断し支配従属関係を強化した。他面では市場・契約関係を通じて人間の分子的なネットワークを構築した。従って、私的所有は人間社会の不平等の原因となって、共生的な関係に否定的な役割を果しているが、他面では人間を支配従属関係から解放し、自由な人間活動を通じて共生的なネットワークを加速する一面をも持っている。人間社会のネットワークが切断されると、社会関係は猜疑的・敵対的となる。ネットワークは騙し合いの関係でもあるが、信頼信用関係を構築する場でもある。ネットワークの切断・遮断は今日でも戦争・暴力を醸し出す。
 人間社会のネットワークは文字の刻印・彫刻を通じて形成された。これは貨幣の発生過程と類似・同期する。人間の自由な経済交流と知的なネットワークは類似・同期する。ルネッサンスにおける活版印刷は人間社会のネットワークに巨大な革命をもたらした。これまでは知的なネットワークは一部の知識人・僧侶の間に限られていた。このネットワーク社会に一般大衆を参加させる役割を果した。しかし、これはあくまで受動的な参加である。知識の担い手はあくまで一部の学者・文化人・僧侶である。産業革命・通信技術の発達と共にメディア産業が産れ、上部構造のイデオロギーが独自の歴史的役割を演じ始める。こうして中間層と一部の労働者階級が知的なネットワークの主体として歴史の舞台に登場した。ブルジョア革命は支配装置としてメディア産業を利用し、通信技術を拡張した。だが、この通信技術は次第に双方向の通信を可能にしてきた。大衆はもはやメディアの受け手だけではなく、自ら発信の主体に成り始めてきている。

 コンピュータの登場と共に情報革命が開始した。この情報革命とソ連の解体は不可分の関係を持つ。官僚主義の閉鎖性・秘密性と情報革命は否応なしに激突する。情報革命に敵対する社会関係・組織は歴史的な終焉に向かわざるを得ない。この情報革命はパソコン、携帯電話の登場と共に世界的な規模で加速し始めている。従来の情報機器は巨大組織だけが保有し、情報の独占を計る事が出来た。パソコン等の登場によって、一般の民衆が双方向でメディア産業に参加し、自らメディアの発信主体となる事が可能になった。今日の世界は政治的にも経済的にも世界は一体化したネットワーク社会となりつつある。だが、軍事力は依然として健在で人類社会は政治的に分断され、経済は資本主義的な関係によって規定されている。資本主義は半面でデジタルデバイドを産み出し、情報格差で不平等を拡大する可能性を持っている。従って、民主主義がネットワーク社会と結合しなければならない。人間の自由で民主的な関係は相互の親和的なネットワークを加速する。民主主義と結合したネットワーク社会は否応なしに、不平等と敵対するし、社会主義と結合する。

