第11章 インターナショナルと組織論
① インターナショナル
第二次世界大戦において重要な個性を発揮したチャーチルは反共のチャンピオンであったが、同時にブルジョア民主主義に対しては誠実な信者でもあった。近代民主主義は狭い視野を持っていても、社会主義を創発する可能性をも持っている。労働者階級の意志は社会主義の思想でしか表現形態を持つわけではない。時には近代民主主義やイスラム教のような宗教的な表現形態でその意志を実現する時もある。マルクスはリンカーンの思想を高く評価したが、リンカーンの思想はアメリカの建国思想でもある。グラムシはブッタを高く評価する。宗教思想は人間社会の共生的な関係を維持する上では今日の社会でも極めて重要な役割を担っている。ルーズベルトはハワイでの日本による真珠湾攻撃を事前に知っていた、と言う歴史家もいるが、事実はどうあれ、戦争を指揮する政治家は同時に戦争の司令官でもある。平時の政治家は騙し合いのうまい外交的な弁舌家で済んでも、戦時の政治家は兵士を生死の戦いに立たせるのだから、兵士に対する誠実性、戦場に向かわせる説得力が必要となる。真珠湾攻撃はこの誠実性・説得力をルーズベルトに与えたのだ。 世界の労働者階級はチャーチル・ルーズベルト・スターリンに騙されて、この戦争を遂行した訳ではない。その逆である。世界の労働者階級は世界に君臨する神々しい英雄達を戴ながら、人類のこの分水嶺を渡ったのだ。人類の「分水嶺からの自由」はファシズムへと己を導えた。人間が真に自由になるためには「分水嶺への自由」に向かって進む以外になかったのだ。だが、人類はこの分水嶺を軍事的に渡ったに過ぎない。軍事的に渡るためには軍事的な司令官・英雄達が必要だった。今日の人類はこの分水嶺を政治的に、平和的・民主的に渡る事が迫られている。軍事力は過去の遺物である。従って、軍事的司令官も過去の遺物である。軍事力による行進では半分渡ったに過ぎない。人類はまだその全身を渡り切っていない。
西島栄氏によれば、「革命期における嵐の時代にはヘゲモニーの概念が消えて無くなる」という。興味深い指摘である。革命期には大衆が直接に政治に参加してくるから、ヘゲモニーの概念の必要がなくなる。ヘゲモニーを巡る戦いは人類の分子的な段階で、人類社会が自己組織化してくる時代の闘いである。人類の知性と意志がどこに向かって進むべきなのか、と言う議論が盛んになればヘゲモニーは物質的な力となって人類社会に作用する。この物質的力と人類社会が結合すれば、ヘゲモニーも消えて無くなる訳である。ヘゲモニーは自己組織化する物質力と人類社会が分離・対立している分子的段階の概念だ。だが、ヘゲモニーなしではこの分離・対立を乗越えられない。今日の人類は分水嶺からの逃避では生きられない事を自然の生態系は明かにしつつある。軍事力なしで、従って神々しい英雄なしで、平和的・民主的な物質力でこの分水嶺を再び行進しなければならない。平和的民主的な行進をするには何をなすべきか?。真剣な討論を世界的規模でする必要がある。そのためにはこの第二次世界大戦から深く学ばねばならない。なぜ、こんな戦争が起きたのか?。人類はこの戦争をどのように乗越えたのか?。軍事的な闘いと平和的な闘いは、戦略的にも戦術的にも全く異なる。だが、人間に対する願い、平和と自由に対する人間の願いは同じである。どうやって人類は己の積極性を引出し、勇気と自由な意志でこの分水嶺を超えたのか?。この教訓から学ばねばならない。第一次世界大戦では、レーニン・トロツキーは極めて重要な役割を果たしたが、第二次世界大戦は英雄達の勝利ではなく、世界の平和と民主主義を願う民衆の勝利だった。スターリンはむしろ、この民衆の対極で数多くの裏切り行為を繰返していた。この戦争を持って、人類史上における「神々しい英雄」の時代が終わった事をスターリン自身が実証した。
