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「科学的社会主義」討論欄

『我々は何処からきて、どこへ!』

2016/6/28 百家繚乱

第12章 我々は何処からきて、何処へ?

 ① 合目的性の弁証法

 生命は物質の延長として、物質の淘汰の力学(自然淘汰)で誕生した。生命現象はこの淘汰の歴史を自らのうちに刻印・記憶する事によって、己自身を再生産する物質運動である。己自身の再生産の過程は単なる淘汰の過程ではなく、記憶(結果)を原因(目的)とする合目的的な物質運動である。この生命過程は「人為的な過程」と同等な物質運動となる。この合目的性は個体と環境間の合目的性ではなく、遺伝情報とタンパク質・細胞器官の関係における合目的性である。個体と環境の関係は、刺激による反応という機械的な関係でしかない。デカルトが「人間機械論」を著して以来、長い間生命運動は機械的な物質運動の延長として考えられてきた。ヘーゲルは生命の世界に合目的性の概念を導入した。マルクス・エンゲルスはこのヘーゲルの考えを観念論として退け、物質の合目的的な運動は人間特有の現象であると考えた。

 生物学会に於いても、機械の合目的性と生命の合目的性を区別できないために、機械の合目的性を否認する事によって、生命の合目的性をも否認する議論が横行している。機械の合目的性は人工的な特性であるが、生命の合目的性は自らの歴史を通じて獲得してきた特性である。ドリューシュが語るように、この合目的性は動的合目的性であり、周辺の環境に合わせて変幻自在に変動する。一個の細胞が、チンパンジーや人間のような知的な生命体になる機械など、今日の物理化学・機械工学は全く考えられない。個体発生過程は物質の自己展開過程(否定の否定)であり、物理化学の彼岸にある。個体発生過程は極めて高い自己言及過程であり、合目的的な淘汰が組み込まれている。
 人間とチンパンジーの遺伝子は98%が共通する。人間は確かにその他の動物とは違って、道具使用・言語活動・自我では、極めて特有の能力を持っている。しかし、これは相対的な区別であって、絶対的な区別ではない。他の動物に於いても、広範な領域で道具使用・道具創造が認められる。極めて優れたコミュニケーション能力を持った動物行動も認められる。盲目的な機械から、突然合目的的な精神が出現したと言う議論こそ観念論である。物質と精神の間には長い中間段階が存在したと考えるべきだ。生命は精神活動の基盤である。生命のない精神は単なる機械の随伴現象に過ぎない。結局の所、生命の合目的性の否認は精神の合目的性の否認へと転化せざるを得なくなる。物質と精神の間には合目的的な物質システムが存在している。生命38億年の歴史は、合目的性・予測能力を巡る戦いと共生の歴史でもあった。

 物質は物理化学的には必然性の奴隷であるから、共生関係と言う事はあり得ない。だが、生命現象における多細胞生物は共生する事によって、システムの安定性を動的に高める。物質の共生関係は人間において初めて現れた訳ではない。生命体の共生関係は生命の合目的性を端的に表現する。生命の共生関係は脳器官の獲得によって劇的に変化する。この器官の獲得によって生命体の共生関係は著しく高まり、更に記憶装置として機能する事によって個体の環世界に対する予測能力を獲得した。生命体は利己的な遺伝子によって支配されながらも、実際の所、生命の歴史は物質システムの共生関係の自己創出過程であったのである。生命誌においては共生関係の強化が合目的性・予測能力の強化と連動してきた。

 脳は環世界と身体の記憶装置であるが、遺伝子によって規定された本能活動の補完としての記憶から出発した。しかし、脳が進化するに従い、学習能力が向上してくる。次第に本能が学習情報による制御を補完する関係に転化する。遺伝情報によってではなく、学習情報によって身体器官を制御する。生命における始めての遺伝情報からの離陸である。この遺伝情報から離陸した学習情報は個体の固有な意識として刻印される。この意識は自己を意識できないため、無意識的な意識に留まっている。個体は遺伝情報によってではなく、意識によって制御される。身体は本能的・機械的に制御されるのではなく、意識によって合目的的に制御される。しかし、身体は脳によって創造された訳ではないから、意識は身体性によって強く制限され、身体から自立した合目的性にはなっていない。身体器官から自立していない合目的性は、まだ、自己を意識していない無意識的な合目的性である。マイケル・ポランニーは『暗黙知の次元』において、この無意識的な合目的性を解明した。「暗黙知」は本能ではなく、学習によって身に着けた情報である。「暗黙知」は遺伝子から自立した最初の合目的性である。この合目的性・意識は、まだ、己自身を合目的性・意識として意識できないため、無意識的な合目的性・意識となっている。この段階の意識はまだ、自立化していない反映である。