 ② 自己責任とネットワーク民主主義

 ネットワーク社会は世界的なルネッサンスを急速に加速する。ネットワーク社会では多様なサークル・党派・経済的・文化的組織が自己組織化的に発生してくる。個人はネットワークを手段として利用するが、多様なネットワークも個人を利用して成長する。ネットワークは独自のサイバー空間・仮想空間を出現させる。脳は身体のネットワークであるが、社会空間たるネットワークも脳と類似した機能を持ち始める。コンピュター自体はディジタル計算機であり、形式論理的な機械計算機である。従って、一個のコンピュータが生きた人間のように機能する事は出来ない。しかし、数多くのコンピューターが並列に繋がり、多くの人間が参加して来るとサイバー空間自体が人間化する。エジプトやチェニジア革命のようにサイバー空間が政治革命を起動するような事もある。サイバー空間ではネット通貨が流行する。仮想空間の通貨が匿名で成長しても限界はあるが、時には現実社会の通貨に転化する時もある。
 情報通信によって結合したネットワーク社会は極めて人間社会の自己言及力を高める。精神の波動性は急速に高まる。誰でも己の歴史をネットワーク社会に刻印する事が容易になり、ネットワーク社会に結合する事によって他人の歴史から学ぶ事が容易になる。雑音も大量に蓄積するから、個々の人間は検索力・課題意識を鮮明にし、高める事が必要になる。ネットワークによって社会の上部構造の自立性は一段と上昇する。ネットワーク上のゲームは利益第一主義から外れた好奇心の世界を拡大する。自由な好奇心が下部構造を揺動かす事も出来る。
 ネットワークには現実の社会矛盾が持ち込まれるから、時には自殺サイト・殺人サイトのような反社会的なサークルも形成される。これはサイバー空間自体が産み出した空間ではなく、反社会的な社会構造がサイバー空間に反射しただけである。ネットワーク空間は公開性と匿名性が同時に同居するから、それ自身で矛盾を抱えた空間でもある。公開性と匿名性はネットワークが自由な空間として拡大するためには欠かせない重要な要素である。この矛盾が産み出す対立と緊張がネットワーク成長の原動力である。自らは出来るだけ公開し、参加者の匿名性・秘密性は最大限に保障する事によって、自由な空間は成長する。あらゆるサイトが批判に対する抵抗力を高め、柔軟な組織力が求められる。これは人間の子供が大人になる時の成長過程と同じであって、ネットワーク社会に適応できない組織は急速に終焉するしかない。

 人間の自由を求める活動はサイバー空間で爆発する。現実社会では「~からの自由」が、自由の主要な意味を持つ。この自由は受動的な自由であって、真に人間を解放しない。「~への自由」は行動に責任と義務を発生させるから、どうしても人間は慎重に成り易い。それに対して、ネットワーク空間で発生する仮想空間は、人間の自由な参加と試行錯誤を容易にする。この仮想空間は現実社会で生きている人間が作る仮想空間であるから、全く空想の空間ではない。また、現実社会からの単なる逃避ではない。確かに一面では空想的で、逃避的な性格を持ってはいるが、現実社会では簡単に実行できない試行を仮想空間は実現可能にする。仮想空間は人間の積極的な参加を容易にする事によって、現実の社会空間の中での参加を加速する。
 今日のネットワークは仮想空間をも含んでいるから、バブルやポピュリズムによる偏向も発生しやすいが、こうした偏向やバブルは現実社会との軋轢・葛藤で長続きしない。むしろ、こうした偏向・バブルを反面教師にしながら独自の進化を遂げて行くのだ。人類の長い歴史は、絶えず反面教師を創造しながら、彼らとの葛藤・緊張を乗越えて進化してきた。仮想空間を抱えた今日のネットワークは世界的規模での人類の学習能力を加速度的に高めている。今日の多様な市民的・自主的なネットワークにイデオロギーや階級性を持込んで裁断するのは実に馬鹿げている。だが、不平等・格差・地球環境の問題はイデオロギー・階級性と不可分の関係になっている。従って、このネットワークの深層部では激烈な階級闘争が進行している。この深層部の闘争は表面に上昇するに従って、複雑な市民的表現形態を辿るのだ。
 労働者階級は多様な階層構造を持っており、その利益は多様な市民的・自主的表現形態を持つ。従って、社会主義者はこの市民的なネットワークに独善的なイデオロギーを持込むのではなく、同じ市民として自主的な判断・推理能力を持って、深部の力を感じ取る感性を獲得しなければならない。社会主義は市民社会を否定するのではなく、一国的に限定された狭量な市民性を乗越え、国際的な政治市民として徹底した思想である。従って、社会主義者も狭量な政治性を乗越え、国際的な政治市民として独自で自主的な判断・推理能力を獲得しなければこの作業を遂行できない。いずれ地球環境問題を震源地として、深部のマグマは爆発する時代が来る。この時代に人類が生き残るために果さなければならない社会主義者の課題と責任は余りにも大きい。今日の社会主義者は来たるべき時代のために己の誠実な歴史の刻印を残す責任がある。その点では今日の社会主義者にとって、かつて時代の課題と誠実に向き合ったグラムシ・トロツキーから学ぶべきものは余りにも大きい。己自身を批判的に観察する能力、自己批判・自己否定の力こそ、社会主義と人類の発展・成長の原動力である。