ファシズムは人間を忠誠心によって支配しようとする。ファシズムは人間社会に秩序だったある種の機械的な物質的美学を産み出す。暴力と忠誠心によって支配された集団は民主的な集団にはない特殊な物質的機動力を創造する。この機動力は短期決戦型の戦いではとんでもない威力を発揮する。この威力に人間は圧倒され卑屈になり、受動的になる。受動性が受動性を加速する、と言う悪循環に陥ると人間社会はすっかり積極性・抵抗性を失う。スターリン現象もある程度こうした消極性から発生した現象でもある。だが、ファシズムとスターリン現象は根本的に異なる。ファシズムを陰で動かしていたのはブルジョワジーであるが、スターリン現象は労働者階級の消極性を基盤にした官僚主義に過ぎない。ファシズムは最初から労働者階級に対する敵対意識によって産れたから、いずれはスターリン体制と激突する宿命にあった。スターリンはこの事をすっかり見落として、ヒットラーと取引した。スターリンはヒットラーに騙されたが、ヒットラーの方がスターリンより先を見えていた訳ではない。スターリンはヒットラーの無知(鞭)を知性と勘違いして起きた喜劇である。だが、この喜劇による激突は労働者階級を積極化させ、下からの民主的なエネルギーを爆発させた。
人間の積極的・分子的な自由は自己組織化し、精神と同じような波動性を持つ。世界各国で開始されたパルチザン闘争は精神と同じような波動性となって展開された。民主的な運動は自己言及的な運動だから、極めて高い学習能力と自己展開能力を持つ。パルチザン闘争の指導者は個性的だが、少なくとも戦時には独善主義・セクト主義とは無縁であって、徹底的に統一を志向して勝利した。中国の第二次国共合作は素晴らしい統一戦線であった。統一戦線は下方で眠っている力を目覚めさせ、受動性によって分解されていた力を分子的に再結合する。人間の積極性は社会的分子的な再結合によってのみ甦る。この再結合を実現するには、古い固定観念・教条主義を乗越える必要がある。民主主義の原理は人間の分子的に結合した力が原子的に自立し、逆に原子的に人間社会を支配する関係への抵抗である。従って、民主主義は人類社会の己自身との闘いである。己自身の力によって失った分子的な関係の再結合である。結合は再結合によって初めて生きた有機的な力となる。資本主義的な生産様式は破壊すべき契機ではなく、人類社会の有機的・合目的的な関係を創発するための契機であり、乗越えるべき契機である。資本主義的な生産様式の破壊ではなく、この様式が産出す「失敗」に対する抵抗・対抗が合目的的な再結合を加速する。
資本主義的な生産様式は自由な契約を基盤としている。この基盤は、社会主義的な生産様式に於いても最大限尊重すべきである。だが、この自由な契約は多様な失敗や矛盾を惹起する。この失敗・矛盾は多くの人間の不自由・不平等になる。従って、資本主義的生産様式に対する抵抗・対抗は、「自由」に対する抵抗・対抗ではなく、より一層高い「自由」を目指す戦いでなければならない。人間の戦いにおいては「来るものは拒まず、去る者は追わず」と言う戦略が不可欠だ。人間には多様な可能性と潜在力がある。最初は大きな役割を期待できなくても、分子的な結合によって表面的・外面的には見えなかった潜在力・可能性が顕現して来る。去る者を追って相手の自由に制限を加えたり、打撃を与えれば再び戻る可能性を閉ざしてしまうし、来る者に警戒心を与えてしまう。人間は自由であり、自由のためにこそ努力する。この自由を尊重する事は自己組織化のためには決定的な要件である。教条的でセクト的な活動・戦略は来る者を拒み、去る者を追う戦略になってしまう。資本主義的な生産様式にも多様な可能性と潜在力を持っている。社会主義的な生産様式は、この可能性と潜在力を破壊・廃棄する事によってではなく、この可能性と潜在力を引出した地平に見えてくる。