 人間社会の言語は個々の人間にとっては、自然と社会の自立化した反映として作用する。人間は特定のパラダイムから言語情報を先験的に学び獲得する。この言語情報の獲得のためには道具の使用と創造が重要な役割を果たす。チョムスキーが言うように、人間個体の言語情報は白紙から誕生したのではなく、遺伝的に何らかの「普遍文法」を身に着けて誕生したと考えられる。だが、個体の日常の言語情報は、個体の誕生後の経験と学習によって獲得した。人間は言語情報によって、自己意識を獲得し自己を環世界から分離した。人間の合目的的な活動は、自己意識を持った活動となる。人間の合目的性は意識的な合目的性になる。だが、脳による身体制御に占める意識性はごく一部であって、広範な領域が本能的・無意識的でもある。
 遺伝情報は核酸・タンパク質の物理化学的性質の制約を受けるが、言語情報は物理化学的制約から解放される。言語情報は、それ自体の歴史を持ち、獲得形質が保存されている。言語情報は個々の脳から自立化して、自立化した反映として脳に作用する。こうして言語情報は全自然の自立化した反映となり、そうする事によって人間そのものの自立化した反映となった。人間社会のネットワークは脳と似たようなグローバル・ブレーンとなる。社会のネットワークが社会・自然から自立化した反映として機能する可能性を獲得した。
 動物は外的世界を「環世界」として内部化「記憶」するが、この内部化した外部に適応するのみであって、矛盾した関係にはなっていない。内部と外部が対立的な関係に立っても適応によって調和する。人間は外的世界を現実の外的世界から分離して対自的に内部化するために、実際の外的世界と内部化した外的世界は矛盾した関係に立つ。人間は想像によって外的世界そのものを創造するから、内部と外部は対立的な関係を超えて絶えず矛盾した関係に転化する。この矛盾が認識と実践の動力となる。グローバル・ブレーンはこの矛盾を動力として発展してきた。

 脳は母体内で個体発生し、誕生後合目的的に発生する。人類の前史はグロバル・ブレーンの系統発生的な過程であった、と見る事が出来る。人類はこの過程の中で多くの教訓を獲得し、分子的な発生過程に突入した。近代以前の官僚組織は政治・行政官僚組織が主要な位置を占めてきた。近代社会になると企業・経済官僚が社会発展の土台として立ち現れ、社会の主要な位置を占めてきた。民主主義が人類の自己認識システムであるのと同じように、市場原理は経済の自己認識システムである。官僚組織は認識結果による意思決定の実践装置である。多様な党は多様な階級・階層の認識装置であると同時に実践装置でもある。今日の情報社会の下ではこの官僚装置はネットワーク化しつつある。官僚装置がネットワーク化すれば、官僚装置そのものが認識装置にもなっていく。このネットワーク化に伴って、情報社会では文化装置の経済的・政治的機能が重要な役割を果すようになるし、政治・経済組織にも文化的機能の重要性が高まる。この多様なネットワーク機構を通じて人類の自己認識システムが自己組織化してくる。ネットワーク空間は群雄割拠の空間であり、割拠する群雄によって人類の自己意識が自己組織化する。

 生命は外部を内部化して、内部化した外部と内部の矛盾・葛藤を通じてエネルギーを獲得する。人類は集団(国家・民族)の内部に他の集団を内部化し、この内部化された外部と内部の矛盾・葛藤を通じて進化してきた。内部化された外部には排他的になり、己自身に対しては自己中心的・利己的になる。排他主義と利己主義はコインの表裏である。ネットワーク社会はこの矛盾と葛藤をサイバー化する。サイバー空間は地球をもサイバー化する。サイバー空間の地球は現実化する。人間は己の自己意識の中で地球をサイバー化する。このサイバー空間の地球を現実の地球に押し付ける。人類の歴史は人間の地球化であり、地球の人間化の過程であった。地球の人間化は地球の自己言及化である。

 近代科学は「あらゆる古い観念を疑う」事から始まった。近代科学は造反の学問である。近代科学の世界は「造反有理」の世界である。マルクスの「科学的社会主義」も造反の思想である。ロシア革命はこのマルクスの思想の最初の歴史的な実戦であった。ところが皮肉にも、この成功によって「科学的社会主義」は科学であることを止めて、宗教になった。「マルクス主義」「科学的社会主義」を自称しなければ、全ての思想・理論は観念論である事になる。ソ連の権威が「マルクス主義」を宗教化・観念論化してきたのだ。

 ② 我々はどこへ!

