スタ-リン主義を批判し、トロツキ-主義を標榜されるあなたは、同じトロツキ-主義者のトニ-クリフの以下の文章をどう思いますか。
独立した革命党の結成を、ロ-ザ・ルクセンブルグが嫌った事をとらえて、スタ-リンニストどもは、これを由々しき誤りとして、また、1918年のドイツ革命の敗北の重要な原因として、しょっちゅう引用している。彼らは、革命的左派がSPDに執着し、カウツキ-との連合を続けた事に対するレ-ニンの反対を引用して論ずる。が、この伝説に何の真実もない。
事実は、カウツキ-とその一派に対してロ-ザ・ルクセンブルグはレ-ニンよりもより明確な評価を下し、ずっと以前に彼らとの関係を断っていた。およそ二十年間、レ-ニンはカウツキ-を、最も偉大な生きたマルクシストだとみなしていた。例えば、「何をなすべきか」はカウツキ-をその主要テ-マのよりどころとして、引用し、またドイツ社会民主党をロシア労働運動の手本として賞揚していた。1906年12月にレ-ニンは書いた。「ロシアの先進的労働者は、カウツキ-が自派の著述家であって、革命的マルクス主義の理論上の教えを基礎づけ、解説する能力をもっている・・・人であることをずっと前から知っている」また彼はカウツキ-を「ドイツの革命的社会民主主義者の指導者」として描きだしていたのだ。1908年8月には、彼は、戦争問題及び軍国主義問題についての典拠としてカウツキ-を引用した。1910年、ロ-ザ・ルクセンブルグがカウツキ-と権力獲得の途につ・・・(文字化け)・・・レ-ニンはカウツキ-に組して彼女に対抗した。1914年2月になっても、ロ-ザ・ルクセンブルグとの民族問題論争で、レ-ニンはマルクシズムの権威者として、カウツキ-を援用していた。戦争の勃発と、カウツキ-によるインタ-ナショナリズムへの裏切りがあって、始めて、彼に対するレ-ニンの幻影は消えたのだった。そのとき、彼は認めている。
「ロ-ザ・ルクセンブルグは正しかった。彼女はずっと以前に、カウツキ-が、党内多数派に奉仕する、要するに日和見主義に奉仕する、御用理論家であることをはっきりと覚っていたのだ。」(ロ-ザ・ルクセンブルグ トニ-・クリフ)
あなたのロ-ザ批判は、トニ-・クリフの言うスタ-リンニストによるロ-ザ批判とそっくりな気がしますが、この問題だけは、あなたはスタ-リンニストと同じ立場に立つのですか。
スパルタクスブンドの結成は、1916年1月、戦時国債予算の決議から1年半も経っていませんから、遅すぎたという評価には同意できません。
ばらばらになって、申し訳ありませんが、後2~3回ぐらいに分けてというよりも、私の力不足で、一気に書けませんので。