人類の進化の歴史は自由のための歴史でもある。戦争は古い官僚主義的支配を解体するから、人間の社会的自由の空間を拡大した。同時に戦争は軍事力によって他者を支配する闘争だから、自由を奪う役割も果たす。「~からの自由」は戦争・戦争状態を惹起する性向を持たざるを得ない。「~への自由」は平和的な自由を実現する。この積極的な自由は私的所有によって分断される。平和的・分子的自由は富を産み出し、この富は剰余生産物となって階級分裂の原因となった。資本主義的な生産様式ではこの富は利潤となる。利益は人間社会に原子的に働く力である。利益自体は契約によって、従って人間の分子的・親和的な関係によって産み出された力であるが、この力が自己目的化すると共生的な社会関係には原子的な力として現れる。従って、人間が真に自由を獲得するには、積極的な自由によって物を産み出すだけでなく、産み出したものを再取得する作業が必要だ。この再取得は政治的な富の再配分である。富や利益は能力や身分によって、多様で多元的な格差・不平等を産み出す。この格差・不平等は一面では「~からの自由」によって発生する戦争状態を防ぐ効果があるが、積極的な自由を奪う側面もある。積極的な自由・民主主義は富を再配分する事によって、格差・不平等を克服する。従って、この再取得は単なる「~への自由」ではなく合目的的な自由である。単に親和的な関係による結果としての自由ではなく、自己意識によって獲得した合目的的な自由である。民主的な政治関係と安定した経済関係は不可分な関係となっている。
人間社会の経済的な能動性と政治的な能動性は不可分な関係になっている。政治的な受動性は、一時的には経済的機動力を高める事もあるが、持続性を欠いた盲目的な機動力と成り易い。持続性のある合目的的な力は陣地力であり、民主的な政治関係と再結合した経済関係である。人類社会の政治関係は国家関係として展開されてきた。この国家関係はゼロサムゲーム的に成り易く、利己的・原子的な関係として発展してきた。交通通信技術の発展によって経済がグローバル化すると経済関係は分子的・親和的に発展する可能性が高まってくる。第二次世界大戦の結果として、帝国主義的な世界分割が解体した。だが、今日の世界は国境を越えた「帝国」によって、世界の政治関係は原子的に分断されている。「帝国」は経済的には国境をこえて支配するが、政治的には国境によって世界政治を分断支配する。この分断支配に対する否定が社会主義的な政治経済関係である。社会主義的な経済関係は国有化・自主管理的な経済関係と同列視されてきたが、社会主義的な経済関係は国境を越えた民主的な政治と再結合した経済関係として考えるべきである。
② 情報戦
加藤哲郎氏によれば、情報社会における今日の戦いは「機動戦」と「陣地戦」から「情報戦」の戦いの時代である、と言う。人間社会の経済関係はある種の機動的な関係である。それに対して政治的な関係は陣地的な関係である。情報はこの機動性と陣地性を有機的に結合する。ファシズムは情報(知性)を失い、機動性に陣地性が飲込まれた人間社会の構造である。スターリン現象は情報を失い、陣地性に機動性が飲込まれた人間社会の構造である。東側ではファシズムにスターリン体制が勝利したように見えた。西側でさえ、スターリンの死は「スターリン暴落」となって世界を震撼させた。東側では、皮肉にも「フルシチョフの秘密報告」となって、中ソ対立の引き金になった。「スターリングラードの戦い」を指揮したゲオルギー・ジューコフ元帥がこの「秘密報告」で重要な役割を果したのは皮肉ではない。西側では自由主義がファシズムに勝利したように見えた。だが、真に勝利したのは両陣営の統一であり、情報戦であり、民主主義である。