 人類の進化・発展の歴史は欲望の解放・自由への発展・展開の歴史でもある。この自由は同時に人間社会に多様な不均衡・不平等をもたらした。この不平等は平等を求める争いを惹起し、社会を不安定にした。この争い・不安定から脱出するために身分制を制定した。人間の自由な交通・交流関係は、時には戦争を惹起したが、同時に自由な交換関係・契約関係も産み出した。この交換関係も情報格差によって、不等価交換・搾取の関係にもなって争いの種になる場合もある。つまり、人間社会は自由主義と平等主義の戦いの歴史でもあった。この戦いは戦争になり、この戦争から脱出するために、またこの戦いで勝利するために官僚機構を創造した。官僚気機構は支配と服従の関係だから、支配と服従による不自由・不平等から脱出するために、また戦いを始める。この戦いは下からの戦い、内乱・革命である。この戦いは反乱であり、階級闘争であり、民主主義でもあった。人類の歴史は官僚主義と民主主義の戦いの歴史でもある。人間が一定の秩序を持って平和に暮らすためには、官僚機構が必要である。だが、この官僚機構は代行主義となって、独り歩きして人間から自由をはく奪し、不平等を加速する性向を持つから、民主主義的な統制を必要としたのだ。官僚機構に民主主義を対置する時には、自由と平等は融合する。民主主義は自由主義と平等主義を統一する。官僚機構は支配と服従による身分制だから、自由と平等に対立する。人間社会の意志決定は民主的になされても、その実践は官僚機構を通じてしか遂行できない。民主主義の機構は人間社会の認識の機構であり、官僚機構はその実践の機構である。人間社会が己を意識的合目的的に管理するためには、その意志を遂行するための一定の特殊な官僚機構を必要とする。だが、この機構には市場と民主主義による統制が不可欠である。

 ナショナリズムは集団の自立性・自由を求める運動・イデオロギーである。この自由は他の集団に対する侵略・抑圧の自由に転化する危険性を胚胎する。人間社会の正当な権利と言う時、何を持って正当なのかは、民族・国家・集団・文化によって異なってくる。民族の正当な権利の行使が他方では侵略・抑圧となる。他の集団・国家・民族に対する侵略・抑圧を権利の行使として正当化する排外主義は、結局の所、自民族の正当性の否認・自殺行為となる。これはアイデンティティの正当化ではなく、否認である。ナチスはドイツ民族の優位性を現したのではなく、アウシュビッツを見ても明らかなようにドイツ民族を辱めたのだ。日本のアジアへの侵略は日本民族の優位性ではなく、その卑屈性・奴隷根性を世界に晒しただけである。今日でも、サービス残業・過労死が堂々とまかり通っているのは、その戦後責任を果たしていないからである。
 ナショナリズムは侵略・抑圧に対する抵抗として現れる時には、民主主義と結合するが、侵略・抑圧の側に立つと排外主義となって、全体主義的な傾向を帯びる。新自由主義は侵略・抑圧に対する抵抗に対しては卑屈性・奴隷根性を要求し、侵略・抑圧に対しては偏狭な民族主義を煽る。新自由主義は人間の自由ではなく、資本の自由であり、搾取の自由である。日本の「自由主義史観」と言うネーミングは興味深い。これは侵略・抑圧の自由、弱肉強食の自由である。文字通り、人類の前史は「自由主義史観」の世界であり、彼らは未だにこの前史の思考回路から抜け出せないで呻吟している。或いは、今日の世界(後史)を前史に逆戻りさせようと呻吟するが、彼らの力で世界を変える事は出来ない。まあ精々戦前と同じように、この日本をアジアの三流国家にする事しか出来ない。