 ③ グローバル企業の社会化

 一般的には、大体のグローバル企業は企業理念として、顧客第一主義・社会的責任・労働者保護責任を掲げる。利益は社会的貢献の結果に過ぎない。利益第一主義は企業の社会的信用の失墜、長期的利益と成長の機会喪失を誘発しやすい。ネットワークが高度に発展した世界では『パナマ文書』に見られるように、タックス・ヘイブンは企業の信用を著しく失墜させる力として作用する。公害、汚職、脱税、粉飾、偽装も同様に企業の生命線に関わってくる。株式市場は如何なる企業にも平等に情報の透明性と公開性を要求する。社会的貢献を文字通りに優先し、利益は手段に過ぎない経営体は、所有関係の如何を越えて、社会化された企業である、と言える。もちろん、このような経営は労働者の参加なしに実現し得ないのは当然である。人間は機械ではない。社会貢献とは何かを、自分の頭で考え行動できる主体である。現場で社会貢献している労働者の参加なしで、社会貢献できる経営はあり得ない。
 需要と供給には無意識的な合目的性が働くために利益第一主義に誘導されやすい傾向を持つ。利益第一主義の基ではゼロサムゲームが中心となり、騙しあいの関係が前面に押し出されてくる。売る者は出来るだけ高く売り、買う者は出来るだけ安く買おうとする。だが、市場はアナーキーな世界ではなく、マクロな関係によって調整されるから、何か外的な合目的な力によって調整されているように見える。マクロな需給バランスはミクロな主体から見ると、外的な必然性として、「神の意志」として現れる。「神の意志」は、市場に働く無意識的な外的合目的性である。株式市場は利益第一主義で変動し易いために、度々バブルが発生しやすい。利益の出る企業の株価は実力以上に暴騰し、赤字企業、低利益企業は実力以下に評価されやすい。
 こうしたバブル期に短期的に利益を確保した経営者は神様のように持ち上げられ、経営理念に拘り、長期的成長と利益を目指した経営者は市場による低評価に苦しむことになる。だが、一旦バブルがはじけ、市場が逆回りし始めると、後者のような経営者には、大きな投資機会・飛躍の機会となる。一般的にはバブル期に成功した成り上がりの経営者は、市場から一時的には高い評価を受け、賞賛の対象になり易い。それに対して、暴落によって成功した経営者は周囲の不幸によって成功したために表面には出にくい。時には「ハゲタカ」呼ばわりをされる。つまり、成功した事を堂々と語り難い。しかし、この暴落によって成功する投資・経営こそが株式市場の生命力であり、この市場の持つ潜在力である。この投資・経営によって、企業の死んだ生命力が甦るのであり、市場のダイナミズムが復活してくるのである。グローバル企業の社会化は、国有化・自主管理ではなく、この市場の生命力・潜在力を活用する事なしには見えてこない。
 社会主義システムは人類社会の親和的な関係を国境を越えて求める。人類は国境を越えなければ合目的性を獲得できない。社会主義は人類の盲目的なシステムを合目的的な関係に転化しようとするシステムである。この人類の合目的性は市場から自由を奪うことによっては実現しない。市場の持つ民主主義的な潜在力・可能性を国境を越えて求める事によって、グローバル企業の社会性・国際性を活用する道に進路を取らなければならない。自由と民主主義なしに社会主義システムは存続し得ない。今日のグローバル企業を「世界政府」の所有にしようとすれば、「世界政府」は自らの官僚的な重力で自壊するしかないだろう。グローバル企業の社会化は国境を越えた民主主義的な市場を通じてこそ実現の可能性が開かれる。