機動戦と陣地戦を論じたグラムシは党を知識人と呼んだように、情報戦の重要性を認識していたのは確実である。情報力が機動力と陣地力を有機的に結合する。今日の情報社会でも機動力と陣地力は同時に不可欠な要素であって、情報力だけでは力にならない。機動力は一時的には個々の要素の自立性を奪い全体を原子的に結合する事によって産み出される力である。陣地力は個々の要素の自立性を尊重し、人間の持つ積極性・創造性を引出す分子的力である。中国の「長征」はパルチザン的な陣地戦が主要な戦いであった。この陣地を守るためには強力な機動力をも必要とした。他方では、共産党は都市部でも中国人民に広範な影響力を持っていた。第二次国共合作はこの影響力の成果である。この影響力を確保するためには、機動力を持った地下組織を必要とした。この機動力と陣地力を結合したのは、『矛盾論』であり、この矛盾から脱出するための討論である。トロツキーは「革命は最高の芸術である」と言う。ジューコフはスターリングラードでソ連が保持していた陣地力と機動力を芸術的に結合した。この芸術はジューコフ(指揮者)だけではなく、戦争の苦しみから抜け出そうとして呻吟していた兵士・人民の集団的な知恵の総合でもあった。芸術は一般的には直観の世界であるが、最高の理性は最高の芸術でもある。
インターナショナルは労働者階級の国際的な機動力と陣地力を結合するネットワークである。このインターナショナルはイラク戦争で明瞭な姿を世界に現した。コミンテルンの解散でインターナショナルが消えたわけではない。第一次世界大戦はコミンテルンを誕生させたが、第二次世界大戦はこのコミンテルンを解散させた。これは新しいインターナショナルが世界大戦と言う人類の灼熱の地獄の中で地下から柔軟な姿で現れたからである。この自立的な自己組織化するインターナショナルによって、「民主集中制」のコミンテルンが機能不全となった。これは第二次世界大戦で誕生した自立的な陣地力が、機動戦を神聖化するコミンテルンを解体したのだ。
元来、機動力と陣地力は排他的な関係にはなっていない。社会の安定した平和的な関係を保つには、時には原子的な結合も必要となる。今日の労働者は8時間労働制・週休2日制等の労働保護制がある。余暇時間の拡大は人間社会の発展のためには不可欠である。だが、一定の労働時間内で労働者が自立性を失うのは非人間的であるとは言えない。民主主義の原理はこの失った自立性を取り戻すためには不可欠な原理である。民主主義が無ければ、この失った自立性は独り歩きして、益々人間から自立性を剥奪する力を持つ事になる。従って、人間は己の機動力で失ったものを陣地力で取り戻さねばならない。人間の機動力は多様な物質や関係を創造するが、それだけでは半分の事しか成遂げていない。これを再び陣地力で再取得する作業が不可欠である。人間社会の機動的な関係にも民主的な関係は有効なだけでなく、益々不可欠な要素になってきているが、労働時間内においては限度がある。労働時間外においては、陣地的な関係が主要な関係であり、機動的な関係を持込み過ぎれば縮小均衡へと向かう。
情報社会では、情報自身が人間社会の機動力・陣地力として顕現する。その典型例がサイバー空間であり、シュミレーションである。古来から、人類社会は己の機動力・陣地力を知性によって結合する戦いを繰返してきたが、今日の情報社会は知性自身が機動力・陣地力として現れるような闘いを強いられている。情報社会では、誰でもがスナイパーにもドイツ兵・ソ連兵・ジューコフ・フルシチョフにもなれる。ナチスに成りたがる者は余りいないだろうが、少しは居そうである。「親衛隊」はアイドルの世界では人気がある。政治的には全く異なるが、心理的には若干の共通性がある。情報空間は自由な空間だから、ある意味では「何でもアリ」の空間である。この空間を否定的に見るのは馬鹿げている。人間はこうした空間を作りながら、試行錯誤して進化してきたのだ。ただ、こうした空間は特殊な参謀室・情報機関だけに限られていただけに過ぎない。今日の情報社会はこの特殊な参謀室・情報機関を一般に開放し、誰でもが主体となって参加できるようにしただけである。