 第二次大戦後、人類世界が東西に分裂していた時代にあって、西側の世界はケインズ政策によって労働者階級に妥協してきた。この妥協の見返りにベトナム戦争を強要してきた。ベトナムに敗北したブルジョワジーは、戦争政策を放棄する見返りに、新自由主義によってケインズ政策を放棄したのだ。国境を自ら解体し、資本をグーロバルに自由化した。長い間、左翼はこのグローバル化に反対し、国境の内側に閉じこもってケインズ政策を守ろうとした。ケインズ経済学を批判しながら、無意識的に国境の内側の経済学にしがみ付いた。だが、国境の内側に閉籠る事は世界の労働者階級自身から見放されるだけである。左翼は国境から飛び出して世界的なケインズ政策を対置しなければ勝利できない。新自由主義は世界各国で様々な利害の対立・ナショナリズムの運動を惹起するのは明かである。新自由主義は世界的な経済の一体化を進めながら、ナショナリズムで世界を政治的に分断支配しようとする。経済的な一体化による格差の拡大、不均衡を逆に政治的に利用してナショナリズムを煽る。今日の人類と左翼は、国際的な経済政策なしに新自由主義に対抗できない。タックス・ヘイブンと国際課税はこの事を最もよく示している。今日のEUは経済同盟だが、政治同盟抜きにこの同盟は機能不全に陥る事が明らかに成りつつある。ブルジョワジーはグローバル化を推進しながら、タックス・ヘイブンによって、国境線を利用する。国境線を守ろうとしたら、タックス・ヘイブンに利用される。今日の左翼は、国際的な政治同盟抜きに新自由主義に対抗できない。
 人類の前史は人類の原子的な時代と見る事が出来る。国境を巡る戦争は原子的な敵対の時代である。第二次世界大戦はこの原子的な構造に決着を付けた。この戦争は国境を巡る世界戦争ではなく、ファシズムと民主主義のイデオロギー戦争であった。この戦争での民主主義の勝利は人類の社会構造を分子的な関係に作り替えた。だが、東側のソ連は東欧を原子的に支配していたし、アメリカは依然として原子的な社会構造を持っていた。「赤狩り」、ベトナム戦争、黒人公民権の喪失はこれを現している。東西のブロック対立の中では、まだ人類は自己組織化する民主主義を獲得できなかった。ソ連はアメリカの反共戦争によって、その歴史的価値を保持していた。ベトナムでのアメリカの敗北・ソ連の解体はこの人類の分子的な構造に大きな変化の可能性を与えた。だが、人類は自己組織化する民主主義を獲得するためには、もう一段飛躍のばねを必要としていたのかも知れない。正確に表現すれば、この飛躍を獲得していなかったためにイラク戦争が起きたと言える。このイラク戦争と共に「21世紀の社会主義」が復活し、エジプトやチェニジアで民主主義革命が起きた。今日の世界の社会構造は新自由主義と自己組織化する民主主義の戦いの時代に突入しつつある。

 第二次世界大戦の歴史的意義は人類の系統発生から個体発生・人為淘汰への転化である。民主的なコントロールを受けない市場関係は弱肉強食となり、系統発生的な関係になる。経済市場が政治的・民主的なコントロールを受ける事によって、市場は個体発生的な展開をする。1920年代の世界大恐慌は系統発生的な市場の暴走である。第二次世界大戦後の世界市場はある種の民主的なコントロールを受けてきた。このコントロールは東側からの側圧も大きな役割を果してきた。西側のブルジョワジーは東側からの側圧で労働者階級に譲歩せざるを得なかったし、反共戦争を遂行するためにも労働者を貴族化する必要があった。反共戦争を断念すると同時に貴族化の必要がなくなった。