 ④ 株式市場の可能性

 株式市場では、誰でも「一国一城の主」である。
 株式市場では、経営者は絶えずリストラの嵐に飲み込まれている。

 株式市場は利益第一主義で変動し易い。一般的には市場関係は試行錯誤の社会関係である。一定のリズムを持って振動する性向があるが、このリズムは実際の経済内外の事象によって大きく変動しやすい。株式市場は半年先まで予想して振動(上下)する、と言われている。一般的には、現実の経済変動を超えて両端に移動する。多くの投資家にとっては、この行き過ぎた時点が投資のチャンスである。株式は安過ぎた時に買、高過ぎる時に売れば多くの利益を得る。この利益は必要以上に下げ過ぎる事、必要以上に上がり過ぎる事等を防ぐ事によって発生した社会的貢献利益でもある。従って、キャピタル・ゲインは単なる賭博行為による利益とは違って、経済市場に安定性をもたらした成果でもある。確かに騙し合いの成果としての一面を持つが、利益第一で盲目的に誘導されている市場に対して、ある種の知的な計画性を与える役割りを果たす。市場参加者は株価の変動を通じて、マクロな経済的将来をある程度予測する事が出来る。

 今日の社会主義モデルは、未だに国有化モデル、自主管理モデル、協同組合モデルから脱出出来ていない。これは一国社会主義モデルから脱出できていないからである。社会主義は資本主義以上に国境の枠組みを超えたシステムだから、こうした古いモデルだけでは、今日の世界での社会主義システムを展望できない。今日のグローバル企業を国境によって分断支配するモデルは時代錯誤である。
 金融資本には、銀行・保険・証券機能がある。これらの機能は利益が相反し、牽制し合う関係に立っている。従って、この機能が融合し、牽制関係に障害が発生すると、金融が暴走してバブルを産み、全社会的な経済危機を惹起する。銀行機能は公益性高く、長期的利益、成長戦略、に立って証券を監視する役割を持つ。この銀行が証券と融合し、銀行が証券化すれば、金融によるコントロールが効かない、自作自演のバブルが登場する。銀行資本は、公益性が高いため、社会と市場から厳しく監視されねばならない。「EU」では不十分ながらも「金融コングロマリット指令」をだして規制を始めている。
 銀行資本を公共財として厳しく監視し、統制できれば、その他の金融資本、産業資本をコントロールする事も可能となる。保険・証券も公益性は極めて高いから、その運用の透明性・公開性・公平性は厳しく監視されねばならない。金融資本を民主的にコントロールすれば産業資本の社会化を促進する事が出来る。今日、問題となっている、不透明なヘッジファンド、タックス・ヘイブン、地球環境問題、貧困問題を解決するために、銀行資本の公共財化を促進する国際的圧力が不可欠である。
 元来、企業にとって企業理念こそが目的であり、利益は結果過ぎない。しかし、現在のグローバル企業と株式市場では利益第一主義が横行し、様々な社会問題を惹起している。この現状を変えるには、世界の金融市場と金融資本に対する民主的なコントロールが不可欠である。とりわけ、銀行資本に対するコントロール、透明性、公開性の強化が必要だ。銀行資本が公共財として機能すれば、グローバル企業の社会化を加速できるだろう。企業を利益第一主義で評価するのではなく、その社会貢献度によって評価するシステムは可能である。こうした評価システムは、更に一層、経済社会の市場化を加速する。