サイバー空間は造反有理の世界である。中国の文化大革命は中国共産党の官僚主義批判から始まったし、官僚主義批判を底流とした運動であったのは明かである。サイバー空間では誰も『毛語録』を掲げていないし、「ゲイツ語録」も大した力にならない。だが、「造反有理」・官僚主義批判では共通する。それは大衆が管理官僚たちを押しのけて自由な空間の主役として参入して来たからである。この空間では民主主義官僚ですら長生きは困難である。一時的には独裁者気取りが超人気になるが、「麻生太郎首相」のように漫画だけで終わる。この空間の持つ現実的政治力はチェニジアやエジプトで示された。元来、近代科学・近代民主主義は古い固定観念・教条主義を批判する思考から始まった。近代科学は精神的な造反有理によって誕生した。近代民主主義はこれを実践してきた。サイバー空間で誕生している民主主義は国境を楽々と超える。今日のサイバー空間では、この国境を越えた民主主義が現実化しようと必死にもがいている。
③ 民主集中制
革命家は己の過去を批判的に反省する能力を確保しなければ、革命家として活きられない。
公開の自由で民主的な討論は党員一人々々の発信力を高める。
徳川家康の「見ざる、聞かざる、言わざる」の格言は興味深い。人間は誰でも、見たり聞いたり、言った事には責任と言うものが発生する。政商・小佐野賢治は田中角栄の「ロッキード疑獄」事件の国会答弁で明言を吐いた、「記憶にありません」と。何やら、アメリカの「リーマン事件」公聴会でも似たような発言がある。刑法上も犯罪である事を認識していなければ刑法上の軽減がある。精神に異常があれば刑事事件ではなくなる。人間社会では何事も知っていれば、知っている事に対する責任が発生する事を意味している。徳川家康の言いたい事は余計な事を知ったり、言ったりして社会を混乱させるな、と言う事だろう。ある意味では名言であり、真実である。高橋哲哉氏の『戦後責任論』によれば、人間のコミュニケーション社会では様々な呼びかけがあり、一般的には呼びかけられたら応答の責任が発生すると言う。「おはよう」と呼びかけられたら、応答の責任が発生する。だが、メディアからも多様な呼びかけがあるから、応答の責任には選択の権利がある。知っている事に対しても同じであって、選択の権利がある。ユダヤ人の虐殺を知っていながら何もしなかったからと言って、それだけでは犯罪を構成しない。だが、誰でも犯罪を知りながら、何もしなければ道義的な責任を問われる。言うことは呼びかけと似たような行為だから、相手が応答したら、言った事に対する道義的な責任が発生する。だが、人間社会でこの責任を厳しく問い詰めすぎれば、徳川家康の格言が光り出す。サイバー空間に参加する者も、この空間そのものにも学習能力と責任能力がある。個人も空間も多様な経験と討論でこの能力は自己言及的に進化する。人間の好奇心は対象を分析・分解・解剖する働きだから、それだけでは危険な役割を果す事もあるが、愛情の働きは自由な好奇心を媒介にして誕生するのだ。自由な好奇心には民主的な規制も必要だが、この好奇心を奪えば愛情も奪われる。サイバー空間は人類の知性だけでなく、人類自身の直観力・感性を自己言及的に加速する。