 人類は長い間、地球からの自由を目指して進化してきた。この地球を分割し、自由に改造する権利を巡って争ってきた。地球は人間の道具であり、玩具であった。今日の人類は宇宙空間に飛出し、月へとたどり着き火星に衛星を送り込む。だが、今日の人類はほとんどこの地球がどんなものかは分かっていない。海底にどんな生物が住んでるのか?マントルはどうなっているのか?全く無知に近い。地震の予測などほとんどできない。生命はどうやって誕生したのか?人間はどうやって誕生したのか?何も分かっていない。生命も人間も宇宙からやって来たのではないか、と言う科学者は幾らでもいる。生命は余りにも複雑すぎて地球で誕生したとは考えられなくなるのだ。生命はバラバラに分解すれば簡単な物理化学現象なのだが、どうやって総合したのか全く見当がつかない。細胞を一度、バラバラに分解してしまうと再生できない。死んだ細胞を甦らせる事は出来ない。人間の「心」も同じようにどうやって発生したのか、全く見当がつかない。人間の脳をバラバラに分解すれば単なる生化学現象なのだが、この生化学現象から「魂」がどうやって発生したのか?今日の科学は見当がつかない。
 生命も「心」も、この地球が育んできた。この地球を理解できなければ、生命も「心」も理解できない。地球は人類の身体だから、人類は地球を知る事なしに己を知る事は出来ない。人類は地球からの自由を巡って、散々戦争し、2回の世界戦争をした。地球からの自由は人類を破滅に導くだけである。地球への自由こそが人類の自己意識であり、この意識なしでは今日の人類は生残れない。己を育む地球自身を育む事が生き残る条件である。地球と分裂するのではなく、地球に向かって共生する関係が不可欠である。物質は分子によって親和的な関係を獲得した。この親和的な関係は生命の誕生となって、合目的的な物質関係を産出した。この合目的性は地球自身の合目的性へと志向を開始しつつある。人類の後史において、自己意識を獲得した人間の自由は単に親和的な自由だけではなく、「~からの自由」と「~への自由」の合目的的な統一である。

 飯田哲也氏によれば、「情報・マネー・エネルギー。この3つは、現代社会を構成している重要な媒介と考える事ができる」、と言う。今日の人類はこのマネーに対するコントロール力を失っているために、地球のエネルギーが暴走し人類を危機に落としている。新自由主義の下で地球資源が盲目的に乱開発され、至る所で地球生態系を破壊し続けている。このエネルギーによる破壊を押しとめるにはマネーに対する民主的なコントロール力を獲得しなければならない。このコントロール力は知性の力であり、情報の力である。人類の自由で民主的な関係がこの情報力を産み出す。
 農業革命は身分制と政治・行政組織を創発した。この革命で人類は地球をエネルギー化した。地球のエネルギーを巡って戦争してきた。地球の「エネルギー」は人間社会の物質的な関係を規定した。産業革命は経済組織を創発した。産業革命で人間と自然・地球の関係は分裂し、敵対的な関係に転化した。産業革命で産み出された「マネー」は人間社会の土台・経済のネットワークを規定する。情報革命はこの官僚組織をネットワーク化する。「情報」は人間社会の知的なネットワークを規定する。エネルギー革命は人間と自然の関係を有機化し融合する。エネルギー革命は人類の自己意識化であり、世界革命である。市場は人間社会のエネルギーを解放する。民主主義は人間社会のエネルギーを管理する。民主主義なしでは人間社会のエネルギーは盲目的になって暴走する。民主的なネットワークによるエネルギー管理が必要である。
 今日の世界では、農業革命はバイオ革命になり、産業革命はナノ革命となる。バイオ・ナノ技術は人工のエネルギーを創造するが、民主主義によるコントロールを失えば人類を破滅させる技術でもある。トフラーによれば、第四の波はバイオ革命の波で、第五の波はナノ革命の波となる。だが、バイオの波は危険性も絡んでいるため、単独では情報革命のような大きなうねりになるとは思えない。バイオ技術はナノ技術と結合してこそ大きな人類史的変動要因になると思える。地球上の人類は100億に近づきつつある。これほど多くの人類を地球が養うには、バイオ・ナノ技術なしではおよそ考えられない。だが、この技術は原子力技術と同じような危険性をも持っている。この技術は資本の利益のための技術になれば、地球生態系を破壊する技術になる事は明かである。民主的なコントロールなしでは原子力技術と同じように人類を破滅に導くのは明かである。再生可能な自然エネルギーこそが持続性のあるエネルギーであり、再生可能なエネルギーのためにこそバイオ・ナノ技術を利用しなくては人類は生残れない。