 社会主義システムは資本主義システムのもつ、こうした市場の生命力・潜在力、あるいはグローバル企業の社会化の彼岸にあるのではない。社会主義システムは、国有化モデル、自主管理モデル、協同組合モデルを含みながらも、多種多様な生産消費流通モデルを含みつつ、グローバル企業の社会化をも構想するシステムである。金融市場の改革、世界市場に対する民主的で公開な圧力を通じて、利益第一主義の企業経営から社会貢献第一主義の社会経済へと誘導する方法を模索しなければならない。人類は長い間不可能を可能にする事によって進歩してきた。今日の新自由主義が闊歩する世界にあっては不可能な課題に見えるが、『パナマ文書』の公開、ドーピング課税の模索、マイクロクレジット運動に見られるように、その模索は開始されている。如何なる企業も、その第一理念に社会貢献を掲げている限り、其の理念を文字通り民主的で公開な力で強制する事は可能である。この市場の力を生み出すのは市場自身の力だけではなく、民主的で国際的な政治圧力が不可欠である。

 ⑤ 革命とビジネス

 長い間、左翼の世界では社会主義計画経済と官僚統制経済は同一であった。社会主義とは経済から偶然性を排除する事であった。人為淘汰を排除した経済は資本主義以上の盲目的な経済でしかなかった。民主主義を排除した経済は否応なしに盲目的にならざるを得ないのだ。人間社会の市場には、多かれ、少なかれ、市場参加者の民主的な意思決定が反映する。この民主性には、市場の公開性・公平性が重要な役割を果たす。この民主的な意思決定を官僚が代行できるのは、ほんの一時的で偶然な一瞬しかない。長い間、左翼の世界では、この一瞬を永続化できると勘違いされてきた。ソ連が解体した今日でも、左翼の世界では社会主義経済とは国有化・自主管理を意味している。経済学的には、左翼の世界は思考停止が続いている。民主的な意思決定による人為淘汰なしで、パラダイム・シフトは惹起しない。社会主義経済が停滞・破綻したのは人為淘汰と偶然性を排除したからである。古い左翼はいまだに、ビジネス(危険性・チャンス)から逃げ出すために必死である。苦しみ(矛盾)から脱出するのではなく、苦しみに耐えている「不屈の自己」を正当化しているに過ぎない。

 左右の政治勢力の経済政策は相対立するが、革命後には否応なしに敵対する側の経済政策から学ぶ事なしには安定した政治権力を確保出来ない。とりわけ平和的な革命であれば、革命前にその準備が出来ていなければならない。この準備が不足していれば、この政権移行は危機的で破壊的な傾向を帯びてくる。つまり平和的な革命として成就する事が困難になる。革命とビジネスは全く相対立する概念のように見られるが、実はビジネス上でも、絶えず、「経営革命・技術革命・文化革命」等々のように、市場から絶えず革命への圧力が架かっている。革命においても、ビジネス上の革命の成功なしには政治革命も成就し得ない。「危機はチャンスである」という命題はビジネス上だけでなく、政治上でも共通している。実は投資の道と革命の道には大いなる共通項がある。
 人間社会は自己言及性が極めて高いために、正確な政治・経済の予測は極めて困難である。だが、試行錯誤を繰り返す中で一定の確率論的な予測は可能である。政治上においても、ビジネス上においても、マクロな経済予測の精度を高める事は成功するための必要不可欠な要件である。従って、革命の技術とビジネスの技術は敵対的な関係になっていない。むしろ、ビジネス上の変革を通じて政治変革を誘導する技術も必要となる。社会主義システムの発展と加速のためにビジネスと株式市場を活用する事は可能であるばかりでなく、必要不可欠な政策である。社会主主義システムは一国的なシステムではないから、今日のグローバル企業を国境で分断支配するのではなく、グローバルな株式市場や金融市場をつうじてグローバル企業の社会化を模索する必要がる。グローバル企業の社会化を推し進めるためには、国際的な金融市場の公益化と、株式市場に対する透明性・公開性・公平性・民主制の圧力が不可欠である。グロバル・スタンダードを利益第一主義から社会貢献第一主義に転換する必要がある。そのために、左翼は市場から逃げるのではなく、批判的に参加する事が必要となる。