「資本主義の不均等発展」と言う言葉をご存知かと思い
ます。
今世界では、グローバリゼイションの広がりと、IT技術の
進化によって、途上国や奥地の農村でも様々な商品があふれ、
共通化現象が起こっていますが、ローザ・ルクセンブルクとレ
ーニンが生きていた時代は、第一次世界大戦による軍事的な科
学技術の発展があったとしても、「進歩していたドイツ」と「
遅れたロシア」の間には、明らかに経済的発展と政治的成熟度
に大きな格差がありました。
調べていないのでやや不正確かもしれませんが、ローザのい
るドイツでは工場労働者を中心とした、SPD・ドイツ社会民
主党が約300万人以上の最大勢力を誇り議会でも主流の位置
を占めていました。
一方レーニンの帝政ロシアは工業化が遅れ、国民の85%が
農民であり、革命の主力となるプロレタリアートは都市部にホ
ンの少数存在するだけ、ボルシビィキも少数派に過ぎませんで
した。
しかし島国の日本ではなかなか考えられないのですが、レー
ニンやトロッキーなど革命の主人公たちはツアーりの迫害から
逃れ、ドイツやイギリススイスなどでの逃亡生活を送っていま
した、そこから国内勢力に向けて指令や通信を送っていたので
す。
そこでローザ等と接触したのです。
またこれもご存知と思いますがトロツキーの「永続革命論」
はこの現実を背景として書かれた革命論です。
レーニンの有名な「共産主義とは電化である」の格言も、遅
れたロシアが今すべき事がなんであるかを指し示したものです
。
マルクスの言う共産主義社会とは、生産力が最大限に発達し
たブルジョワ社会を、生産の担い手であり文字通り社会の主人
公であるプロレタリアートが、そのブルジョワ社会の「墓堀人
」として資本主義社会を覆し、全社会的解放を勝ち取ることな
のですが、残念ながら当時のロシアにはその条件がなかった。
トロッキーの「永続革命論」は遅れたロシアで達成されたロ
シア・プロレタリア革命を守り、革命を永続的に発展させて行
くと共に、やがて続いてくるだろうドイツ革命などヨーロッパ
の革命を期待し、世界革命達成まで継続して闘うという革命論
です。
以前日本共産党の人々はこのトロツキーを忌み嫌い,世界革
命などと言うものなら「トロキスト」と汚いツバを浴びせたの
ですが、この永続革命論にレーニンは依拠していましたし、レ
ーニンの死後権力を奪取したスターリンも一時的には認めざる
を得なかったのです。
「遅れたロシア」では保守的な農民が多数で革命への反対勢
力の力も強く、逆にプロレタリアートの意識も低く、この状況
を克服する為にドイツなどとは違いレーニンのカリスマ性とよ
り強力な指導性が必要とされたのです。
しかし、レーニンの指導下での党内の論争や分派的な行動は
、現在の日本共産党より自由で活発に行われ、レーニン自身も
右へ行ったり左に傾いたりで振幅の幅が相当大きく「粛清」な
どもありませんでした。論争の自由は十分に保障されていたの
です。
1918年革命が生き延びるためにドイツと交わした「プレ
スト・リトフスク講和条約」は革命派にとって屈辱的なもので
したが、レーニンは過半数が反対する中で粘り強い説得によっ
て講和条約を締結しています。
1919年1月ローザ・ルクセンブルクはSPDの義勇軍ノ
スケによって虐殺され、1922年5月レーニンは最初の発作
に襲われます。
ローザとレーニンがどの様な討論を行いえたのか私は知りま
せん。しかしローザが反対派によって「鉄の女」と形容され恐
れられたように彼女は決してズブズブの民主主義者でも自由主
義者でもありません。
「労働者階級だけがその自己活動によって社会主義(共産主
義)をもたらすことができる。それは労働者階級の支配を意味
している」とプロレタリア独裁を認めています。
レーニンとローザとの違いと言えば「進歩していたドイツ」
と「遅れたロシア」と言う革命の条件・環境に違いがあっただ
けに過ぎません。レーニンとローザを対立的に見る立場は間違
いであるとしか言えないのです。