 トロツキーは「わが生涯」において、「もし、生物学用語を使うとすれば、歴史の合法則性は、偶然性の自然淘汰を通じて実現される。そしてこの基盤の上に、偶然性を人為淘汰に従わせる人間の意識活動が展開される」と、言う。この人為淘汰とは、経済上では市場原理となり、政治上では民主主義である。人間の自由な意識活動と言うものは、偶然性と人為淘汰を排除して、官僚的に統制することではない。個々の人間の知的活動を、官僚的に統制しようとする試みは、人間の自由な知的発展を阻害し、組織の陳腐化と腐敗を招くだけである。自由な意識活動は、むしろ、このような官僚的な統制を排除して、個々の人間の自由な創意工夫と空想(偶然性)を人為淘汰に従わせることで実現する。
 元来、社会主義はマルクスから始まったわけではない。マルクス以前から数多くの社会主義者が存在したし、ロシアの「十月革命」前に、パリ・コミューンのように、社会主義の運動は多くの実験を積み重ねてきた。トロツキーはレーニンなしで、第一次ロシア革命のソビエトを指導した。「十月革命」は第一次革命の教訓を踏まえて起きた革命である。トロツキーはペトログラード・ソビエトの議長としてこの革命を指導した。この革命ではソビエトの軍事委員会が実際的な指導権を発揮した。ボルシェビキはこの革命で大きな役割を果たしたが、ボルシェビキの軍事委員会はほとんど機能していなかった。ロシアの労働者階級と兵士が選択したのはボルシェビキの権力ではなく、直接民主主義のソビエトだったのだ。十月革命は、ボルシェビキの社会主義ではなく、第一次世界大戦の惨禍から抜け出そうとするロシアの労働者階級と兵士の選択だった。当初ソビエトの指導権を握っていたのは、ボルシェビキと同じマルクス主義を称していたメンシェビキであるが、彼らは社会愛国主義を捨てられなくて平和の道を選択する勇気を持てなかった。ボルシェビキはこの勇気を持っていたために急速にソビエトの中で多数派になった。
 当時のボルシェビキの指導者は社会主義革命は世界革命に転化すると考えていたから、一国社会主義とは全く無縁であった。彼らは直ちにコミンテルンを通じて世界革命を目指した。だが、レーニン死後、トロツキーの排除に成功したスターリンは一国社会主義を掲げ、コミンテルンを革命の機関から、スターリン体制の従属機関に変質させた。この変質とドイツ革命の破産は深い関係がある。トロツキーはレーニンの後継者ではなく、レーニンと並ぶ「十月革命」の指導者だった。従って、トロツキーの排除は「十月革命」への裏切りであり、ボルシェビキの変質の合図だった。ソ連解体後の社会主義がどこへ向かうべきかを知ろうとするなら、社会主義がどこから来たのかを知ることなしには見えてこない。トロツキーの再評価なしでは、社会主義の未来は見えてこない。

 社会主義は資本主義の彼岸にある訳ではない。社会主義が資本主義の彼岸にあるならば、二重権力状態下にある今日の世界で社会主義の未来は永遠に見えてこない。第二次世界大戦後の世界での多様な社会福祉システム・経済安定化システムは新自由主義が吹き荒れる今日の世界でも、依然として健在である。我々は現に存在している社会主義システムの彼岸に未来を見るのではなく、現に存在している社会主義システムの発展と成長に未来への進路を嗅ぎ取るべきである。世界の自由と民主主義・平和・平等を求める戦いは、第二次大戦後よりは遥かに進んでいるし、新自由主義が吹き荒れる今日の世界でも、更に一段と加速している。とりわけ、ソ連解体後の市民的なネットワークはグローバルに成長し続けている。他方では「里山資本主義」のように、ローカルなネットワークがグローバルなネットワークに大きな衝撃を与えている。
 タックス・ヘイブンとの戦いは国際金融システムの公共財化への道を拓くだろうし、株式市場の公開性と公平性を強化すれば、グローバル企業の社会化への道を切り開く可能性がある。階級闘争のネットワークはどうしても国境によって分断されやすい。とりわけ「帝国」とブルジョワジーはここに目をつけ分断支配しようとする。それに対して市民的なネットワークは軽々と国境を越えて連結する。今日のグローバル社会の下では、消費者は労働者より国境を越えやすい。今日の世界では、「市民社会による政治社会の再吸収」(グラムシ)が必要とされつつある。自由と民主主義は人類の合目的的な関係を強化してきた。社会主義は国境を越えた合目的的な関係である。国境を越えた民主主義こそが人類の未来を見通す事が出来る。人類の合目的な関係は官僚的な統制によってではなく、国境を越えた自由と民主主義によって始めて獲得できる。社会主義は資本主義の彼岸ではなく、今日の世界で国境を越えた自由と民主主義を志向するシステムと運動にこそ存在する。