「民主集中制」の組織論を厳密に適用している左翼は今日では極めて少数になった。だが、中国のように一党独裁を維持してる「社会主義国」はまだあるし、日本共産党はまだ時代錯誤から脱け出せていない。この組織論は代行主義となって、「見ざる、聞かざる、言わざる」の党風を産み出す。個々の党員は自分の頭で考える知性が著しく低下する。これはソ連や、今日の日本共産党を見れば明らかである。党内民主主義と公開の討論なしで一体どうやって自分の頭で考える事が出来るのだろう。自分の頭で考えれば誰だって行動したくなる。当然それは自立的な行動となり、分派や潮流の発生になるのは当然だ。分派は解党主義になると言う議論はよくわかる。党内民主主義のない党で分派を認めれば、その可能性は十分にある。ソ連の解体と同じ現象だ。一般的にはどんな党にも分派や潮流・サークルと言うものがあって、その討論で党内民主主義が成立している。日本共産党がソ連共産党と同じ党ならば、一刻も早く解党した方が日本の民主主義の為になる。もし、本当に党内民主主義のある党ならば、こんな馬鹿げた組織論を一刻も早く放棄して出直す勇気を持つべきだ。
日本社会は集団主義的構造がいまだに強力な力として働き、この構造は個人の組織に対する受動性として機能する。集団に対する受動性は日本社会の過労と疲弊を生み出し、日本社会全体の活力を著しく低下させている。高度成長期には集団主義は社会発展の活力・積極性として働くが、低成長期・停滞期には我慢比べ・奴隷主主義に転化する。労働者の消極性・受動性によって、集団の協調関係は原子化され、表面的な調和になり、共生的な関係の解体が進行している。日本社会全体が己の社会矛盾について「見ざる、聞かざる、言わざる」の受動的構造で活力を低下させている。この集団主義的悪弊に対する抵抗として、日本共産党の存在価値は低下していない。日本社会の矛盾を直視し、それを感じ取って発言する組織として大きな社会的潜在能力を持っている。だが、共産党自身がこうした集団主義的悪弊に取り付かれ、日本社会全体と同じように、或いはそれ以上に活力を失いつつある。左翼は真実性と公開性を力にするから、こうした受動性は右翼以上に力を低下させる。己自身の矛盾に対する「見ざる、聞かざる、言わざる」の民主集中制は日本社会の活力低下以上の力で共産党自身を襲っている。
サイバー空間の参謀室・指令室には一般大衆が押し寄せてくる。「民主集中制」の組織論では、この押し寄せてくる一般大衆と激突するか、己自身をサイバー空間から排除するしかない。自由な情報空間から己を排除して、この情報戦で生残れる訳がない。これは一党独裁でも同じ事である。とは言え、変化の兆しは若干みられるようだが、この変化は余りにも時代の変化の速度から立ち遅れすぎている。党の権威をサイバー空間に押し付ければ、自分の頭で考えようとする空間は拒否反応する。サイバー空間の中で自己組織化する党として、サイバー空間自身が作っていく党として民主的に開放する作業が必要だ。国境を軽々と超えるこのサイバー空間には素晴らしい可能性の扉が開いている。
人間は宗教だけではなく、政治的にも魂の動物だ。与えられた科学・化学だけではなく、自ら作る化学をも欲している。与える事を過小評価してはならないし、左翼は与える事に万感の自信を持って望まねばならない。だが、同じだけ拒否される事を恐れてはならない。拒否は受け入れの準備であり、討論がこの作業を完結する。どう説明したら納得できるのか、もがき苦しむ姿をサイバー空間は監視する。突然、サイバー空間は必要に迫られてこの姿を己の姿として受け入れる。この一瞬でサイバー空間は現実化する。サイバー空間は人間社会の道具でもなければ玩具でもない。この空間は生きた人間生活の反射であり、生きた人間生活を創造する写像だ。短期的な視点から見ると、このサイバー空間は危険極まりないリスクを持っている。長期的な視点から見れば、これほど予測不能の人間社会を平和的安定的に管理できる手段はない。人間は誰でも未来に生きようとするから、予測不能の人間でも、共生的な関係に己の未来を見ようとする本性を持つ。この可能性を信じ、現実化する事が左翼の責任である。この信念は宗教的な信念とは全く異質であって、自由で民主的な討論による政治的な確信である。